第2話 虚ろな日々

 結果、茉莉奈まりな香澄かすみ佳正よしまさ亡骸なきがらには会えなかった。損傷が激しく、一般人に見せるには刺激が強すぎるとのことだった。


 安置室の前で茉莉奈も香澄も食い下がったが、対応してくれた制服の警察官は沈痛ちんつうの面持ちで、首を横に振るだけだった。


 顔も判別がつかないほどになってしまい、身元確認は社用車の使用者を佳正の会社に問い合わせたのだそう。


 となると、もしかしたら別人なのではと希望も出るが、佳正が乗っていたのは間違いが無いそうで、その望みも打ち砕かれた。


 事故死なのは間違いが無く、行政解剖なども行われない。警察署に訪れた葬儀会社の担当者が、お通夜までには少しでも遺体を綺麗に、せめて最後のお別れができる様にさせていただくからと、茉莉奈と香澄を元気付けてくれた。


 警察署の地下の薄暗い廊下には壁沿いに長ソファが置かれている。多分同じ事故に巻き込まれてしまったご遺族だろう、座って呆然とする人、肩を震わせて泣く人、ただただ下を向く人と様子は様々。だがそこには悲愴ひそうが色濃く満ち、茉莉奈もたまらない気持ちになった。


 佳正の遺体を見ていないからか、まだ茉莉奈は実感が無かった。本当にパパは死んでしまったのだろうか。ドアひとつ隔てた向こうにいるのは、本当にパパなのだろうか。


 香澄と葬儀会社との話の末、お通夜は翌日に行われることになった。それまでに茉莉奈たちがしなければいけないこともあるので、一旦家に帰った方が良いのだろう。


 だが茉莉奈も香澄もその場から離れがたく、時間ぎりぎりまでソファに掛けて、寄り添い合って過ごした。




 お通夜の前に、やっと遺体と対面できた。白木のひつぎに入れられた佳正の身体はぐるぐると白い包帯が巻かれ、あちらこちらにガーゼも貼り付けられている。


 損傷が激しい、警察官のその言葉は本当だった様だ。葬儀会社の人もここまでするのに苦心されたことだろう。


 目や頭は包帯で覆われ、口元がかろうじて露出していた。だがそれで充分だった。佳正には口の右側に大きな黒子ほくろがあって、それが特徴的だった。それがしっかりと見えたのだ。


 遺体を前にすれば、ああ、本当にパパは死んだんだ、と思い知らされる。そこでようやく涙が出て来た。


「ひぐっ」


 茉莉奈はしゃくりあげる。込み上げてくる声と涙が止まらない。


「ぐすっ、えぐっ」


 嗚咽おえつを繰り返す茉莉奈の肩を、同じく涙で顔を濡らす香澄が抱き締める。もうすぐお通夜だと言うのに、茉莉奈はそれを止められそうに無い。


「大丈夫。大丈夫やからね」


 香澄は細い声でそう繰り返した。茉莉奈に言っているのだが、自分に言い聞かせている様にも聞こえた。


 これからふたりで暮らして行かなければならないのだ。茉莉奈と香澄はこの絶望から逃れることができるのだろうか。悲しみを乗り越えることができるのだろうか。


 その時の茉莉奈は、そんなのとても無理、そう思った。




 それから、茉莉奈は学校に行けなくなった。正確には、家から出ることができなくなったのだ。


 まるでお通夜の前、佳正の遺体と対面した時から、時間が止まったかの様だった。


 自室のベッドにくるまって泣き続け、目を真っ赤にらし、疲れ果てて眠りに着く、そんな日々だった。


 香澄はそんな茉莉奈に一週間ほど付いていてくれたが、それからお昼になると外出する様になった。


 香澄は行き先を言わなかったので、どこに行っていたのか判らない。まさか遊びに行っているわけや無いやんね? と茉莉奈はいぶかしんだが、少し考えてみれば、就職活動なのかも知れないと思い至る。


 香澄は専業主婦だったので、佳正亡き今、香澄が働かなければ食べて行けない。茉莉奈はまだ中学生なのでアルバイトもできない。何より動く気力がまるで沸かなかった。


 それでもお腹が空くことに、茉莉奈は腹が立つ。


 事故の知らせを受けてお通夜、葬式と時を過ごし、それからしばらくは空腹を感じなければ、食欲も沸かなかった。多分体重も落ちたのでは無いだろうか。


 だがある日、気付けば茉莉奈のお腹がきゅうと鳴った。そこで「ああ、私、まだお腹が空くんや」とぼんやり感じ、何か食べられるものは無いかとのろのろとキッチンに向かった。


「あ、茉莉奈、何か食べる?」


 家事を終えたのだろう香澄は、リビングでノートパソコンを開いていた。茉莉奈に気付いて立ち上がる。


「……うん、何か私でも食べられそうなもん、あるやろか」


 茉莉奈は香澄に、しばらく食事はいらないと言い置いていた。食べられる気がしなかったからだ。


 時間は14時半。ランチには遅く、夕飯には早過ぎた。


「ちょっと待ってね。すぐに用意するからねぇ」


 そうして香澄が用意してくれたのは、卵と青ねぎの雑炊だった。量は控えめだ。ふわぁっと立つ湯気に混じるお出汁の香り。その優しさに茉莉奈の心がふわりと救われる。


「しばらくろくに食べてへんかったもんね。せやからお腹に優しいものをね」


「ありがとう……」


 香澄は茉莉奈がとろとろ匙を動かす様を、ダイニングテーブルの正面に掛けて見守ってくれる。


「茉莉奈、晩ご飯も食べれそう?」


 茉莉奈は「うん」と頷く。この雑炊が美味しいと感じるのなら、多分大丈夫だ。


「じゃあご飯ができたら呼ぶからね」


 茉莉奈はまた小さく「うん」と頷いた。




 ほとんど部屋から出ない茉莉奈だが、食事の時だけは香澄が呼びに来てくれるので、ぼさぼさの頭とだらしない部屋着のまま食卓に着く。


 その時の外見は、とても見られたものでは無かっただろう。髪はもちろん肌だって荒れていただろうし、目だって虚ろなのが分かる。動きだって緩慢になってしまって、身体がとんでも無く重くなった様に感じていた。


 自分はもしかしたらこのまま死んでしまうのでは無いだろうか。電気を消した部屋の中、ベッドに閉じこもりながらそんなことを考える。


 なのに茉莉奈の身体は、お腹は「もっと生きる!」と訴えるのだ。


 自分はこんなに生き汚かっただろうか。いや、自死を考えているわけでは無い。ただ生きる気力が無いだけで。


 身内をうしなうことで、こんな風になるなんて想像もしていなかった。茉莉奈は祖父母も健在で、まだ肉親を亡くしたことが無かったのだ。


 不謹慎だが、本来なら逝く順番は祖父母が先だったはずだ。なのに佳正はそれを追い越してしまった。


 そういえばあの時警察に駆け付けて来た父方の祖父母も、苦しげに泣き崩れていたっけ。茉莉奈には気遣う余裕も無かったが、香澄はいたわりを見せていた。


 灯りを点けず、カーテンを引いたままの部屋では時間も判らない。目を覚ました茉莉奈はのそりと起き上がる。勉強机に置いたデジタル時計を見ると18時だった。もうすぐ香澄が夕飯に呼びに来るだろう。


 カーテンを開けると、沈みかけた太陽が空をオレンジに染めていた。綺麗だな、自然とそう思った。


 勉強机に置きっぱなしにしていたスマートフォンを手に取ってみると、充電が切れていて電源が入らなかった。どうでも良いと、茉莉奈はスマートフォンを元の場所に戻す。


 するとドアがノックされた。


「茉莉奈、晩ご飯よ」


 香澄だ。茉莉奈は身体を引きずる様にして、ドアに向かう。そんな無為むいな日々を過ごしていた。

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