第63話 結2

 暑さもだいぶやわらぎ、木槿山にも心地よい秋の気配がやって来た。

 今日の柿ノ木川の河原は空の高いところに筋雲が何本も走り、ようやく穂をつけ始めたすすきが風になびいている。

「結局お末の方さまのお召し物は、全部わたしがいただくことになったのよ。あのとき狐杜が『勝宜さまの奥方さまになる方に』って言ったでしょ、だから。でもあれってほとんどうちで仕立てた着物なのよね」

 今日のお八重は、濃藍こいあいの地に大胆な深紅の彼岸花柄が入った着物をサラリと着こなしている。さすが松原屋のお嬢様だけあって、自ら着物のお洒落な着方の手本となっている。

 彼女ならあの華やかな着物であっても堂々と着こなすだろう。もしかするとお末の方よりも似合うかもしれないと思わせた。

「一通り見せていただいたんだけど、お末の方さま、ほとんど袖を通していらっしゃらないの。十郎太さまが仰るには、お末の方さまは華やかな色柄があまり得意ではなくて、お屋敷での生活も今一つ馴染めなかったらしいのよ」

「言われてみれば十郎太様の話では、勝孝さまと浪太郎さまのお仕事の話に当時のお初の方さまは参加されていたけど、お末の方さまはおにぎりを作ったりお茶を出したりなさってたもんね」

「そうなの。人前に出て堂々と意見を述べる性質たちではなくて、奥に引っ込んで陰ながら支えるようなお方だったらしいから」

 二人は自分たちとさほど歳の変わらぬ当時のお末に心を馳せた。

「ねえ、狐杜はこれで良かったの? 勝孝さまのお屋敷に住めば今よりずっといい暮らしができたのに」

「冗談やめてよ、お姫さまみたいな生活なんかまっぴらごめんだよ」

「みたいなんじゃなくてお姫様だったのよ。まるで自覚が無いんだから」

 狐杜は野菜を洗う手を止めてお八重の方を振り向いた。

「だけどお末の方さまだって、大きなお屋敷で生活したかったわけじゃないと思うんだ」

「確かに十郎太さまと所帯を持った方が幸せだったんでしょうねぇ」

「お八重ちゃんが勝宜さまと所帯を持ってあのお屋敷に住むのは幸せだと思うけど、あたしだったらまるっきり不幸だよ。あたしは毎日魚を追ったり薬草を採ったりして暮らしたい。勝宜さまのお屋敷にはいつでも行っていいらしいから、住む必要無いし」

「勝宜さまって言うけど、狐杜の弟だからね。あ、もしかしてわたしたち、義理の姉妹になるんじゃないの? そうよね、お義姉ねえさま!」

「やーめーてー!」

 きゃあきゃあと笑いながらも、狐杜はどことなく心の中に隙間風が吹くのを感じた。形にならない違和感に実体を持たせたのはお八重の言葉だった。

「月守さまはあれでいいのかしら」

「えっ?」

「だって、あの方はどう考えても橘さまでしょう? なぜ柳澤のお城へと戻られないのかしら」

「記憶が戻らなければ、他人の家と変わらないんじゃないの?」

「ねえ、月守さまは本当は記憶が戻られているんじゃないかと思ったことはない?」

 狐杜がギョッとして身を引くと「聞いただけよ」とお八重が笑った。

「仮にそうだとしても、橘さまじゃなくて月守さまとして暮らしたいと思っているならそれでいいという気もするわ。もう殺し屋には戻らないだろうし」

「うん。月守草履をずっと編んでいるような気がする」

「それはそれで問題じゃない?」

 再び笑っていると、「おーい」と呼ぶ声が二人の耳に届いた。与平だ。

「こんなところにいたのかよ。えっと、勝宜さまの奥方様にはご機嫌麗しゅう—―」

「まだ祝言挙げてないからっ!」

「練習だよ練習。お屋敷に遊びに行って『よぅ、お八重』なんて呼べねえだろ。しっかし、勝宜さまはカッコいいよな。普通なら親同士で勝手に決めて、十郎太さまに文の一つでも持たせて終わりだろ。それが自分でわざわざここまで来て言うなんてさ。十郎太さまも知らなかったってんだから驚きだね」

「与平も見習えばいいのよ。ほら、今やってごらんなさいよ、見ててあげるから」

 お八重が焚き付けると、何を思ったのか与平が服の裾で両手をぬぐった。

「狐杜。あのな、おいら狐杜を大事にすっから。おいらのところに輿入れしてくれ」

「与平ってばうちの隣じゃない。輿に乗る必要ないでしょ。歩いて嫁入りでいいじゃないの」

「そういう問題じゃねえよ。じゃあ歩いてもいいから――待て待て、やり直す!」

 今度は何が始まるのやら、与平が神妙な表情を作るものだからお八重の笑いが止まらない。

「狐杜殿。ええと、月守殿を河原で拾ったときのそなたの姿が頭に残って離れぬのです」

 与平が勝宜の真似をするのがおかしくて、狐杜とお八重は二人で笑い転げる。だが、与平の方は何のその、真顔で続ける。

「この与平、全力で狐杜殿を大事にします所存です、そなたにお輿入れしたいと思うておりまする」

「なんか違うー!」

「あんたが輿入れしてどうすんのよ!」

「いいんだよ、とにかく狐杜はおいらの嫁になればいいんだから」

「それじゃ練習にならないでしょ」

「っていうかあたしで練習しないでよ」

 練習じゃねえんだ、という与平の心の叫びが狐杜に届くのはいったいいつになるのやら。

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