第3話 前を向いて
今にして思えば、そうでなければ茉莉奈が食べられないと
お出汁の効いた優しい味は、茉莉奈の痛んだ心をそっと包んでくれる。ご飯を美味しいと感じることすら腹立たしいと思いながらも、茉莉奈は出されたものをもそもそと口に運んだ。
今日はお味噌で仕立てたおうどんだった。お揚げに白菜に人参に椎茸と、お野菜もたっぷりと煮込まれている。くたくたの白菜が優しく茉莉奈を癒した。
そう言えば、食べている時だけは少しだけ、ほんの少しだけだが、茉莉奈は穏やかな心でいられた。そう思うことすら嫌だと思うのに、食欲と
ダイニングテーブルの正面で香澄も同じものを食べながら、「ねぇ、茉莉奈」とゆっくりと口を開く。
「ママね、小料理屋さんを開こうと思うねん」
小料理屋。小料理屋って確かお酒が飲めるお店だったか。
茉莉奈がのろのろと
「パパが亡くなってしもうたから、ママが働かなあかんねんけど、ママ、これまで料理の仕事しかしたことあれへんから。せやから最初はどっかのお店で
「……そうなんや」
「反対や無い? パパとの思い出が詰まったこの家、少し
茉莉奈はすぐに返事ができなかった。まだ感情が動かないのだ。確かにこの家で
「全部無くなるんや無いんやんね」
「うん。一階を店舗にするから、リビングの一部が無くなるやろうけど、二階はほぼそのままにするつもりやし、全部や無いよ」
「それやったらええよ」
投げやりな返事になってしまったが、今は考える気力が無かった。佳正との思い出が全て失われるわけでは無いのなら良いと、簡単に返事をした。
香澄は少しばかり苦笑を浮かべた。
「あのね、茉莉奈、パパが亡くなって辛いやんね。私もや。まだたったの一ヶ月やもんね」
一ヶ月。閉じこもりきりで日付の感覚が無くなっていたが、もう一ヶ月が経っていたのか。
「でも私ね、もう上を向かんとね、あかんかなぁて思うんよ。私もね、油断すると泣きそうになるねん。でも、茉莉奈も私も生きていかなあかん。きちんと食べて、寝て、できたら学校にも行って」
そこで香澄は「ん?」と目をきょろりとさせた。
「学校は、まぁええか。中学は義務教育やから、卒業はできるやろうし。そんな急がんでええよ。でもね、そろそろちゃんとした生活できる様にならんとね。茉莉奈もしんどいやろ」
「……ママは悲しく無いん?」
当たり前のことをつい聞いてしまう。ついさっき「辛い」と聞いたばかりなのに。だが香澄は穏やかに微笑んで言った。
「悲しいし寂しいし辛いよ。でもね、私はこれからパパの分も茉莉奈を大人にせんとあかんからね。立ち止まってる余裕は無いんよ。うーん、でもやっぱり茉莉奈には無理して欲しくは無いなぁ」
香澄はそう言って、また苦笑いをする。
「あかんわぁ、パパがおらんくなって、私が茉莉奈を甘やかしてもうてるねぇ」
茉莉奈はそんな香澄を見て、ゆっくりと首を横に振った。
そうだ。香澄にはたくさん叱られて来たが、それも全て親の愛ゆえだ。佳正が茉莉奈に甘かったのも、また愛だ。茉莉奈が可愛がられていた証拠だ。
そして茉莉奈が引きこもってしまってから、香澄は寄り添いながらも何も言わず見守っていてくれた。茉莉奈が自然に、いや、自力で起き上がるのを待っていてくれているのだ。
食べることを
今も無理をすることは無いと言ってくれている。どれだけ自分は甘やかされているのだろうか。そして自分はそれに甘んじていて良いのか。
駄目だ。このままではパパに顔向けができない。まだたったの一ヶ月。だがもうこんな生活は終わりにしなければ。学校にもちゃんと行こう。来年は受験だ。遅れも取り戻さなければ。
茉莉奈はお
茉莉奈は自分を取り巻く様々な負の感情を吹き飛ばす様に、濡れた犬がごとくぶるぶるぶると首を振った。
「茉莉奈……」
香澄が呆気にとられている。茉莉奈はそんな香澄に「うん」と大きく頷いた。
「そうやんな。私、いつまでもこもってたらあかんよね。もっとしゃっきりせんと」
茉莉奈には分かる。久しぶりに茉莉奈の身体に力が沸いていた。
このままではいけないことは茉莉奈にも解っていた。だが抜け出すきっかけが見付からなかった。もちろん悲しみが癒えたわけでは無い。だが生きているものが死んでいてどうする。
これからも踏ん張っていかなければならない。しっかりと立って歩かなければならないのだ。
「私、明日からは学校も行くわ。もう大丈夫、とはさすがに言えんけど、大丈夫にしていかんとな」
「茉莉奈」
香澄がほっとした様に表情を崩す。やはり負担と心配を掛けてしまっていたのだと、茉莉奈はいたたまれなくなってしまう。だがここは明るく行くところだと、茉莉奈は笑顔を浮かべた。
「今やったら鶏の唐揚げとかも食べられそうや」
「あらまぁ。でも今は胃が弱ってるやろうから、揚げ物はやめとき。でもそうやなぁ、ちょっと待っててくれる?」
「うん」
香澄は立ち上がるとキッチンに入る。キッチンはダイニングから独立していて、カウンタで繋がっている。
茉莉奈の位置からは見えないのだが、香澄は何やら作っている様だ。包丁を使う音や、電子レンジが仕上げを知らせる電子音などがする。
ああ、こんな音を聞くのも久しぶりだな、と茉莉奈は目を細める。佳正が生きていた時の休日などは、ふたりしてダイニングテーブルでキッチンから漏れる音を聞きながら、「今日の晩ご飯は何やろうね」なんて話をして心を
それを思い出すと、また涙が溢れそうになる。だがもう終わりにしなければ。良い思い出なのだから、余裕で微笑んで見せよう。
急に心を切り替えるのは難しい。だが、月並みな言葉なのかも知れないが、こんなままではきっと佳正も喜ばない。
やがて、香澄がカウンタにスプーンを添えた深さのある器と、とんすいをふたつ置いた。ほかほかと湯気が上がっている。
「はい、できたよ」
茉莉奈は立ち上がり、器ととんすいをテーブルに移す。中には黄色い卵を使ったお料理がこんもりと盛り付けられていた。青ねぎの小口切りも使われている。優しいお出汁の香りがふわりと漂った。
「これは?」
キッチンから戻って来た香澄に聞くと、香澄は「ふふ」と笑みを浮かべる。
「親子煮やで。鶏肉と卵。玉ねぎも入ってる。ご飯の上に乗せたら親子丼になるね」
そう言いながら香澄はふたつのとんすいに親子煮を取り分け、ひとつを茉莉奈の前に置いてくれた。卵の柔らかな黄色から、しんなりした透明感のある玉ねぎが顔を出し、そぎ切りにされた鶏肉をまとっている。青ねぎの緑が目に鮮やかだ。
「冷凍庫にあった鶏肉で簡単にね。もも肉やねんけど、皮は剥がしてあるから、茉莉奈のお腹でも食べられると思うわ」
「……うん」
久しぶりに出されたお肉だった。胃がびっくりしないだろうか。茉莉奈は恐る恐るとんすいを持ち上げる。
鶏肉をお箸で持ち上げると、ぽってりと半熟の卵が付いて来る。鶏肉は薄く小さく切られていたので、茉莉奈はこれならと、そっと口に運んだ。
「時間が無かったから
……悪いどころでは無い。美味しい。とても美味しい。お出汁がしっかりと効いて、優しい味。心の底から癒される味。
鶏肉を薄く切ったのは、茉莉奈が食べやすい様にというのもあるのだろうが、短時間で柔らかく煮える様にという意味もあったのだろう。弾力はあるものの、柔らかく歯が沈む。
ふんわりとろりと仕上がった卵も絶妙だった。とろっとした玉ねぎの甘みも加わり、
香澄の思い、
茉莉奈の目からぽろりと雫が落ちる。これは悲しみの涙では無い。立ち上がった祝福の涙だ。
完全に立ち直れたわけでは無い。だが前を向いて歩ける。茉莉奈はそれを確信していた。
「泣くんはこれで最後。もうパパのことで泣くのはやめる。明日から、また元気な茉莉奈ちゃんになるから」
「泣いてもええんよ。無理に止めたらあかんもんやとママは思う。でもね、たっぷりお日さま浴びて、動いて、美味しいもん食べて、ぐっすり寝て。そうせんとほんまの意味で立ち直られへんから。それは分かってて欲しい」
「うん。もう大丈夫」
茉莉奈は笑顔を作ると、そっとお箸を置き、テーブルに付くぐらいに頭を下げた。
「ママ、ほんまにありがとう」
「あらまぁ、どうしたん、あらたまって」
香澄がおかしそうに笑う。茉莉奈も顔を上げて「へへ」とはにかんだ。
翌朝を迎え、鏡を見て茉莉奈は「あちゃ〜」と苦笑いを浮かべる。目の腫れがまるで治まって無かったのだ。まるでお岩さんの様になってしまっている。しかも両目だ。とても見られたものでは無い。
「ママごめん、学校、明日からでええ? こんな目で外出られへんわ」
多感なお年頃だ。自分が
「あらあら」
香澄はおかしそうに笑うと、「構へんよ。今日はよう目ぇ冷やしとき」と言って、冷凍庫から保冷剤を出してくれた。いつか買ったケーキに付いていたものだ。
リビングのソファで仰向けになり、ハンドタオルで包んだ保冷剤を目の上に置きながら思う。本当に生まれ変わった様な気持ちだった。昨日までの鬱々とした気持ちが嘘の様に晴れている。
香澄の親子煮のお陰だな、と思う。香澄はいつでも丁寧に気持ちを込めてご飯を作ってくれていたが、昨日の親子煮は茉莉奈をぐんと押し上げてくれた。
パパ、もちろんまだまだ悲しいんやけど、私もう大丈夫やから。見守っとってな。
茉莉奈は心の中で佳正に語り掛け、保冷剤が与えてくれる冷たさに身を委ねた。
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