魔術師は呪われたい3

 シャノンの部屋にかけられている魔術には音を遮断する効果はない。だから外が異常に騒がしいことにはすぐに気がついた。ほどなくして扉の外から声がかけられる。


「シャノンさん。入ってもいいですか?」

「はい、どうぞ」


 扉の外にいる相手がドミニクであったことに彼女は安堵する。けれども部屋に入って来た人物はドミニクと、もう一人はシャノンが一番会いたくない人物だった。


「……レイ先生」


 ウィルフレッドは権力から徹底的に自身を遠ざけてきたからカーライル邸には入れない。つい先ほどそう聞いたばかりなのに、なぜ彼がこの部屋まで来たのか全く理解できない。シャノンは動揺して、部屋の奥へと下がる。

 彼はとても怒っているように見えた。彼を一目見るだけで、自分が壊れてしまえばいいのにと思うほどシャノンの心は痛いのだ。なぜ彼がここにいるのか、シャノンを連れ戻しに来たのか、それとも居なくなったことを叱りに来たのか、何を言われるのかを考えるのが怖くて、シャノンは彼から目を逸らす。


「いやぁ、まさか堂々と襲撃してくるとは思いませんでした。……レイ様は何の権力も持っていませんが、そんなこと気にもしない方だったようです。失うものがないって怖いですねぇ……。私には到底真似できません」


 ドミニクが顔を引きつらせながら状況を説明する。先ほど、外が騒がしかったのはウィルフレッドが屋敷を襲撃したのだとわかり、そうさせてしまったことにシャノンはどうしようもないほどの罪悪感を抱く。


「帰るぞ」

「…………帰りませんっ! ここに来たのは私の意志です! 絶対に帰りません!」


 出会った日にウィルフレッドは、権力を持った人間から命じられたら逆らえないのだと断言していた。けれども今のこれは明らかに法を犯すような行動だ。そうさせてしまったのが自分だと思うとシャノンは怖くなり、屋敷に戻ることはやはりできないとより強く感じる。


「私と共に生きる未来はありえないのか? 私のことが嫌いか?」


 ウィルフレッドはシャノンに近づいて手を差し伸べる。シャノンが手を伸ばせば届く位置だ。彼女はその手を振り払うように思いっきり叩いた。


「嫌いです! 大っ嫌いです!」


 行き場を失ったウィルフレッドの手にくっきりと赤い印が浮かびあがる。傷つけたのはシャノンのほうなのに、彼女は手も心も痛くて涙をこらえるのに必死だった。

 ウィルフレッドは赤くなった手を一瞥したあと、厳しい表情でシャノンをにらむ。差し伸べられた手を振り払ったのだから当然のことなのに、ウィルフレッドに軽蔑されたと思うとひどく苦しい。シャノンの瞳から耐えきれず透明な雫が零れる。


「そうか、無理強いしても恨まれるだけで私の思いどおりにはならないか……ならばもういい、勝手にしろ。ドミニク! この者にかけてある魔術は朝には消える。念のためかけ直すがかまわないか?」

「まぁ、そのほうがこちらとしても保護しやすいですね。お願いします」


 ウィルフレッドは冷え冷えとした表情でシャノンのほうに近づく。

 そうなってほしいと思って取った行動なのに、実際にウィルフレッドから軽蔑されると、どうして悲しくなるのだろう。頬から流れる水滴がシャノンの首輪を濡らし、首輪に手を伸ばしたウィルフレッドの指先にも伝う。ウィルフレッドに冷たい眼差しを向けられることに耐えられないシャノンは、ただひたすら首輪に触れる彼の手を見る。ぐっと乱暴に首輪を引っ張られて息苦しさを感じた次の瞬間――――。


 ウィルフレッドの唇がシャノンのそれを塞いだ。


 一瞬のことで、シャノンには何が起きたのかよくわからなかった。強引に引っ張られた首が苦しいのと、唇が塞がれているために呼吸を忘れて息が苦しい。ただそれだけだ。


「貴女の方が、嘘は下手だな……」


 ゆっくりと彼女から離れたウィルフレッドは笑っていた。シャノンは慌てて自分の手の甲に視線をやる。そこにはもう、先ほどまであったはずのあざが綺麗に消えている。ウィルフレッドの左手を取り、その手の甲を確認したシャノンの体から一気に力が抜ける。

 崩れ落ちそうになるシャノンのことをウィルフレッドが支える。


「私を嫌いだと言うなら、なぜ泣く? ……嘘が下手だ」

「どうしてっ!? それは私の呪い、私のもの! 今すぐ返して! 返してくださいっ!」


 ウィルフレッドの肩に手をかけ、顔に近づこうとするシャノンのことを彼は力ずくで自分の胸に押し込める。彼女はそこから何とか逃れようと手をバタつかせポカポカと彼の胸を叩く。


「返してください! かえせ! ばかぁ……。それは、私の呪いなんです……っ……っく……」

「そもそも貴女のものではないのだろう? それくらいはわかる。身内を庇っていたのか?」

「そんなことっ、どうでもいいんです! 先生は卑怯です! 今すぐ、返して!」


 真っ青な顔をして訴えるシャノンの額にウィルフレッドが手を当てる。一瞬だけ目の奥がチカチカすると感じてから間もなく、シャノンは抗えないほどの眠気に襲われて立っていることが難しくなる。魔術を使われたのだとわかっても、彼女には抵抗する手段がない。負けるものかと必死で目を開けようとするが、やがてまぶたが重くなる。


「少し、寝ていなさい」


 耳元で囁くような優しい声を聞いたあと、シャノンの意識は完全に途絶えた。

 ウィルフレッドは彼女を抱え直してからドミニクのほうへ向き直る。


「迷惑をかけたな。彼女は連れ帰る」

「はぁ……こうなるのではないかと思っていましたが……。とりあえずレイ様が顔芸のできる方だったということだけは、しっかり記憶しておきます。屋敷の修繕費用と家人の精神的慰謝料等はあらためて請求させていただきますので」


 屋敷の石畳は穴ぼこだらけで一部は粉々に粉砕され、屋敷を守っていた多くの若き武人の心をへし折られたのだ。カーライル家としてはタダで済ませられるはずもない。

 いつも表情を変えることのないドミニクもさすがに怒っているし、なによりもここはドミニクの屋敷ではないのだ。この屋敷のあるじ、カーライル家の当主がこの惨状を見てしまったら――――想像するだけで病気になりそうだった。


***


 シャノンが目を覚ましたのはウィルフレッドの屋敷の私室だった。

 日没は過ぎて、部屋の中は薄暗い。燭台にはロウソクが灯されている。そして、ベッドの脇には椅子に座って本を読むウィルフレッドがいた。

 慌てて身を起こしたシャノンは、まず自分の異変に気がついた。呪いが体から消えたせいなのか、死ねなくなって仕方がなく未来を意識せざるを得ない状況になったせいなのか、頭の中のもやが晴れたような感覚と、周囲が歪んでいるような感覚がある。――――グレースの言っていたこの屋敷の異常さが、今のシャノンにはわかる。


「レイ先生……」

「具合は? もう呪われていないのだから、この屋敷にいると体調を崩すかもしれない」

「…………」


 せっかくウィルフレッドが助けようとしてくれているのに、シャノンはやはり彼の特別にはなれなかったのだ。シャノンがウィルフレッドの特別な存在であるのは、単純にこの屋敷に住んでも体調を崩さないという理由だけだ。その部分を失ったら他の人間と同じになる。


「まぁ、予想どおりだな。宿してわかったが、この呪いは人の感覚を鈍くするようだ」

「じゃあ! 呪いを返してください!」

「貴女も意外と頑固だな。もう移ってしまったのだから諦めろ。あまりしつこく言うとしばらくこの屋敷から追い出すぞ」


 ウィルフレッドはシャノンの言葉をさえぎり、脅しのようなことを言い出す。カーライル邸では険しい表情だったのに、今は吹っ切れたようだ。


「――――ずるいです!」

「どう思われてもかまわない。もう呪われていないのだから、他の屋敷に預けることもできるのだぞ?」


 この状況で彼女が自ら出て行くことはないとウィルフレッドは確信している。今回シャノンが出て行ったのはウィルフレッドに呪いを移すのが嫌だったからだ。呪いが移ってしまった今、責任感の強いシャノンが彼を放置して出て行きたいと思うはずはないし、研究の邪魔だと言えば、しつこく呪いを返せとも言えなくなる。

 彼女の意志を無視している自覚はもちろんあるのだが、ウィルフレッドには彼女を手放す選択肢などない。卑怯な手段を使っても彼女の心を手に入れる。自分がここまで強欲な人間であることに彼自身も驚いていた。


「試したい解呪方法の準備があと二ヶ月ほどで整う。それが失敗したら、二人で次を考える。それではだめか? それまでおとなしくしていてくれないか?」


 シャノンのほうはウィルフレッドにそう言われると一旦引き下がるしかなかった。


「呪いのせいで今は私の感覚が鈍くなっているから、私の寝室に簡易的な結界を張るだけで大丈夫だ。研究すれば屋敷の魔術をもっと小規模にすることもできるはずだ。今までそうしなかったのは現状に満足していたせいかもしれんな。……だから安心しろ」


 ウィルフレッドはシャノンのいるベッドの端に腰を下ろす。そして酷く泣いたせいで赤くなっている頬に手を当てる。


「別に恩に着せるつもりではないが、私が貴女にしていることは依頼主と魔術師の関係からも、使用人とあるじの関係からも逸脱している。そのことを正しく理解してほしい」

「あの……?」

「貴女が泣いたのは私のことを想って、だな」


 それは質問ではなく、決めつけだ。時々、彼の自信はどこから湧いてくるのだろうかとシャノンは疑問に思う。真っ赤になったシャノンを見て、ウィルフレッドは小さく笑う。

 ウィルフレッドはたとえ魔術的な意味で特別でなくなったとしてもシャノンのことを必要としている。彼女にもきちんとそう伝わる。

 誰にも必要とされない人間は孤独だと、彼はそのことを知らないのだろうと、シャノンは以前思ったことがある。けれどもシャノンも彼の孤独を知らなかった。誰にも頼る必要のない人間も孤独なのだ。シャノンとウィルフレッドは、きっとお互いを必要だと感じている。たとえそれがいびつな傷の舐め合いでもかまわない。


「あぁ、その悪趣味な首輪は外そう。……下に行って食事にしようか」

「はい、レイ先生」


 カチャリと音を立てて外れた首輪が、二人の関係が変わったのだと知らせた。

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