第3話 決定的なできごと
2日が経った日曜日。17時になり「はなむら」はいつもの様に開店する。口開けのお客さまは
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
高牧さんはいつもの通り、カウンタ席の1番奥に腰を下ろす。
「茉莉奈ちゃん、生ビールよろしくの」
「はーい。お待ちくださいね」
飲み物カウンタで生ビールを作り、高牧さんにお持ちする。
「ありがとう」
高牧さんはさっそくぐびりと口に含み、「ほぅ」と満足げに頬を緩ませた。また
その時、引き戸が開いた。
「いらっしゃい、ませ」
笑顔でお出迎えをと思ったが、来られたのは私服姿の
いけない。茉莉奈は瞬時に頭を切り替える。もしかしたら今日も触れられてしまうのかも知れない。けれども動揺しない様にしなくては。「はなむら」に悪印象を与えてしまってはいけない。
「こんばんは、茉莉奈ちゃん」
尾形さんは微笑を浮かべ、言いながら茉莉奈の肩に触れた。途端に茉莉奈の肌に鳥肌が立った。だが気取られない様に、茉莉奈も強張りながらも笑顔を貼り付ける。
「小上がり大丈夫?」
「はい。どうぞ」
今日お連れしていたお友だちはおふたりだった。尾形さんはいつもの手前の席に座り、お友だちはおふたりとも奥の席に腰を下ろした。
おしぼりをお持ちすると、その場で飲み物が注文される。尾形さんとお友だちおひとりは生ビール、もうおひとりは酎ハイレモンだった。
「はい。お待ちくださいね」
茉莉奈は飲み物カウンタで飲み物を作る。また尾形さんは手を伸ばして来られるのだろうか。そんな不安に襲われながら、茉莉奈は酎ハイレモンを作り、生ビールを注ぐ。
落ち着け、落ち着け。茉莉奈は自分にそう言い聞かせながら深呼吸をする。浅くだが、吸って、吐いてを繰り返していると、心が落ち着いて来た。
よし、と茉莉奈は心中で気合いを入れて、ジョッキとタンブラーを持ち上げた。
「お待たせしました〜」
茉莉奈は尾形さんから少し距離を取る。やはり尾形さんは手を伸ばして来た。茉莉奈の身体が一瞬固まりそうになるがそれを
用済みになった尾形さんの手が行き場を無くし、わずかに空を
触られずに済んだ……。茉莉奈はそう安堵し、ふいと尾形さんの顔に目線だけを向けてみた。すると尾形さんは
鬼の様に、とは言いすぎかも知れないが、顔をしかめ、
その時茉莉奈は確信する。やはり尾形さんはわざと茉莉奈に触れていたのだ。「はなむら」のご常連が、そんなセクハラじみたことをするはずが無いと思っていたのだが、それは茉莉奈の思い込みだった。
どのお店でもそうだが、ご常連となられるお客さまが全て良い人、真っ当な人とは限らない。お客さまとお店の店員は表面上のお付き合いであることが多い。
茉莉奈も尾形さんのことを詳しく知っているわけでは無い。尾形さんが「はなむら」で見せているのは尾形さんのほんの一面だ。別の顔があってもおかしく無い。
尾形さんが茉莉奈に触れる目的は判らない。だが尾形さんの対応をする時は要注意だと、茉莉奈は
尾形さんたちは作り置きの中鉢をいくつか注文されたので、茉莉奈は厨房に入り、料理を整える。尾形さんのご定番とも言えるポテトサラダ、それと白和えだ。今日の白和えはちくわと
金時人参は京人参とも呼ばれ、ブランド京野菜に指定されている。だが香川県での栽培が多くを占め、実は大阪でも育てられている。西洋人参よりも深い赤色が特徴だ。正月料理のなますやお煮しめでお馴染みの方も多いだろう。
旬は12月から翌年の1月で、11月の今は走りだ。なのでまだ少しお値段が張るのだが、この綺麗な赤をぜひ料理に使いたいと
中鉢ふたつをそれぞれ両手に持ち、小上がりにお運びする。
「お待たせしました。ポテトサラダと白和えです」
まずは右手のポテトサラダを座卓に置いた。その時。
左手に持っていた白和えの中鉢。それに手を伸ばした尾形さんは。
中鉢もろとも茉莉奈の手を甲まで包み込んだのだ。
瞬間、茉莉奈は恐怖に襲われる。ぞわっと全身が粟立ち、とっさにその手を振り払ってしまった。
「きゃ……っ!」
手にあった白和えが離れ、小さな放物線を描く。ああっ、と思った茉莉奈がそれに視線をやると、中鉢から白和えが飛び出す。もろとも床に落ち、がちゃんと派手な音を立てて中鉢が割れた。
店内がしんと静まり返り、茉莉奈も呆然と無残に散らかった白和えを見つめる。
「茉莉奈ちゃん」
その声で茉莉奈は我に返る。気づけば高牧さんが側にいて、
「あ、ご、ごめんなさい! すぐに片付けますから」
「手伝うで」
「いえ、とんでもありません。本当に申し訳ありません。高牧さんはお席でごゆっくりしててください」
茉莉奈は高牧さんにまず席に掛けていただき、慌てて掃除道具を取りに奥に駆ける。その時尾形さんの陽気なせりふが追い掛けて来た。
「まったくもう、茉莉奈ちゃんはどじっ子やねんから〜」
誰のせいで……! 茉莉奈は悪態を
もっと心を強く持たなければ。こんなことで
茉莉奈は掃除道具を
そして立ち上がった茉莉奈は方々に頭を下げた。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありません」
するとあちらこちらから「大丈夫やで」「気にせんといて」とお声が掛かる。茉莉奈は申し訳無さとありがたさで消え入りそうになった。
掃除道具を片付けようとまた奥に向かうと、厨房から香澄が「茉莉奈、大丈夫?」といたわし気な声が掛けられた。
茉莉奈は泣きそうになってしまう。自分の未熟さで香澄にまで心配を掛けてしまった。こんな時でも香澄なら巧くやり過ごすだろうに。人生経験の差もあるのだろうが、本当に情けなくて嫌になる。
「うん、大丈夫」
茉莉奈は応えるが、巧く笑えていただろうか。頬が
フロアからも厨房からも見えないそこで、茉莉奈は自らを抱き締める。そうすると自分が震えているのが分かる。
怖いと思った。気持ち悪いと思った。どうしてこんな目に
しかし考えても、過去を巡っても茉莉奈に心当たりは無かった。
香澄に相談しようか。しかしこんな私的なことで香澄を
少し触られるだけだ。こんなこと、きっと世間では良くあることなのだ。それを耐えている人も多いはずだ。世間知らずの自分が知らないだけなのだ。
そう、これは
茉莉奈は自分に強く言い聞かせる。深く深呼吸を繰り返すと、少しずつ震えが治って来た。そろそろ戻らなければ。香澄ひとりで店を回すのは大変なのだから。
両の指を見ると、まだ少し震えが残っている。だがこれぐらいなら大丈夫だ。働いているうちに落ち着くだろう。
まずは尾形さんにお詫びをしなければ。本心ではしたく無い。できることなら話したくも無い。だが茉莉奈が
フロアに戻った茉莉奈は小上がりに向かい、「尾形さん」と少し
「大変失礼いたしました」
茉莉奈は深く腰を折る。尾形さんはそんな茉莉奈を見て、「ええって」と
「気にせんでええから」
言いながら頭を下げる茉莉奈の肩を撫でた。そうされながら茉莉奈は強く唇を噛みしめる。
触るな、気持ち悪い、やめろ。
そんな拒絶の言葉が脳内を駆け巡るが、表に出すことはできない。頭を上げた茉莉奈は笑顔を浮かべる余裕も無く、その場を離れた。
これからも尾形さんが来店される度に続くのだろうか。そう思うとぞっとする。だがお客さまなのだから、「はなむら」として出迎えねばならないのだ。そう思うと茉莉奈は
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