第4話
クニ子とクニ夫は階段を降り、首尾よく一階の教室を確認して回った。下駄箱のある入口の方からは、ガタガタと不穏な音が響いている。
「誰もおらんなあ」
「ほんまやなぁ」
感染者がいないのは幸いだったが、生き残った中学生の姿も見えない。トッコか与一のどちらかに期待するほかないだろう。
(それよりも)
クニ子は構えた銃の撃鉄に指を這わせる。
(ここのバリケードが問題やわ)
彼らが一階に降りてきた時点で、ガラス戸にはひびが入り、その手前に積まれた机が頼りなく揺れていた。外にいる感染者は少数だが、あと一時間もてばいい方だろう。
なるべく外の感染者たちを刺激しないよう、身を隠しながら階段へと戻る。
(階段を上り切った踊り場に防火シャッターがある。閉めるべきやろか?)
防火シャッターの力を借りれば、一階のバリケードが破られてもしばらく持ちこたえられるだろう。しかしそれは第二棟からの移動手段が制限されることにもつながる。与一が調べに向かっている渡り廊下の状態によっては、クニ子らも閉じ込められた状態になる可能性があった。
ひときわ大きくガラス戸が揺れた。思わずクニ子は銃を構え、撃鉄を起こす。
自宅内でクニ子は銃を構えていた。その銃口は、ある男のこめかみへ押し当てられている。向かい側では、クニ夫が同じように、反対側のこめかみへ銃を押し付けていた。
男は両膝をついた姿勢で荒い息を吐いていた。左手に持った布で右腕を押さえているが、そこからは血が流れ続けている。
男が声を発した。
「おとん、おかん」
「なんや。なんでも言うてみい」
NAW国家特殊捜査官として数多の修羅場を潜り抜けてきたクニ子は、今まで経験したことがない恐怖を感じていた。クニ夫も同じらしく、普段の温和な表情は影を潜め、渋い面をしている。
二人の間にいる男は、彼らの一人息子だった。
クニ子もクニ夫常も、職業柄常に忙しい。長期間家を空けることも珍しくなかった。そんな家庭で育ったにも関わらず、彼らの息子は心優しい青年へと成長した。目立った反抗期もなく、常に両親の体を気遣っている。情報機器の操作に長けていて、NAWのサイバー部門――前線に出なくて済む、比較的安全な立ち位置だった――に就社していた。そしてこの年の秋に結婚式を挙げる予定だった。
「俺、俺な――」
「ええでショウ。ゆっくりでええねん」
クニ夫が声をかけた。ショウはゆっくり唾を飲み込む。
例の感染症が広まってから、クニ子とクニ夫は比較的小規模な感染地域の制圧に駆り出されていた。それは尽きることがなく、二人はときに十数件もの現場へ立て続けに足を運ぶこともあった。そんな状況であったから、二人がそろって休暇をとれたのは――それも一日だけで、翌日の早朝からまた出動予定だった――数週間ぶりというありさまだった。それを知ったショウが勤務上がりに実家へ立ち寄ったのである。
しかし、戸の開く音を聞いて玄関に向かった二人が見たものは、流血した右腕を押さえ、歯を食いしばった息子の姿だった。そして彼は『父ちゃん、母ちゃん、あかんわ――俺、噛まれた』と言った。
「俺、最期はおとんとおかんと一緒にいたいねん。もうあかんと思ったら、ためらわず、撃ってな」
ショウが絞り出した言葉に、クニ夫がうなずいた。
「分かった。一発で終わらせたる」
「ありがとう」
感染に関する情報は未だ少ない。空気感染はせず、唾液や粘膜を介して感染する――つまり、噛まれる、あるいは相手の血を浴びてそれが自身の傷口や口腔に入らない限りは感染しない。加えて、ウイルスが体内に侵入してから発症するまでには数十分のタイムラグがある。
「ああ、下手こいた。今日の仕事は近場だったし、俺は戦闘に参加しないし、完全に油断しよったわ。引き上げる段になって、知らん間に感染しとった隊員がジープの中で大暴れや」
まくしたて、ショウは一度ぶるりと身を震わせた。
「おかん」
「なんや?」
「俺、おかんに謝らないかんことがあんねん」
「謝らないかんことて。今ここで言うことかいな」
「ええやん」
「言うてみ」
「小学生のころ、おかんにお金もらって、一人で映画観に行ったことあったやろ?」
「そんなことあったなぁ。あれやろ? 『忍者ゴンパチ』」
「それ。で、帰ってきたおかんが『どうやった?』って。俺は『おもろかったよ』って」
「うんうん」
「あれな、嘘やねん」
「嘘って。どういうことや」
「俺な、映画館行って、チケット買うて、そんでジュース買いに並んでる間に、チケットなくしてしもてん。半泣きで探し回ったけど見つからなくて、その時はお店の人に話しかけるなんてできなくて――今思えば、ガキが半泣きで訴えればチケットの再発行くらいしてくれそうやけどな――そんで、家に帰ってずっと泣いとってん。でも、おかんにどうしても言い出せんくて、つい観た体で話しよってん」
「知らんかったわ」
「せっかくおとんとおかんが体張って稼いでくれたお金やのに、ほんまごめんな」
「何言うてんねん。そんなん気にするんおかしいわ。あんたになら映画の何百倍分の金やって渡しても惜しくないわ」
「うん、分かっとる。ありがとう」
ここでショウは深く息を吐いた。クニ子とクニ夫は一瞬身構えたが、彼がまた息を吸い込んだのを見て肩の力をほんの少し緩めた。
「おとん」
「なんや。どんな話でもちゃんと聞いたるから、思う存分話せ」
「俺、後悔してることあんねん」
「後悔か」
「うん。俺、もっとおとんと話しとけばよかったって」
「ほんまやなぁ。俺も今同じ気持ちや」
「一回、おとんが珍しく俺の携帯に電話かけてきたことあったやろ?」
「そんなんあったかいな?」
「あった。俺が中学生のころ、遊んでて帰りが夜遅くなったときに、めちゃ不機嫌な電話。しかも俺そのとき気付かんで、後になって留守電聞いてん」
「思い出したで。夜遅くなったっちゅうレベルちゃうわ。深夜0時過ぎたら、そら不機嫌にもなる」
「俺にしては珍しく悪い子やったな」
「いや、別に悪い子でもよかったんやで」
「実はな、俺、おとんが長い間現場に出てるとき、あの留守電聞き返してたんやで」
「ほんまかいな」
「ほんまほんま。子ども心に、自分のおとんとおかんが割と危険な仕事してるっているのは分かってたから、『もう会えなくなったらどうしよう』って。留守電の内容も一言一句覚えてるで。『今どこにおんねん。それと何時やと思ってんねん――はぁ、折り返し電話せい』やろ」
「知らんところで何をやってんねん、お前は」
「でもな、やっぱり後悔してんねん。留守電じゃなくて、もっと直接話しとけばよかったって思うねん。話そうと思えば、もっと何倍も話せたと思うから」
「その分今話してんのやろ。後悔なんかいらへん。いくらでも聞いたるから」
「うん、ありがとう。おとんがいつも『ほんまやなぁ』って聞いてくれるの、好きやったわ」
しかし、それ以上話は続かなかった。
ショウは下を向いてつぶやいた。それは、あるいは死に顔を両親に見せないための、彼なりの配慮だったのかもしれない。
「そろそろあかんわ。おとん、おかん、頼むで。間違うて互いに当てんようにな」
クニ子とクニ夫は、目を合わせた。
(引き金を引くのは同時やで)
(わかっとる。どちらかだけが背負う必要はないで)
「いくで」
それはどちらが発した言葉だっただろうか。二人は、黙って引き金を絞った。
クニ子とクニ夫は同時に引き金を引いた。ガラス戸が破られ、感染者がバリケードの机をなぎ倒しながら入り込んできたからだ。
銃弾で二体が伏した。その後ろに控える連中が入り込むまでに、もう少し時間が稼げるだろう。
「ここはもうあかんで。防火シャッター閉めよか」
「ほんまやなぁ」
二人は階段を駆け上がり、シャッターの開閉パネルをこじ開けた。
「これ押せばいいんかいな。ええい、ようわからんでとりあえず押すで。ったく、ややこしい英語表記なんか使うから混乱する」
「ほんまやなぁ」
鈍いブザーが響き、防火シャッターがゆっくりと降りる。階段に感染者の姿はまだ見えないが、頭の砕けた二体を乗り越えたのだろう、ずりずりと迫る音が聞こえた。
(これで一階から避難する選択肢は消えたわけや。もっと早く、バリケードを補強しておくべきやった)
そう考え、クニ子は舌打ちしたくなる。クニ夫がそっと彼女の肩に手を置き、微笑んだ。その目には、温かいが、どこかぼんやりとした光が宿っている。クニ子は彼に微笑み返した。
(この人は、ショウを撃ってからおかしくなってしまった。何を聞いても『ほんまやなぁ』しか言わへんし、いつも上の空や。でも、ちゃんとあたしと一緒に動いてくれる。この人まで失ったら、あたしは――)
不穏な考えを振り払い、「ほな、三階に戻ろか」とクニ子は言った。
二人は階段を
(――ショウ――)
上り始めた。
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