4章 決め付けられた気持ち
第1話 まさかという思い
11月に差し掛かり、冷たい風が吹く様になって来た。外を歩けば厚いコートやダウンジャケットを着込む人が見え始める。
お昼間の太陽が射す時間帯はまだ暖かさもあるが、朝晩はすっかりと冷え込む様になった。
長居植物園ではバラとダリアが見事に咲き誇り、先日茉莉奈と香澄の心を癒してくれた。今はライフガーデンのコスモス畑も見頃だ。畑の中にいると、まるでファンタジーの世界である。
寒くなれば魚介類も美味しいものがたくさん出て来る。お野菜の旬も移り変わる。また様々なものを「はなむら」のお客さまに楽しんでいただきたい。
今日魚屋さんが届けてくれた発泡スチロール製のトロ箱を開けると、立派な
今や天然鯛は希少で、出回っているものの多くは養殖物だ。この真鯛も養殖物だろう。良く見ると尾びれの先が丸い。養殖真鯛の特徴である。
だががっかりするところでは無い。今では養殖の技術も上がり、天然ものと
養殖鯛は通年流通しているので、天然の旬に合わせる必要は無いと言える。だが「はなむら」では、やはりその時季のものを大事にしたいと思うのだ。
「うわぁ、凄い。ママ、鯛やで」
その迫力に
「ほんまに立派な真鯛やねぇ。これは真鯛のお刺身が今日の目玉やろか」
「煮付けはせえへんの? ごぼうと合わせようや」
「そうやねぇ、ごぼうも旬やもんね。土の香りが良うて、みずみずしくて。頭も美味しいかぶと煮になるし。じゃあ頭の方をお刺身用のさくにして、尾っぽの方を煮付けにしようか」
「ええね! じゃあ霜降り用のお湯沸かすね」
茉莉奈は言いながら、大きな鍋を取り出した。
「あ、真鯛がある。もう冬やもんなぁ」
日替わりのおしながきを見て、ご常連の
尾形さんは1年ほど前に来られる様になった、歳若いご常連だ。茉莉奈よりは数歳上だろう。いつもスーツ姿なので、会社員なのだと推察する。
お話を聞いたところ、どうやら
尾形さんはいつも同性のお友だちと来店され、お気に入りの席は小上がりだ。予約は入れないのだが、いつも早い時間に来られるので空いていることが多い。今日も無事小上がりにご案内できた。
「かぶと煮ある?」
「ありますよ」
「でも刺身も捨てがたいなぁ〜。お前らどっちがええ?」
今日はお友だちをふたり
「3人おるんやし、両方頼もうや。それでもいろいろ頼めるやろ」
「そっか、そやな。茉莉奈ちゃん、両方頼むわ」
「はい。お待ちくださいね」
尾形さんたちは他にもいろいろご注文され、それには茉莉奈特製おしながきも含まれる。尾形さんもいつも注文くださるのだ。茉莉奈は書き留めた伝票を千切って厨房に入った。
「ママ、ご注文。真鯛のかぶと煮、私がやるわ」
「じゃあお願いしようか」
茉莉奈は小振りな雪平鍋に真鯛のかぶと煮とごぼうと煮汁を一人前移し、弱火に掛ける。その間に一緒に注文いただいたポテトサラダを中鉢に盛り付け、先にお持ちする。
「はなむら」のポテトサラダは具沢山で、人気おしながきのひとつだ。
皮付きのまま
じゃがいもには熱いうちにバターとお塩を溶かし、隠し味にお酢も入れて酸味を飛ばす。粗熱が取れたら具材を混ぜ込んで、マヨネーズと少量の牛乳、白こしょうで味を整える。
お酢と牛乳を入れることで、マヨネーズの重さは取り払われ、だが濃厚なコクは生かされる。柔らかな辛さの白こしょうがほのかなアクセントになり、ぐっと風味が良くなるのだ。
また様々な具材が味わいや食感を生み出し、満足感のある一品に仕上がっている。
「はなむら」では旬の食材を使うことを心掛けているが、ポテトサラダやマカロニサラダに関してはそれを破っている。冬場のきゅうりなどは細かったりするのだが、やはり外せない食材だし、玉ねぎも春の新玉ねぎは水分が多すぎて作り置きに向かないので、通年出回る玉ねぎを使っている。
今日はするめいかと
皮を引いた真っ白なするめいかは、じんわりと火が入ると少し縮んで来る。そこに白ワインを入れてアルコールを飛ばし、酸味が飛んでとろみが付くまで煮詰めてやる。
白ワインは旨みの他に、いかの臭み取りを兼ねている。朝
するめいかに程よく火が通ると、お塩とこしょうで味を整え、すでに火が通っている銀杏を入れてさっと混ぜてできあがりだ。
この時季には生の銀杏が手に入るが、「はなむら」では薄皮まで剥かれた新ものの水煮銀杏を入荷している。
生の銀杏の下処理は大変で、家庭で少しいただくぐらいならそう苦も無いが、お店で出す量となるとそうもいかない。今は封筒を使って電子レンジで加熱する方法もあって、それは確かにお手軽なのだが、ひとつひとつ薄皮を剥くのが
その銀杏、たくさん食べると銀杏中毒を起こす可能性がある。なので1人前に使う個数は7個だ。ずいぶんと寂しい気もするが、中毒と天秤に掛けるまでも無い。
ペペロンチーノの味付けが強いと思われるだろうが、旬のするめいかや銀杏の味の濃さはそれに負けない。オリーブオイルの香りとにんにくのコク、鷹の爪のぴりっとしたほのかな辛さが、するめいかの甘みと銀杏の独特の風味を引き立てるのだ。
ペペロンチーノが仕上がるころには、真鯛のかぶと煮も温まっている。茉莉奈はペペロンチーノを手早く薄茶色の器に盛り付ける。かぶと煮は少し深さのある、白地に赤い縁取りがされている鉢に移し、ごぼうと、茹でてあく抜きをしたほうれん草を彩りに添えた。
煮魚に良く入っているごぼうは、ただ味としての添え物では無い。一緒に煮込むと魚の臭みを取ってくれる。霜降りもしてあるので、ふたつの効果で旨みだけがぎゅっと詰まった煮魚になるのだ。
ごぼうは表面をたわしで軽くこする程度で、皮をほとんど残している。皮に栄養が詰まっているので、汚れである土を取るだけで充分だ。
真鯛は身と頭と一緒にあらも煮付けた。煮汁はお水を使わずたっぷりの日本酒とみりん、薄口醤油で味を整えていて、柔らかな優しい甘辛さだ。
まさに骨の髄から出た旨みが煮汁に溶け出し、それが身と頭に染み渡る。じっくりと煮付けた可食部はふわふわになり、口の中でほろっと崩れるのだ。
真鯛の煮付けとペペロンチーノを手に小上がりへと向かう。
「お待たせしましたー。真鯛の煮付けと、するめいかと銀杏のペペロンチーノです」
先に運んだポテトサラダの器はすでに空になっていて、香澄が切り付けた真鯛のお刺身が食べ掛けになっていた。手前向かって左手に座る尾形さんが手を伸ばしてくれたので、茉莉奈は2品を尾形さんにお渡しし、空の器を引き上げた。
尾形さんが来られるのは、特に決まった曜日などは無く、週によっては火曜日と木曜日だったりする。だいたい週に2回ぐらい来られるので、
そして来られるたびにご一緒のお友だちは、茉莉奈が見たところ、12、3人ほどがおられる様で、その時々でふたりか3人が同行されている。
そんな尾形さんだが、「はなむら」に来られる様になった時はおひとりさまだった。カウンタ席を使われていて、それで茉莉奈や香澄と話をする様になったのだ。
お友だちと来られる様になってからは会話の機会も減ったが、大切なお客さまであることに変わりは無い。話しかけていただければきちんと対応する。だがほとんどはお友だちとお話が弾んでいて、その隙はあまり無い。
そんな尾形さんだが、茉莉奈は気になることがあった。
ここ最近、ご注文の料理や飲み物をお運びする時、いつも手前に座っている尾形さんが直接受け取ってくださるのだが、その度に手同士が当たるのだ。
それがたまになら、偶然だ、たまたまだと無視することができるのだが、来られた時に最低でも1回は起こるのである。触れると言っても本当に少し、指先程度だ。
他のお客さまにも直接お渡しすることはあるが、その様なことが起こることはほとんど無かった。茉莉奈も他の店でそうすることがあるが、無意識に触れない様に受け取るので、ほとんどの人がそうするのだと思う。
だがまさか尾形さんが、「はなむら」のご常連が、そんな通りすがりの痴漢の様なことをするはずが無い。
大丈夫、大丈夫。茉莉奈はそう自分に言い聞かせ、胸に入り込んで来たもやもやを打ち消す様にきゅっと目を閉じた。
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