第6話 世羅ちゃんの想い

 時刻が20時に差し掛かる。店内はまだ混み合っているのだが、早くに来店されたお客さまは席を立ち始め、カウンタに空きができて来た。


茉莉奈まりなちゃん」


「はーい」


 雪子ゆきこさんに声を掛けられ、茉莉奈は小上がりから引き上げたお皿を手に返事をする。


「カウンタに移ってもええやろか」


「ええですよ。どうぞ」


 茉莉奈が言うと、雪子さんと世羅せらちゃんは荷物と一緒に、まだ中身が入っている飲み物のグラスと取り皿、おはしを手にして立ち上がった。


「あ、そのまま置いておいてください。お運びしますから」


 だが雪子さんたちは「ええからええから」と、ご自分たちでカウンタに持って行ってしまった。


 テーブルに残されているのは、すっかり空になった器ばかり。おふたりはあれから追加で天ぷらの盛り合わせとだし巻き卵を頼まれていた。


 天ぷらの盛り合わせ、今日は海老を主役に、蓮根れんこんとかぼちゃ、お茄子なすにさやいんげんだった。


 茉莉奈は手早くそれらをかき集めて重ね、厨房ちゅうぼうのシンクに引き上げる。アルコールでテーブルを拭き上げて、片付けを終えた。


 カウンタの奥にはいつものごとく高牧たかまきさんが座られている。生ビールを2杯飲まれ、今は日本酒を頼まれている。今日は紀土きっど、純米大吟醸の冷酒だ。


 「紀土」は和歌山県の平和酒造がかもす日本酒である。この純米大吟醸はフルーティで柔らかな口当たりと綺麗な喉越しで、じっくりとふくよかな旨味が感じられるお酒だ。


 高牧さんが最初に頼まれた茉莉奈特製おしながきはとうに空になり、メインにえた鶏の照り焼きも食べ終え、今はパプリカとちくわの白和えを肴に紀土を楽しまれている。


 パプリカは彩り良く、赤と黄色を使っている。さいの目に切ったそれと輪切りにしたちくわをきんぴらにし、それをしっかりと水切りしてすり潰し、調味をした木綿豆腐と和えている。


 きんぴらは作り置いているが、木綿豆腐は水切りした状態で置いておいて、ご注文いただいてからマッシャーで潰して調味をする。なので水気が出ておらずフレッシュだ。


 具材のしっかりとした味付けと、豆腐に加えた白すりごまやお砂糖、お醤油などの味わいが調和し、柔らかで香ばしい一品になるのだ。


 その高牧さんのお隣がちょうど2席空いていたので、雪子さんと世羅ちゃんはそこに掛けた。真ん中が雪子さんだ。


「高牧さん、この子、孫の世羅ちゃん」


「こんばんは。湯ノ原ゆのはら世羅です」


 世羅ちゃんが礼儀正しく挨拶をすると、高牧さんも「これはこれは」と相貌そうぼうを崩して頭を下げる。


「高牧と言います。いつも雪子さん、お祖母ばあちゃんには話し相手になってもろうてます」


「いえ、こちらこそ」


 挨拶を終え、世羅ちゃんは正面を向き直ると、コカ・コーラを飲んだ。最初にジンジャーエールを頼んでいた世羅ちゃんは2杯目にスプライトを注文し、コカ・コーラは3杯目だ。どうやら炭酸がお好きな様だ。


「高牧さん香澄かすみちゃん、茉莉奈ちゃんも、この前は話聞いてくれてありがとうねぇ」


「あの、私のことで相談に乗ってもろうたって。ほんまにすいません」


 雪子さんが方々に頭を下げ、世羅ちゃんも恐縮して身体を縮こませた。


「いやいや、わしはお話を聞いただけや。なんもうまいこと言えんでのう」


 高牧さんが申し訳無さげに眦を下げる。


「いえ、私のことでお祖母ちゃんも困ってたやろうから、それだけで、ほんまに」


「私も雪子さんのお話聞くぐらいしかできんで。世羅ちゃんと話をした方がええって言うたんは茉莉奈やから」


 香澄が言うと、世羅ちゃんがすがる様な目を茉莉奈に向けた。茉莉奈は慌ててしまう。


「そんなん。私もそんなたいしたこと言うてへんよ。でも、あのね、世羅ちゃん」


 茉莉奈は居住まいを正すと、穏やかに口を開いた。


「私はね、反抗期があった記憶が無いんよ。せやから無かったんやと思う。それは多分、女将おかみが、ママが私を否定する様なことを言わへんかったからやと思う。甘やかしとかや無いんよ。まず私の話を聞いてくれて、間違っていても正面からあかんって言うんや無くて、言葉を選んでくれとったんやと思う」


「言葉を、選ぶ……」


 世羅ちゃんが呆然ぼうぜんとした様に呟く。


「うん。ほら、どうしても身内同士やと、他人にはできる気遣いが薄くなりがちやん? せやからついきつい口調になってしもうたりするやんね。しかったりする時はなおさらや。いつもは平気なそれが、今やとかんさわるっちゅうか、大きくなって響いてしまうんやろうね。もしかしたらなんやけど、世羅ちゃんってお母さんと似てへん?」


 それは先週、雪子さんがおっしゃっていたことでもある。


「似てる、と思います」


 世羅ちゃんが少し緊張した様に言うと、隣で雪子さんも「その通り」と言いたげに頷いている。


「せやから思ったこととかが似てて、ほとんどの人が反抗期になるころは大丈夫やったん違うやろか。でも世羅ちゃんも大学生になってしばらくして、中学や高校の時より世界が広がったやろ? 世の中にはいろんな考え方がある、価値観がある。それらを知って、自分の中にもともとあった価値観と自然と照らし合わせて、それがお母さんとはちょっとずれて来たんかも知れへんね」


 茉莉奈が言葉を切ったタイミングで、小上がりの尾形おがたさんからお呼びが掛かる。


「茉莉奈ちゃんすまん、生ビールふたつ頼むわ」


「あ、はーい」


 茉莉奈がカウンタを離れると、香澄が手を動かしながらゆったりと言葉を紡ぐ。


「せやねぇ。確かに反抗期って、大人になるに向けての自我の確立の入り口なんやろうなぁって思うんよ。ほら、どうしても赤ちゃんから子どもを育ててると、自分の思う様に育てようって思ってしまうと思うんよね。もちろん無意識やで。意識的にそうしてる親もおるやろうけどね。自分が叶えられんかった夢を子どもに叶えてもらおうとか、家業を継いでもらおうとか、そんなんもあるし。子どもって小さいころは親が全てやから、イヤイヤ期があってもそのことけろっと忘れて、親の言うことを聞いたりしてくれるんよ。茉莉奈もイヤイヤ期はあったからね。親の価値観イコール子どもの価値観、って言うんかなぁ、ある年齢まではそんなもんなんかも知れへんね。はい、揚げ出し豆腐お待たせしました」


 香澄はカウンタの別のお客さまに料理をお出しして、また話に戻る。


「でも、思春期っていうか、第二次性徴を迎えると、親と自分は違うって自然に分かるんやろうね。親の言うことだけが正解や無いって思うんや無いかなぁ。そのころは心と身体のバランスが不安定らしいのね。反抗期は心の成長も大きいんや無いやろうか。でもそれは親離れしようとしてるってことやとも思うんよ。大人に向かってるんやね。自分の個性とかそういうのを作るんやと思う」


「そうやねぇ。世羅ちゃんはもう大学生やけど、やっぱり私とか、克人かつととかさつきさんにとっては、まだ子どもやと思ってしまうから、無意識に自分の型にはめてしまおうとしてしまってるんかも知れんねぇ。反省やわ」


 雪子さんが苦笑すると、世羅ちゃんは「そんなん」と首を振る。


「私、お祖母ちゃんにそんなん思ったこと無いで。お父さんとお母さんには、まぁ、今はあれやけど」


 世羅ちゃんは気まずそうに言葉をにごすが、雪子さんには反抗心が起こらないことをはっきりと言う。


「せやから今日も、ここに連れて来てもろたんやし」


「そうやんね。世羅ちゃんがね、話するんやったら、克人とさつきさんがおらんところがええ言うてねぇ。それでここに来たんよ」


「私もお祖母ちゃんが毎週来るお店に興味があったから。そしたら飲み物種類多いし、お酒もたくさんありそうやし、ご飯も美味しいしで」


「それはありがとうございます」


 香澄が笑顔で小首を傾げると、世羅ちゃんが「へへ」とはにかんだ様な笑みを浮かべた。


「せやから、私が来年成人したら、初めてのお酒はここでいただきたいなぁって。家族みんなで来たいなぁって。でも」


 世羅ちゃんは浮かない表情になってしまう。


「私、それまでに反抗期終わってるやろうかって。こんなんになって、お父さんとお母さんに嫌われたらどうしようって。嫌な思いさせてるやろうからどうしようって。でもどうしても感情が制御せいぎょできひんで、私どうしようって」


 世羅ちゃんは震える声で言って目を伏せた。泣きたいのをこらえている様にも見える。


「私は絶対嫌われたりせぇへんって言うの。でも世羅ちゃんは心配でしょうが無いみたいでなぁ」


 雪子さんの手が世羅ちゃんの背をいたわる様に撫でる。すると香澄が「絶対に無い!」といささか強い言葉を投げた。


「ママ?」


 尾形さんに生ビールをお出しして、茉莉奈はカウンタに戻って来ていた。香澄の様子に驚いて目を見張る。世羅ちゃんも口をぽかんと開いた。


「親がそんなことで子どもを嫌いになるなんて、絶対に無いんやで。そりゃあ、私も茉莉奈のイヤイヤ期は大変やった。何を言うても何をしても「嫌ー!」って言われて泣かれてごねられて、ほんまにしんどかった。でも嫌いになんてなるわけがあれへんよ。むしろそうなると、もうそういうもんなんやって開き直るしか無いねん。今のこの子はそういう時期やからしゃあ無いんやって。もちろん凄い疲れる。でも世羅ちゃんはこれまでお父さんともお母さんとも仲良くやって来たんやろ?」


「はい……」


 世羅ちゃんが神妙な面持ちになると、香澄は「うん」と力強く頷く。


「せやからそんな心配せんでええ。雪子さんも、お父さんの反抗期の時には大変やったかも知れへん。でも嫌いになんてなれへんかったやろ?」


「当たり前やんそんなん。うちの場合はねぇ、克人は口ごたえとかや無くて、ひたすらに無視やった。話し掛けても何も応えてくれへんの。悲しかったわ。あのおとなしい克人でさえそうさせてしまうもんやのよ、反抗期って。せやから大丈夫。それにさつきさんのことやから、さっきの香澄ちゃんや無いけど、多分開き直ってはるわ。さつきさんがきも座ってるん、よう知ってるやろ? 世羅ちゃんの反抗期ぐらいで揺るがんよ。世羅ちゃんがふっかけて来るんやったら受けて立ったろぐらい思ってるて」


「確かに……お母さんならあり得そう」


 世羅ちゃんが小さくくすりと笑う。茉莉奈はゆったりと微笑んで言った。


「世羅ちゃんは、ほんまにええ子やねんね」


「え?」


 世羅ちゃんは間抜けな声を上げて、目を丸くする。


「だって、反抗期って、私は多分無かったから分かれへんけど、そんなお父さんとお母さんを気遣う余裕とか無いと思うんよ。でも世羅ちゃんはおふたりに嫌な思いさせるって心配してた。お父さんもお母さんもそんな世羅ちゃんを良う知ってはるやろうし、せやからきっと、今回のこともそう心配してはれへんよ。時間が経ったらまた元に戻る、って言うか、成長した世羅ちゃんで戻って来るって思ってはるん違うかなぁ」


「そうそう。さつきさんも最初こそは「どないしよ」て言うてやったけど、今はもう大丈夫。家庭内暴力やったらえらいことやけど、反抗期はたいがいの子に来るもんなんやから。それで家庭が壊れてしもうたら、もっと社会問題になってるわ。世羅ちゃんも思う様にならん感情でしんどいやろうけど、克人とさつきさんやったら受け止めてくれるって気持ちでおったらええねん。それも親の役目やねんから」


「うん……」


 茉莉奈と雪子さんの言葉に、今度こそ世羅ちゃんは安心したのか、ゆるりと表情をなごませた。茉莉奈はその可愛らしい笑顔を見て、ほっと胸を撫で下ろした。


 そしてそう言えば、と高牧さんを見る。すっかりと蚊帳かやの外になっていた高牧さんは、気まずそうな顔で紀土を傾けていた。


「高牧さん? どないしはったんです?」


 茉莉奈が訊くと、高牧さんは弱った様な顔で頭を掻いた。


「いやぁ、わしは子どもの反抗期で苦労したことなんかあれへんから。子育ては家内に任せっきりやったもんで。そんな大変な思いさせとったんやろかと思ったら、ちょっとのう」


「まぁ、高牧さんはそういう世代の人ですから〜」


 香澄がのんびり言うと、それが余計に心をえぐったのか、高牧さんは「面目めんぼく無い」と肩を落とした。

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