第61話 真実4

 そこからはすべて一瞬のうちに行われた。

 月守が勝孝の背の一点を指で素早く突くと同時に、本間が扇子で太刀をはじき落とす。勝宜は抱き合ったままのお八重と狐杜を守るように立ちはだかり、廊下に控えていたお鈴の前には雪之進が半身を割り込ませる。

 太刀が畳に落ちる音が響き、無音が部屋を支配した。

「死なせてくれ」

 その声が勝孝のものであると理解するのに、一同は思いがけず時間を要した。

 勝孝はもう一度、今度ははっきりと言った。

「後生じゃ、死なせてくれ」

 次の瞬間、勝孝の頬を容赦なくピシリと打つ手があった。浅縹の小紋の袖から伸びる白い細腕が怒りに震えていた。

「勝孝さま、そりゃあ無いんじゃないの? 勝孝さまに二度も殺されかけた狐杜に、ごめんなさいの言葉も無しに勝手に一人で死のうって言うの? あの水運事業でほまれ高い、木槿山にこの人ありと謳われた柳澤勝孝が、そんな、人として最低限のことをほっぽり出して逃げると言うの? 恥を知りなさい!」

 誰もお八重の無礼を止めようとはしなかった。ただ勝宜がお八重の怒りを鎮めるようにそばに寄り添った。

「父上、八重殿の言う通りです。父上がずっと理不尽な評価に耐えながらも成果を上げて来られたこと、勝宜は誇りに思うておりまする。ゆえにこそ我が自慢の父であって欲しいのです。有能で仕事ができ、それでいて失敗を素直に認め、誠心誠意謝罪できる、人として立派な父であって欲しいのです。尊敬する父上の背を拝しながら日々研鑽けんさんに励みたいのです」

 察した雪之進が席を外すと、お鈴も後を追って退席した。お八重も下がろうとしたが、心細かったのだろうか狐杜が袖を掴んで離さない。

 お八重がおろおろしている間に、勝孝が意を決したようにまっすぐ狐杜に向き直り頭を下げた。

「辛い思いをさせた。そなたの気持ちを最もよく理解できるはずの父の愚かな仕打ちに、さぞ辛い思いをしたことであろう。許せとは言わぬ。今、自分で捨てようとした命だ、そなたの好きなようにしてくれてかまわぬ」

 再び沈黙が部屋に満ちた。袖をしっかり掴んだままの狐杜の手を、お八重が「狐杜の言葉で伝えるのよ」と言うようにそっと包む。

「あの、あたし」

 狐杜は握っていたお八重の袖を放すと顔を上げた。

「勝孝さまのお陰で木槿山は発展したと思ってます。あたしたち木槿山の民はみんな勝孝さまに感謝しています。あの、それで、あたしのお父つぁんは竹蔵なんですけど、その、あたしの父上?……が勝孝さまだって聞いたらやっぱりすごくその、鼻が高いです。そりゃあ殺されそうになったのは腹立つけど、今も腹立ってるけど、だからってあたしが勝孝様をぶっ飛ばしたってなんにも良くならない。だから今まで以上に木槿山のために励んで欲しいです。これあたしの本心です」

 十郎太が顔を上げた。それとは対照的に勝孝は頭を下げたまま言った。

「この父をゆるすと申すか」

「面を上げてください。赦すも赦さないも、血の繋がった親子だし。正直、勝孝さまを家族だとは思えないけど……でも与平が言ってたんです、人は一人じゃ生きられない、だから家族が必要なんだって。勝孝さまには勝宜さまも十郎太さまもいる、あたしには月守さまや与平っていう家族がいる、だから生きられるんです」

 そこで狐杜は思い出したように笑った。

「それにここに囚われている間は毎日夢みたいに美味しいごはんを食べさせて貰ったし、書物も読ませていただきました。雪之進様もお鈴ちゃんも親切にしてくださいました。あたし、それだけで十分です。十郎太さまもこっち来てください。あたしを守ろうとしてくださったんでしょ」

 十郎太は「勿体のうござりまする」を繰り返しながらも、庭から上がってこようとはしなかった。

「父上、姉上もこう言っておられます。柳澤を引き継ぐ萩と桔梗丸を我々で陰ながら支えましょう。それが父上とこの勝宜に与えられためいにございましょう。姉上、よろしゅうございますか」

 姉上という言葉にポカンとする狐杜に、お八重が「ほら、あんたのことよ」とひじでつついて促す。

「あ、はい。そうしてください。いくら賢いと言っても萩姫様もまだ十二です。勝宜さまたちがついていれば木槿山は安泰です」

 勝宜は力強く頷くと、皆を見渡して宣言するように声を張った。

「これからはこの勝宜が萩と桔梗丸を陰ながら支えると、この場で約束いたす。もしも勝宜のやることに意義ありと感ずることあらば、本間殿でも月守殿でももちろん姉上でも、諫言かんげんありがたく拝聴はいちょういたす所存」

 そして彼はおもむろに庭へとにじり寄った。

「十郎太」

「はっ」

 再び額を土に擦り付ける十郎太を起き上がらせると、勝宜は幼さの残る瞳で彼を見つめた。

「もしお赦し下されるのなら、この先も父上に添ってはくださらぬか。父上を本当に理解しておられるのは十郎太殿ただ一人じゃ」

「勿体のうございます」

 こうして父とその従者の処遇をあっさりと片付けた齢十五の少年は、一息ついたところで急にその年齢に相応しい甘えた表情になった。

「姉上様、少々時間がかかりますが、姉上の部屋を早急にお鈴に整えさせますゆえ、今しばらく――」

「え? あたしここに住むの?」

 異形の怪物でも目の当たりにしたかのような声に、さすがの本間も「あばら家に戻ると申されるか」と驚きの表情を隠さなかった。

「あ、ええと、ここのご飯おいしかったです。だけどあたし、ここにいたら姫扱いですよね?」

「無論、姉上は姫ゆえ」

 狐杜は大慌てで両手を振った。

「待って待って、無理! あたしじっとしてられません! 退屈で死ぬかと思った! 服も縫いたいし、川で魚も捕りたいし、山で薬草を採るのだって楽しいし、ここに住むのはその……」

 モゾモゾと歯切れの悪くなっていく狐杜の返答を一刀両断にするかの如く、月守が割り込んだ。

「お忘れか。私は『家族を迎えに来た』と申したはず。確かに狐杜殿の血筋は柳澤のものであろう。だが狐杜殿は竹蔵殿と新たな人生を歩んでこられたのだ。そして今は与平殿と母上のお袖殿、そしてこの月守が家族だ」

「そう! そうです! あたしには帰る家があります」

 あまりの勢いに狐杜が帰りたがっていることが必要以上に伝わり、勝宜は無理強いできなくなってしまったようだ。しばらくして「では遊びに参られよ、姉上」と小声で言った。その声はほんの少し寂しそうだった。

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