第5話 黒スーツ
準備は整った。
男は、ゆっくり柔軟体操をする。
チンピラの居場所も、これからとる行動も、そしてやつを追い詰める作戦も、すべて見えている。
準備運動を終え、男はゆっくり息を吐いた。
これから仕事着に着替えねば。
クローゼットを開け、スーツを取り出す。ストライプも、編み目も見えない、真っ黒なスーツ。もちろん、ネクタイもブラックだ。
時間をかけて支度を進める。
ジャケットを羽織り、その内ポケットに固い塊を感じる。
無論、この国では銃を所持することなどできない。元諜報員だとしても同じである。
だから、ポケットに入っているのは銃ではない。
スタンガンである。
男は冷静だった。独自に編み出した呼吸法で、神経を整えていく。
その呼吸法を使えば、怒りも、憎しみも、焦りも、不安も、すべてどこかへ吸収されていくのだった。
しかし今日は違った。ふつふつと湧き上がるどす黒い感情は、いくら呼吸を繰り返しても決して消えなかった。
男は苦笑した。これでは人のことを言えたものではない。
脳裏をよぎるのは、他機関の諜報員である。二人は絶望的なほどに折り合いが悪かった。
「やれるならやってみろ! 上司にそんなこと命令されていないだろう?」
これは男が吐いた台詞である。
雨が降っていた。男は地面に膝をつき、額に拳銃を突き付けられていた。
これもまた、ターゲットを複数の機関で取り合った結果であった。粗暴な見た目の男が、無表情に銃の撃鉄を起こす。
「撃てよ! この殺人マシーン」
男はあおりながら、しかし死を覚悟していた。相手は冷酷に任務を全うする、諜報員の鏡のような人間だ。
本来、男のような諜報員は、上からの命令で動かなければならない。
しかし、諜報員にとって、冤罪は最も恐れるべきものの一つである。
当然ながら、上の人間は直接手を下すことがない。ターゲットを抹殺するのは、男たち下っ端諜報員の仕事だった。
だからこそ、男は独自に、ターゲットの経歴や身元を徹底的に調べた。
自分が殺した人間が、何の罪もない人間だったら?
その恐怖がずっと男を突き動かしていたのである。
だからこそ、そうでない諜報員を見ると苛立ちが募った。
「さあどうした? 命令が無いと撃てないか?」
男の口が勝手に動く。もうどうにでもなれ、と思っていた。
しかし、相手は銃をしまった。そのまま踵を返してしまう。
「おい、どうして撃たないんだよ」
男の呼びかけに振り向こうともせず、相手は雨の中に消える。
そして、闇の奥深くから、声だけが聞こえた。
「感情的になるな。俺たちにとって、それは枷にもなる」
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