楓は紅へと染まりゆく

小説大好き!

第1話

「成瀬楓といいます。一年間よろしくおねがいします」


 最悪だ。

 この高校を選んでしまった過去の自分を呪う。

 いや、そもそも誰がこの学校に彼女が来ることを予想する?

 中学から近い場所を選んだわけではない。むしろ絶対に被らないために中学からはできるだけ遠いところを探して、親に無理言って一人暮らしまでさせてもらったのだ。

 それに、誰が高校で同じクラスになることを想定する?

 一学年十クラスの学校で、まさか同じクラスになると、誰が推測する?

 もしもそんなことをしているやつがいたらそいつは既に正気とは言えないだろう。

 成瀬さんの自己紹介が終わる。座るとき一瞬、こちらに視線が向けられる。綺麗な澄んだ瞳だ。慌てて逸らす。一瞬でも目を合わせたくなかった。

 ガラガラと、平穏が崩れていく音が聞こえる。

 二度と関わらないように。決して顔を合わせないように。

 それだけを意識して中学を過ごして……そして、次こそはと来た高校でこの仕打ちだ。世界は私に嫌がらせでもしたいんだろうか。

 いいや、他に文句を言っていても仕方ない。大丈夫、中学の時はできたんだ。彼女の顔を見ないように。彼女の声を聞かないように。

 目を逸らして耳を塞いで、一年を凌げばそれで終わりだ。






「水瀬さん、落としましたよ」


 後ろから聞こえた声にギョッとして振り返る。

 休み時間。理科室への移動中に。後ろにいたのは、長い髪を括って一纏めにした成瀬さんだった。その手には筆箱がある。どうやら、移動最中に筆箱を落としてしまったようだった。


「あ、ありがとう、ございます……」


 成瀬さんから筆箱を受け取る。できればすぐにでも立ち去りたかった。


「水瀬さん、私と同じ中学だよね?」

「え……?」


 自己紹介の時、出身中学校は言わなかった。彼女に同じ学校であることを悟られたくなかった。

 どうして、彼女が私の出身中学を知っているの?


「やっぱりそうなんだね。見覚えがあったんだ」


 あぁ、最悪だ。覚えられていた。世界はとことん私が嫌いなのだろうか。


「ここ、地元から遠いからね……まさか、同じ学校の人が同じクラスいるとは思わなかったよ。これからよろしくね」


 彼女は手を差し出してくる。

 柔らかそうな白い掌に、細くて長くて、しなやかな指だ。


「…………」


 無言で踵を返す。


「えっ……」


 後ろから聞こえた声は驚きと悲痛だった。

 軋む。捻じれる。心が痛いと叫ぶ。

 彼女は傷ついただろう。なんせ私がしたことは拒絶だ。明確で、これ以上にないほどにわかりやすい拒絶。

 彼女は悪くない。ただただ私が悪い。わかっていても、どうしようもない。

 目眩がし前後不覚になるが、ただ彼女から離れるためだけに足を動かす。

 後ろを振り返ることができなかった。振り返ったらダメになってしまう。


 誰かにぶつかる。ごめんなさいと一言だけ呟いて、顔も上げずにまっすぐ歩く。

 理科室前に到着した。扉の前に立って、しかし中に入るのを躊躇う。

 ここで待っていたら、数分後に結局彼女は来てしまうのだ。そしたら彼女のことを否応なく見てしまう。

 脳裏に”サボり”という言葉がちらつく。このまま授業をサボってどこかに行けば、彼女と顔を合わせずにすむ。


「…………」


 足は前へと。

 授業に追いつけなくなると、それはそれで問題なのだ。






「はぁ……」

「おっきなため息ついて、どうした成瀬?」


 思わず出たため息を耳聡い友人に聞かれる。地獄耳め。

 同じ中学校から来た人は水瀬さんしかいないため、彼女は今年できた友達だ。

 高校生活が始まって二か月半。ゴールデンウィークもとっくに開け、クラスでの友人関係は確立されつつあった。

 クラス内を見渡すと、仲良しグループが幾つか形成され、固まりになっているのが見える。私? ボッチではない。

 そんな中で、一人で自分の椅子に座っている水瀬さんが目に入った。

 一週間前の出来事が頭を過る。伸ばした手は掴まれることなく宙に浮いていた。


「私、嫌われるようなことしたかなぁ……」


 中学の頃から水瀬さんは目立つような性格ではなかった。たまに見たときはいつも自分の教室で物静かにしていた印象が強い。

 なのであまりどういう人間かはわからないが、しかし同じ中学の人間がここにいるとわかっただけで少しだけ心細さが解消されたのだ。最初に教室で彼女を見た時、驚きと同時に嬉しさがあった。

 だから、できるだけ仲良くしたかったんだが、この前のあの反応である。


「やっぱり、嫌われてるのかな」

「何、どうしたの?」


 友人は私が相談に乗ってやるぜっ、みたいな顔で私の前の席に座る。そこの席の人昼ごはん食べるとき自分の席使ってるんだけど。あ、大丈夫? ごめんね、ありがとう。

 友人は椅子を後ろに向けると、机に伏せている私に向かう合う形をとる。


「水瀬さんに振られたって話?」

「振られたも何も告白してないんだけど!?」

「握手求めて逃げられたんだったら振られたのと同じじゃない?」


 確かにそうかもしれない。


「……え、何で知ってるの?」

「それは置いといて、何をお悩みで?」

「いや、置いとけないでしょ」

「それは置いといて、何をお悩みで?」


 完全にNPCと化した友人。何で知っているのか気にはなるが話が進まないため置いておくことにする。


「……なんか、水瀬さんに避けられてる気がするけど気」

「のせいじゃないね」

「せめて最後まで言わせてくれないかな……」


 客観的に言われた事実に、やはり少しショックを受ける。やっぱり、水瀬さんに避けられているらしい。

 先週初めて声をかけたが、これまでも話しかけようと試みたことは数回あるのだ。

 しかし水瀬さん、面白いくらいにいなくなってしまう。声を掛けようと見渡すと既に教室にいなかったり、近寄ろうとするのを察知したのかトイレに向かったり。先週話ができたのは偶然だ。きっかけがないと話をしに行かない私も原因かもしれないけど。

 改めて水瀬さんの席を見てみると、既に水瀬さんの姿はなかった。自惚れでなければ、私から逃げているのだろう。


「まあ、傍から見たらどう考えても避けられてるからね」

「改めて言われると辛い」

「まあ、事実だしそこは受け止めて」


 友人はドンマイと言いながら、にやにやしている。面白いネタ発見とか思ってないだろうな。


「それにしても、水瀬さんとはどういう関係なの?」

「どういう、というと?」

「中学が一緒だったんでしょ? その時から関わりがったのかな、と」

「いや、まったく」

「まったく?」

「まったく。あぁ、クラス間を挟んだ授業で同じ班にいたことがあっかもしれない。何にせよその程度の関係。だから、好かれる理由はないし、嫌われる理由もないと思ってた」

「……なんで避けられてるの?」


 私が一番知りたい。ほんと、なんで避けられてるんだろう。

 友達は難解な数学の問題にぶち当たってしまったような表情をしている。人の話を肴にしようとするからだ。


「何か水瀬さんが嫌がりそうなことした?」

「水瀬さんって、何を嫌がるの?」


 私の返しにそりゃそうかと苦笑する友人。水瀬さんが嫌がることが分かれば、進歩だと思う。


「そもそも、どうして水瀬さんと仲良くなりたいの?」

「それ言ったらお終いじゃない?」

「まあ、そうだけど。でも、自分のことを避けている人に、わざわざ関わりに行く必要もないんじゃない?」


 まあ、確かに。嫌がる人に関わる必要は特にない。

 じゃあなんで関わろうとするのか。


「何となく?」

「だったら諦められない?」

「……無理、かな」


 少し考えるが、やはり気になった。何となくそのままにしたくない。


「成瀬も、なかなかに変な人だよね」

「お褒めにあずかり光栄です」

「じゃあそんな貴女に、少しだけ気になる情報を与えましょう」


 友人は芝居がかったセリフ回しで得意げな顔をする。


「私の席、後ろのほうじゃない?」

「うん」

「そうするとね、二人がよく見えるんですよ」

「ほうほう」

「でね、少し前から……いや、もしかしたら最初からだったかもしれないけど」


 友人は重大な秘密を話すときのようにもったいぶる。少しうざかったので脛に蹴りを入れる。

 顔を顰めると、これ以上はやめてと話し始めた。


「水瀬さん、時々成瀬のことめっちゃ見てる。で、我に返ったように慌てて視線を外してる」

「……え」


 まさか、そんなに? 憎まれるほどなの?


「多分勘違いしてるけど、憎悪っぽい視線じゃないよ。それどころか、嫌いな人に向ける視線のようには感じなかった」

「あ、ほんと? てっきり、親の仇を見る目で見られてたのかと……」


 どうやら勘違いだったらしい。心の底から安心した。


「憎らしい目というより……見惚れてる?」

「何言ってるの?」

「うん、自分で言っててないかなって思った」


 それにしても、水瀬さんが私のことを見ているとは、どういうことなのだろう。しかも、友人の判断だと、嫌われているようには感じないらしい。

 でも嫌われていないとしたら、それこそ避けられる理由がわからない。

 よし。


「見る目がないんだな」

「今私のことディスったな」

「なんで聞こえる。呟いただけなのに」


 地獄耳め。






「おはよう、水瀬さん」


 登校し席に着くと、成瀬さんが態々わざわざ私の席の前に来て挨拶をしに来た。理解のできない事態に思考がフリーズする。

 何が起きている?

 成瀬さんは私の混乱を他所に、私に笑顔を向けている。長い睫毛に、整った鼻。

 その笑顔を見るだけで混乱が吹っ飛び、とにかくその場から離れなければいけないという思いだけが意識に浮上した。

 立ち上がろうと腰を浮かして。ふと目に入った時計の針は朝のSHRが始まる五分前だった。

 今教室を離れると遅刻する。心の平穏と遅刻。天秤が傾いたのは遅刻だった。

 大人しく席に着く。世界を呪った。


「いつもこの時間に来てるの?」

「……うん」

「へぇ、ぎりぎりなんだね。家どこら辺か聞いてもいい?」


 ほんとになんなんだ?

 今日の成瀬さんは何故か凄く積極的だ。今まではこんなことなかったのに。

 彼女の声が耳に入るたびに心臓が激しく鳴る。息がしづらくなって苦しい。

 そもそも彼女はどうして私のところに来るんだ。私は数日前に彼女を拒絶したのだ。

 あの時後ろから聞こえた声は今でもはっきり覚えている。毎日夢に見るくらいには、鮮明に、どうしようもなく覚えてしまっている。

 フラッシュバックした声に顔を顰めそうになるが、抑える。

 代わりに、彼女を拒絶する。


「私に、近寄らないでください」


 お願いだから。

 自分が想定していたよりも、小さい声が出た。しかし、小さい声でも彼女には十分に聞こえたのだろう。声が止む。

 顔が上げられない。俯いて、机の上に置いた自分の手だけを見つめる。さっきまで煩かった心臓は、奇妙なほどに凪いでいた。

 周囲ではみんなの談笑の声が聞こえるが、ここだけ沈黙が走る。

 一生続くかと思われた沈黙は、しかしチャイムの音によって掻き消された。


「またね」


 彼女は次を求める。

 驚いて顔を上げると、傷ついた表情を浮かべた成瀬さんがいた。頭が真っ白になる。

 彼女は拒絶されて、傷ついて、それでも何故か、また、と言う。なんで? 意味が分からない。理解ができない。

 とりあえず彼女の言葉に否定の声を出そうとしても、うまく声が出ない。唇が小さく震えるだけだった。

 彼女は振り向くと、自分の席に向かっていった。

 痛い。気付いたら、机に置いた自分の手にもう片方の手の爪が食い込んでいた。慌てて離す。血は出ていない。多少赤黒くなっているが、すぐに治るだろう。

 ちらりと成瀬さんが歩いて行った方を向く。席に着いた彼女は気が沈んでいるように見えた。

 また、軋む音がする。捻じれて歪んでボロボロになっていく。

 爪は離したというのに、まだ手はジクジクと痛んだ。






「また振られたね」

「振られた言うな」


 昼休み時間になると、へこんでいる私のもとに友人が来る。

 元の住人に顔を向けると、仕方ないなぁという顔をしていた。私の友達が、申し訳ない。ありがとうございます。

 そんな私の謝罪なんかいざ知らず。友人は水瀬さんの話を始める。


「で、諦める?」

「悩んでる」


 水瀬さんが本気の本気で嫌がってるなら、やめる。人が嫌がるようなことをするのは別に趣味じゃない。

 でも、そうでないならば水瀬さんと仲良くなりたい。


「本当に成瀬のことを嫌ってる可能性は?」

「……わからない。私に心当たりはないけど。私がそう思っているだけかもしれない」

「まあ、いじめにはよくある話だね」


 友人の言葉が重くのしかかる。私が無自覚にいじめていた可能性は、ゼロとは言えないのだ。

 どうしよう。


「今日、話しかけてみて、どうだった?」

「結果は見てたんじゃないの?」

「結果だけじゃなくて、それ以外の様子。例えば、成瀬を怖がったりしてた?」


 友人の問いかけに、朝を思い出す。

 私が水瀬さんに声をかけた時、最初彼女は唖然としていた。まあ、少し前に拒絶した人間が話しかけに来たら私でもびっくりする。

 そして。


「怖そうにはしてなかった」

「含みのある言い方だね」

「……なんかつらそうだった。私の目が間違ってなかったら」


 彼女は痛みを堪えるような顔をしていたように思う。そして、それを押し隠すように努めて無表情を保っているように見えた。

 どうしてなんだろう。いじめっ子を拒絶するのって、辛いのかな。


「うん。私も同じように感じた」

「……え、見てたの?」

「二人の顔が見える特等席から、成瀬が話しかけてから『またね』っていうまでの一部始終を」


 え何それ怖い。全然気づかなかった。前も似たようなことあったよね?

 友人の謎過ぎるスキルに戦慄する。


「私のことは置いといて。少なくとも私から見た限り、水瀬さんはいじめっ子を拒絶するいじめられっ子には見えなかったよ」


 少しだけ心が軽くなる。もしも私が無自覚にいじめていたとしたら申し訳ないなんてものじゃない。土下座で謝り倒したくなる。


「まあ、あくまで私の感想だし、本当のところはどうなのかわからないけどね」


 無責任なやつめ。


「まあ、私に責任なんてないからね」

「……ほんとに何者?」


 今心読んだよね?






 何なんだ何なんだ何なんだ!?

 成瀬さんが「またね」と言った日から二週間が経った。そろそろ、学校が始まってから三か月が過ぎようとしている。


「水瀬さん、おはよう。今日はいつもより早いね」


 成瀬さんは私が席に着き次第、毎日挨拶をしに来るようになった。

 ここ二週間、毎日だ。

 意味が分からない。あれほど拒絶の言葉を投げたのにどうして彼女は私のもとに来る?

 とにかく、彼女から離れないとまずい。そろそろ、本当にまずい。

 今日早めに来たのは、早めに来たら彼女がいないと思ったからだ。だから、いつもより三十分近く早く来た。

 それなのになんでいるんだ。世界はとことん私が嫌いなのか。

 これから三十分間、彼女と一緒にいたら、耐えられなくなる。堪えきれなくなる。

 彼女の顔は見ない。声もできるだけ遮断する。いないものとして扱う。彼女は今目の前にいない。いない。そのまま教室を出る。

 そのつもりだったが、教室の扉の前に人が立っていた。ぶつかりそうになる。


 車は急には止まらないと言うが、人も急には止まらない。

 急がしてた足を止め、身を捩って静止して衝突だけは避けるが、代わりに後ろに倒れそうになる。

 痛みに備えて目を閉じる。が、背中から帰ってきたのは柔らかい感触。

 ――と同時に、今最も聞いてはいけない声だった。


「大丈夫!?」


 間近に成瀬さんの顔がある。

 受け止める彼女の指、手、体、視界に入る瞳、鼻、口、耳から入る声、おおよそ彼女が私に与えるすべての刺激が、私の脳に直接入りこんで理性を溶かしていく。どろどろに、二度ともとに戻れないように。

 彼女の瞳に映る私が目に入る。酷い顔。今すぐにでも泣きそうな顔をしていた。

 吸い寄せられるように彼女の唇に目が行く。鮮やかなピンク色。控えめに膨らんだそこは魔性の魅力を放っていた。

 決壊する。


 なおも心配の声を上げる成瀬さんの言葉を途中で遮る。柔らかい、ただただ柔らかい感触が広がった。

 今までで最も近くにある成瀬さんの瞳が大きく見開いているのがわかる。

 すぐに顔を離す。口にはまだ柔らかい感触が広がっている。

 幸福、絶望、愛情、憎悪、慈愛、自責、嫌悪、嫌悪、嫌悪。氾濫する感情は許容を超え、心を殺す。

 彼女はまだ驚いた顔をしていた。

 顔を背ける。背中を向けて走って逃げる。これ以上、彼女の顔を見ることができなかった。

 辿り着いた場所は、学校内でも一際人の少ない校舎裏だった。タイミングによっては人がいることもあるが、幸か不幸か今は誰もいない。

 心に溢れる感情は自分でもわからない。わからないまま、涙が溢れてくる。


「水瀬さん」


 私を読んだ声は、今絶対に聞くことはないと思っていた声だった。驚いて顔を上げる。

 そこには焦りと驚きをないまぜにして、よくわからないまま息を切らしている成瀬さんがいた。


「なんで……」


 走って追いかけてきたのだろう。彼女は私と同じかそれ以上に汗だくになっていた。彼女を見ていると自分の感情がよくわからなくなる。嬉しいのか怒っているのか、幸せなのか苦しいのか。

 ただ、心臓が激しく鳴り、それに突き動かされるように彼女に叫ぶ。


「なんで、追いかけてくるの!」

「なんでって……」

「私に何をされたのかわかっているでしょ! 私がどんな人かわかったでしょ! どうしてそれで追いかけてくるの!」


 彼女は気まずそうに顔を俯かせる。

 違う、こんなこと言いたいんじゃない。彼女を傷つけたいわけではない。それでも混乱してどうしようもない心と体を止めることができない。


「私はあなたが好きなの! どうしようもなく、あなたのことが好きなの!」


 言ってしまった。胸の裡に隠して墓までもっていくつもりだった気持ちが溢れてくる。

 足元を見る。もう、顔を上げることができない。自分のつま先がぼやけて見えた。

 あぁ、泣いてる。


「お願いだから。もう、お願いだから、私に関わらないで……。気持ちを抑えるのも、隠すのも、つらいの。苦しいの……」


 彼女は何も言わない。沈黙が訪れる。涙は収まることはなかった。

 先に口を開いたのは彼女だった。


「だから、私を避けてたの?」


 沈黙を返す。

 一瞬の硬直のあと、彼女の方から聞こえたのは、勝手な暴走で傷つけたことに対する罵倒ではなく……安堵のため息だった。

 驚いて顔を上げる。彼女は、ほっと胸を撫でおろし、安心した顔をしていた。


「なんで……」

「嫌われてるかと思ったから」


 思わず漏らした疑問に、彼女は間髪入れずに答える。


「まさか、好かれてるとも思ってなかったから驚いたけど……でも、嫌われてるよりはずっといいかなって」


 本心からそう思っているようだった。

 彼女はこちらに歩み寄ると、懐からハンカチを取り出して私に差し出す。


「ごめん、鼻はかまないでくれると助かる」

「……そんなことしないよ」


 完全に拍子が抜けて、涙も止まっていた。受け取ってしまったハンカチで目元に残る激情の後を拭う。


「あともう一個ごめん。返事は少しだけ待ってもらっていい?」


 彼女の言葉は私の想像を超えたものだった。混乱し上を向き答えはないので彼女の顔を見て、恥ずかしくなって下を向く。そうして再び自分のつま先を見つめてようやく彼女の言っていることが理解できた。

 どうやら、問答無用で振られるわけではないらしく。

 顔が熱くなるのを感じる。多分、真っ赤だ。


「…………はい」


 そして、振り絞った声は、我ながらか細くて、今にもかき消えてしまいそうだった。






 水瀬さんと別れる。教室の扉の前でばったり鉢合わせすると気まずいので、少しルートを外れて校舎の陰に潜る。力が抜けてその場に座り込んだ。

 ふぅぅ、とたまっていた息をすべて吐き出すようにため息を吐く。ずっと、息をしていない感覚だった。

 多分今私の顔は、真っ赤を通り越して凄いことになっているだろう。熱い。耳までものすごく熱い。それに心臓の音が止まない。激しく鳴り響いて私の寿命を縮めようとしてくる。苦しい。

 校舎の壁に体を預ける。胸を占める感情は驚きと嬉しさだった。二つの感情は互いに全力で主張しあい、私の中で溢れている。


「そっか……そうだったんだ……」


 嫌われてると思ってた。目が合うと逸らされるから。話しかけようとすると逃げられるから。水瀬さんは私のことが嫌いで、顔も見たくなくて、だから嫌なのかと怖かった。

 友人とは嫌われてはいない、って決着をつけたとはいえ、怖いものは怖い。じゃあ声を掛けなければいいって言われたらそれまでだけど。

 でもまさか、好かれているとは思ってなかった。しかもあんなに。

 先ほどの光景がフラッシュバックする。水瀬さんは泣きながら、涙を流しながら、私に想いを叫んでいた。好きだ、と。

 思い出せば思い出すだけ多幸感とこそばゆさに見舞われる。あんな風に想いを告げられるのは初めてだった。好きという言葉をああも全力で吐いてもらうことなんて今まなかったんだ。

 嬉しい。凄く、嬉しい。


 嬉しさを噛み締めていると、チャイムが鳴りだす。そろそろ、学校が始まってしまう。普通に忘れていた。


「やばっ」


 少し深呼吸をして心臓を落ち着けて、教室に向かう。

 今から授業、集中できるだろうか。




「それで、今度はどうした?」


 友人が呆れたように問いかける。恐らく視線の先には机にだらしなく伏した女がいるのだろう。

 顔を上げると、友人はうへぇ、って顔をする。そんな酷いのか私の顔は。

 一瞬直そうとも思ったが、どうしようもなかったので諦める。頬が緩み切っているのを感じた。

 今日の授業は全然身が入らなかった。なので授業中考えたが、朝の告白の答えはまだ出し切れずにいた。


「その様子だと、水瀬さんとは仲直りできたの?」

「告白された」

「……うん?」

「告白された」

「…………」


 友人が絶句している。同感。私だって驚いたし。

 友人はいつも通り向かいの席に座る。少し顔を引き締めて先住民に目を向けると、気にしないで、それより今度遊びに行こうって顔をしている。友達が一人増えた。

 原因となった友人はいつも通りこちらに椅子を向けている。


「じゃ、細かい話を」

「朝水瀬さんが倒れそうになったの助けたらキスされて追いかけたら告白された」

「ごめん理解できない」


 目の前で頭を抱えられる。でも、これ以上の説明のしようがないのだ。なんせ、私はなんで好かれているのかもわからない。

 そう。私は、彼女がどうして私のことを好きになったのかもわからないのだ。

 その旨を説明すると、何してんだこいつって顔をされる。


「なんでそこを聞いてない」

「だって私だって混乱してたし……」

「で、返事は?」

「待ってもらってる」


 友人は少し思案顔になると、ちらっと教室内を一瞥する。


「じゃあ、今聞いてこい」

「……え?」

「だから、今聞いてきて」

「え、でも水瀬さんここにいないし……」

「いるよ?」


 友人の指し示す方向には水瀬さんの姿。先ほどまでやってた授業の教科書を開けたまま虚空を見つめていた。完全に呆けている。


「ほら、今がチャンスなんだし、聞いてきて」


 そういって立ち上がらされ背中を押される。しかしその先に足が一歩も進まない。

 水瀬さんの横顔を見ていると、今朝のことが鮮明に思い出されてくる。彼女の表情、声、涙、言葉、全部が録画を再生するかのように頭の中を流れ始める。

 結果、その場で座りこんでしまった。


「どうしたの成瀬!?」

「……嬉しさと恥ずかしさで立ち上がれない」

「…………」


 友人は無言で後ろから私の脇に手を入れると、そのまま持ち上げて椅子に座らせた。

 彼女の顔が目に入る。見事に死んでいた。友達が一人減った。


「はぁ……。じゃあもう、告白受けてしまえば?」


 彼女の言葉が私の胸を刺す。


「そんなに嬉しいんだったら、付き合ってしまえばいい。嫌いじゃないんでしょ?」


 痛みはジクジクと倦んで私を苛む。私だって同じように思うし、誰かが私と同じ状況だったら付き合ってしまえばいいって言ったと思う。だけど、告白を受ける気にはなれなかった。


「どうして? レズは受け入れられない?」

「そういうわけじゃないんだけど……」

「じゃあ水瀬さんのことが嫌い? まあ、あれだけ拒絶されてたらね」

「それもないわけじゃないんだけど。そこじゃなくて、何ていうか……」


 自分の心を探す。どうして彼女と付き合うことが受け入れられない?

 見つかった。


「彼女のこと好きじゃないから、かな」


 自分で言っておいて、語弊が生まれそうだなと思う。


「別に嫌いなわけじゃないんだけど……でも、私彼女のことはほとんど知らないんだ。だから、恋愛的に好きとは言えなくて。そんな状態で付き合うなんて不誠実なことはしたくないな、と」


 言いながら、我ながら面倒くさいこと言ってるな、って感じた。

 何も言わない友人を見ると、面倒くさいこと言ってるな、って顔をしていた。以心伝心。


「成瀬って、変ていうか面倒くさいよね」

「口に出すんだ」

「これは愚痴らずにはいられないよ……」


 それで、と友人は問いかける。


「その返事はいつ返すの? 心が決まってるなら早く言ってあげた方がいいよ?」

「…………」

「さては成瀬、日和ってるな?」


 黙り込む私。頭を抱える友人。この二つの席を囲む空間だけが異次元と化していた。

 突然友人が立ち上がる。どうしたのかと見上げていると、何も言わずにそのままどこかへと歩いて行った。

 本格的に愛想つかされてしまったかと行き先を目で追いかけると、友人は水瀬さんの席に向かっていた。


「水瀬さん、ちょっといい?」

「ひゃ、ひゃい!」


 友人の言葉に飛び跳ねる水瀬さん。想像以上の驚き方に驚く友人。友人が何を考えているかわからず驚く私。何だこれ。

 最初に混乱から抜けたのは友人だった。頻りに時計を見ては時間が跳んだ……!?  と戦慄している水瀬さんを落ち着くように宥めている。それを見て私も落ち着きを取り戻す。


「すみません、取り乱しました。あなたは……成瀬さんの友人の?」

「うん、成瀬の友達。ちょっと成瀬から伝言があってきたの」


 水瀬さんの体がぴしっと固まる。私の体もぴしっと固まる。ちょっと待て友人。私は伝言なんて残した覚えはないぞ。嫌な予感をひしひしと感じる。

 友人はわざとらしく咳払いをし、声音まで変えて言った。


「今日の放課後、屋上にて待つ」

「ちょっと待ったー!」


 思わず絶叫が口から漏れていた。こいつなんてことを言いやがる!?

 周りの人が驚いて振り返るのを感じるがそれどころじゃない。私が立ち上がって友人を問い詰めようとした時、同時に動いたのは水瀬さんだった。

 水瀬さんは椅子を倒す勢いで立ち上がると、脱兎もかくやという速度で教室の扉に向かって走り出す。扉を開けて外に出る際、朝のように扉の外に人がいたが、彼女は速度を変えず華麗に身を捩り、扉と人との間にできた僅かな隙間を縫って教室を出て行った。謎に順応性が高かった。扉付近にいた人数名からぱちぱちと拍手が上がる。

 ちなみに私の頭は現在パニックだ。逃げられた。また逃げられた。告白されたはずなのに、また逃げられた。


「また振られたねぇ……」


 事態を引き起こした最元凶の友人が他人事のように呟きながら立ち尽くしている私のもとに来る。誰のせいでこんなことになってると思ってるんだ。恨みがましい目を向けると、してやったりと笑い返された。


「で、どういうつもりなの?」

「何が?」

「え、惚けるの?」


 まさかこの状況で惚けられると思ってるの? 流石に無理があるでしょ。

 正気を疑う目を向けると、流石の友人もバツが悪そうな顔になる。そして一度ため息を吐くと、真面目な表情を作る。そんな顔作れたのか。


「でも成瀬、彼女と付き合う気はないんでしょ? そこが決まっているんだったら、さっさと答えてあげた方がいいから」

「……だけど、私の考えが変わるかもしれない」

「それ、本気で言ってるの?」


 友人の声音がいつになく真面目だった。曖昧な答えを許さない気迫を感じる。友人は長くため息を吐くと、こちらを見つめる。


「自分で思っている以上に、成瀬は頑固だよ。頑固で優しくて、誠実だ。少なくとも私はそう思う」


 いつになく友人の言葉が心に響く。内容もだが、彼女の表情が、視線が、冗談では済ませられない真剣さをまとっていたから。

 自分の心を探す。考えが変わる可能性を探す。悩む余地を探す。彼女と……水瀬さんと付き合う未来を探す。

 少なくとも今の時点では”否”だった。やはり、水瀬さんのことは好きじゃない。


「もしも、まだ考える時間が欲しいというんだったら、私が水瀬さんには誤ってくるよ。私の暴走だし、私の評価が下がるだけだから」


 友人の言葉に対する返答は一つだった。


「ううん、いい。ありがとう」


 心は決まった。いや、最初から決まっていた。ただ、友人が言う通り、私が日和っていただけだ。情けない。水瀬さんは私に面と向かって告白したのに、それに返すだけの私が日和ってしまっていた。本当に情けない。

 せめて水瀬さんには精一杯の誠実を持って返答しよう。


「ちなみに友人よ」

「なんだい我が友よ」

「なんだ『屋上にて待つ』って。あれじゃあ果たし状みたいじゃないか」

「……てへぺろ」


 おいこら、やっぱ少し楽しんでただろ。






 思わず教室を飛び出して、辿り着いた先は今朝成瀬さんに告白した場所だった。昼休みであるにも関わらず人の気配がない。

 壁に凭れてずるずると座り込む。


「逃げてしまった……」


 やってしまった。今回も世界のせいにしたいが、どう考えても私が悪いのでそうもいかない。

 長い長い溜息をついて、一度気持ちをリセットしようとして、そんな簡単にできるわけがなくただ肺の中身を全部吐き出すだけになってしまう。苦しい。思いっきり息を吸う。平穏を取り戻す。あ、ちょっとリセットできた。ため息凄い。

 逃げたことは後悔しても遅いので、いったん友人さんからの伝言の方に思考をシフトする。友人さんは放課後屋上でって言っていた。十中八九、今朝のことに関してなのだろう。意識すると体に緊張が走る。答えは何だろう。期待してしまう。

 それにしても。自分の現金さにほとほと呆れてしまう。今朝まで、彼女に想いを伝えるのは罪だと思っていた。成瀬さんを困らせるこの気持ちは伝えてはいけないもので、自分で抱えていなければならないものだと思っていた。でもじゃあ今はどうだろう。

 苦笑が漏れる。すごく、期待してる。今朝、拒絶されなかったから、可能性があるんじゃないかって、期待してる。散々成瀬さんを傷つけてきたのに、それでも少しの可能性を期待している。


「馬鹿だなぁ」


 だって、多分受け入れられることはないのだ。あんなに傷つけて、傷つけてるのを自覚するうえで傷つけて。そもそも、成瀬さんとあまり関わったこともない。私が勝手に好きになって、勝手に想いを押し込んで勝手に暴走して彼女に想いを伝えたのだ。

 胸に疼痛が走る。少しずつ苛んでいくように、ジクジクと痛みが走る。何してんだろ、本当に。

 何にせよ、今日の放課後、屋上に行かなければならない。成瀬さんが答えを言ってくれるのならば、聞かないといけないし、聞きたい。答えが私が望むものじゃないかもしれないけど……むしろその可能性の方が高いと思っているけど……やっぱ聞きたくないなぁ。

 くよくよ悩んでいると、チャイムの音が鳴り響く。正直戻りたくないが、しかしやはり授業に追いつけなくなるのは大問題なのだ。重い腰をあげて教室に向けて足を運ぶ。

 授業、聞けるかなぁ。



 存外、昼休みに入る前よりも授業に身を入れることができた。

 授業が終わり、屋上に向けて足を運ぶ。一歩一歩が凄く重たい。廊下進むたびに鼓動が大きくなっていく。

 屋上に行ける階段は一箇所、しかも校舎の構造上か上に昇る階段しかないため、人は全く来ない。それはもう、高校生になってから人気のない場所としてよくお世話になるくらいには誰も来ない。

 一年生の教室は最上階にあるため、その階段までそう距離がない。徐々に人の気配が消えていくのを感じながら階段へと向かう。

 普段なら二分かからない道を五分かけ、ようやく目標地点へと辿り着く。

 もう成瀬さんは来ているだろうか。階段の前にかけられた鎖を越えながら思う。それにしても、どうやって屋上に行くのだろうか。鍵もらったの?

 踊り場に着く。バクバクの心臓で立ち眩みしそうになりながら上を見る。泣きそうになって最上段で膝を抱える成瀬さんがいた。あ、やっぱり鍵なかったんだね。

 成瀬さんは踊り場から階段に上がる音でようやく私に気付いたらしい。上げた顔は真っ赤だった。彼女の顔を見ると緊張でその場から逃げ出したくなる。つい、一歩足を戻すと、彼女の顔は真っ赤から真っ青へと早変わりする。

 逃げ出したい衝動を堪えてさらに前へと進む。すると成瀬さんは立ち上がり、私が最上段に辿り着く前に頭を下げた。

 一瞬で絶望が去来する。わかっていてもやっぱり、振られるのは嫌だ。


「ごめんなさい! 鍵が開いてなかった!」


 そこか。思わずがくっとする。

 そりゃそうだ。普通どこの学校も屋上の鍵は閉まっているだろう。漫画じゃるまいし、屋上に簡単に入れるわけがない。

 成瀬さんの少し間抜けなところに意外さを覚えながら、最上段へと辿り着く。屋上扉手前の踊り場のように広くなったところで対峙する。ちなみに、しゃべらないのは緊張で声が出せないからだ。

 成瀬さんの顔を見る。すらっと、滑らかな筋を描く鼻梁。艶めかしく光る唇。形の整った耳に、背中まで垂れ下がる濡羽色の髪。そして、澄んだ黒い瞳。全部が綺麗で美しくて、彼女の優しさや凛々しさを連想させて、そして、隠したかった恋慕を溢れさせる。


「ごめん、屋上じゃないからなんか、期待してたのと違うかもしれないけど」


 尚も謝罪する。大丈夫、最初から屋上には入れないと思っていたし、そこまで期待してないから。

 彼女は安心したように微笑み、そして、真剣な表情を作る。唇が震える。来た。

 今朝の答えを、聞く。


「申し訳ありません。貴女とは付き合えません」


 ……そっか。




 午後の授業で、改めて考えてみた。水瀬さんと付き合う未来を。

 彼女に告白されたことは冗談抜きで嬉しい。あんな風に好意を向けられたことは一度もないからなおさらだ。彼女のことが嫌いかって言われても、むしろ好きって思う。散々遠ざけられたことに思うところがないわけじゃないけど、あの時は覚悟のうえで近づいていたわけだし、少なくとも嫌いになるほどじゃない。

 でもやっぱり、彼女と付き合う未来は考えられなかった。だって、想像できないから。彼女に対する印象はよくても、彼女のことが分からない。何が好きで、何に喜んで、何に幸せを感じるのか。どの食べ物が好きで、どんなところが苦手で、どんな人が好きなのか。

 何にも、知らないのだ。


「申し訳ありません。貴女とは付き合えません」


 だから、どれだけ考えても、何度考えても、結論はこうなった。

 彼女の目に、自分の視線を重ねる。多分、彼女の目をこうしてみるのは初めてだ。だって、彼女の瞳が少し明るい茶色をしていると知ったのは、今日が初めてだから。

 それだけじゃない。彼女は、可愛かった。最近関わるようになって、知っていはいたけど。でも、こんなにとは知らなかった。思わず呆然と、彼女を見つめてしまう。

 不意に彼女が下を向く。生まれた感情は、もうちょっと見ていたい、という思いだった。振った癖に烏滸がましい。我ながらそう思う。

 彼女は俯いたまま動かない。願わくば、絶望を抱かないでほしい、と思った。どうか、私に振られたからといって、絶望しないでほしい。悲観して、諦めないでほしい。どこまでも上からで、彼女のことを舐め腐った願いかもしれないけど。でも、やっぱり、明るい瞳を持つ彼女に絶望してほしくなった。


「成瀬さん」


 俯いたまま彼女は声を出す。表情は見えず、その声色からは彼女の感情はわからない。

 彼女の旋毛を視界に入れながら返事を返す。


「なに?」


 がばっ、と音が鳴りそうだった。

 真剣な色に光らせた瞳が目に映る。そこに仄暗い光はなかった。


「今まで本当にごめんなさい!」


 今度はぐばっ、と音が鳴りそうだった。いやもうこれ鳴ってるんじゃないの?

 再び旋毛が目に映る。忙しいな、彼女。


「今まで傷つけてごめんなさい三週間前筆箱拾ってくれたのに何も言わないで逃げてごめんなさい毎日毎日声をかけてくれたのに邪険にしてごめんなさい近寄らないでなんて言ってごめんなさい勝手にキスしてごめんなさい!」


 彼女は今朝聞いたばかりの、大きくてはっきりしていて、彼女の必死さが伝わってくる声で、一息に言い切る。ちなみに、内容はあまり伝わってこなかった。今なんて言った?

 フリーズして、数秒かけて彼女が何を言ったのか理解して、ようやく謝罪されたのだと気づく。


「え、えっと……」

「それと、散々酷いことしたのに毎日声かけてくれてありがとうございました! 本当は凄く嬉しくて、楽しかったです!」


 今度は感謝された。


「と、とりあえず頭上げよう?」


 今度は音は鳴らなかった。恐る恐るという表現がぴったしな感じで彼女は顔を上げる。さっきの忙しさはどこいった。

 彼女の顔を見る。今度は真剣、と言うより申し訳なさそう、と言うか、端的に言えば言いにくいことを言いたそうな顔をしている。うん、端的じゃない。

 少し待っていると、言おうとしてはやっぱり駄目見たいな顔をして、それでもなんだかんだ言いたそうにして、やっぱり言おうとして。と勝手に百面相をしだしそうになる。今度は表情が忙しくなった。

 このままだと永遠に百面相が続きそうだったので、促そうと口を開こうとすると、それに気づいたのか彼女は慌てた様子で先に口を開いた。


「一つだけお願いがあります」


 さっきとは打って変わってかき消えそうな声。ここまで溜められると、むしろ何を言われるのか凄く気になる。え、心中の誘いとかじゃないよね?

 一人戦々恐々としていると、彼女の唇は再び震える。


「どうか……どうか、私と友達になってください!」


 今度は二つ前の声。やっぱり忙しい。

 少し浅いお辞儀と一緒に、右手がついてきていた。


「正直まだ成瀬さんのことが好きです。諦めきれません。一緒にいたら好意を抑えきれる自信がありません。鬱陶しいかもしれません」


 水瀬さんは、一文ずつ丁寧に、自分の駄目なところを羅列していく。


「烏滸がましいことを言っているのはわかります。おかしいことを言っているのもわかります。だけど、あなたの友達にさせてください。あなたと一緒の時間を過ごさせてください。もっと、あなたのことを教えてください」


 これじゃあ、友達の申し入れじゃなくてプロポーズだ。心の中で突っ込む。だって、無視できなかったから。

 そんなに素直に正直に口説かれたら、気になってしまうじゃないか。


「楓」

「……え?」

「私の名前は楓。貴女は?」

「わ、私は――」


 突然名前を聞かれた水瀬さんはぽかんとした顔を上げる。

 引かれそうになった右手は先にがっちりとホールドする。友達と言うのなら、絶対に逃がす気はない。彼女の手が跳ねるのを感じるが無視して、顔を、瞳を見つめる。


「――私は紅葉といいます」

「そっか。じゃあ紅葉」


 一度彼女の手を放して、半歩だけ後ろに下がって、さっきホールドするために詰めた距離を再び離す。

 こっからは仕切り直し。彼女が先ほどした少し浅めのお辞儀をして、右手を前に差し出す。視界には彼女の足。


「私と、友達になってください。友達になって、もっともっと、貴女のことを教えてください」


 彼女は意図を察したのだろう。私の右手をとる。さっき私が握ったのと同じくらいか、それ以上に強く、しっかりとした温かさで握られる。

 顔を上げると、目元に涙を浮かべながら満面の笑みを浮かべる紅葉がいた。思わずその顔に見惚れる。

 思えば彼女の顔は幾つか見てきた。辛そうな顔、苦しそうな顔、痛そうな顔、泣いた顔、赤面した顔、百面相した時の顔。あれ、いい意味の顔ないぞ。


「これからよろしく、楓!」


 でもじゃあ、これが初めてだ。これからたくさん見れる彼女の、最初の笑顔だ。

 ならば私も、笑顔で返そう。なんの衒いもなく、ただ心のままに。彼女の笑顔を見て、正直に思ったことをのせて。


 ――だって、彼女の笑顔がこんなにも嬉しいんだから。


「こちらこそよろしく、紅葉!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

楓は紅へと染まりゆく 小説大好き! @syousetu2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ