第28話 有利、とは
言ってから、ごくりと空気ごと唾を飲み込む。ああ、やっぱりお茶か何か貰った方がよかったか、と後悔した。
「あれ、人の名前なんだろう? なんか、おれに似てたりするのか? シトエン、そいつのことが好きなのか?」
そこで、卑怯にも唇が強張る。
言え、とおれは必死になった。
どんな盗賊だろうが、大人数だろうが。
敵相手にひるんだことはない。
劣勢に追い込まれるたび、身体中を酒が巡ったような感覚が迸って、気づけば笑いながら相手に飛び掛かっていくのに。
それなのに。
喋れば喋るほど、身体が冷えていく。
「シトエン……」
もつれそうになる舌で、おれは尋ねた。
「おれじゃなく、そいつが好きなのか?」
言った途端、心の中が空っぽになった。
あれだけ
吐き出したその言葉のせいで、身体中が冷えた。
ああ。
あれは、なにか熱量を持っていたんだなあ、とぼんやりと思う。
「……信じてもらえるかどうかわからないのだけど」
シトエン嬢は随分と長い沈黙の後、澄んだ声でそう切り出した。
「わたしには、前世の記憶があるの。わかる? 前世」
「前世……、って。あの、あれか? 輪廻転生の?」
この国にはない宗教観だ。
タニア王国では、人は何度も生まれ変わると聞いている。
「そう。その輪廻転生で……。わたしは、以前、ここじゃない別の世界で生まれて、大人になって……。サリュ王子は、わたしの医療知識をどこで身につけたか、って不思議だったでしょう?」
ほんの少し微笑み、シトエンは小首を傾げる。おれはおずおずと頷いた。
彼女がタニア王国で医療職に携わっていた記録も経歴もない。もちろん、そんな特殊知識を獲得した経緯も。
「あれは、わたしが前世で培った知識なの。わたしは、以前、医師として働いていた」
「医師……」
きょとんとしたまま、彼女を見つめる。
小柄な娘だ。
今は絹の寝衣に身を包んでいるが、胸も尻も小さな、まだ少女とも思えそうな体躯。
だけど。
その口ぶりも表情も。
随分と大人びて見えた。
「その前世の恋人が、アツヒトと言う名前の……。彼は看護師だった」
シトエン嬢がその名を口にすると、ずきり、と心が痛む。
なぜなら。
とても愛しそうに、大切そうに、その名を呼ぶからだ。
「大柄で、誰とでもすぐ仲良くなって……。なにより患者さん思いの看護師で。オペ
くすり、と微笑むシトエン嬢。
話していることの半分ぐらいしか意味が分からない。
かんごし。おぺかん。しちょう。なんだろう、と深く考える前に。
彼女に質問する前に。
おれは、その顔を見て、激しく嫉妬した。
見たこともない、そのアツヒトという男に。
結果的におれは歯を食いしばり、黙ったままだ。
「わたしのことも、とても大事にしてくれて……。だけど、ある日、夫から暴力を振るわれて重症を負った女性が処置室に運び込まれて……。対応していたら、その夫が乱入してきて」
シトエン嬢はそこで言葉を区切り、大きくひとつ、息を吸い込んだ。
「アツヒトはわたしを庇って、殺されてしまって……」
ああ、そうか。
おれは納得する。
身体から少し、力が抜けた。
だからだ。
だから、シトエン嬢がカフェで襲われた時、あんなに動揺し、おれを守ろうと必死になったのだ。
「その後、わたしはその時の傷がもとで、結局は死んで。気づけば、ここでシトエン・バリモアとして生活していたの」
ぽつりぽつり、とシトエン嬢は話す。
最初、記憶はなかったのだそうだ。
だが、十六歳の時、桃を食べて酷い目に遭い、生死を
その後も、シトエン・バリモアとして生活をし、そして婚約破棄にあう。
「あの時……。サリュ王子が謝れ、って言ってくれた時、心臓が止まるかと思って。だって……」
彼女はそう言い、両手で顔を覆う。
肩が小刻みに震えていた。泣いている。
「おれが、似てたから?」
返事はない。ただ、彼女は震えながら泣いている。
「おれのことが好きになった、っていうのは、おれがそのアツヒトに似ているから?」
もう一度尋ねてみると、嗚咽が聞こえてくる。
おれはしばらく、その彼女の苦し気な呼吸を聞いていた。
「あ、あの……」
だけど、シトエン嬢は手を下し、涙に濡れた瞳で真っ直ぐにおれを見た。
「だけど……」
「いや、いいんだ。あのさ、きっかけは、本当に何でもよくて。いや、あの。ごめん」
おれは矢継ぎ早に言葉を発する。
「泣かせるつもりもなかったし、そもそも、問い詰めるつもりもなかったんだ。聞いてほしかっただけで」
「……聞く?」
シトエン嬢が、ぐずり、と
「うん。そう。あのさ」
おれは無意味にシャツを引っ張って皺を伸ばし、いつの間にか猫背になっていた背をまっすぐに伸ばした。
「そりゃ、その……。おれのことが好きなんだ、と思って、嬉しかったのに。その理由がアツヒトって、別の男のせいで……。その……、おれ、なに舞い上がってんだ、って凹むわ、恥ずかしいわ」
「ち、
必死にシトエン嬢が食いついて来るが、おれは「いや、あのさ」と強引に言葉を断った。
愕然と彼女が目を見開くが、おれはきっぱりと言う。
「そいつ、もう過去のやつじゃん?」
「…………え?」
なんか、力が抜けたようにシトエン嬢が首を傾げた。拍子に、ぽろり、と彼女の目から涙がこぼれる。
「え? いや、そうでしょ? それ、前世の話でしょ? そいつ、もう死んでるんでしょ?」
ん? そういう話だったよな、と、おれも前のめりになって尋ねてしまう。
「ええ……、そう、ね」
ぼんやりとシトエン嬢が頷く。
「暴漢に殺されたんだろ? だったら、もういないし。うん」
おれはやっぱり、ほっとして納得した。
「だったらさ、おれ、確実に有利じゃないか?」
「有利、とは」
なんか哲学の難問を聞いたような顔で、でシトエン嬢が尋ねる。
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