第17話 行き先のない向上心と摂食障害について
このエッセイは、私が投稿している小説に関するものです。
投稿している小説の正式なタイトルは「京都市左京区下鴨女子寮へようこそ! 親が毒でも彼氏がクソでも仲間がいれば大丈夫!」です。
長いので、以下「(略)下鴨女子寮へようこそ!」としますね。
小説は→https://kakuyomu.jp/works/16817139555256984196
摂食障害はとても深刻な病気です。
同時に、私にとっては身近な病です。
私自身は最終的に大丈夫でしたが、周囲に多かったですね……。
地方の進学校だった高校の友人、わりと偏差値高めの大学の学部の友人、その部活の先輩です。
この3人のうち2人は入院しており、重症なケースだったかと思います。
入院していない友人も、頬がこけて、そして産毛が濃くなっていました。あまりに皮下脂肪が少ないとそうなるらしいです。
どの人も真面目な努力家です。
拙作「(略)下鴨女子寮へようこそ」の由梨さんもそうです。
由梨さんは、私の知人友人の特定の誰かではありませんが、彼女達を総合してできたキャラです。
私の印象としては、摂食障害は、努力家がその努力を向ける方向を見失った時に陥りやすいように思います。
私の周囲を見ていると……。
受験という目標がぶら下がっている間は顕在化しにくく、受験が落ち着き、ある程度結果を得た時に、「次」「勉強以外」の目標が見出しづらくなってしまう……そこに「痩せ続ける」という目標が現れてしまって、病が始まってしまった感じです。
人生は受験と就職だけで終わるわけでは決してありません。そして、女性である限り、その女性としての価値を問われる時期が続きます。
私自身も大学2回生の時のダイエットをもう少しこじらせていたら、陥っていたかもしれないという感覚はあります(最終的に大丈夫でしたが)。
ダイエットには本来「このような体形になりたい」=「体重何キロまで落としたい」という「目的」があり、ゴールに到達すれば一段落するはずです。
けれど、いつのまにか「減量」という「手段」に強迫的にのめり込んでしまうというか……。
結果そのものではなく、努力しているプロセスを継続することに焦点が当たってしまうんです。
自分自身が食欲を克服して努力できている──という状態に安堵し、その状態を失う方が怖くなる。
食欲に負けて食べてしまうと自分が正しさを失った気がして動揺するんです。
「食べてない=正」で「食べてしまう=邪」という考えに支配されてしまっています。
誰でも「正しく」「よりよく」生きたいと願っていると思いますが、正しくて良いが何か分からいときに「自分の価値を高めようと努力が出来ている自分自身」が拠り所になるんですよね。
知人友人や自分を理解するために、摂食障害についての本も何冊か読んでみました。
学生時代に読んだ本では、レベンクロンの「鏡の中の少女」が一番しっくりくる内容でした。
生きていくことは、不確実な未来にさらされることで、それはとても不安なことです。そんなときに、「これさえしていれば大丈夫」という行動があれば、それに絡めとられてしまう。
もう一冊、大人になってから読んだ小説で、「恐ろしいほど、分かる! 分かってしまう!」作品がありました。
桐野夏生さんの「グロテスク」という小説です。
この小説。出だしが「美しい妹を持つ不美人な姉」の葛藤から始まるので、そこが私に似ていると思って読み始めたのですが(私が美人の妹を持つ姉なので)。
その「姉」もさることながら、途中から登場する「佐藤和恵」という人物がもう……。
この「佐藤和恵」は有名な事件の被害者がモデルです。
日本有数の高偏差値大学の系列校であり、都内の富裕層が子弟を通わせることで有名なQ女子高に、それほど裕福でない家庭から進学した佐藤和恵。
彼女は何でも努力さえすれば手に入ると信じています。
高校時代のエピソードが描かれますが、彼女の努力の方向は少し変です。
周囲は富裕であることの証のブランド衣類を日常的に着ています。
和恵にはそれを気軽に買えるような富はありません。どの格差を埋めるのに、彼女はそのブランドの刺繍ロゴマークを「手縫い」で再現しようとするのです。
そうすることで、格差を埋めることが可能だと信じて。
和恵は名門Q大学を卒業し、そして日本を代表する名門企業に入社します。
それも、当時まだまだ珍しかった総合職。
エリートでバリキャリだったのです。
だけど、彼女は女性としての価値も高めなければならないと思います。
だから、痩せなくては、と。
冒頭に紹介した姉妹の妹のような怪物的な美貌には恵まれませんでしたが、痩せるという努力を重ねれば、自分は女性としての価値を高めていることになります。
さらに。
価値のある女であれば、男は金を出してでも手に入れようとするはず。だから、金で買われることは、自分の価値の証です。
和恵は売春を始めます。
昼は一流企業のOL、夜は売春婦(しかも街娼)として生きるのです。
「男が金を出してでも性交したがる自分」こそが価値ある女性のありようなのですから、手帳に「今日は〇人」と営業成績をつけるように記録を残しつつ。
ガリガリに痩せて、他人がぎょっとするようなメイクとファッションで夜の歓楽街を闊歩し、和恵は叫びます。
「あたしは仕事ができるだけの女じゃない。夜の光輝くあたしを見てくれ!」と。
桐野夏生さんの「グロテスク」という小説の読みとしては、ここで彼女は何かから解放されたと解釈するそうなのですが。
私の感想としては、単純に「痛ましい」と思います。
「自分の価値って何だろう?」と深く考える余裕もなく、受験の後は「女であること」に努力を強いられてしまう。
拙作「(略)下鴨女子寮へようこそ」の由梨さんは、第17回のはじめのほうで、以下のような台詞を口にします。
”「私たちは西都大学に合格したことで偏差値競争の勝者として、優秀だという評価を学歴として獲得したわけよね。でも、次は? 人生は受験と就職だけじゃないわ。大人になった女性は恋愛や結婚……女性としての魅力を問われる場面から避けられない」”
初めてお読みになったときは、「偏差値秀才の鼻持ちならない台詞だな」と思われた方もいらっしゃったかもしれません。
けれど。
人生が偏差値だけで決まってくれたら、由梨さんのような女性にとってどれほど生きるのが楽だったことか!
私の友人知人や、由梨さんは入院するまで重症化してしまいました。
摂食障害は死に至ることもある深刻な病です。
命よりも大事な「人間の価値」とは、いったい何なのでしょうか。
社会には「偏差値よりも大事な価値がある」と気軽に口にする人がいます。
ですが、その大事な「価値」とやらでランク付けられることの苦しさは、あまり知られていません。
美しさ、経済力、人脈、(親の金で得た)経験、性格……こういった個人の人格のあらゆる場面が評価に晒される社会は、偏差値社会以上に息苦しいはずです。
小説ではなく、教育社会学の本ですが、本田由紀さんの『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』がとても的確にこの息苦しさを言い当てていると思います。
受験勉強には満点という天井がありますし、入試が済めば一段落着きます。
それだけ人間の限られた側面しか把握できない数値ですが、このように限界があるということは救いでもあります。
偏差値と違い、美しさその他の曖昧な能力や属性などには、客観的な指標も、それを獲得するための努力のゴールもありません。
目標のない状態では、真面目な努力家は、ただただ努力するプロセスそのものにのめり込むよりなく、努力し続けている自分がいることに安心するしかないのです。
この苦しみから抜け出すのには、由梨さんに対して「あなたらしくあればいい」と受けれてくれる環境が必要だったのではないかと思います。
もちろん、下鴨女子寮の全員が素晴らしい仲間という訳ではなく、また摂食障害の専門家(医師やカウンセラー)の適切な助けは必要です。
ですが、拙作の中で由梨さんも言っていますが、限られた非日常の場面だけでなく(医療や心理療法の場)、何気ない日々の暮らしの中で「そのままの由梨さん」を受け入れてくれ、ITに強いリケジョとしての役割も用意されている寮生活は、彼女が回復するのに大きな役割を果たしていると私は考えています。
そして、由梨さんが、後輩の美希に対して、今度は自分が他人を癒し励ますという立場に立つこともまた、回復への大きなステップになるだろうと思っています。
由梨さんの回復と、美希の癒しが重なり、物語は後半にさしかかっていきます。
しばらく、この二人の深夜のお茶会におつきあいいただけましたら幸いです。
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