第10話
三階の教室でクニ夫らが目覚める少し前、与一は歯を食いしばってぶら下がっていた。
窓の外である。
彼の腰元には、半泣きの与一少年がしがみついていた。校舎の倒壊によって、二人して窓から投げ出されたのだ。
「絶対離すなよ」
「離しません……でもどうしたらいいですかぁ?」
今のところ、地面には感染者の姿は見えない。しかし、このまま下へ落ちれば、運がよくて全身の骨が砕けるだろう。運が悪ければ――
「どこか、入れるところはないか? お前の足元とか」
「こ、怖くて見れましぇん」
「アホか! 死ぬよりはましだろ?」
腕を小刻みに震わせながら、与一は怒鳴り声を上げる。
(中学のころ、俺はこんなに情けなかったか?)
自分の腰へ目をやると、眼鏡の奥に涙をためた少年の顔が視界に飛び込む。それは何度となく鏡の中に見つけた、まごうことなき自分自身の顔だった。
(――くそったれ)
「お前の前に、教室の窓があるだろ? そこを蹴破れ」
「え? え? え?」
困惑した声を上げながらも、少年は目の前の窓を捉えたようだった。
ゆっくりと足を持ち上げ、窓を蹴る。しかし、威力が足りないようで、窓はガインガインと揺れるだけだった。
「もっと強く。勢いをつけて蹴りやがれ」
「いや、これが限界ですぅ」
与一は舌打ちした。確かに、中学時代の自分にはこれ以上無理だろう。メンタル面でも匙を投げてしまっているし、フィジカル面でも到底ガラスを割るまでに至るまい。
「ふんっ」
与一は懸垂の要領で、少し身体を持ち上げた。そのまま鉄棒のように、身体を前後にゆする。
「わわわっ」
与一少年は与一の腰をつかむ力を強めた。
「三、二、一で蹴破れ。ミスったら死ぬぞ!」
「えええ?」
「ほら、三――」
与一は身体を大きく揺さぶった。
「ひいい」
「二――」
「わああっ」
「一――」
「っっっ」
「行け!」
腹をくくったのか、与一少年はうまいタイミングで足を伸ばし、窓を蹴破ることに成功した。そのまま室内へ飛び込む。
重りのなくなった与一は、一度捕まっていた窓枠から手を離し、軽々とその下の雨どいをつかんだ。そのまま与一少年の破った窓を這いあがる。
「よくやった」
未だに涙で塗れている与一少年の頭をつかんで、わしわしと撫でた。しかし、これで終わりでないことを彼はすぐに悟った。
階下から迫るうめき声。
(防火シャッターが破られたに違いない。声の距離からして、階段方向へ向かうのは避けた方がいいだろう)
「立て」
髪を引っ張って、少年を立たせた。廊下に躍り出ると、そのまま少年を引きずるように、階段とは反対方向へ進む。
目視できる範囲には、感染者の姿はなかった。しかし、逃げ切れるという保証はない。
与一と少年は暗い「トレーニングルーム」へと飛び込んだ。ここであれば、すぐに感染者の目につく恐れはない。
「暗いな」
目が慣れるまでにどうしても時間を要する。しかし、今はその時間が惜しい。与一は左の眼球を押した。
かちりと音がして、ライトが室内を照らした。青いLEDの光だった。
「ど、どうなってるんですか、その目は……」
与一少年がつぶやく。自分の将来を案じているのかもしれなかった。
「しっ」
静かにするよう促し、部屋の奥へ歩を進める。暗幕をめくって外の様子を確認すると、目の前に一棟の壁があった。どうやら倒壊した二棟は一棟に支えられて止まっているようだ。
すばやく雨どい、排水管、換気口の位置を確認する。うまいことに、それらを伝えば屋上へ出られそうだ。
「おい」
呼ばれて与一少年は身を震わせる。
「まず、あの排水管に飛び移るだろう? それから――」
一通りの工程を教授する。
「一緒に来ないんですか?」
「行くつもりだ。ただ、俺の重みでリスクを作りたくない。お前が先に行くんだ。その後を俺が追いかける」
しかし、与一はそれの実現が難しいことを悟った。背後で扉の開く音がしたからだ。
少なくとも五、六体の感染者が、若々しい肉の臭いを嗅ぎつけてやって来たのだ。目標が定まっているせいか、これまでとは違う俊敏な動きで近づいてくる。
「お前、先に行け。こいつらを潰してから追いかける」
「いや、無理ですってぇ」
「言ってる場合か。さっさと跳べ」
先頭の感染者は、もう数歩のところまで接近していた。与一は手近にあったサンドバッグを持ち上げ、そいつの頭上から振り下ろす。鈍い手ごたえがあり、相手の首から上が陥没した。司令塔を失った胴体がゆっくり倒れ伏す。
そのすぐ背後にいた感染者には、振り上げる動作が間に合わなかった。サンドバッグをそいつの胸元へ押し付け、ありったけの力で押しやる。
次に与一が目にとめたのはダンベルだった。手当たり次第に投げつける。しかしこれは失敗で、感染者たちは怯みこそするが致命傷とまでは至らない。
与一の後ろでは再び半泣きになった与一少年が、何とか一棟の雨どいに足を掛けていた。そのまま、一息に飛び移る。
与一はちらりとその姿を――無事を――確認し、再び感染者に向き直った。
ベンチプレスのバーを振り上げる。
大振りで感染者らにバーを叩きつけながら、与一は叫んだ。
「そのまま上れ! 屋上まで上がればなんとかなるっ」
「は、はいぃ」
感染者はやはり頭を潰さねばならないらしい。部屋の端まで叩き飛ばした感染者も、再び立ち上がってきてキリがない。教室の入口には、さらに何体もの感染者が現れ始めていた。
(ここまでか)
それは元ボクサーとしての直感のようなものだった。与一の全身が、ここで自分が狩られることを理解し始めていた。
「おい、お前!」
「はいぃ?」
「いいか、俺みたいになるなよ」
「えっ」
「俺みたいになるなよって言ってんだ」
二体を続けざまに叩きのめした。しかし、数が多すぎてとどめを刺すまでに至らない。
「誰かを見返すとか、復讐するとか、そういうのはかっこ悪いってことだ。そんな気持ちで身体を鍛えても、誰かの幸せを奪うことしかできん」
与一少年はまだ「どういうことですか?」と情けない声を上げていた。与一は返事を待たずに、音を立てて窓を閉める。
与一の目の前にいるのは、見覚えのある金髪だった。
真っ黒な眼孔で、よだれを垂らしながら迫って来る。
(ここで会ったが百年目)
バーを握りしめる。
「お前は俺がここで仕留める。あの世まで道連れだ。中学生の俺には手出すんじゃねえぞ」
金髪を先頭に、感染者の群れが与一へなだれ込んだ。
手にした頼りないバーで、与一はそれらをなぎ倒していく。
そのうち、与一の腕や肩にはいくつもの噛み跡がついた。視界が真っ赤に染まったが、返り血なのか自分の血なのか与一にはよく分からなかった。
金髪の姿はもうなかった。もとからそんなものいなかったのか、それとも与一が頭を潰したのか。
複数の感染者が与一に組み付いた。
「群れることしかできんのか、お前らは」
与一は渾身の力を込めた。感染者たちを教室の入口側へ、単身で押し戻していく。
その時、階上でクニ夫の爆弾が作動した。
与一たちも目のくらむ閃光を感じ、その数秒後には炎に包まれていた。
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