第3話
「当たり前だけど、施錠されてるわネ」
トッコはひとりごちた。
屋上に通じる扉の前である。幸いにも第二棟に屋上への階段があったため、そこを上るだけで事足りた。少なくともトッコは、対感染者の立ち回りで戦力になるとは言えない。あれだけの筋肉を蓄えた与一と、特殊な訓練を積んでいるクニ子・クニ夫が危険な箇所を担当するのは当然と言えた。
「私だけ楽しちゃって悪いワ」
歌うように言って扉を引く。予想していたことだが扉は開かなかった。それもそのはず、扉の取っ手部分には南京錠がかけられている。しかし、扉の前にバリケードが張られていなかっただけ幸運と言えた。
トッコは迷彩柄のポケットを探り、針金を数本取り出す。そのまま南京錠のピッキングにかかった。
(昔取った杵柄、だっけ。こんなことしてるところを誰かに見られたらたまったもんじゃないけど)
考えながら手を動かす。
(彼女との出会いも、コレが縁だったし――)
清川登紀子が食糧庫の南京錠に針金を挿し込んで動かしてきたとき、後ろから声を掛けてきた人間がいた。
「あんた、そこ開けるつもり?」
登紀子が振り向くと、タンクトップ姿の女が仁王立ちしていた。集中を妨げられ、登紀子は不快感をあらわにする――と言っても、ガスマスクのせいで表情を相手に見せることはできない。精一杯無愛想に応えた。
「そっちには関係ないでショ? 失せナ」
驚いたことに、女は笑い声を上げた。それは狭い倉庫内にぐわんぐわんと反響する。
「日本人! ずいぶんな物言いじゃない。活きがいいのね」
登紀子はそれを無視し、開錠作業に戻る。こんなやつに構っている状況ではないのだ。
「あんたも腹を空かせてるくちか。それにしたって、船の食糧庫を漁るとは大胆ね」
「だから関係ないでショ」
思わずそう返していた。女は我が意を得たりといった表情で登紀子に近づいた。
「せっかくだから自己紹介させて――ああ、その作業は続けていいから。今日からあなたと同じくここに寝泊まりすることになったトーニャよ」
登紀子は再び振り向き、「ハ?」と声を上げた。もちろん、できる限りの不快感を表明しながら。
「ある絵師と懇意になって、乗船券を偽造したまではよかったんだけどね。昨日それがとうとうバレちゃって」
事も無げに言い、トーニャはやれやれと首を振る。
「あのいやらしいマイケル坊やは知ってる? 船の機関士だか航海士だか知らないけど、自分の船でもないくせにいつも偉そうにしてるやつよ。あいつが突然『点検だ』とのたまったわけ。うまくかわそうとしたんだけど、結局見せる羽目になって、『なんだこれは、擦ったらインクが伸びたぞこのくそったれめ』だって」
そして彼女は地面を指さし、「それでここに送り込まれたってわけ」と言う。
船の食糧庫に隣接した狭い倉庫。そこが登紀子の寝床だった。当然ベッドも毛布もなく、使われていない工具やら空っぽの麻袋に囲まれて、この世のものとは思えないほど冷たい床に寝転がるには最適なワンルームだ。
「あんたの寝るスペースなんてないヨ」
「大丈夫。その辺のシャベルやらをどかせば、私一人ならどうとでもなる」
腹立ちまぎれに、登紀子は針金をぐりぐりと動かした。しかし、それはぐにゃぐにゃと頼りなく曲がるばかりで、一向に鍵の開く気配はない。
「そんなふうにしても開かないわよ。それはシリンダー式だから、ちゃんと計算ずくで動かさないと」
登紀子は「シリンダー?」と針金を抜いた。それからお手上げのポーズをとる。
「シリンダーって何サ」
トーニャはまたやれやれと首を振った。
「とりあえず仲良くなりましょ。それから教えてあげる」
トーニャが宣言したとおり、二人はその後仲良くなった。この上ないほどに。
トーニャは日本人とフィンランド人のハーフで、方々を回って新しい世界を開拓していた。バックパッカーの一部がそうであるように、彼女もご多分に漏れず、旅の中で少しばかり悪さをしてしまったのだ。それゆえ、その時いた国を正規のルートで出国することができなくなり、乗船券の偽造という手段に訴え出たわけである。
登紀子が似たり寄ったりの境遇であったことも、二人が急速に仲を深めることの一因であっただろう。難民の子らに支援を、という崇高な目的を掲げ日本を出たはいいが、そこで彼女は現実に直面する。あれこれの決まりごとや煩雑な手続きのせいで本当にしたい支援は全くできない。何とか仕事を見つけ出し、困っている人の助けになればと精を出すのだが、結局それが金持ちの利益になる。それに加えて国民性の違い――人のために何かをしたからといって、相手にいつも謝意を示されるわけではないのだ。むしろ、「仕事が遅い」「次はこれをしろ」と命令されることもある。
「乗船券を偽造したあなたはまだマシ。私は文字どおりこの船に潜り込んだノ。港に停泊して、乗員たちがかわいい子たちのところへ出払っている隙にネ」
自嘲するように登紀子は言った。
「どのくらい隠れおおせたの?」
「せいぜい一週間ってとコ。雨の日は甲板の陰にいて、晴れの日は船底の隙間でネズミたちと仲よくしてタ。これだけ重装備だからって油断してたけど、あいつらの持っている菌ってものすごいノ。当然、発熱したワ。ネズミの運ぶ何とかってウイルス。致死性のものではないけど、かなりきつかっタ。この倉庫で動けなくなっているところを見つかって、そのままここが住まいになっタ。薬ももらえなかったワ。おかげで動けるようになったのは最近ヨ」
登紀子は雨水を飲み、乗員たちの食べ残しをくすねることで生き延びてきた。散らかさなければ、ごみ捨て場を漁ることは黙認されていたのだ。しかしここ最近、気温が上昇するにしたがって食中毒の危険性が増した。脱水症状でも起こせば、いよいよ命取りになる。
空腹を抱えているのはトーニャも同じだった。彼女が偽造できたのは乗船券だけ。金はなく、もちろん偽札も用意していない。乗員のいかにも軽そうな男に声を掛けおごってもらい、それ以外は水を飲んで飢えをしのいだ。「違法乗船者」のレッテルを貼られた今となってはそれもできなくなるのだ。
倉庫の中で眠り、目覚め、残飯を漁り、雨水を空きビンに溜め、空いた時間に食糧庫の南京錠をいじるのが二人の日課になった。トーニャはシリンダー構造にこそ詳しかったが、知っていることと開錠できることには天と地ほどの開きがある。二人のいる倉庫の隣は第二食糧庫だ。いわば非常時のための長期保存食が収納されていて、滅多に人は訪れてこない。頬の落ちるような食材はすべて第一食糧庫にあり、キッチンの隣で厳重に管理されている――鍵は機関長とマイケル坊やしか持っていない。それらに舌鼓を打てるのは、公式の乗組員と、乗客のうち一部の富裕層に限られている。
(見てろよくそったれ。あんたたちがステーキやらポテトやらまっずいものを食べている間に、私たちはここを開けて、パサパサのおいしい芋で満腹になってやるんだから)
どのくらい経っただろうか。
それはたった一週間かもしれず、もしかしたら数か月だったかもしれない。いまだに南京錠は開かれていなかった。
二人の体には、明らかに栄養失調の症状が現れていた。ガサガサにひび割れた唇を開け、トーニャは寝転がったまま浅い呼吸を繰り返している。登紀子はとっくの昔にガスマスクと防護服を脱ぎ去っていて、トーニャと同じタンクトップ姿で座り込んでいた。
(どうせネズミと一緒に寝て病気をうつされた。知らないおっさんの唾液がついたパンを頬張った。光化学スモッグにやられた雨水を飲み込んだ)
登紀子は汗と埃にまみれていたが――倉庫の床は埃や煤で一面黒かった――、誰もが振り返る美貌は失われていなかった。それを活用すれば生き延びられることも分かっていたが、ここで野垂れ死んだとしてもそうするつもりはなかった。
「まだ陸に着かないのかしらね――あんた本当に美人ね」
脈絡なくトーニャがつぶやく。彼女は半ば脱水症状を引き起こしていて、嘔吐する以外の時間はずっとぼんやりしていた。
「ありがとう。いっそこの船が座礁でもしてくれればいいのに。ここから出られるならどの国だっていいわ」
登紀子はぶるぶると震える手で南京錠をつかんだ。挿し込んだままの針金を左右にねじる。それは惰性とも言える動きで、開けようという思いはもうすでに潰えていた。
「シリンダー式なのよ。シリンダー。内側の筒と外側の筒を合わせるの。内側。外側。シリンダーなのよ」
トーニャのつぶやく声は、うわ言の様相を示してきた。
床に投げ出されたガスマスクが、無表情に彼女たちを見ている。気付けば、登紀子も同じことをつぶやいていた。
「シリンダー。内側と外側を合わせる」
がちゃりと音が響き、南京錠が抜けたのはその時だった。
がちゃりと音が響き、南京錠が外れた。トッコはそれを取り上げる。
彼女がピッキングに集中している間、とりとめもなく過去の記憶が蘇ってきた。
(切り替えが必要ね。問題は、中学生たちがいるかどうかよ)
南京錠を無造作に投げ捨て、扉の取っ手をつかむ。と、ここで彼女に一抹の迷いが生じた。
(もし、ここに中学生たちがいなかったら?)
あらゆる可能性が脳内を駆け巡った。
(ほかの場所を探せばいい。そんなことは分かってる。そうじゃなくて、もし屋上に感染者がいたら――)
感染者に雨どいを這いあがる知能は残っていない。屋外の階段でもない以上、可能性は低いと言える。
(第一棟と屋上がつながっていたら? そこからやつらが侵入してきていたら?)
一度疑念が生じると、「可能性」は堰を切ったようにあふれ出した。トッコは自らを落ち着けるように、深く、長く呼吸する。それはガスマスクの中で、ふしゅうううううぅぅぅ、しゅこぉぉぉぉぉ、と音を立てた。
(倉庫を思い出すの。あれ以上の悪夢はもうない)
トッコは勢いよく
(倉庫)
屋上への扉を開け放った。
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