第2話 沸き上がる嫌悪感

 次、尾形おがたさんが来られたのは金曜日だった。来店の時にはすでに高牧たかまきさんと雪子ゆきこさんがカウンタ席でくつろいでおられる。今回は3人のご友人をともなっている尾形さんは、おふたりにぺこりと頭を下げた。


 小上がりを見て、空いていることを確認しつつも、「いらっしゃいませ」と出迎えた茉莉奈まりなに訊いて来る。


「小上がり空いてる?」


「はい、空いていますよ。どうぞ」


「ありがとう」


 尾形さんは笑顔のまま真っ直ぐに小上がりに進む。真っ先に手前の左側、いつもの席に着いた。お友だちの3人も上がった順に奥から掛けて行く。


 茉莉奈はおしぼりを人数分、小上がりにお持ちする。この時期は温かいおしぼりだ。枚数もおひとり1枚である。


「注文ええかな」


「はい。どうぞ」


「俺、生ビール」


 尾形さんが言うと、お友だちも全員「俺も」「俺も」「僕も」と生ビールを頼まれた。


「食いもんは後で」


「はい。まずは生ビールお持ちしますね」


 茉莉奈は飲み物カウンタで素早く生ビールを作ると、両手にジョッキを2客ずつ器用に持って、小上がりへ。


「お待たせしました。生ビールです」


 茉莉奈がジョッキをテーブルに置こうとすると、尾形さんが手を伸ばして来た。茉莉奈は一瞬びくりとなって動きを止める。


 頭が目まぐるしく動く。このまま尾形さんにジョッキを手渡しすれば、また手が触れるのでは無いだろうか。できたらそれは避けたい。どうしたら。


 しかしそんな悠長なことをしている隙は無かった。尾形さんの手がジョッキに触れた。

 そして、茉莉奈の手にも。


 一瞬にして茉莉奈の身体がぞわりと総毛立った。そのまま固まってしまった茉莉奈の手からジョッキを取り、尾形さんはお友だちそれぞれの前に「はいよ」と置いた。


 全身の血液がすぅっと足元に落ちた気がした。茉莉奈はジョッキの取っ手を持っていた。受け取るのなら本体を持つだろうから、手に触れなくても取れるはずだ。こう何度もあってしまえば、やはり偶然では無いのだろうか。


「茉莉奈ちゃん?」


 尾形さんに言われて茉莉奈ははっと我に返った。すると手に何やら感触があったので見下ろしてみると、尾形さんの指先が触れていた。茉莉奈はぞわりと気味の悪さを感じ、とっさに振り払った。


「……あ」


 嫌だろうがなんだろうが、お客さまに失礼をしてしまった。茉莉奈は慌てて頭を深く下げた。


「も、申し訳ありません!」


 すると尾形さんは気にした風も無く、「大丈夫やで」と、今度は茉莉奈の二の腕をとんとんと軽く叩いた。


「本当に、申し訳ありません」


 茉莉奈はもう一度頭を下げると、そそくさとその場を離れた。そのまま厨房ちゅうぼうに入り、しゃがみこんで身体を丸め、ひざに顔を埋める。身体が小さく震えるのが判った。怖い、気持ち悪い、そんな感情が渦巻いてしまう。


「茉莉奈、なんや聞こえたけど、どないしたん」


 香澄かすみが手を動かしながら、茉莉奈の行動に驚いた声を上げる。


「……ママ、ごめん。お客さまに、尾形さんに失礼なことをしてしもうた」


 蚊の泣く様な声しか出なかった。情けなさに自分が嫌になる。


 茉莉奈が嫌悪感を感じても、相手は「はなむら」のお客さまなのだ。茉莉奈の都合で嫌な思いをさせてはならない。下手をしたら「はなむら」の評判を下げることになってしまう。大事な大事な香澄の「はなむら」。そんなことだけはあってはならない。


「尾形さんは何て?」


「大丈夫やって言ってくれはったけど……」


「あんたは謝ったん?」


「うん」


「せやったら大丈夫や。あんまり気にんだらあかんよ。私からも手が空いたらお詫びしとくから」


「ほんまにごめん」


「気にせんでええから。少し休んだら仕事に戻れる?」


「……うん」


 切り替えなくては。まだ「はなむら」は開店したばかりだ。それに今日は週末の金曜日。これからますます忙しくなる。


 気にしなかったら良い。尾形さんがわざと触れて来ようが、ただの偶然であろうが、どんと構えていれば良いのだ。こんなことで心を揺らしている場合では無い。


 茉莉奈は気合いを入れる様に、ほほをぱんぱんと両手で叩いて立ち上がり、フロアに出た。


「茉莉奈ちゃん、大丈夫かの?」


 高牧さんがいたわる様に声を掛けてくれ、雪子さんも心配そうな表情を浮かべている。ああ、ご常連に不快な思いをさせてしまった。茉莉奈は自分の未熟さに頭を抱えたくなる。それを振り払う様に努めて笑顔を浮かべた。


「はい。大丈夫です。お騒がせしてしもうてごめんなさい」


 唯一の幸いは、お客さまの少ない、それもご常連ばかりの時間帯だったことだろうか。


「それやったらええけど、困ったこととかあったら正直に言うんやで。わしらで良かったら聞くからのう」


「そうやで、茉莉奈ちゃん。いらん我慢とかしたらあかんよ」


 そう優しく言っていただき、茉莉奈はじんと目頭と熱くする。ああ、自分はなんて素敵な人たちに、ご常連に恵まれているのだろうか。


 さっきまではかすかに恐怖すら感じていたと言うのに、もう心が暖かいものに包まれている。じわりと全身に血液が戻って来た様な感覚を覚えた。冷えていた指先にも温度が戻って来る。


「高牧さん、雪子さん、ほんまにありがとうございます」


 茉莉奈は今度こそ自然な笑みを浮かべることができた。おふたりの穏やかな笑顔は、茉莉奈を心の底から安心させてくれた。


「うんうん。ほなさっそくで悪いねんけど、菊水きくすいの、そうやなぁ、四段仕込よんだんじこみもらおうかの」


「私は白玉しらたまつゆのお湯割りをよろしくねぇ」


「はい。お待ちください」


 「菊水の四段仕込」は、新潟県の菊水酒造がかもす日本酒だ。菊水を冠する日本酒を数種造っており、四段仕込は甘口とされているものである。


 甘口とは言うがさらっといただくことができ、その風味は柔らかだ。だがキレの良さも感じさせる日本酒である。


 ちなみに「はなむら」では「菊水の辛口」のご用意もある。その名の通り辛口の、菊水を代表する一品でもある。


 そして「白玉の露」は、鹿児島県の白玉醸造が醸す芋焼酎である。あのプレミア芋焼酎「魔王まおう」を生み出した酒造会社としても有名だ。


 さつまいもコガネセンガンと白こうじを使い、まろやかさとキレの良さを兼ね備えた飲み心地を持つ。白玉醸造のスタンダードと言われる芋焼酎だが、だからこそ様々な飲み方で楽しむことができる。雪子さんお気に入りのお湯割りでもロックでも、美味しくいただけるのだ。


 茉莉奈は飲み物カウンタでいそいそと飲み物を作り、「お待たせしました〜」と笑顔でお運びした。

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