第11話

 トッコは廊下へ投げ出されていた。その腕の中には、しっかりと中学生のトッコを抱えている。

 何が起きたのかを考える間もなく、階下から鈍い破裂音を聞きつけた。

「シャッターが破られタ。じきにやつらがここに来るわネ。急ぐわヨ」

 目の前の階段を駆け上り――斜めになった階段は上るのに苦労した――、屋上に通じる扉を開ける。

 想像以上に校舎は傾いていた。正面には夕日が見え、振り返ると、二棟校舎が一棟にもたれかかっているのが分かる。手を離すと、扉は自然と閉まった。

「閂か何かをすべきかしラ? でも他の人ガ――」

「いずれにしても、もう階段は感染者だらけになるはず。だから、閂を掛けた方がいいと思うわ。他の人は、別の手段で生き延びていることを祈りましょう」

「それもそうネ。それにしても、あんたはこんなときもドライなのネ」

 手近にあったコンクリート片を、扉の取っ手部分に差し込む。強度に不安はあるが、足元が安定しない状況では意味を成すだろう。

「ヘリが来るとしても、もうここには着地できなイ。一棟に移った方がよさそうネ」

「同感。早いところ行きましょ」

 駆け出すその後ろ姿をトッコは見やる。歯に衣着せない物言い、素早い決断。中学生の制服をまとっているだけで、それは登紀子そのものだった。


 がちゃりと音が響き、南京錠が外れた。

 薄目を開けてうわ言をつぶやいていたトーニャも、わずかに身を起こす。

「ねえ、開いたの?」

 しかし、答えるものは誰もいなかった。

 登紀子は開いた南京錠の横で、滅多に見せなかった微笑みをたたえ、息絶えていた。

 その後、トーニャは生の芋を頬張り、乾燥した魚や海藻をしゃぶることで生き延びた。

 栄養状態がある程度戻ったところで、彼女は登紀子の残した装備を身に付けることを決めた。聞いた限りでは、登紀子に犯罪歴はない。しかし、自分にはいくらかの懸賞金が付いている。それならば、できる限りの間素性を隠して生きた方がいい。

(登紀子)

 登紀子の体には、虫が湧き始めた。友を失った悲しみと罪悪感で、トーニャの胸は引き裂かれた。

(でも、生きなきゃいけない。あなたでもそうするでしょう?)

 トーニャは登紀子の遺体に、空の麻袋をかぶせ、自分は防護服とガスマスクを装着した。

 船が見知らぬ港へ停泊し、船員が出払ったところを逃げ出す予定だった。

 しかし、その必要はなかった。港では、何か恐ろしいことが起きていた。船の中を悲鳴と命乞いと祈りが埋め尽くし、その隙間に、何者かのうなり声が聞こえた。

 トーニャのいる倉庫には、誰も入って来なかった。

(登紀子かもしれない)

 トーニャはそう信じていた。

(登紀子が守ってくれた)

 実際には、登紀子の死臭が、トーニャの肉の匂いを覆い尽くしていたのだった。感染者たちはそのためにトーニャの匂いに気付かず、倉庫へ侵入しなかったのである。

 感染者の気配が消えたころ、トーニャは「清川登紀子」としてこの地へ降り立った。


「何やってんの、早くこっちへ」

 早くも一棟にたどり着いた登紀子が振り返ってこちらを見ている。

「ここの扉にも南京錠が掛かってるみたい。少なくとも、感染者はここへ来られないわ」

 トッコ――トーニャは「あ、あア」と手を振り返し、歩を進めた。

(死んだはずの登紀子が生きてる。私の恩人が)

 トーニャの左手から「ひいぃん」と情けない声がした。

「誰なノ?」

 駆け寄ると、半泣きの与一が雨どいを伝って上っているところだった。

「つかまりナ」

 手を伸ばすと、必死にしがみついてくる。

「あんたネ、うちにあんたを引き上げるだけの力はないノ。支えてやるから、足は自分で動かしナ」

 雨どいは意外に頑丈で、何度かためつすがめつしているうちに彼も上りきることができた。

「た、助かったぁ」

「与一ハ?」

 尋ねるが、少年は涙を浮かべた顔で首を横に振るだけだった。

 ヒュルルッと空を裂く音がして、今度は屋上の反対側に、ワイヤーが巻き付いたのが見えた。

「おおぉっ」

 短い叫び声と共に、ショウが引き上げられてくる。勢いあまって彼は尻もちをついた。

「あんたも助かったのネ。両親ハ?」

 しかし、彼もまた答えなかった。

「とにかく、行くヨ。いつ崩れるか分からないからネ」

 トーニャは与一の襟首をつかんで立たせ、ショウの尻を蹴り上げた。

「しみったれた顔してんじゃないのヨ。まずは生き延びるのよ」

 彼らが登紀子の待つ一棟の屋上へ飛び移るのと、二棟の三階で爆発が起こったのとが同時だった。斜めになっていた校舎は脆く崩れ、あっけなく砕け落ちていく。

 誰も、何も言わなかった。

 眼下で、火が広がっていく。煙がどこか鎮魂の相を呈していた。

 遠くから、ヘリの音が聞こえた。

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