第二話
律九珠、律家九兄弟の最後の一人。彼がかつて一世を風靡した剣術の大家、
しかしそれを失ったとき、宝珠はただの石ころと化す。目覚めた律九珠を待ち受けていたのは敗者の非情な摂理だった。
律九珠は泣いた。布団の中で丸まって声を上げて泣いた。敷布をかきむしり、拳を叩きつけて、まるでそうすることで何かが変わると言わんばかりに泣き喚いた。
温情も同情も今の彼には敵意に等しい。背中をぽんと叩かれたとき、律九珠はその手を布団ごと跳ね除けて相手に殴りかかった。
相手は飛んできた布団を片手で受け流し、背後に捨てるとその手で律九珠の拳を掴んだ。律九珠は腕を回して拘束を解き、もう一度殴りかかる。相手は腕を突き出して攻撃を止めると、律九珠の鳩尾に掌を叩き込んだ。呻いて後ずさった律九珠が見たのは、この庵の主たる尼僧だった。尼僧が矢継ぎ早に繰り出す掌にここでも律九珠は翻弄され、振り回す拳は空を打つばかりだ。足を払い損ね、がっちりかみ合った脚を逆に絡め取られて床に叩きつけられて律九珠は衝撃で息を詰まらせた。さらに組み伏せようとする女に下から頭突きを食らわせ、女が退いた隙に飛び起きて再三殴りかかると、女は床に落ちている布団を掴んで振りかざした。視界が急に覆われ、思わず勢いを殺した律九珠は気が付くと布団にくるまれて床に転がされていた。
「気が済みましたか?」
これでもまだ落ち着いている女の声が腹立たしい。律九珠は女を睨みつけると、上がった息の合間で
「放せ」
と唸った。
「放したらどうするのです? また私を襲いますか?」
「いくらでも襲ってやる。父上の律白剣譜でその膝を折らせるまで、何度でも襲う」
「ですが貴方は私に敵いませんよ。二度試してよく分かったでしょう」
「構わぬ! 我が手に剣がある限り、俺は負けることはない!」
噛みつくように怒鳴ると、女は黙して律九珠を見た。だが、言い負かしたかと思った瞬間、
「ですが貴方は負けました。それも二度も。私でなければ首が飛んでいたところです」
と静かに言った。
「知るか! 俺は――」
「剣を持っている限り勝機はある、ですか? 律峰戒も陳腐なことを言うようになったものですね。あの頃の風格が少しでも残っていればもう少しまともなことを教えたものを。九人の子に重圧ばかりかけることもなかったでしょうに」
女は淡々と言った。氷の張った湖面のような声音に、律九珠は声を荒げる。
「黙れ! お前に父上の何が分かる!」
「では、貴方は御父上の何が分かっているのですか?」
女が間髪入れずに言い返す。律九珠はとっさに言い返せず黙り込んでしまった。
「……父上は、我ら律家に再び栄光をもたらそうと」
「そのために貴方を鍛えて江湖に送り出したのですか?」
女の問いに律九珠は頷いた。
「俺の力で律家に栄光がもたらせるなら望むところだ」
「ですが、貴方には八人のお兄様がいるでしょう。彼らはどうしたのです? 九人全員で力を合わせた方がいつか栄光が戻った日の賞賛は大きいでしょう」
「俺が今ここにいるのにそれを問うのか」
律九珠が言い返すと、女は「ええ」と答える。
「なら聞くだけ無駄だ」
律九珠は素っ気なく言い返して黙り込んだ。怒りが引くにつれて虚しさが増してくる。それと同時に、今まで見てきた兄たちの様子が脳裏をちらつき始めた。虫の息で石の床に転がされた兄の姿、律九珠の肩に手を置いてこうはなるなと何度も言い聞かす父の声。最後の期待だった自分がしくじったと知れば、彼はどう思うだろう。虫の息では済まないかもしれないと思うと心窩が薄ら寒くなる。
急に黙り込んだ律九珠に、女は問うた。
「怖いのですか?」
「……いや」
否定はしたものの、またあの吐き気が戻ってきた。女に心窩を狙われ、突かれる寸前で止められたときと同じ感覚だった。女はしばらくじっと律九珠を見ていたが、おもむろに布団を掴んで律九珠を解放した。転がった勢いのまま起き上がった律九珠に、女は合掌して一礼する。
「私は
突然の言葉に、律九珠はむっと顔をしかめた。
「どういうことだ。父上の剣は誤りの道だと言うのか?」
邪剣に聞き返した律九珠に、簫無唱は静かに答える。
「いいえ。ですが使い手が百人いれば百通りの道がある。御父上の剣の道はそのうちのひとつに過ぎないということです。もちろん、御父上の教えの方が優れていると思うのなら、いつでも去ってもらって構いません」
簫無唱はそう告げて部屋をあとにした。律九珠は床に座り込んだまま、彼女の背中をじっと見つめていた。
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