第7話 家族のだんらん
1週間が経ち、また金曜日がやって来た。9月も終盤になり、だいぶん秋の気配が見えて来た様な気がする。相変わらず湿度は高めを保っているのだが、少しずつ涼しさが顔を出して来ただろうか。
陽が落ちれば気温も下がる様になって来て、幾分過ごしやすくなって来た。
金曜日は
案の定、雪子さんはいつもの口開けごろには姿を見せなかった。代わりでは無いが、やはりいつもその時間に現れる
ところが18時になるころ、店の電話が鳴った。
「はい、「小料理屋 はなむら」でございます」
お相手が聞き取りやすい様に、落ち着いた声で出る。すると掛けて来たのは雪子さんだった。
「茉莉奈ちゃん急でごめんやで。19時ごろに4人、行けるやろか。カウンタでもええんやけど」
茉莉奈は考えるより前に店内を見渡し、席を確認する。幸いにもまだ小上がりが空いていた。
「小上がりやったら大丈夫ですよ」
言うと、雪子さんは「ああ、良かったわぁ」と
「ほな申し訳無いけど、よろしゅう頼むわね」
「はい。お待ちしてますね」
通話を切り、茉莉奈は『予約席』のプレートを小上がりに置いて、
「ん、分かった。雪子さんが4人で来られるっちゅうことは、もしかしたらご家族やろうか」
そうかも知れない。だとしたら世羅ちゃんの反抗期はどうなったのか。気になるところである。
その時引き戸が開いて、顔を出したのは
「尾形さん、いらっしゃいませ」
「こんばんは。小上がり行ける?」
「申し訳ありません。予約が入っておりまして」
茉莉奈が言って頭を下げると、尾形さんは「あー」と顔をしかめる。今はテーブル席も埋まっている。尾形さんはいつもご友人と一緒で、小上がりを希望されるのだ。
「カウンタでしたらご案内できますが」
尾形さんが伴って来たご友人はおふたりだった。カウンタが途中で直角に折れているので、そこだと3人でもお話していただけると思うのだが。
「ん、やったらカウンタでもええわ」
「ありがとうございます」
茉莉奈はほっとして、ご案内しつつカウンタの椅子を引いた。
19時近くなるころ、からからと小さな音を立てて引き戸が開かれる。
「いらっしゃいませ」
反射的に振り向いた茉莉奈の目に入ったのは、にこにこと笑顔の雪子さんだった。
「雪子さん、いらっしゃい」
「茉莉奈ちゃん、突然無理言うてごめんやで」
「とんでも無いですよ。どうぞ」
茉莉奈が小上がりを
世羅ちゃんがおられるということは、香澄の言う通り雪子さんの息子さんご家族なのだろう。
4人は小上がりに上がり、奥に雪子さんと女性、手前に世羅ちゃんと男性が腰を下ろした。さっそく飲み物のおしながきを眺めている。
茉莉奈はさっそく人数の倍のおしぼりをお持ちした。
「あら、ひとり2枚?」
小さく驚く女性に、雪子さんが「1枚はね」と説明をする。
「へぇ、嬉しい気遣いやね。助かるわ」
女性はさっそく気持ち良さそうに首筋を拭った。雪子さんと世羅ちゃんも汗を拭い、男性も
「お飲物どうしましょう。少し後でお伺いしましょうか?」
「そうやね」
「では決まったらお呼びください」
茉莉奈が小上がりを離れると、カウンタの高牧さんからお声が掛かる。行くと手には空のビールジョッキが握られていた。
「
「
「はい。お待ちくださいね」
茉莉奈は飲み物カウンタでぽってりとしたグラスを出し、越乃寒梅灑を注ぐ。とくとくと透明感のある液体が満たされ、ふわりと独特の甘い香りが上がる。
冷酒は
茉莉奈はつい顔を綻ばす。成人を迎えて4年、茉莉奈もそれなりにお酒を
「はーい、お待たせしました」
高牧さんに越乃寒梅灑をお運びすると、高牧さんは礼を言い、「茉莉奈ちゃん」とそっと声を潜める。
「あれ、雪子さんの息子さん家族やろ?」
「きっと」
「良かったなぁ。世羅ちゃん嬉しそうや」
視線を動かすと、世羅ちゃんの横顔は笑っていた。楽しそうに横の男性とメニューを見ている。
「そうですね。ほんまに」
反抗期は終わったのだろうか。だとしたら結構短期間だっただろう。だが反抗期の期間は人それぞれだから、早くてもきっとおかしく無いのだ。
世羅ちゃんがまたご家族と笑って楽しめる様になったのなら、それが何よりだ。
すると小上がりの女性、おそらくお嫁さんのさつきさんが「すいませーん」と
「はーい!」
茉莉奈も負けず劣らず元気な声で返事をした。小上がりに向かい、置いてあった伝票を持ち上げる。
「お決まりですか?」
「私、
「
「私は生ビールで」
「僕は酎ハイのカルピスください」
「私はコーラください」
息子さんは甘党なのだろうか。炭酸好きの世羅ちゃんもきっと甘党だろうから、味覚はお父さん似なのかも知れない。
「はい。お待ちくださいね」
茉莉奈は手早く伝票にご注文の品を書き、その欄を
お湯割り用の陶器製カップに佐藤のお湯割りを作り、最後に泡が生命の生ビールを作る。
「キンミヤ焼酎」は正式名称を「
全てをトレイに乗せ、速やかに小上がりにお運びした。
「お待たせしました。佐藤黒のお湯割り、酎ハイカルピス、生ビール、コカ・コーラです」
手早くそれぞれの前に置くと、さっそく乾杯すると思いきや手にすることも無く、雪子さんが「茉莉奈ちゃん」と笑顔を向けて来る。
「気付いてるやろうけど、うちの息子の
雪子さんが紹介してくれたおふたりが、ぺこりと頭を下げた。
「
「湯ノ原の息子の克人です。ほんまにありがとうございました」
克人さんも言い、あらためて深く頭を下げてくださる。茉莉奈は慌てて両手を振った。
「
すると世羅ちゃんが「それがですねぇ」と苦笑いを浮かべる。
「先週ここでお話さしてもろうて、私も開き直ったろと思ったんです。私が反抗期になったところで家族は壊れへん、そう思うことができたんで。そしたら母が、お母さんが凄っごい好戦的になってて」
世羅ちゃんはさつきさんを見て、おかしそうに笑った。
「ほんまに
これはおそらく気が強いだろうおふたりで、世羅ちゃんがもう大学生だったからということもあって、他のご家族に当てはまるものでは無いのだろうが、それが道筋になったのなら何よりだと茉莉奈は思う。
もしかしたらなのだが、反抗期を迎えているお子さん相手には、親御さん特有の一種の上から目線では無く、同じ目線で接するのが良いのでは無いだろうか。反抗期を迎えた覚えが無く、親になったことすら無い茉莉奈の想像なのだが。
「
悠介さんは確か上のお子さん、お孫さんだった。男の子の反抗期とは、それはもう凄そうだ。
「良かったねぇ、世羅ちゃん。雪子さんもお父さまとお母さまも、ほんまに良かったです」
「ほんまに。最初はどうなることかと思ったけど、どうにか短期間で落ち着いてくれて良かったわ」
さつきさんが安心した様な顔をすると、正面で克人さんも「そうだねぇ」とのんびり頷いた。
「後で女将さんにも、えっと、高牧さんやっけ、いつもお義母さんがお世話になってるって言う常連さん、その方にもお礼がしたいんやけど」
「もうそんな、ほんま気にせんとってください。あ、でも高牧さんはカウンタの奥におられますよ。いつもゆっくりされてるんで、いつでもお声掛けしていただいて大丈夫かと。高牧さんも喜ばはると思いますよ」
「ほなさっそく」
さつきさんが腰を浮かすと、雪子さんが「まぁまぁ」となだめる。
「まずは乾杯しようや。せっかくの生ビールの泡が消えてしまうわ」
「あ、大変や」
さつきさんは座り直すと、生ビールのジョッキを掲げた。
「ほな、世羅の反抗期終了を祈って!」
「ちょ、お母さん、大きな声で言わんといて! 恥ずかしい!」
世羅ちゃんが真っ赤な顔で慌てるが、さつきさんはまったく気にすることも無く「かんぱーい!」と威勢の良い声を上げた。
「ふふ、乾杯」
「はは。乾杯」
「か、乾杯」
一家は軽くグラスを重ねると一口、いや、さつきさんに限ってはごっごっごっと喉を鳴らす。
「っはぁー! やっぱりビール美味しい!」
さつきさんが豪快に息を吐くと、克人さんが羨ましそうに目を細めた。
「とりあえず生って、やっぱりええなぁ。僕はビール苦手やもんなぁ」
「カツくんは甘党やもんな。世羅もやし。私の味方はお義母さんだけや」
「なんで敵対することになってんの」
そんな
雪子さんたちは様々な料理を頼まれ、どんどん平らげて行く。今日はご年配の雪子さんから若い世羅ちゃんまで一緒なので、さっぱりしたお惣菜から揚げ物までバラエティ豊かだ。もちろん茉莉奈特製おこんだてもご注文くださった。
今日は
バジルの葉と松の実、アンチョビとにんにくをすり鉢ですり潰し、オリーブオイルで伸ばして作ったバジルソースに、角切りにしたアボカドと海老を和える。
松の実の香ばしさとアンチョビの塩分、にんにくのコクがバジルの新鮮な爽やかさを生かしている。そこに森のバターとも言われるねっとりと濃厚なアボカドと、ぷりっと茹でて磯の甘さを蓄えた海老が加わるのだ。アボカドのしつこさが抑えられ、味わいもアップする。海老とバジルの相性も抜群である。
全てを混ぜるとアボカドの角が崩れてバジルソースに馴染む。それがソースにとろみを生み出し、海老やアボカドとしっかり絡むのだ。
「ほんまにどれも美味しいわねぇ」
「せやろ。私も先週ほんまにびっくりしたもん。お
「何言うてんの」
「それにここの味、お祖母ちゃんが作ってくれるご飯と似てへん?」
世羅ちゃんのせりふに、雪子さんが「あらまぁ」と目を丸くする。
「ここのお料理と、私の
「でも僕も、似てるっていうか、方向性が一緒なんかなぁって」
「確かに。お義母さんのご飯みたいに、こう、優しい味って言うか」
「そうそう。僕にとってはお袋の味なんやけどね」
「あら、ちゃうのよ」
雪子さんの言葉に、克人さんは「え?」とぽかんとする。
「お
「そうなん?」
「そう。お父さんが高血圧やったから、あんたのだけ小分けにして味足してね。洗いもん増えて面倒やったわぁ」
「それは、なんかごめん」
「でも今はもう身体にも薄味がええやろうし、ここに勤めてる時に
「うん。僕もその方が嬉しいわ」
「味覚が大人になったってことやね。でもビールは飲めんか」
「それは勘弁したって。会社の飲み会でも良うからかわれんねん」
湯ノ原さんご一家は、お家でもこうしてほのぼのとした掛け合いをしているのだろう。本当に仲の良いご家族で微笑ましい。茉莉奈はつい口角を上げてしまう。
そんなご家庭でも、反抗期は
だがきっと、それまでに築いた家族の絆というものが、それを乗り越えるために大切なものなのだ。きっとお子さんは悪態を吐きながら、苦しみながらも自分の親なら大丈夫だと甘えているのだ。
世羅ちゃんはご両親に嫌な思いをさせたり、嫌われたりすることで苦悩していたが、それは世羅ちゃんの優しさから来ていたものなのだと思う。
さつきさんに似て言いたいことを言う、そんな気の強さもあるのだろうが、それと心根の優しさは別物だ。
穏やかな雪子さんと克人さん、ちゃきちゃきのさつきさんに見守られ、これから世羅ちゃんは素敵な大人になって行くのだろう。
「茉莉奈さーん、追加お願いしまーす!」
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