茨姫に幸福な呪いを4



 ドミニクとシャノンは二人で協力し、倒れたウィルフレッドを寝室へ運んだ。ウィルフレッドは朦朧もうろうとした意識の中で、医者ではなくグレースを呼ぶように二人に頼む。

 それで、彼の体調不良の原因は風邪ではなく魔術に由来するもので、ウィルフレッド自身はしっかりと原因を把握していたのだとシャノンは知ることになった。


「私の、呪いのせいなんですね……」


 ウィルフレッドが具体的に言わなくても、原因が『砂時計の呪い』の影響であることは明らかだ。元々魔術の才能がないシャノンがその身に宿すのと、他人の魔力に敏感なウィルフレッドが宿すのとでは、体に与える影響が違ったのだ。

 そのことを考えもしなかったシャノンが今さら自分を恥じても、もう遅い。


 グレースの協力もあって、ウィルフレッドの症状は数日のうちに落ち着いた。ウィルフレッドは頑なに大丈夫だと言い張るが、シャノンにはもうその言葉は信用できなかった。

 シャノンはウィルフレッドにとって、何の利益ももたらさない、特別にはなれない存在だ。そういう自覚はシャノン自身にもあった。けれども、それは少し間違っていた。


(私は、先生にとって、あきらかに有害な人間だ――――)


 優しいウィルフレッドはシャノンのためにこの短い間で何度も間違いをして、金銭的にも身体的にも損害を被っている。シャノンは無限にあるウィルフレッドの未来をただ狭めるだけの存在だ。


(本来あるべき形に戻そう……)


 呪いはシャノンのもの。ウィルフレッドが苦しんでまでその身に宿す理由はない。そして、シャノンは彼のそばにいる権利などない。

 恩を返したい――――そんな言い訳で彼のそばに居続けても、彼女が返せる恩よりも、彼が失うものが多すぎる。

 症状が落ち着いても眠れないのか、ウィルフレッドが珍しくお酒をたくさん飲んでいた晩、シャノンは全てを無かったことにするために彼の部屋へ向かう決意をした。


***


 シャノンは真夜中になってから、ウィルフレッドの部屋に忍び込んだ。再び呪いをその身に宿し、今度こそウィルフレッドの手が届かない場所に行くのだ。

 自分の命を粗末にしようとするシャノンのことを、ウィルフレッドはきっと許さないだろう。これは彼に対する裏切りなのだと彼女はきちんとわかっていた。彼に許されなくてもいいから、全てを本来あるべき姿に戻したかった。

 ほとんど何も見えない手探りの状態で、静かに寝息を立てるウィルフレッドに覆いかぶさるように唇を重ね、音を立てないように慎重に離れる。


(レイ先生、ごめんなさい……。さようなら)


 最後にそう心の中で呟いて、シャノンは寝ている彼に背を向けた。

 扉のほうへ一歩踏み出した瞬間、ふわりとした一瞬の浮遊感のあと、背中があたたかく柔らかいものに沈み込むように包まれる。シャノンは突然のことに声も出せず、数秒遅れて自分がウィルフレッドに捕まってしまったのだと気がついた。

 種火も無いのに一瞬でロウソクが灯り、ゆらめく鈍いオレンジ色の光にウィルフレッドの顔が照らされる。彼はとても嬉しそうに笑っていた。

「夜中に忍び込むから夜這いにでも来たのかと期待したのだが、違ったか……」


 先ほどまで彼が寝ていたはずのベッドの上で組み敷かれ、シャノンは呆然と彼の言葉を聞く。金糸のような髪が流れ落ちシャノンの頬をくすぐり、再び唇が触れそうなほどの距離で彼女に囁く。


「あの魔術書にも書いてあったのだが……文字が読めないことが幸いだったな。『砂時計の呪い』は一度呪われた者に再び宿ることはない。女の間者が使う魔術――――つまりねやで使用する呪いだと説明しなかったか?」


 つかんでいたシャノンの手をウィルフレッドがたどるように優しく撫でる。そこに呪いの証は無かった。シャノンは完全に失敗したのだ。


「あぁ、そうか。貴女は閨で男女が何をするのか、よく知らないのだな……」

「レイ先生……?」


 ウィルフレッドが意地の悪い笑みでシャノンに顔を近づける。三度目のくちづけはただ唇が触れ合うだけでは終わらず、何度も何度も深く重ねられた。

 腕の拘束は解かれ、今はただいつくしむように絡められているだけだ。それなのに彼女はウィルフレッドから逃れることができない。彼から与えられるもので胸が満たされ、身をゆだねてしまいたいと感じるだけだった。


「ほら、こうやって数えきれないほどのくちづけを交わすのに、その度に呪われていたらきりがない。……もし、そうだったら愛する者がいる人間は絶対に死なない呪いだな。二人で永遠に呪いを移し合えばいい……」


 彼はシャノンが呪いの特性を知らないことをわかっていた。

 何度も呪いを返せと言っていたのだから当然だ。

 最初に説明したときは誰か別の人間に呪いを移すという事態になることを想定していなかったので省略した。そのときのウィルフレッドはシャノンのことを完全に信用していたわけではない。故意に呪いを他人に移したら、その者が完全に呪いから逃れられるということを教えてしまうようなものなので、言わなかった。

 呪いがウィルフレッドに移って以降も彼は事実を教えなかった。

 それは、彼女にその事実を告げると、もうあとがないと知らせることになり余計に気に病むだろうと思ったからだ。

 そして、呪いがウィルフレッドに宿っている限り、絶対に彼の元から去ることはなく、万が一その気なら間違いなく今夜のような行動に出る確信があった。


「貴女は何がそんなに恐ろしい? 私が死ぬことか?」

「……未来があることが怖いです。やっと終われると思っていたのに。この二ヶ月、信じられないほど幸せで、そんなものを知ってしまった私がまた一人になったらきっと壊れてしまうから。それに、先生にとって私はきっと害になる。何もあげられないのに生かされるのはつらいです」

「自分が一人になるのは嫌で、私を一人にするのはいいのか? ずいぶんと勝手だな、貴女は」

「……でも、先生はきっと私がいなくても誰かと幸せになれるから」

「人の幸せを勝手に決めないでもらいたい」

「でも……」


 人の気持ちは永遠ではない。すぐに変わってしまうものなのだ。シャノンはそれを知っていて、それがとても怖かった。


「貴女を一人にしないと誓えば、貴女は私のものになるのか?」

「そんなの、簡単に言わないでくださいっ! レイ先生は今だって呪われているのに、言葉で誓うだけなら、誰でも――――っ!」


 最後まで言えなかったのは、ウィルフレッドが急に彼女の耳たぶを甘く噛んだからだ。彼はそのまま耳に唇が触れる距離で言葉を紡ぐ。


「名前で呼べ、シャノン」

「…………」


 初めてウィルフレッドの口から自分の名前が紡がれ、その甘さにシャノンは酔いそうになる。名前で呼べと命じられたが、彼女にはそれができない。もし、彼の名を呼んでしまったら、完全に彼に捕らわれる。そんな予感がした。


「……そういえば物語の中で魔術師はいつも悪役だったな。では茨姫は悪い魔術師に呪われてしまえばいい。私が死にそうになったら、貴女を呪い殺そうか? さすがに私も人間だから永遠は誓わない。だが、私の人生最後の仕事に貴女を呪うことなら約束できる」

「それ……犯罪です……っ、ふふ」


 シャノンはウィルフレッドの提案におもわず笑ってしまう。彼があまりにも真剣な顔でおかしな提案をするからだ。笑いと一緒に涙が溢れ出す。おかしくても人は泣きたくなるのだと彼女は初めて知った。

「冗談ではない。死者に名誉などいらない。死んだあとに罪人として罵られようが知ったことではない。それよりも、貴女の心が欲しい」


 すぐ近くにあるウィルフレッドの顔が歪んで見える。涙で滲んでいるのだ。

 世間知らずで常識はずれ、時々物凄い行動力をみせる彼ならば本気でそうするのかもしれない。

 心が欲しいと彼は言うが、シャノンが特別に想う相手はウィルフレッド一人だ。ただ、勇気がないだけ。彼を失ってしまう未来を想像して、いつか心が離れてしまう未来を想像して、そうなる可能性があるなら自分が……と考えるのは、ただ臆病なだけなのだ。


「私は……」

「いい。貴女が私を好いていてくれることは知っている。……貴女が呪われて死ぬ未来はもはやない。だから、私と生きる未来しか残されていない。そうだな?」


 それは傲慢ごうまんな嘘だった。確かに呪いで死ぬ未来はもうないのだが、シャノンの生きる未来だってウィルフレッドと共にある未来の一択ではないはずだ。


「私は、レイ先生を幸せにできますか? 役に立てますか?」

「名前で呼べと言ったはず。貴女が私を幸せにできるかは今後の貴女次第だろう? 私の知ったことではない。努力しない人間は嫌いだと知っているはずだ。……だがもし、貴女に去られたら、その瞬間から間違いなく私は不幸になる。だからここから去ることは許さない、三度目はない。だが……」


 頬を撫でていたウィルフレッドの手が首すじを伝い、シャノンの胸の中央でピタリと止まる。

 そこは彼女が呪いを宿していた心臓がある場所だ。


「一つだけ確認させてくれ。これは比喩ではなく、私は貴女を本気で呪うつもりだが、それを受け入れられるか?」

「呪う? 先生が……?」

「あぁ、なるべく安全な呪いを考えている」


 ウィルフレッドはおかしなことを言う。この世界に安全な呪いなど存在しない。呪いとは人に害をなす魔術の通称なのだ。安全ならそれはただの魔術でしかない。それでもシャノンは呪われたいと願う。彼に囚われ、彼の唯一になりたいのだ。


「お願いします。……私を呪ってください、ウィルフレッド様……」


 シャノンがウィルフレッドから与えられるものを怖がることはない。不器用な言葉も、いつも怒っているような表情も、呪いも、何もかも全て。それを証明したくて彼女は初めて彼の名前を呼び、自らの意思で彼の身体を強く引き寄せた。


 心臓の上でぴたりと動きを止めていた指先が、シャツのボタンに触れて、それをなぞる。

 もし、これが彼の気持ちを裏切ろうとしたことへの罰なのだとしたら、なんて優しい罰なのだろうかとシャノンは瞳を閉じる。



「いかんな……」



 シャノンがウィルフレッドのぬくもりをただ感じていると、低いつぶやきが聞こえる。


「あの……?」

「貴女が抵抗しないから、順番を違える寸前だった」


 急に我に返ったように、ウィルフレッドの体が離れる。

 彼が正気になったことで、シャノンも冷静になり、沈んでいたやわらかいベッドから勢いよく身を起こす。

 ついさっきまでそこに彼の指先が触れていたのだと思うと、心臓が痛いほどに鼓動を刻みだす。後ずさりするようにベッドから下りようとするシャノンの腕をウィルフレッドがつかむ。


「貴女は二度も私から逃げたからな。……捕らえておこう」


 意地の悪い笑みでそう宣言をして、ウィルフレッドは愛おしい人を胸に引き寄せたまま、あたたかい寝床に身を沈める。

 ロウソクの火が勝手に消えて、もうウィルフレッドの表情が見えない。抱きしめられている腕の力強さとあたたかいぬくもりだけを感じていると、シャノンの心は満たされて、あふれた想いはまた涙になった。

 彼のシャツを濡らしてしまったら、ウィルフレッドは怒るだろうか、困るだろうか。彼はきっと泣いていることをただ心配するだけだろう。そんなことを考えながら、彼女はウィルフレッドの胸の中でただ眠った。


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