茨姫に幸福な呪いを2
シャノンがウィルフレッドの屋敷で暮らすようになってから、あと少しで二ヶ月になろうとしている。
彼女は少しずつ文字の練習を始め、いつか母の手紙をきちんと読もうと決心していた。祖父母の所へは何度かパンを買いに行ったが、自分が孫であるということはまだ言えていない。孫だと打ち明けるということは母の死を知らせることと同じなのだ。いつかは言うべきだと彼女も考えているが、タイミングがつかめないでいる。
母の手紙に何が書いてあるのかを知ることができれば、何かが変わるかもしれない。シャノンはそんなふうに思っていた。
ウィルフレッドやセルマに見せればすぐに読んでくれるだろうし、そもそもウィルフレッドはすでに手紙を読んでいて、何が書いてあるのかを知っている。
けれども文字を学び、自分で読めるようになってからということを理由にして、あと少しだけ考える時間をもらうことにしたのだ。
もう一つ、ウィルフレッドが呪いを宿したままというのも、シャノンが動けずにいる理由になっていた。
とにかくあと一ヶ月ほどで彼の言う『準備』が整う。今のシャノンはそれを待っている。
ウィルフレッドのほうは、『砂時計の呪い』だけでなく、屋敷の結界を縮小する方法、つまりは彼が他人と暮らせる方法の研究で毎日忙しくしている。
屋敷を取り囲む結界が消えたことは魔術師が見ればわかることのようで、それを境に突然来客が増えた。ウィルフレッドはそれを迷惑そうに対応している。
そして、日中になるとほぼ毎日ドミニクが護衛の任務でやってくるようになった。屋敷の結界がなくなると何か危険があるのかと疑問に感じたシャノンがたずねると「あれは護衛ではなく虫除け」だとウィルフレッドは笑った。
庭の芝生は冬枯れして緑から黄色に変わり、紅葉していた木の葉は全て落ちてしまった。朝起きても布団から出るのがつらいと感じるようになった頃、いつもならとっくに目を覚ましているはずのウィルフレッドが起きてこない。
いくら休職中で早起きをする必要がないといっても、規則正しい生活を好むウィルフレッドが寝坊をすることなど今までなかった。
シャノンは彼の部屋の扉を何度かノックしたが反応がない。仕方なく、許可を得ずに部屋へと入る。
入った瞬間、他の部屋との空気の違いを彼女は感じ取った。屋敷の魔術を解いた代わりに、この部屋には魔術がかけられているのだ。
「レイ先生、大丈夫ですか?」
ウィルフレッドはまだ眠っている。扉の付近からそう声をかけるが、反応がない。シャノンはベッドに近づき彼の顔を覗きこむ。
彼は眠っているというのに眉間に深く皺を刻み、額に汗をにじませている。そして両手で胸のあたりを掻きむしるように、真っ白な夜着を強く握っている。
「レイ先生! どうされましたか!?」
明らかに様子がおかしい。彼は目をつむっているときのほうが他人の魔力的な気配に敏感なはずだ。強い力を持っているわけではないが、シャノンが部屋に入ってもまだ寝ているということがすでに異常だ。
シャノンは彼の額に手を当てる。
「すごい熱がある……」
触ってすぐにわかるほど、彼の額は熱かった。
シャノンは一旦部屋を出て、水とタオルを用意する。ウィルフレッドが入浴のときに使っている香油の中に爽やかなミントを含んだものがあるので、それを
もう一つ、別の桶には井戸から汲んだばかりの冷たい水を入れる。こちらは額や脇を冷やすためのものだ。
それらを持ってシャノンは急いでウィルフレッドの部屋へ向かった。
***
ウィルフレッドは、ぼんやりとした意識の中で悪い夢を見ていた。もしかしたら、すでにこの世には存在しない父や母が出てくる夢だったかもしれない。夢の内容はよく覚えていない。はっきり覚えているのは、その夢にシャノンが出てきたことだけだ。彼女はウィルフレッドに背を向けて遠ざかろうとする。ひどく胸が苦しく、それだけは嫌だと彼女の腕を無理やりつかむ。
「…………」
「…………」
目が覚めると、ウィルフレッドは本当にシャノンの腕をつかんでいた。ただし、夢と違って彼女はウィルフレッドに背を向けておらず、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「お、お、おはようございます……」
「あ……、あぁ、おはよう」
彼女の口から出た言葉は朝の挨拶だった。ウィルフレッドは冴えない思考で反射的に返事をする。
彼は眉間に皺を寄せたまま頭を押さえ、上半身を起こし、自身とシャノンを交互に見る。ウィルフレッドの寝間着のシャツは乱れ、シャノンはベッドに身を乗り出したまま固まっている。
「あの、あの! 決して変なことをしようと思ったわけではありません! お熱があって、声をかけても全然目を覚まさないから! 汗を拭いてさしあげようと思ったんです! 本当にそれだけです!」
「……そうか、私は体調を崩したのか」
「はい。 それで、背中を拭いて着替えのお手伝いをしてもいいですか? そのままだと冷えてしまうので」
「……そうだな」
ウィルフレッドはまだはっきりとしない意識のまま、シャノンの話を聞いていた。首の後ろにあたたかいタオルが当てられたあと、ふわりと清潔な香りが鼻をくすぐる。体を拭く湯に香油を入れてあるのだ。ミントは消臭と殺菌の効果がある。シャノンの気遣いに彼は感謝した。そして、ぼんやりとしていた意識が急速に覚醒する。
(なんだ? この状況は? なぜ私が裸なのだ? ……理解不能だ。しかもなぜ彼女は嬉しそうなのだ? ……いや、落ち着け。そもそも屋敷のあるじなら着替えや風呂を使用人にやらせるのが当たり前ではないか。ましてや彼女は使用人ではなく、いずれは……。いや、その話はいい、とにかく何も問題はないはずだ。これはあるじとしての当然の権利。堂々としていればいい。そうだ、そうに違いない)
「レイ先生? 大丈夫ですか? 早く着替えましょうね」
そう言って彼女はウィルフレッドの着替えを広げる。ウィルフレッドは新しいシャツに袖を通し、彼女が不慣れな手つきでボタンをとめる様子を眺める。
着替えが終わると、もう一度横になるようにうながされ、彼女に支えられながらベッドに沈み込む。最後によく絞った冷たいタオルを額にのせられる。
「朝食はどうされますか? こちらに持って来ましょうか?」
「……紅茶と果物、少しだけでいい」
「わかりました。すぐに用意します!」
シャノンが部屋を去ったあと、彼は熱のせいでいつもの半分くらいしか働かない頭で考えた。
この体調不良は、風邪ではない。そもそもチェルトンにあった『砂時計の呪い』は元々、昔の魔術師の魔力を封じるかたちで作られていたはずだ。他人の魔力に対し過敏な体質のウィルフレッドがそれを受け入れるのは、当然苦痛を伴う。呪い以外の――――体の外の魔力を感じる取る力は鈍くなったが、これだけ体内に異物を抱えれば体調がおかしくなるのは当然だった。最初からその予想はあって、覚悟してやった行為ではあるが、その苦痛は彼の予想以上だった。
「あと、一ヶ月か…………」
ため息と一緒に自然と声が漏れる。シャノンがこのことを知ったらきっと落ち込むだろう。ついでに、呪いに関して彼女は一つ大きな勘違いをしている。それも彼女が知れば傷つくことだとわかっているから黙っているのだ。
とにかく、あと一ヶ月このまま乗りきること――――それだけを考えようと、ウィルフレッドは目を閉じる。
ウィルフレッドが胸にある彼にとっての異物に飲み込まれそうになる意識を何とか外に向けると、ぼんやりと柔らかい気配がはっきり見える。シャノンの気配は彼にとってすでに排除すべきものではなくなっていた。だから部屋に侵入されても気がつかなかったのだ。
この変化にはウィルフレッド自身も驚いた。呪いを解くことに成功して、感覚が以前と同じになったとしても、その部分は変わらないでほしい。彼にしては珍しく、そんな論理的ではない希望を抱く。
そして呪いを身に宿したことは悪いことばかりではなかった。この呪いには、シャノンがウィルフレッドの魔術の影響下でも生活できるヒントがあるのだ。
感覚が鈍くなる効果は呪いの副作用だ。おそらく他の効果を生み出す過程で図らずも『陣』に組み込まれている。『陣』を詳しく解析し、どの部分が宿す者にその効果を与えているのかをひもとき、死をもたらす部分だけを消し去った新たな『陣』を使って彼女を呪えば理論上、ウィルフレッドの結界内でも生活できることになる。
そもそも愛する相手の魔力的な感覚を奪う、などと考えるウィルフレッドはどこか壊れているのだろう。愛する者を呪っても手に入れようとすることが、どれだけ歪んでいる行為なのか――――ウィルフレッドは自分自身が人として歪な存在であるということは十分に承知していた。
彼が自分を孤独な人間だと感じたのはシャノンと出会ったあとだ。それまでは、何も望まず一人で生きていくことを孤独だとは感じなかった。けれども一度、過去の自分が孤独であったと知ってしまったら、元の生活に戻ることはもうできない。
彼女に恩義と愛情の区別がついているのか、ウィルフレッドにはわからない。けれども彼女はウィルフレッドのためなら進んで彼に呪われ、受け入れてくれるのだろう。
愛情の真贋などだれも証明できない。彼女は茨姫、ウィルフレッドは彼女をだます悪い魔術師。もし彼女に真実の愛を教える王子がいたとしても彼女がその者と出会うことはない。
ウィルフレッドはこの国で一番の魔術師。彼の魔術に隙などないのだから。
「あと、一ヶ月……」
もうすぐシャノンがこの扉のドアを開ける。
体調不良の原因を隠してはいるが、ウィルフレッドはれっきとした病人だ。看病してもらう権利はある。込み上げてくる喜びで口の端が吊り上がるのを彼は毛布で隠した。
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