第62話 結1

 ひと月ほどが過ぎ、蝉の声に蟋蟀こおろぎ鉦叩かねたたきの声が混じり始めるころ、お八重が与平のあばら家を訪ねていた。

 今日は爽やかな露草色の小紋に山吹色の帯を締め、同色の巾着を手にしている。こんな華やかな色であってもお八重はごく自然に着こなしていて、狐杜には少し羨ましく感じる。勝孝の屋敷で一度だけ袖を通した着物は、自分には華やかすぎて浮いてしまっているだろうと感じていた。

 月守が迎えに来たあの日、勝孝はお末の方の着物を全て狐杜に譲ると言ってくれた。だが、狐杜の方で断ったのだ。自分に着こなせる色柄ではないと思ったのもあるが、川や山に入るのにこんな美しい着物は必要無いというのが一番の理由だ。

 着物だって似合う人に着て欲しいだろう、勝宜の奥方になる人に着せてあげて欲しいと言うと、勝宜は「姉上らしい」と笑った。

 あの日以来、お八重が大変なことになっている。それまで口を開けば「雪之進さま、月守様」と言っていたのに、すっかり勝宜がお気に入りになってしまったようだ。今日も今日とてずっとその話で盛り上がっている。

「勝孝さまが太刀を手にしたときの勝宜さま、とても年下とは思えないほど頼りがいがあって逞しかったわ。何も武器をお持ちでなかったのに、咄嗟にわたしと狐杜を守ろうとしてくださった。ああいう方こそがおとこと呼べるのだわ。いいなぁ狐杜、『いつでも屋敷に参られよ』とか言われちゃって。わたしも行きたいわ」

「あたしが勝宜さまのお屋敷に行くとき、必ずついて来てるじゃない」

「だけどまだ三度しか行ってないわ」

「あたしだってまだ三回だよ。お八重ちゃん抜きで行くわけないでしょ」

 二人の話を聞きながら「なんだよ雪之進とか勝宜とか月守とか男前ばっかり」などとブツブツ愚痴っている与平を見て、お袖が笑いを必死にこらえている。

「でも勝宜さまがあたしのこと『姉上』って呼ぶのがどうも背中がむずがゆいんだよね。狐杜って呼んでくれたらいいのに」

「そりゃあ姉上なんだから仕方ないでしょ、狐杜の方が年上なんだし」

「おいらなんか勝宜さまより年下だけど、狐杜のことは狐杜って呼んでるぜ」

「与平には聞いてない!」

 おなごの話に割り込むと必ずこうなる。与平は「へいへい」と下唇を突き出して大人しくなる。

「ところで今日は月守さまはいらっしゃらないの?」

「さっき薬草を採りに行ったからそのうちに帰って来るんじゃない?」

 噂をすれば影、表の方で何やら人の話し声が聞こえる。

「お帰りになったみたいね」

 いそいそと引き戸を開けたお八重が「月守さま、お帰りなさいま……し?」となぜか疑問形のまま固まった。

「十郎太さまに勝宜さまではございませんか。ご機嫌麗しゅう存じます。どうなされたのですか」

 勝宜という名前に反応し、狐杜と与平が思わず顔を見合わせた。

 入ってくれというにも七人詰め込むにはあまりにも狭いあばら家で、仕立てをしていたお袖と狐杜は板の間に、月守は土間の壁際に、十郎太と与平は入り口に、勝宜とお八重は三和土たたきに腰掛けるように収まった。

 勝宜は松原屋にお八重を訪ねたらしいが、外出中と聞いてここに違いないとやって来たらしい。着物の注文ならそのまま松原屋で用は足りるが、ここまで来たということはお八重本人に用向きがあったということだ。

「お八重殿と大船屋の漣太郎殿の御縁談を我が父勝孝がご破算にしてしまいましたゆえ心配しておりました」

「そんなこと。勝孝さまには感謝しているのです。あの木偶の坊の嫁になるくらいなら『行かず後家』と後ろ指をさされる方がずっといいわ」

 酷い言われようだが漣太郎が全く役に立たないのは今に始まったことではない。

「あの後、大船屋の主人浪太郎殿が漣太郎殿を伴って我が屋敷に参られました。これから柳澤との取引が始まり大船屋と同じ立場に立たれる松原屋に対し、漣太郎殿から無礼な発言があったことを浪太郎殿が漣太郎殿と共に詫びに参られたのです」

「うちのお店にもいらっしゃいました。どの面下げてわたしに会いに来たのか。『私の周りには素敵な殿方が大勢いらっしゃいますから漣太郎さんは他のお美しい方を娶られては?』って言って差し上げましたわ!」

 まるでその時の厭味たっぷりな言い方が目に浮かぶようで、与平は顔を背けて笑いをこらえた。

「ほう、素敵な殿方と。では、どなたか心に決めた方でも?」

「えっ……それは、その」

 急に赤くなって俯くお八重の代わりに、与平が「勝宜様だよな」と横槍よこやりを入れる。

「ば、ばか与平! 何言うのよ、勝宜さまの前で!」

「しかしあの日、父上が漣太郎殿に『お八重殿を勝宜の奥に』と言った際、お八重殿は確かに『こんな鬼畜のいる家に嫁ぐ気なんか無い』と」

「えー、そんな酷でぇこと言ったのかよ。信じらんねー!」

 与平の軽口に十郎太とお袖がプッと噴き出し、お八重がギロリと睨む。

「それはその、勢いで。あんなふうに一方的に決められたらやっぱりカチンと」

「あの日、狐杜殿の気持ちを何よりも考え、『あの』父上の頬を張り、見事な啖呵たんかを切られたお八重殿の姿が頭に残って離れぬのです」

「えっ? 勝孝様をひっぱたいたのかよ!」

 ギョッとする与平を尻目に、勝宜はなおも畳みかけるように続けた。

「あれこそが柳澤の家を支える者の姿にござりました」

「はい?」

「この勝宜、全力でお八重殿を大切に致す所存なれば、そなたと一生添い遂げたいと思うておりまする」

 その場にいた全員が目をまんまるに見開いて固まった。十郎太さえも聞かされていなかったのだろう、「勝宜様?」と言ったきり硬直してしまった。

 しばらくの間があって、やっと勝宜の言っていることを理解したのか、お八重がひぃぃとよくわからない声を出しながら息を吸った。

「わた、わた、わたしが、勝宜さまの、奥方様ですか!」

「さようにございます。父上の思惑は無関係。この勝宜がお八重殿を嫁に欲しいと申しておるのです」

 背後で与平が「やべえ、勝宜様かっこええ……」と呟く。

「もちろん、松原屋さんの旦那様にも話をせねばならぬのですが」

「いえっ! 松原屋はわたしの兄が継ぎますから問題ありません! 一番大切なのはわたしの意思ですゆえ、不束者ふつつかものではございますがどうぞ末永く御贔屓ごひいきに」

「御贔屓にって、お客さんじゃねえんだからよ」

「与平少し黙って!」

「では早速松原屋へ挨拶に参ろう」

 立ち上がった勝宜がお八重の前にすっと手を差し出す。頬を紅色に染めたお八重がその手を取ると、「それでは失礼致す」と十郎太とお八重を連れて颯爽と出て行った。

 あっという間の流れに、残された四人はいつまでも呆けていた。


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