モブ、小説みたいな人間関係に巻き込まれる
ある日たまたま学校をサボって図書館に行った私は、エマという女の子とたまたま仲良くなり、たまたま彼女が持っていた不思議なペンをたまたま使えて、たまたま不思議な風の鳥に会いたまたま……あー! 長い! そして何もかもがたまたまだ。まあ人生の大概のことはたまたまなんだろうけども。
そしてその日解散した私とエマは、その後各々の学生生活を送っていた。そもそも私が通っているのは県立の中の中くらいの高校、エマは車通学もざらに居ると噂の有名お嬢様女子高なので、場所も時間も合わないのだ。私が空いている時は、エマがピアノのレッスンだったり、エマが空いている時には私がバイトだったり、なかなかに難しい。「いっそうちに泊まりにくる?」と言われたが、もし執事とメイドがズラリと居るような家だったらどうしよう、と怖くて挑めない。逆に我が家にもと思ったが、建売二階建ての決して大きいとはいえない一軒家だし、何より家族の了承が必須だから躊躇してしまう。思春期真っ只中……という点を考慮しても、正直家族仲は良くない方だ。出来ればなるたけ兄や家族とは関わりたくないし、なんなら母親なんか特に……向こうもそうだろうし、無理だろうな。そんなことを思っていたらなんだかんだと二週間が経ち、いやいやもしかして全部まるっと夢だったのか? と思い始めた頃、エマから突然『明日サボろう』とラインが来た。サボろうってなんだ。せめて疑問文で送ってくれよ。
でもまあ明日は両親共に仕事で居ないし、兄も今晩飲み会オールで明日は直接学校に行くらしいし、授業的にもなんとかなりそうな時間割だ。サボるには問題ない。私は『いいよ〜』とだけ返した。しかし、そうしたら明日は私服か。一体何を着るかねぇ、と私は久々にクローゼットを漁り始める。休日は大体バイトをしているから着替えやすいようラフな格好だし、誰かと遊びに行くときは大抵放課後、制服のまま出かけるから、私服をいざ着ようと思っても悩んでしまう。ましてや相手はお人形さんのようなお嬢様。スウェットとか着て行ったらこんなど平日真っ昼間、どんな関係かと警察に補導でもされそうだ。清楚めなワンピース、ひざ下スカート、と一生懸命に記憶を辿りながら引き出しを掘り起こしコーディネートを組む。下手したら初デートより頭を使った結果、なんとか満足の行くコーディネートが組めた。
そうして私が、ちょうど満足気にベッドに並べた服を眺めていると、エマからまた連絡が来た。
『取り敢えずこの前のカフェに八時で良い? そこから計画立てよ』
なんだか嫌な予感がする。そんな早い時間に集合なんて、エマは完全に学校行くふりして家を出るやつじゃないか。
『ねえエマ明日制服で来るの?』
恐る恐る私が訊ねると、『カフェで着替える』と返ってきた。いやいやいや、あんな落ち着いた喫茶店で朝八時に着替えるなんて、めちゃくちゃじゃないか。『大丈夫なの?』と思わず送ると、即座に『ばれなきゃ大丈夫♡』と送られてきた。こんな怖いハートマークがあるか。そして間髪入れず、『おやすみ』の可愛いスタンプが送られてくる。はいはい、寝ます寝ます。もしうっかり遅刻なんてしたら、どうなるか知れたもんじゃないし。
◆
「遅い!」
私を睨みつけるエマは、勿論もう私服に着替えている。可愛らしい白のブラウスに、サックスブルーのジャンスカ。あー私も綺麗目清楚な格好で来て良かった、と一瞬の現実逃避、いや、謝らなくちゃ。
「ごめん! 油断してた! 本当ごめん!」
本当に、いつもより早く起きたのだ。パジャマのまま顔を洗って歯を磨き、同じクラスの友人、夢に『今日学校サボる』と連絡を入れ、部屋に戻り着替え、化粧をし、エマからのモニコを取り 、ばっちり、と言ったところまでは本当にばっちりだった。
モニコの時間に準備万端だったくらいだから、時間はまだまだあった。ただまだ早過ぎる。どうしようかな、と考え、そうだ、とヘアアレンジをし始めてしまったのだ。
緩く巻いて、くるりんぱでハーフアップ、やっぱり編み込みの方が可愛いかな? と解き、あ、あのバレッタとこだっけ? などと久々に女子力を上げていたら、気付けば時計は電車に乗っているはずの時間になっていた。駅までダッシュでも十分以上かかる。つまり単純に考えて十分以上は遅刻である。折角セットした髪を振り乱して駅に着いたものの、結局は十五分の遅刻になってしまった。
「もう本当いい歳して、起きてんのに遅刻するって……気をつけてよ」
はい……と私は項垂れる。返す言葉も無い。
そんな私を見て、パンッとエマが手を叩く。
「よし、じゃあこの話はもうおしまい、あのね、今日はちょっと、人が多いところに行きたいんだよね。ディズニーでも渋谷でも新宿でも、どうかな?」
どうかな、ではない。なんの目的があるのか。人が少ないところ、ならまだわかる。けれどもわざわざ多いところに行きたい、というのは、なんだかはっきりと言ってしまえば結構怪しい。
「まずさ、ディズニーだとしたら、もう出遅れてるよね」
スマホサイトで確認すると、今日のシーは九時開園。ランドに至っては八時開園なので、下手したらそろそろ一回朝ご飯でも食べますか、という頃合いだ。
「え〜、ひかるが遅刻してきたせいじゃないのー」
「違うわ! そもそも朝思い立ってディズニーに行けるほどの経済力、ストレート公立育ちには無い!」
「え、なんか、ごめん」
「いや……経済格差は私達のせいじゃないから、エマが謝る話じゃなかったよね、うん、いやそんなことよりね、そもそもどうしてそんな人が多いところに行きたいの?」
謝罪を受け止めるのもなんだか変な気がして、私はそれをスルーして本題に入る。
「実はね……婚約者から逃げたいのよ」
「は?」
私はたっぷり十秒は口を開けた状態のままフリーズしていただろう。なんだ婚約者って。いにしえの少女漫画の世界か。
「んーとね……」
と、エマの話しだしたことを掻い摘まむと、エマには婚約者が居る。従兄弟だし、悪い奴ではない。ただ恋愛感情が湧く感じではないし、自分は恋愛結婚がしたい。
その従兄弟が、今日エマの家に来るらしい。もうエマは十六歳だし、従兄弟もエマと同い年の高校二年生。来年には結婚出来る年齢になってしまうから、下手したらそこへ向けて結婚の日取りでも決められてしまうんじゃないかと不安になり、よし、家出しよ! となった、らしい。
「いや馬鹿なの?」
馬鹿というか、世間知らずというか。
「まず、ディズニーは監視体制すごいから、園内に居るってわかったら、すぐ見つかっちゃうよ」
「そうなの?」
「だってあんなに広くて人も多いのに、迷子放送とか、迷子の子見つけたことすらないでしょ? あれは全部キャストさんが目を光らせてるから……」
つまりは、エマの願望を叶えるには、まさかこんなところに居るわけがない、という場所で、尚且つ迷子や行方不明者を探すノウハウが無さそうなところが良いだろう。
うん、ひとつだけ当てがある。
そしてエマは思い至っていないだろうが、相手と顔を合わせたくないのならば、多分うちで一泊はしないといけない気がする。それをどうにかするためにも、嫌だけどあそこに行くしかない。仕方ない。遅刻した身だし。
「エマ、大学に行くのはどう?」
大学のキャンパス内なら、私服の十代後半がうじゃうじゃいるし、潜り込むのも容易い。まさかエマがそんなところに居るとは誰も思うまいし、例えバレたとして、大学には迷子や行方不明者を探すノウハウなんてないだろう。
そう言うと、エマは、「やっぱ持つべきものは公立ストレート!」と悪い笑みを浮かべて叫んだ。さてはさっきの根に持ってるな。
「で、ひかる、行く大学に当てはあるの?」
「うん、まあ去年、兄の冷やかしがてら学祭行ったから、香大かなあ、こっからバスで一本だし」
どうかな、とエマの顔を覗き見ると、
「香大かぁ、ひかるのお兄ちゃん、頭良いんだね」
なんてなんの気なさそうに言いながら、心なしか緊張しているような表情をしていた。いざ行く場所が決まったら、急に逃げ切れるか不安になってきたのだろうか。
私は大丈夫だよ、と腕を取る。
正直私自身はぽんこつだが、まあ最悪大学には腹が立つくらい要領のいい兄が居る。出来るだけ頼りたくはないけど。
マスターにありがとうございます、と告げ、今回も千円を出しおつりをもらい、私達は駅前のバスロータリーへと向かった。
バスの中で、エマは無言だった。
頬杖をついて車窓から外を見つめる彼女の横顔は、絵画から飛び出して来たみたいで。写真撮ったらバレるかな、怒るよね、なんて、思わず私は考えてしまった。
◆
大学は今は授業中なのだろうか。思っていたより人の出入りは少ない、が、別に今、私達が門を潜ろうとも、全く違和感はなかった。ポツポツと人がいる中で、私は少し尻込みしているエマの腕を引き、目的地までどんどん歩いていく。
「ねえ、ひかる、地図とか見ないでガンガン行ってるけど、どこ向かってるの? まさか適当に歩いてるんじゃ……」
そう怯えるエマを振り返らず、私は前を向いて歩きながら返事をする。
「私、実は地図強いんだよね。一度行った場所なら、よっぽど変わってなければまた辿り着けるし」
「野生だ……」
なんだって? とガンを飛ばしたくなるが、我慢。
「ほら着いたよ」
そこは広いホール。右手には図書館があり、左手にはチェーンのコーヒー店。確か真っ直ぐ行けば、コンビニもあるはず。去年の学祭の時、ここで友人の夢とたこ焼きを食べながら、右手の図書館に思いを寄せたのだ。
「なんか……」
とエマが話し始める。
「あそこの図書館、木を感じるというか、ちょっと古いのかな? なんだかすっごいそそられる」
「良かったー! 私も好きなの! なんか魔法使いとか居そうな図書館でしょ? 入ってみたいなって前来た時思ってて……」
そもそも私とエマの出会いは図書館だ。多分本がたくさんあるところへ行けば、間違いない、という浅はかな考えは、大当たりだったようだ。
「じゃあ、時間は山程あるし、早速本読も!」
私がそう言い腕を小さく掲げると、エマも「おー!」と小さく腕を掲げた。
図書館の中は、本当に魔法使いの部屋のようだった。床から吹き抜けの天井の上の方まで木の本棚で占められていて、暖かい色のライトがそれを淡く照らす。無機質なグレーと白い明かりにばかり溢れたこの世界で、その柔らかい色のコントラストは涙すら出そうだった。
そんな私を置き、エマはどんどんと棚を物色して行く。多分エマの学校にもこんな歴史のありそうな、素敵な図書室があるのかもしれない。或いはエマの家に、かもしれないけど……。
この場所に感動できる人生と、感動しないくらい日常に溶け込んでいる人生、どっちが幸せなんだろう。どっちとか比べることでもないんだろうけど、つい考えてしまう。でももしかして私も、素敵なものを日常に溶け込ませてしまって、感動の瞬間を見落としてしまっているのだろうか。
そんなセンチメンタルな思考に耽っていたのも束の間、最近名前を耳にして気になっていた作家さんの、表紙が絵の具を一息で塗ったようなペールブルーをした素敵な本を見かけた私は、流れるようにそれを手に取り、気付けば近くの椅子に腰かけ、本を抱え込むようにして読んでいた。
本を抱え込み、貪るように読んでいる瞬間って、丼ものをかきこむ瞬間に似ている気がする。周りの視線とか全く入ってこなくなって、ただ目の前の物を摂取したいという、その衝動だけで突き動かされている。勿論そうでなくて、コーヒーや紅茶を飲むように、ゆっくりじっくり味わう人もいるだろうけど。
中身が短編集だったので、幕間にそんなことを考えていた私は、あとがきの後の解説までしっかりと食べつくした後、そういえばエマどこに居るんだ? と慌てて顔を上げた。
そういえば、ではない。これが本命本題本当の任務だ。全く私は何をしているんだ、と勢いよく立ち上がり、本棚たちは一度無視して館内をどんどん進む。あの日エマに出会った図書館よりも一つ一つの本棚の背が高くて、照明まで絞られているものだから、奥に行けば行くほど非現実的さが増すというか、例えるのならばRPGゲームの洞窟ダンジョンでも進んでいっているような気分だった。入口から中腹の大きなテーブルが置いてあった辺りまでは、まだ人の気配も色濃かったのに、この辺りはもうちらほらと居る人も、本の世界の中に軸足を置いてしまっているのか、気配らしき気配を発していない。そう考えると、本はこの世界のワープホールなのかもしれない。いよいよRPG味が増す。
そうして一番奥の方まで本棚のトンネルを進んで行くと、急にお洒落照明の色に、白い太陽光が混ざる。その光のあるところ――なんの装飾もない、ただ綺麗に磨かれたガラスが一枚はめ込まれた窓の元に行けば、やっぱりそこでエマは何かの本を読んでいた。
エマも本を読んでいるときは、気配が薄くなるのか。でも半ば自動的に発されている、オーラみたいなものは変わらない。このオーラに見惚れて、魅入られた人って、この世にどれくらい居るのだろうか。もしもエマが私と同じ共学の高校に通っていたら、同学年、いや同じ学校の男どもは大変なことになっていただろう。まあ、白女でも大変なことになっている可能性も否めないが。エマを見ていると、飲み込んだ息が熱くなって、胸から喉の先までその熱でじんわりと溶かされているような気分になるのだ。恋より穏やかで、友情よりは熱烈なそれを、私は一先ず『憧れ』とでもラベリングしておくことにした。
睫毛も色素薄いんだ。とぼうっと眺めていたら、流石に目線を感じたのだろう、急に「ハッ」っとでもいうような効果音がしたように、空気が動く。でも目線の主が私だと気付いた瞬間、使い古された表現だが、本当に花が綻ぶようにぱあっとエマは笑った。私は花が咲く瞬間は見たことがないし、いくら昔の人がゆったりのどかな暮らしをしていたんだとしても、みんながみんなその瞬間を見れる訳がないと思う。だからきっと本当は、花に人が例えられてるんじゃなくて、花が人に例えられていたんだろう。エマには花と同一視してしまいたくなるような、そんな可憐さと強さがあるように思えるのだった。
「ひかる、見すぎ」
とエマに窘められた私は、思わず
「だって、めちゃくちゃ綺麗なんだもん」
と正直に答えてしまう。
けれどエマはそんな私の返答にも臆さず、
「確かに。このガラス、このサイズでそれなりに古そうで、こんなに透き通ってるのすごいよね。作った人も、掃除し続けてきた人も、使ってきた人も、ここから光が入る景色が好きだったんだろうね」
としっかり話を自分から逸らす。今まで嫌っていうほど褒められてきたんだろうな……とふと脳裏に兄のことが過ぎる。外面がまあまあ良い兄は、親戚の集まりなどで褒められる度にこうしてのらりくらりと自分から話を逸らしていくのが上手かった。隣で聞いていただけだけれども、悪意がなかろうとずっと自分の話をされ続けることの居心地の悪さは、なんとなく想像がついた。でもそれでも人は、つい誰かを褒めてしまう時があるのだ。まったく、独りよがりで自分勝手な愛情表現である。
そんなことを脳の七割は使って考えながら、残りの三割でエマと小声で(周りに誰もいないとはいえ、ここは図書室だ)適当な会話をする。どうやらエマ自身もまだ本の世界に軸足があるようで、お互いいつもよりふわふわと実のない話をしていたように思う。そもそもいつもとは? という程度しか顔を合わせていないってことは置いておいてほしい。現代社会はSNSが主軸ですらあるので。
そんな会話を重ねながら、お互いにもう読書には戻らないな、と察した私たちは、図書館から移動してランチでも摂ろうか、ということになった。もう既にここに到着してから三時間以上経って、ちょうどお昼時になっていたので、きっと教室外にも人がたくさん居ることだろう。より目立ちにくくなって安心だ。
「私どっかのベンチでサブウェイ食べたーい」
とエマは満面の笑みで、どうやらピクニックの計画でも立てているようだった。呑気なやつだ。
「いいよ~、てか香大にサブウェイあるのよく知ってるね」
「私、一応香大も志望校に入ってるからさ」
「あら、かーしこい」
「まあ学校的には外部受けるんだったら、もう一ランクくらい上のとこ行ってほしいみたいなんだけどね」
「わーお。白女って頭良いけど、エマって流石にその中でも上位層だよね?」
「それは否定できないね。一応定期テストとか校内模試の順位も悪くはないし」
「エマの言う悪くないって、メダル貰えてそう」
「それは流石にやばいだろ、流石に苦手科目は二桁台になっちゃうよ」
「二桁台って十何位ってこと? 逆にそれ以外は一桁なの? 冗談で言ったのに本当に大体メダルは貰えてるじゃん」
「そのアスリート方式なんなの? オリンピック出てるわけじゃないのよ」
そんな話をしながら歩いていくと、あっという間にサブウェイに着いた。
「テストの順位より、一回? とかしか来てないこんな広い大学に一個しかないサブウェイに、迷いなく辿り着けちゃう方がすごいと思うけどな」
とエマがしみじみといった感じで褒めてくれたので、褒められ慣れていない私は「てへへ」と鼻の頭を掻いた。慣用句というのは、本当に人が使ってしまう動作を適切に表しているんだな、と私は心の中で昔の人の観察眼、表現力に拍手喝采を送っていた。
◆
それぞれお気に入りのサンドウィッチを紙に包んでもらい、私たちは『座りたい』空きベンチを探す。座りたいというのが重要で、例えば校舎の脇の日陰だったり、めちゃくちゃにうるさいサークルが陣取っている席の隣なんかは勿論NGだ。どうせなら日の当たる心地の良いところでランチをしたいというのは、至極当たり前の発想だろう。でもそう思うのはどうやら私たちだけではないようで、そういうベンチは大体埋まっていたり、席取りに荷物が置いてあったりした。
「もうなんか芝生でピクニックしちゃう?」
とエマは言うが、
「芝生に直で座るのはちょっと嫌だなあ」
と私は思ってしまう。デニムとかの日ならまだ良いんだけど、なんせ今日は可愛いワンピースだし。
「私のストール敷けば良くない?」とエマがどこからかラベンダー色のチェックのストールを出すが、良いわけがない。
「こんな淡い可愛い色のストール、汚れちゃうでしょうが」
「ちょっと芝生に敷いた汚れくらい、洗えば落ちるんじゃない?」
「そうなんだけど……いややっぱ上乗りにくいわ」
最早私の気持ちの問題なんだけども。せめてブラウン系のストールだったら良かったんだけど。春色っていうのが更に乗りにくい。私の靴下綺麗だっけ? と地面に敷く以前のことも考えてしまう。
「ちょっとワンチャンね、当て的なものに聞いてみるよ」
と私はスマホを取り出しスワイプ、スクロール、そうやってラインの連絡先から、兄の名前を選ぶ。
『今色々あって香大に居るんだけど話あるから来てくれませんか! あと出来たらレジャーシート欲しい』
そう送ってから、流石に人にものを頼む態度としては不十分かも、と反省し、『おねがいします』とうさぎが手を合わせているスタンプを添えた。
それから十秒もしないうちにスマホが鳴りだし、画面に『兄』の文字が映し出される。私が連絡したんだけどさ、トークで返してくれたらいいのになんで通話にしたんだ……と思いながら、エマに「一瞬電話出るね」と断り通話ボタンをタップした。
「もしもしお兄ちゃん」
『あーやっぱひかるか。お前俺のライン知ってたんか』
そこからかい、とツッコみたいのを堪え、適当に相槌を打つ。よく考えたら兄とスマホで連絡を取るのなんて、何年振りだろうか。
「色々あって香大に居て、あと色々あって友達家に泊めたくて……あとお昼ご飯食べる良い場所かレジャーシートない?」
『お前今どこに居んの?』
「サブウェイから五分くらい、あのー……生協? がある建物の方に向かって歩いてきたとこ。芝生と木と若干のベンチしかない」
『あ~じゃあそっからセブンの方に向かってくと、なんかテーブルとベンチあるとこに出るからそこで飯でも食ってて。まあぼちぼち行くわ』
「ウス、ありがと」
何がありがとじゃ!!!! 自分きも!!!! と思いながら通話終了のボタンを強くタップしたので、指が曲がり痛い。何をやってるんだ私は。
「噂の芋けんぴのお兄さん?」
とエマが首を傾げながら私の顔を見上げる。
「あざとい……」
「え?」
「今のあざといは百褒め言葉だからね。うん、芋けんぴも食べてた件の兄だよ。なんかちょっと歩くとベンチとテーブルあるとこあるみたいだから、そこ行こ!」
私は話を逸らすようにエマの手からストールを奪うと、そうして空いたその手をぎゅっと掴んだ。
「ひかる、手ぇ冷た」
とエマが言うが、多分エマの手があったかすぎるだけである。
そうして体感おおよそ五分で、私たちは芝生の上にベンチとテーブルが並ぶ一角を見つけた。有難いことに、テーブルこそ十はありそうなのに、人といえば私たちの他は二組しか居ない。陽も当たるし景色も良いし、若干色んな建物から遠い分、穴場なのだろう。悔しいがこれはありがとうを言わざるを得ない。エマの可愛らしい春色ストールも守られたし、ここはたまには素直に感謝すべきだろう。思春期女子にはかなり難しいものがあるが。
なんとはなしに一番奥のテーブルを陣取ることにした私たちは、それぞれのサンドウィッチを並べ、いざ、「いただきます」を唱えた。エマはおもむろに鞄からタンブラーを取り出し、それを見た私は「育ち良いかよ」と感動するとともに、自分には飲み物がないという事実に気付く。まあ食事の時に必ずしも水分が欲しいタイプでもないし、なくても良いんだけど、エマの前に広げられたグリーンの多いサンドウィッチとピンクチェックのタンブラーのコントラストを見ると、ただサンドウィッチだけじゃ寂しいなという気がしてくる。
そんな私に気付いたのか、エマは「アップルティーなんだけど一緒に飲む?」と言ってくれる。優しい。でも私はとってもとっても罰当たりだが、
「気持ちはありがたいんだけど、私これ、ドレッシングわさび醤油なんだよねえ……」
と断ってしまった。だって実際、わさび醤油に甘い香りのアップルティーはきついって。
それを聞いたエマも、
「確かに。てかわさび醤油なのね、それはちょっとアップルティーどうなのって感じあるねえ」
と同意してくれたので、しょうがないことなのである。うん、しょうがない。
「ところでエマは何のサンドで何のドレッシング?」
「私はローストチキンにオイルビネガー塩こしょうのこしょう多め。ひかるは?」
「私はえびアボカドにわさび醤油~レタス少な目オニオンピーマン多め、ピクルス追加」
そう言い私はエマの前にサンドを差し出す。
「うわ、わさび醤油にピクルスはないって」
「まあ正直優柔不断すぎるかなってとこはあるけどさ、でもピクルスって、基本バーガーやらサンドでしか出会わないじゃん」
「瓶詰で売ってるよ?」
と正論をかましてくるエマに、
「違うんだって、ピクルスはおまけみたいに数枚だけ間に入ってて、『味変』みたいなのが良いんじゃん」
と返す。けれどもエマは、
「わからんわ……わたしそもそもピクルスそんな好きじゃないんだよね」
と身も蓋もない返しをしてきた。でも正直、話の途中からそんな予感はしていたのである。
「まあ確かに結構ピクルス嫌いな子多いしね。マックとかでもよく抜いてる子居るし」
「私は抜くほどではないんだけど、なんだろ……種なし葡萄に入ってる種みたいなもんだと思ってる」
「それって言いたいことはわかるけど、言葉だけ聞くとゴミ扱いしてない?」
「葡萄側からしたら実なんかより種のが全然大事なんだけどね」
「それはそう」
どうして今日のランチ紹介が、こんな瞬く間にゴミの話になってしまったのだろうか。食事中、ましてやこんな麗らかな屋外ランチでする話題では絶対にない。お花とかの話をすべきだ。きっとエマのお洒落なアップルティーも、こんなはずじゃなかったと泣いていることだろう。
そんなこんなで、サンドに齧り付きながら談笑していたところで、エマが一瞬フリーズする。
「エマ?」
と私が問いかけても反応はなく、エマは私の後ろに目線をやっている。ん? と思い振り返ると、そこには兄が居た。
「お兄ちゃん?」
と私が言うと、兄はハッとした顔をして私の方に目をやる。あれ、じゃあ兄は、私に気付いてこっちに向かって来ていたわけではないのか。そりゃあそうか。私背中しか見えないし。座っているから背格好もわからないし。
「お前、どうしたの?」
と言う兄に、私は
「エマと知り合いだったの?」
と尋ねる。でも兄はケロッとした顔で、「知らん」と答える。そんなわけあるだろうか。街で無関係の人を見るときって、知り合いに似てるとか、あとめっちゃ綺麗……芸能人か? と思った時とか? と思ってから、いやエマならめっちゃ綺麗枠で見つめられることもあり得なくないぞ……、と気付く。でももしそうだとしたらなんか冗談でも触れにくいな、と私は一回『どうして兄がエマを見ていたのか』というテーマから考えを逸らすべく脳内で自分の頭をぶんぶん振った。
その妙な空気を読んでくれたかのように、エマがテーブルに置いていたスマホが振動し、そのバイブ音が響く。
「うわ……従兄弟からだ。うん、無視しよう」
そう言って画面を伏せてエマはスマホをテーブルの端の方へ追いやる。そうして知らんふりを決め込んだが、バイブ音は何度も何度も一旦止まったと思っても少しするとまた鳴り出す。恐らくこの一旦の空白は、留守電なり、繋がりませんでしたなりの音声ガイダンスになっている間ということだろう。いや一体こいつ、何回切断されて掛け直しとんねん、とまだ顔も名前も知らない奴だが、そのしつこさに少し辟易してくる。いやここは流石に根気強さと言っておくべき? 私には直接関係のないやつとはいえ、曲がりになりもエマの従兄弟なわけだし……。
なんて思っていて、およそ五分ほど経ったところだろうか。ようやく連続したバイブ音は収まったような気配を見せた。耳がおかしくなってしまっていて、耳鳴りなのかまだバイブ音がするような気がするけど。
「エマの従兄弟相当しぶとくない?」
「そうなの。そもそも私のことどうこう以前に、彼、結構真面目にコツコツ努力系の人だから」
「コツコツの出しどころ絶対ここじゃないっしょ」
「それはそう」
なんて会話をしていると、またバイブ音が鳴る。なんだかんだ、これは幻聴じゃない本当の音だって鳴ればわかるものだ。とはいえ今度のバイブは直ぐに収まって、ふう、と私とエマは胸を撫で下ろす。諦めたのかな?
しかしそんな私とエマの表情を読んだように、お兄ちゃんは「このバイブ、ラインとかメッセージ系の通知音じゃないの?」と的確な指摘をしてくる。
「確かに」
と私が言ったのと同時に、エマから「うぇっ」と今まで彼女からは聞いたことのない類の奇声が漏れ出てくる。
「何、どうしたの?」
ん、とエマが突き出したスマホの画面を覗けば、そこには『学校に連絡したら今日体調不良で休んでるんだってな。でも家には居ないし、何かに巻き込まれてるかもしれないので、叔母様に一報入れるわ』とのラインが来ていた。
「うわっ言い方が陰湿ぅ……」
「ほんっとこういうとこがウザい! ちょっと電話してくる!」
とエマはスマホをグッと握り締めながら画面を操作しつつ、歩道から逸れた奥の方へ歩き出した。この感じで歩きスマホしてたら木とかにぶつかっちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしながら見ていたけど、流石にそんなことはなく、無事木の奥に落ち着いたようだった。
「まあこれは確かに面倒いな」
とお兄ちゃんが笑いを堪えそうな顔で言うので、私も「だよね〜」と苦笑いして返す。エマの従兄弟には悪いが、さっきから苦笑いばかり出てしまう。
っていうかやっぱりお兄ちゃん、機嫌良くない? エマのことタイプなのかな? まあタイプじゃないにせよ、エマは十人居たら十人が整っていると答えるであろう容姿だし、嫌な気になることはないか、と思う。けど「他人になんか興味ありませ〜ん」みたいな顔して飄々と生きている兄のそういう普通の男子みたいな面を初めて見たので、なんだか気恥ずかしさと、後勝手にちょっと、「お兄ちゃんにも人の心があるんだ」と安堵のようなものも覚えた。こんなこと考えていると本人に知れたら、どんな目に遭わされるかといった感じなので、絶対口にも顔にも出せないが。でも幸いにも兄ほどでないにせよ私もポーカーフェイスな方ではあるので、悟られずに済んだようだった。
「にしたって電話長くない?」
「あいつ、あれで案外口上手くなさそうじゃん、丸め込まれてるんじゃないの?」
ん? と私はお兄ちゃんの言い方に引っかかる。アイツ、って今日初めて会った子に言うか、失礼じゃない? やっぱり知り合いなのだろうか。でもだとしたらお兄ちゃんもエマも急に遭遇しただろうに落ち着きすぎだし、そもそも私に隠す必要もない。お兄ちゃんだけ一方的に知ってるとか? とも思ったけれど、それもよくわからないし、そうだとしてもやっぱり隠す必要なんてないと思う。うーん、と考えながらお兄ちゃんの顔をジロジロと見ていたら、「何見てんの、キモ」と器用に眉だけ顰め、さっきまでとなんら変わらない声のテンションの暴言を浴びせられた。これはあれだ、やっぱりこいつがただ単に失礼なやつなだけだ。私はジロジロ見つめる代わりにキッと睨み返し、ブンっと思いっきり顔を背けた。…………。
「にしたって電話長くない?」
「それさっき聞いた」
「そのさっきから五分くらい経ってない? 五分は言い過ぎかなあ?」
と私が再度お兄ちゃんの顔を見ると、今度はお兄ちゃんは私の視線に文句を言うことはなく、ただエマの方を眺めている。すると突然、「もうさ」と私の方に向き直す。
「流石に助けてあげれば?」
「お?」
「お、じゃないよお前が助けんだよ。ここにでも相手のやつ呼びつけて、ひかるも加勢してやれば?」
「うーん、でも私も別に口が上手いとかではなくない? いつもお兄ちゃんに負けるし」
「とは言っても並くらいはあるだろ。あいつら話が堂々巡りしてそうな時点で多分どっちもそんなに話すの上手くないんだろ。どっちかが口が達者なら、こんなに時間かからずそうじゃない方が丸め込まれてるだろうから」
「たーしかに」
「馬鹿みてえな顔してないで行ってこい、よっと」
と勢い良くお兄ちゃんに押し出された私は、おっとっと、とよろけそうになったもののなんとか体勢を立て直し、エマの方へ歩き出す。どうやらエマの方も私とお兄ちゃんのやり取りに気付いていたようで、電話で何やら言い合いのようなものはしつつ、私の方に目線をくれた。
電話に音が乗らないよう静かに、でも早足でエマの方へと駆け寄り、私はスマホのメモ帳に『埒があかなそうだから従兄弟ここに呼んで直接話さない? そうすれば私も多少は加勢出来るだろうし』と爆速フリックで打ち、無言でエマの目の前にかざす。
するとエマの顔がぱあっと明るくなる。余計なお世話って思われるかな、って少し不安だったけれど、どうやらそんなことはなかったらしい。エマは空いている方の手で「感謝」のポーズをして見せてくれた。私はそれにグーサインを返し、また来た道を静かに、でも早足で戻っていった。
そんなこんなで、エマの従兄弟を無事香大に呼び出すことが出来た私たちは、あの気の狂いそうなバイブ音地獄から抜け出すことが出来たのだった。
「っていうかさーお兄ちゃん、香大でなんか喧嘩しても良い場所ってある?」
「武道場とか?」
「そうじゃなくって、エマと従兄弟が声とかヒートアップしても平気そうなとこ」
ねえ? と私がエマに同意を求めようとすると、エマはふふ、と笑いお兄ちゃんを見ている。あれ? とお兄ちゃんを見れば、お兄ちゃんは嫌味ったらしくほくそ笑んでいて、これは二人の間だけで何かの意思交換が出来ているような感じだ。ちょっとジェラシー。
「イオは……あー従兄弟はね、結構真面目なやつでね、例えばカフェとかで大声出せるタイプじゃないのよ」
エマがそう言うが、私はその言葉の真意を掴めないでいる。するとお兄ちゃんが、
「つまり、逆に人目のあるところに行けば、その従兄弟とやらも変にヒートアップしすぎたりはしないだろうってこと。まあお前が居る時点で多少はマシになると思うけど」
とやっぱりちょっと得意げな、腹立たしい顔で付け足してきてくれた。有難いけど、やっぱムカつく。
◆
エマの従兄弟と私たちは、香大の広さも考え、西門から程近いスタバで待ち合わせることになった。駅からの最短距離で考えればもう少し近いカフェもあるのだが、近くに目印がないと多分合流出来ないだろうという、私たちからの配慮だ。
個人的なイメージでスタバといえば大体いつも混雑しているイメージだったのだけど、ここのスタバはすんなりと入ることが出来た。
「スタバなのに四人席とかあるんだね、珍しい気がする」
とエマが言うと、
「授業のグループワークの話し合いとか、サークルで集まったりとか、以外に大学生って群れるからな」
とお兄ちゃんがポンと返答する。
「へぇ……なんか大学のキャンパスって感じですね。いいなあ」
とエマは急に私じゃなくお兄ちゃんに返事をされたのに、臆することなくさらっと敬語に切り替え会話を続ける。なんか二人とも、会話検定一級って感じだ。私もこれから現れるエマの従兄弟と初対面で何かしらのやりとりをしないといけないのかもしれないけれど、はたしてこんなにテンポよくできるだろうか。私だって会話検定準二級くらいは持ってるつもりだけれど、初対面の、しかも揉めている友人の従兄弟と話すって、普通に生きていたら経験しないシチュエーションの可能性大だし、もし大人からすればよくあることだとしても、高校二年生からするとまだ少し早い課題だと思う。
こうして私は、考えれば考えるほど緊張して、エマとお兄ちゃんが何を話しているか追えなくなって、話がわからないのでますます一人で考えては緊張し、という負のループにしっかりとはまっていた。
程なくしてレジカウンターで私たちの番が来て、お兄ちゃんが「流石に高校生には奢ってやるわ」と言うので、有り難く私はソイラテをデカフェ変更、サイズは一番大きいベンティで頼む。せっかくの奢りだからカスタマイズしまくったフラペチーノなんかも頼みたい気はあったのだが、正直さっきからもう喉がカラカラで、甘いものよりもゴクゴク飲めるものが欲しかった。でも自分でスタバに来たら数十円の違いだが、その数十円を惜しみソイミルクに変更しないしベンティサイズにはしないし、さらにデカフェ変更もしない。人のお金だからこその贅沢ってわけだ。我ながらめちゃくちゃ性格悪い。
するとエマも気を使ったのか、「じゃあ私もラテを……流石にサイズはトールで」と言ってきた。待って待って、甘くないの飲めるのか? と思ったらすかさずお兄ちゃんが、
「甘いのにすれば? 期間限定のフラペチーノでもこいつの頼んだやつと値段も然程変わらないし」
と有難い助言をしてくれた。私もすかさず、
「エマ甘いの頼んだら、一口ちょうだい〜」
と付け足す。
「ええとじゃあ……お言葉に甘えて……この期間限定のベリーチーズフラペチーノを……」
と無事エマも(多分)自分の飲みたいものを頼んでくれた。私が軽い気持ちでソイラテなんて言ったから気を使わせちゃって、本当申し訳ない。こんなんじゃ私の会話検定、準二級すら不合格かもしれない。
私は口には出せないけれど「ごめんね」の気持ちを込めて、自分より高さもサイズもずっと小さくて華奢な頭を、そっと撫でた。
「えっ何?」
「なんでもないよ」
「絶対小さいなって思ってたでしょ?」
「絶対なんてこの世にはないから! ほら、ドリンクもらいに行こ!」
いざフラペチーノさえ手に入れれば、多分そっちに夢中になってくれるはず。そう思った私の読みは無事当たり、エマはピンク色のフラペチーノを抱え「かっわいい……」と感嘆の溜息を漏らしていた。
「席、こっからなら窓からも入り口からも見えるからここで良いか?」
との兄の提案に、「はーい」と手を挙げた私たちは、その兄にどうぞと指し示されたので、一先ず対面で座ることにする。で、兄はどこに座るのかと思いきや、そのすぐ側のカウンター席に着いた。
「お兄ちゃん、一緒に座らないの?」
「いざ従姉妹に呼ばれてきたら、知らない女が居るだけでもうわって感じなのに、加えて知らない年上のでけえ男が居たらどうよ」
「こわい」
「そういうこと。でも一応乗りかかった船だし、最後まで様子は見てるから」
お兄ちゃんのその言葉は私と言うよりエマに向けられたような言葉で、でもと言うことはつまりエマのこともちゃんと助けてくれる気なんだろう。うーん、こいつやっぱり面食いなんだろうか。有難いけれど私への何年分かの優しさをエマにも与えているのは、なんだかむず痒い。でももし、お兄ちゃんが後日エマの連絡先知りたい、とか言ってきたら、出来る限りのエマへの説得くらいはしてあげよう。と私はもし頭の中を読まれでもしたら、お兄ちゃんにもエマにも一生口を聞いてもらえなさそうなことを考えながら、「ありがと、よろしく」と伝えた。
でもなんでだろう、不思議とエマとお兄ちゃんがデートしている絵面を思い浮かべたら、さっきまでの緊張も解れてきたようだった。
飲んでも飲んでも減らないベンティサイズと、エマと二人での気楽なお喋りのせいかすっかり気の抜けた私は、入り口から入ってきた一人の男子にも、特に何も思わず——いや、正確には「色素薄い系イケメンじゃん、やっぱ香大だしモデルさんとかかな?」くらいは思った——、一瞬目線をやった後すぐに目の前のエマへと視線を戻す。
しかしお兄ちゃんの殺気と、それに気付いたエマの同じく殺気で、あ、多分これがエマの従兄弟なのでは? と気付いてしまう。色素薄くて顔整っているはもう血筋なのよ。あーこれ絶対従兄弟だ。そう。
覚悟を決めたような顔で入り口の方へ振り向いたエマは、やはりその男子を見つめると、
「久しぶり」
と聞いたことのないような硬い声で、苦々しそうに言う。すると、
「エマもお元気そうで」
と恐らく、従兄弟の方も硬く、苦々しそうに、挨拶を返した。
しばしの沈黙が流れたまま、椅子に座ったままのエマを座りもせず見下ろすように、従兄弟さんもフリーズしている。
「取り敢えず、コーヒー、何がいいですか? あのほら、そう一言二言で済む話でもないでしょう?」
と私が恐る恐る切り出すと、お前は誰だ、とでも言う風に彼の視線が私へと向く。まあそりゃあそうですよね、急に従姉妹に言われたスタバに来たら、見知らぬ女が仕切りだしてるんだもの。でもこうでもしないとあんたたち何時間電話で言い合うことになるんだって感じだったし、あとまず人に名乗らせたい時は自分から名乗れって教わらなかったのか?……でもこの理論でいくと、従兄弟さんに名乗らせたいのは私でもあるから私から名乗るべきでもあるのか? ちょっともう、自分でも何を言っているのかわからなくなっているが、そういえば私、実はまだ挨拶もまだまともにしてないじゃん、と慌てて立ち上がる。
「あー、あの、初めまして。私はエマさんの友人で、瀬名光と申します。訳あって一緒に今日おりまして。えっと……イオさん?」
「あ、名前知られてるんですね。そうです。よろしく」
「こちらこそどうぞよろしくお願いします。ところで、コーヒー、何飲みます? ブラックで?」
「あ、自分で買ってきますので」
そう言うとイオさんはやっと動き出し、レジカウンターの方へ向かう。その少し硬くて規則的な動きが、まるで壊れたゼンマイのおもちゃが動き出したみたいだったな、とちょっと面白くなりながらも、チラリと目をやれば他の登場人物は全員ちっとも楽しげな表情をしていなかったので、慌てて取り繕いながらしれっとエマと隣に席を移す。エマとイオさんが横並びで言い合いしているのを眺めるのはシュールすぎるし、まだ名乗り以外の自己紹介を済ませていないのに、イオさんの隣に私が座るというのも変だろう。エマの向かいにイオさん、エマの隣に私、が一番収まり良くしっくりとくると思う。
向かいのテーブルに腕を伸ばし、ペーパーナプキンで水滴を拭いているうちに五央さんは戻ってきて、迷わず私が元居た席に着く。うん、大正解。
予想通りブラックのアイスコーヒーを手にしていた彼は、それを一口啜った後、エマと私の方へ目をやる。エマはといえば、そんなイオさんにしばらく目を向けていたかと思えば、空気に耐えきれなくなったのか、私の方にまるで助けでも求めるような目線を向ける。え、私がいきなり話し始めて良いんですか? とイオさんの方へもう一度、目をやると、そのイオさんも私の方をエマとそっくりな顔をして見ていた。あー、こうしてよく見れば顔立ちも似ているかもしれない。エマの方がわかりやすくハーフっぽい顔立ちだけど、うーん、もしかしたらエマとイオさんはパーツ配置が似ているのかもしれない。
そんなことをぼーっと考えてしまっていて、おっといけない、ともう一度二人を見ても、やっぱり同じような顔で助けを求めている。取り敢えず最初は二人で話してみてよ、という気がしなくもないが、電話で長らく堂々巡りの話し合いをして疲れているのかもしれないし、一先ず慣れない仕切りをやってみるか……と私はまずエマの方に身体を向かせる。
「えーと、まずエマは、今日一緒に家に帰ったら、無理矢理婚約の話が進められそうで嫌だから逃げてるんだよね?」
「そう。だってこんななんでもないど平日に、わざわざイオを日本に呼び寄せたんだよ、絶対何かあるじゃん!」
「ん、ちょっと待って?日本に呼び寄せたってことは、イオさん普段は海外に居るの?」
私が驚いてイオさんの方を向くと、五央さんは、
「ここ十年くらいは基本的にイギリスに住んでて、長期休みの時に一週間くらい滞在するかな、って感じですね」
としれっと返す。この人わざわざイギリスから何時間もかけて日本まで来させられて、こんな目にあってるの、普通に可哀想すぎないか? と私は流石に同情を覚える。でもエマの言っていることも確かで、わざわざ春休みだったりゴールデンウィークでもないこの中途半端な、しかも平日に呼び出すってことは、絶対に何かあるだろう。
「変な話ですけど、イオさんはエマとの婚約どう思ってるんですか? エマが嫌がってるのは勿論知っていると思うんですけど、イオさんは勝手に決められて、別に良いんですか?」
私はてっきりイオさんはエマのこと好きなのかな?と思っていたのだが、イギリスからわざわざ呼び寄せられているという力関係的に、もしかして五央さんはただ拒否権がなく諦めているだけなのかもしれない、と思ったのだ。まあイギリスから飛んでくるほど好きって可能性もあるけど。
でもなんとなーくの印象でしかないけれど、「手に入れるためならば手段を選ばない」って感じではなさそうだと思うのだ。この人がもしエマに恋愛感情を持っていたとしても、「結婚出来てラッキー」とはならず、罪悪感を抱きそう。でもそういった感じでもない。
「どう思っているかと言えば、ずっとそういうものだと言い聞かされて育ったし……抵抗しても無駄だってわかっているから、もう割り切って取り敢えず一回結婚するしかない、と思ってます。エマだってわかってんだろ」
イオさんはそうやってエマを睨みつける。っていうかイオさんも前は抵抗していたのか。無駄ってどういうことなんだろう。
すると今度はエマが、
「わかってるけど……でもイオはそれで良いの?」
と五央さんを睨みつける。
「良い訳ないけど、じいさん亡き今叔母さんに何か言える人なんて、娘のお前くらいしか居ないけど、それでもどうにもなってないんだからもうしょうがないだろ」
「お母さまが私の言うことなんて聞く気ないって、イオが一番知ってるでしょ!」
「聞く気はないけど言えるのはエマだけだろ? 俺は部外者なんだから」
「当事者でしょうが!」
「当事者ではあるけど、まともに話し合うこともしてもらえないんだぞ。それこそエマが一番見てきてわかってるだろ。もう、無駄なんだよ」
おっと、と思うところのあった私は、言い合う二人を私は「ストップ!」と身を乗り出し静止する。
「イオさん、今ので話一周した。もう無駄、まで戻ってきてる。んーとつまり、イオさんは結婚したいわけじゃないけど、もう無駄な抵抗するより受け入れた方が楽だと思ってる。エマは、それはわかっているけど、でも結婚はしたくないってことだよね」
そうやって二人の意見をまとめると、「そう」と二人は口を揃えて言う。
「んー……。イオさんはもう戦いに疲れて白旗上げてるわけでしょ、そうしたらエマが抵抗し続けるしかなくない? 最悪婚姻届にサインしなきゃ良いんじゃ……」
「いや、お母さまはサイン偽造くらいするだろうし、それを揉み消すくらいする」
「つまり納得させるしかない、と」
「そう。二人で言い続ければいつかわかってくれるかもしれないじゃん?」
「でもエマとイオさんはそうやってきたけど」
とそこまで言って、私はイオさんの顔を見る。
「そう、無駄だった。俺たちいつ結婚させられるのかわからないけど、下手したら後一年しか自由な時間はないんだよ。もう諦めて言うこと聞いて、この一年好きなように過ごした方が良いだろ」
イオさんは酷く疲れた顔でそう言う。
頑張っても無駄、どうにもならない。諦めた方が良い。これは私もよく知っている気持ちだ。
要領の良い兄といつも比較されて生きてきた私は、そうやって自分を諦めて見限って折り合いをつけられたから、今なんとかこうして生きている。
どうしようもないことを根性論でずっと続けるのは、体力的にも気力的にもしんどい。そして大抵それは、終わりが見えなくって、もう自分の人生を終わらせるか、頑張ることを終わらせるか、どちらかしかない。
「諦めるのはお前の勝手だけど、それを人に強要するのはおかしいだろ。足引っ張んな」
気付くと私の隣には兄が座っていて、五央さんに対してそう言い放っていた。
「お前は勝手に諦めれば良いけどこっちは諦めない。だからお前の言う通りに行動して、わざわざお母さま? に仲良しですよ〜なんてアピールみたいな真似はしない。断固拒否、会いたくもないって姿勢を貫かせてもらうから。それでお前が怒られるんだかなんだか知らないけど、そっちだってこっちの都合なんて丸ごと無視してるんだからお互い様だろ。以上、終了」
そう言うとお兄ちゃんは、私の腕を掴み「帰るぞ」と立ち上がった。
「お兄ちゃん待って、エマも連れてって良い?」
「ご自由に」
「らしいからエマ、一緒に行こ!」
今度は私がエマの手を掴み、立ち上がる。お兄ちゃんが私を、私がお兄ちゃんをってさながら大きなかぶだな、と私は笑いながら、イオさんの方を見る。
「私も諦めた側だからイオさんの気持ちはよくわかるけど、でも友達は私みたいに負け犬にしたくないから。呼びつけたのにごめんなさい!」
そうしてイギリスから日本の見知らぬ大学まで呼びつけられたイオさんを放置し、私たちは店を後にした。
よくよく考えたら、初対面のイオさんを呼びつけ置き去りにした挙句、勝手に負け犬呼ばわりしてしまって、次会ったら殴られても文句なんて言えない。けれど私みたいに生きるより、お兄ちゃんみたいに生きられたらどんなに良いかって、諦めてしまった人みんなそう思っているのである。なんせ自分で『諦め』と言ってしまっているのだ。未練が滲み出ている。
エマにはそんな風になって欲しくない。負けるにしても、諦めて未練たらたらで終わるより、やり切って負けて欲しい。
でも殴られたくないから、イオさんには二度と会わずに済みますように、と私は天に向かってそっと祈ったのだった。
◆
結局エマは私の家に泊まりに来ることになった。
「冴羽さんはうちの塾の生徒で白女の子。ひかるとたまたま友達らしくて、今日は泊まりで俺が先生して勉強会することになったから、よろしく」
と兄が嘘八百を母に言うと、母は普段私の友達が来たときには見せないような顔で、
「そうなのねえ、いつもひかるがお世話になってます。狭い家だけどゆっくりしていってね」
と言った。
兄効果と、白女効果恐るべし。後エマ自身のお嬢さまオーラもあるだろうか。でも今まで私の友達が来たとき、「どうも」しか返さなかったじゃん、と少しイライラする。お兄ちゃんの友達はゲームをしに来たときでもニコニコで迎え入れておやつもいつもよりたくさん用意していたのに、なんて、過去のどうでも良いことを思い出してしまった。
でもその夜二人で布団に潜ってお喋りしているとき、
「ひかるのお母さんって、なんていうんだろう……、ひかるともお兄さんとも似てないね」
とエマが言ってくれたので、あ、私はあの人とは違う人になれているんだ、と少し安心した。本当にそういう性格の話をしていたのかはわからないけれど、なんだかそんな気がしたし、そうだとしたら私は救われた気がしたから、もうそう思おう、ということにした。
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