11.Side アキト ―しがらみを棄てて―

11-1 大学院に未練なし

 アキトは実家を出てから、こんなにも急展開で事が進展するとは想像もしていなかった。

 長野にある民宿龍山荘たつやまそうでケンシロウと一緒に働く。悪くないアイデアだ。


 一昔前のアキトであれば、「生粋のα」ともあろう自分が田舎の民宿で下働きをするなど、そのプライド故に固辞こじしていたに違いない。

 だが、最早アキトは母サチが何処かのΩの女性との間に作ったごくごく一般的なαであることが判明してしまった。

 それに、アキトから引き離そうとしてケンシロウを傷付けた両親に対する怒りもある。

 もう彼らの期待に応えて、好きでもない研究活動にいそしむ理由もこれでなくなったのだ。


 アキトの今の幸せといえば、ケンシロウと二人で穏やかな生活を送ることに他ならない。

 社会的エリートとして人々から尊敬を集めようなどという考えはすっかり捨て去ってしまった。


 田舎暮らしをしながら、豊かな自然に囲まれてゆったりと二人の時間を満喫する。

 そんな理想的な話が他にあるだろうか。

 それに、電話で話した龍山荘の女将さんは温かく親切でいい人だった。

 オカダの元で常に彼からのプレッシャーを感じながら狭い研究室に座り続けるより、よっぽど気持ちのいい日々を送ることが出来るだろう。


 アキトが大学院の退学をオカダに申し出ると、彼はいかにもアキトに同情するといった顔をしてみせた。

「勿体ないね、君のような優秀な人材が学界を去ってしまうなんて。長野の田舎で民宿の仕事をする? 君は生粋のαだというのに、何もそんな所まで落ちぶれることはないだろう」

 オカダの言葉の端々にアキトへの侮蔑が見え隠れする。


 しかしアキトはもう以前のようにそんなオカダに対して不快感は抱かなかった。ただただ何を言われても「無」でしかなかった。

「はい。でも、僕は生粋のαでないことがわかったんです」

「何だって!?」

 あっけらかんとそんな屈辱的ともいえる事実を口にしたアキトに、オカダは目を見開いて身を乗り出した。

「両親が僕の生い立ちについて真実を明かしてくれたんです。僕はαの母とΩの母の間に生まれた子どもだったんです」

「へぇ。そうかい。君がねぇ……」

 オカダはアキトの頭のてっぺんから足のつま先までしげしげと眺めた。


「でも、そんなことは僕にとってどうでもいいことだ。もう生粋のαでろうとなかろうと、僕には大切な人がいてくれたらそれでいいんです」

 飄々ひょうひょうとそんなことを言ってのけるアキトにオカダは苛立った様子を見せた。

「君は生粋のαだと今まで我々に嘘をついて来たのだろう? 何が大切な人がいてくれたらいいだ。君には良心の呵責というものはないのかい?」

「それを言うなら、僕の両親に言ってください。嘘をついていたのは僕の両親なんですから。それに、何故僕が生粋のαじゃなかったからって、何故教授はそれ程までに怒るんですか? 僕がもしΩだったとしても、分け隔てなく接するのが一流のαとしてのあるべき姿だと常々おっしゃっていたのは教授じゃありませんか」

 痛い所を突かれたオカダは悔しそうな顔をしながら口ごもった。


「僕にはもう、ここに未練はありません。大切な人と一緒に居られるのなら、どんな場所に住んでも、どんな仕事に就いたとしても僕は幸せです」

 アキトが朗らかに告げると、オカダは顔を真っ赤にして叫んだ。

「ああ、君がそう思うなら、好きにすればいいよ。君のような大して研究業績も上げられない学生がいなくなって、私は清々したね。せいぜい風俗程度でしか働く能のないΩのためにαとしての人生を台無しにすればいい」

「その発言、もし他の教授や学生に訊かれたら問題になりますよ? 今のオカダ先生のおっしゃったこと、完全にΩに対する差別発言ですよね」

 アキトはそう言ってニコリとオカダに笑いかけた。

 オカダは顔を真っ赤にしたまま、口をパクパクさせていたが、もうこんな人間にアキトは用はなかった。

「失礼します」

 そう慇懃いんぎんれいに頭を下げ、アキトはオカダの研究室を後にしたのだった。

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