第5話 彼女が絵を描かない理由
「ああ、今日バイトだから先帰る」
授業が終わって教室を出ると、真崎が言った。
「そうか。頑張ってな」
俺がそう声をかけると、真崎は「おう」と言って頷いた。
少し残念だが、バイトなら仕方がない。
「花屋のバイト? よく続くな」
サラが真崎に向かって言う。
「花、好きなんだ」
真崎が呟いた。
俺は知っている。それだけが理由じゃないことを。
放課後。アルバイト先の花屋に向かう真崎を見送ってから、サラが日直なので日誌を先生に渡しに行くのを、俺と長月は付いて行くことにした。
「ふーじたセーンセ」
「お」
サラが担任の藤田真先生を呼びとめた。
藤田先生は二十代後半のまだ若い先生だ。
美術部の部室の前だった。これから部活らしい。先生は、美術部の顧問をしている。
「おー、前原どうした。美術部に入る気になったか」
「ならねーよ。日誌だよ日誌!」
サラは相手が先生にもかかわらずため口だった。
藤田先生はサラと昔からの知り合いなので、慣れでつい出てしまったのだろう。
それよりも俺が気になったのは、美術部という言葉だったけれど。
「ああそうか。ありがとう」
藤田先生は日誌を受け取ってから、少し残念そうに言う。
「勿体ないな。凄く勿体ないよ前原。お前才能あるのに」
「あたしはもう描かないって決めたんですよ。言ったじゃないですかそうやって」
「だけどな前原」
「そうゆうことなんで。じゃ、これで失礼しますさようなら!」
逃げるように、サラが長月の手を引っ張って去ろうとする。
俺はそれを見ながら、いいなぁなんて思う。
「え、あ。さようなら」
長月は戸惑いながらも、藤田先生に頭を下げた。
まるで、これ以上長月には話を聞かれたくないという感じだった。
俺は何も言えなかった。藤田先生の気持ちはわかるし、サラが絵を描かなくなった原因を知っている俺としては、黙っている他に選択肢はない。
廊下を歩くサラと長月の後姿を、哀しそうな表情で見送る藤田先生を見て、俺は気の毒だなと思う。
「なぁ、お前も説得してくれないか。菊地」
藤田先生が俺に話をふってくる。
俺は顔をしかめた。
「無理ですよ」
サラがずっと楽しく絵を描いていた頃は、もう戻らない。二度と。
俺はそれを知っているから、そう答えた。
罪悪感が、俺の胸の中にまだ残っている。
俺ではサラの心の隙間を埋められない。きっとそうなんだと最近気づき始めている。
サラの隣にいるのは、ずっと俺だと思っていた。でも今そこにいるのは、この間サラの家に来たばかりの居候だ。
「藤田先生。どうしてもっていうなら、今はあの子に頼んだほうがいいですよ」
俺が言うと、藤田先生が目を丸くする。
「あの子?」
「長月姫」
俺はその名を恨めしそうに口にする。
「あの子、最近仲良さそうで」
「ああ。なるほど。通りでお前の様子がおかしいと思っていたら、さてはお前。あの子に嫉妬しているな」
「は?」
今度は俺が目を丸くする番だった。
何を言っているんだ、この先生。
「いやぁ、青春だなぁ。俺にもそんなときがあったよ。仲良い友達が別の友達と仲良くしているのを見て嫉妬するの。よくある。だがまぁ、ほどほどにしとけよ。前原だってお前のことが嫌いになったわけじゃないんだろうし」
「嫌われてたら俺、生きていけないですよ。一緒に歩けないですよ」
藤田先生の言葉に、俺は涙目になる。
目の前で笑っている先生が、俺の右肩に手を置いてくる。
「目に見えるものだけが、すべてじゃないだろう。気持ちがあるなら尚更だ。それでお前が諦めて離れていったら、あいつが哀しむだろう」
真面目な顔をして言うので、俺は藤田先生の顔をまじまじと見てしまった。
先生は、サラが絵を描かなくなった理由を知っている。
だからこそ、それを乗り越えてほしいと本気で思っているらしい。
「先生。俺は、サラのことが好きです」
「わかっている。何十回聞いていると思っているんだ」
「本当に――」
もう二度と、誰かに嫉妬なんかしないと思っていた。
そしてもう二度と、後悔なんてしたくないと思っていた。
だから俺は、自分の気持ちを素直に言葉にするし、サラに伝える。
毎日、毎日。
サラに好きだと伝えたい。
軽くあしらわれたっていい。それでも。
彼女が前を向いてくれるのならば。
「涼平ー。帰りに買い物付き合えー」
サラの声が聴こえて、はっとした。
俺はサラと長月がいる方向を見る。
階段へと続く廊下の壁の向こうから顔を出して、こちらを見ている。
「菊地。前原がお前のほうを向いてくれるといいな」
藤田先生はそう言って、「また明日な」と去っていく。
「そうしたらきっと、また絵を描くようになる」
先生がぽつりとそう呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
美術室から漂う油の匂いに、俺は酔いそうになりながらサラたちのほうへ歩き出す。思い出すのは、二年前のこと。
前原家に留学生の青年が、まだホームステイしていた頃の事だ。
彼は絵を描く人だった。
そしてサラは、その彼を慕っていた。
その恋は、永遠に叶わなかったのだけれど。
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