第9話
クニ夫は瓦礫の中で身動きした。窓も崩れてしまったらしく、夕日がわずかに教室内を照らすだけで、目が慣れるまでは周囲の状況をうかがえなさそうだった。
「ショウ?」
クニ夫は声を絞った。
「クニ子?」
向こうの暗がりから「おるよ」と声が聞こえた。クニ子の声だった。
「ショウはどこや?」
「あたしと一緒におる。無事やで」
天井が崩れたのだろう、クニ夫は重いコンクリート片を身体からふるい落とし、ゆっくりと立ち上がった。左のくるぶしに鈍い痛みがある。しかし、歩けないほどではなかった。
声の聞こえた方へゆっくりと進む。
「おとん」
ショウが暗がりから歩き出てきた。床が傾いてしまっていて、ショウの側からは上り坂になっている。慎重にじりじりと進むほかないのが口惜しかった。
やっとの思いで近づくと、ショウは「おとん」とクニ夫にしがみついた。「おかんが怪我しよる。どうしたらええか分からへん」
「任せとけ。お前にこれを託しとく。いざとなったら使えや」
後者に侵入する際にも使用したワイヤーだった。
クニ夫はさらに暗がりへ歩を進める。
「クニ子」
「ここやで」
だいぶ目が慣れ、クニ夫は巨大な瓦礫の下敷きになったクニ子を見つめた。両足の太ももから下が、完全に潰されているのが見て取れる。
「もうここまでや。あかんで。ショウと一緒におったってや」
「何言うんや。まだ助かるわ」
「いや、あかん」
クニ子は教室の入口を指さす。クニ夫はそちらを向いたが、何者の影も形もなかった。
しかし、この部屋を目指して何かが這い寄って来る音は聞こえた。
「まさか――防火シャッターが壊れたんやな」
「じきにここも感染者だらけになるわ。あんた、ショウと行ったってな」
クニ夫は冷静だった。NAW国家特殊捜査官の肩書は伊達ではない。
大きくゆがんだ窓へ駆け寄り、上を見上げる。
屋上は崩れていないようだった。ただ、ひび割れの状況は予断を許さない。
「ショウ」
呼びかけると、息子が「何?」と声を上げる。息子を自分の手で撃ち抜いてから、クニ夫が何度も――現実から目を逸らしてまで――思い描いた場面だった。自分が名前を呼び、息子がそれに応える。ただそれだけ。
「屋上に上がったら、体育館の上か、一棟の屋上かにすぐ移動せい。NAWのヘリは、きっとそこへ縄梯子を伸ばしてくれる。もしほかの連中が生き残っとったら、お前が引っ張ったらなあかんで」
「おとんはどうすんねん」
「ひび割れの具合から見て、俺が上がったら壁ごとはがれる。俺はもう息子を殺したくないで」
ショウは見るからに不安そうだ。無理もない、まだ中学生なのだ。
(でももうあかん。クニ子は動けんし、俺は登れない。自力で生き延びるしか)
「ショウ」
クニ夫は息子を呼んだ。そしてワイヤーを受け取り、屋上へ放つ。首尾よく何かの柱に引っかかったようで、強度も問題ない。後は、ホルダーのボタンを押せば、自動的に息子は屋上へ引き上げられるはずだ。教室の入口には、腐りかけた腕がのぞいていた。傾いた階段を何体かが這い上ってきているのだ。
ショウにワイヤーホルダーを渡し、簡潔に使い方を説明する。
「さ、もう行けや」
「おとん、そんなあっさりあんまりやわ。もっと俺――」
「ほんまやなぁ」
クニ夫は笑顔で返す。
「でもあかん。振り返っとる時間もないわ。ええかショウ、もう振り返るなよ。留守電聞き返しとる暇があったら、自分のやりたいことに時間を使えや」
ショウの顔が赤く染まった。
「なんでそのこと――」
瓦礫の下でクニ子が笑い声を上げた。失血して苦しそうだが、まだ意識はあるようだ。
「ほんまやね。映画館でチケットなくしたことをくよくよ悩むんやったら、彼女でも作って何回でも映画に誘えばいいやんな」
「お袋まで! しかも、なんで知ってるんや」
「ショウ」
時間がないことを悟ったのか、クニ子が断固とした口調で言う。
「あたしらは、あんたさえ幸せだったらそれでええんや」
クニ夫もうなずく。
「それが親やで」
「おとん、おかん――」
「さ、行け」
クニ夫がショウの尻を蹴り上げた。
ショウは情けない悲鳴を上げながら、窓の外へ転がり出る。そのままホルダーのスイッチを押したようで、屋上へと上がっていった。
「行ったで」
「ありがとう」
クニ夫はクニ子のもとへと戻り、その横に座る。教室の入口には、三体ほどの感染者が姿を現していた。傾いた床の上でバランスを保つのが難しいらしく、おぼつかない足取りで二人へと迫って来る。
クニ夫は銃の引き金を絞り、一体の頭を撃ちぬいた。そのまま、銃を隅に放り投げる。
「弾切れや。予備も無し」
「同じやな」
クニ子も力なく言う。血液が足りないのだ。
「使うで? ええな?」
「ショウはちゃんと他の屋上へ移ったやろか」
「大丈夫や。俺らの子やで」
「それもそうやな」
クニ夫はウエストポーチを開け、黒い塊を取り出した。それは、C4と呼ばれる爆弾だった。無造作にスイッチを操作する。
十秒のカウントダウンが始まった。
残る二体の感染者は教室の中へ踏み込んできたが、足を滑らせて隅へと滑落した。もう一体は這い進んでいるが、そのスピードは遅々としたものである。
クニ子が持ち前の快活な調子で言った。
「うん、幸せな人生やったな」
「ほんまやなぁ」
一瞬だった。
眩い光が二人を照らした。それはやがて炎になり、感染者もろとも、教室内を包み込んだ。
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