第5話

 大須与一は広い肩を揺らして渡り廊下を目指していた。第二棟二階の、階段とは反対側。つまり、階段を上って屋上を目指したトッコと、階段を下って一階に向かったクニ子・クニ夫とは、一人だけ方向が違う。

(懐かしいが、所々変わっている)

 先ほど飲み物を買った自動販売機を通り過ぎる。

 窓の外に目をやると、外をふらついている人影がまばらに見えた。そのぎこちない動きから、すでに正気の人間ではないことがうかがえる。その向こうに、赤い校門が見えた。

(赤い校門なんて変だ、って他校の不良が突っかかってきたこともあった)

 門を見つけたとき、トッコにそんな話をしたことを思い出す。

(同じ赤とはいえ、やっぱり人の血とペンキの色は違うって発見した)

 

「おいお前、ここの生徒か」

 突然話しかけられ、中学生の与一は肯定も否定もできない。

「聞いてるのか、お前じゃお前」

 「る」のところで下手くそな巻き舌を披露したこいつは、金髪で襟足を伸ばした、当時の典型的なヤンキーさんだった。長い学ラン――いわゆる特攻服――を羽織り、きっとその内側には龍の刺繍でも入っているのだろう。群れでしか行動できないのはどこのヤンキーも同じらしく、こいつの後ろにもにやにや笑った坊主頭が一人と、ガムをかんだ茶髪が控えている。

 この時点で与一は、こいつらが特に大した理由もなく、「暇だしちょっとからかってやろうぜ」のノリで声を掛けてきたことを察知していた。嵐と同じで、大人しくしていればやがて過ぎ去っていくだろう。

「僕ですか」

「そうでございまちゅ、僕ちゃんでございまちゅ」

 金髪がそう言って下卑た笑い声を上げた。坊主頭と茶髪の含み笑いもそれに追随する。

「ワレ、ちゃんと目合わせんかい」

「はあ」

 与一は目線をわずかに上げる。

 見えたのは、振り上げられた拳だった。

 左頬に衝撃が走り、目がチカチカする。足元がぐらついたところを、今度は腹に一発蹴りを食らった。

 立っていられず、与一は倒れ込み、その拍子に赤い校門でしたたかに頭を打った。

 不良は止まらなかった。そのまま与一の顔を踏みつけ、与一は脳の奥の方で自分の鼻の骨が砕ける音を聞いた。

「なんでこんなことされるか分かっとるか? お前んとこの校門が赤いからじゃ」

 自分の言葉が面白くてたまらなかったのだろう、金髪が甲高い笑い声を上げた。

「あと、なんか知らんけどお前が気に食わんからじゃ」

 後ろにいる坊主頭と茶髪が「ひでー」と爆笑している。

 与一はほとんど聞いていなかった。というよりも、聞ける状態になかった。後で分かったことだが、陥没した鼻は頭蓋の奥までめり込んでいて、一歩間違えれば脳にも影響が出ていたかもしれないとのことだった。

 与一は朦朧としながら、目の前の校門を見ていた。赤く塗られたそれに、血が飛んでいる。自分の鼻血なのか、それともほかのところからも出血しているのか。

(ペンキの赤と血の赤は、やっぱり別物なんだな)

 ぼんやり思った。

 その後、ヤンキーたちは携帯で与一の写真を撮り――これは後日、ネット上で拡散されていた――、何度か踏みつけにしてから逃げ去った。目撃者がいたのだろう、話を聞きつけた教師らが与一のもとへ駆けつけてきたのだ。

(また標的にされた)

 これが初めてではなかった。その辺のヤンキーは与一を見ると、どうしても暴力衝動を抑えきれなくなるらしい。

(僕が気の弱そうな顔をしているから? 僕に筋肉がなさそうだから?)

 教師の呼びかけにもうまく応えられず、救急車の到着を待つのみとなった。やがてストレッチャーに乗せられ――振動で鼻の奥がずきずきとし始めた――、安心感と痛みで与一の意識は遠ざかって行った。

(強くなりたい。もうバカにされないくらい)


 ジャングルハンター轟は、青いグローブを構え、身体を左右に揺らしていた。彼は人気急上昇中のボクサーだ。金色の長髪を束ね、上半身には所狭しとタトゥーが入っている。対戦相手への挑発が激しいことでも有名だ。しかし一方で子ども好きであり、慈善事業に積極的というのだから、そのギャップにやられたファンが多い。

 ジャングルハンター轟と向かい合っているのが与一だ。二十歳前半となった彼はすでに相手を威圧するに十分な体格を手に入れていた。不良に殴られた鼻に真っ直ぐな骨を取り戻した頃から、彼は両親が心配するほどストイックな食事制限と筋力トレーニングにいそしんだ。プロテインを無理矢理胃に押し込む瞬間、血管の浮いた震える手でダンベルを持ち上げる瞬間、常に脳裏には金色の襟足がちらついていた。そいつの頬を殴る様を想像した。そいつの髪を引き抜く様を想像した。顔をつかんだ。壁に打ち付けた。フォークを突き立てた。生爪を――。

 強い者こそ優しくあれと、父は言った。昔のあなたのままでいいと母は言った。

(ふざけるな)

 抑圧してきたものが解き放たれたのか、筋力の増加に比例して与一の気性も

(何を知ってるっていうんだ)

荒くなっていた。

 とはいえ、リングの上では最低限のマナーを守らねばならないし、与一もそれをよく分かっていた。現実世界で暴力を振るうことはできない。別の形でそれを昇華する必要があった。

 ジャングルハンター轟との試合は、お互いに様子を見合う状態からスタートした。

(もっと挑発してくるかと思ったが、そう甘い相手ではないらしい)

 一撃の重さが武器の与一は、うまく懐に潜り込めず、悶々としていた。無論、それは相手も同じことだったろう。

 動きがあったのは中盤を少し過ぎたところだった。与一の足が鈍った――これは与一の弱点だった。筋肉で重い体を運ぶのに、彼の両脚は少しばかりパワーが不足していたのだ。相手もそれを知っていたに違いない――ところで、轟は猛然と攻撃に転じた。

 与一はラッシュにひたすら耐えた。皮膚の下、限界まで張り詰めた筋肉は、普通ではありえないほどの耐久力を彼に与えていた。与一は目を光らせて隙間を探した。右のボディブロー、左のアッパー、右のボディ、左のボディ。

 隙間を縫ってずしんと拳を叩き込んだとき、轟が息を詰まらせたのが分かった。マウスピースが飛び出しかけているのが見えた。もう一発、腹部へ叩き込んだ。轟の腸が波打った。轟は与一の首を抱え込もうとした。そのまま脇をすり抜けて、連打をかわそうとしているのだ。

(させない)

 与一は首をねじってホールドを外しながら、相手の顎へ一発見舞った。轟の足がたたらを踏んだのが見えた。終わりが近い。

 この時、轟のグローブが外れていた。与一がホールドから抜け出した際にすっぽ抜けたのだ。連打を浴びていた轟も無自覚だっただろう。レフェリーが飛びついた。しかし、それより轟の方が早かった。

 轟は与一へアッパーカットを食らわそうとした――少なくともそのつもりだった。しかし、拳は剥き出しだったし、あまつさえ指が開きかけていた。彼の親指は与一の左目に深く沈み込んでいった。

 与一は吠えた。痛みの知覚も、指から逃れようとする反射も置き去りにして、頭の中が真っ赤に塗りつぶされた。右目を大きく開いた。

(お前か)

 与一の目に映っているのは、金色の後ろ髪だった。

(おおおおおお前だったか)

 不良が目の前に立っていた。そいつは「お前んとこの校門が赤いからじゃ」と言った。

(うるせえ黙れ。今ここでぶっ潰してやる)

 与一は指を左目に刺されたまま、相手の胴体にしがみつき――ここからは覚えていない。どこか遠いところで、与一は相手の背骨が折れる音を聞いた。

 ゴングが鳴った気がした。


 ゴォン、という鈍い音で与一は回想から引き戻された。チャイムが鳴っているのだ。

(今は生徒を探すことに集中すべきだ)

 頭を振って、遠い記憶を振り払う。

 あの事件の後、追い詰められた轟が反則技で相手の片眼を潰したとメディアは報道した。与一の行為は正当防衛であり、それによって轟は再起不能となったことも。誰も、轟がしてしまったことは不慮の事故であり、与一の行為が明確に相手を損傷しようと意図されたものであることを知らない。

(今、ここに戻ってくるんだ与一。さもないとぶっ潰してやる)

 唇が開き、ぶっ潰してやる、とつぶやいていた。それを耳で捉え、ようやく頭の中の熱が引いてくる。

 与一は廊下の突き当りを曲がった。

(ここに渡り廊下があるはずだ。ここに――)

 しかしそこにあったのは、与一の見知らぬ教室だった。くすんだプレートに「トレーニングルーム」と下手な字で書いてある。カーテンが閉め切ってあるのか、部屋の中はまったく見えなかった。

(どういうことだ? ここには渡り廊下があったはず)

 頭の中が違和感で埋め尽くされる。

(二棟が倒壊した後の建て直しで、この教室が増築されたのか?――それにしては年季が入ってるが)

 扉やプレートの寂れ具合は、他の教室と変わらない。

(この部屋は)

 扉をゆっくりと引いてみる。

 まだ目が慣れず、部屋の中を全く見通すことができない。何かが息づいているような気がして、与一の背を冷たい汗が流れる。

 中にいるのは、中学生たちだろうか、それとも招かれざる者たちだろうか。

 しばらく動くことも

(何だ?)

できず、与一は立ち尽くしていた。

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