第13話 見せて、おれに
「優しい? おれが?」
ちょっとおどけたように肩を竦めてみせたが、シトエン嬢は相変わらず身体を固くしたままだ。
「初めて婚約式でお会いした時も、わたしを守ってくださって……。この国に来てからも、こんなによくしてくださって……」
「いや……。そりゃ」
おれは彼女の視界に入るように少し背を丸めた。
「だって、おれたち夫婦になるんだろう? 夫が妻によくするのは普通だ」
夫婦、と。
シトエン嬢は呟く。
そのとき、おれはなんか違和感を覚えた。
目の前にいる彼女は、澄んだ瞳をまっすぐにおれに向けている。
だけど。
なんていうのか。
おれの、向こう側を見ているような感じがしたのだ。
おれを通して、違う何かを彼女は見ている。
なんだろう。
おれはシトエン嬢を凝視する。
だが、彼女は何を言うでもなく、長い間、黙り込んだままだった。
「……あの、王子」
どれぐらい時間が経ったろう。ようやくおれに呼びかけた。
おれを見つめる瞳には緊張がみなぎり、肩はさっきから強張りっぱなしだ。
「
彼女は当然ながら、丁寧語でおれにそう尋ねた。
「竜紋って……。いや、それは……」
さすがに
だって。
それ、胸の真ん中にある、って言ってなかったか?
「竜紋は、わたしの誇りでした。少なくとも、故郷では」
小さくて丸いシトエン嬢の顔。
いつもは柔和に笑い、穏やかに三日月を描く唇。
陽だまりのようで、焼き立ての菓子のようにほっこりとした彼女。
だけど今、彼女は張り詰め、放電する前の空みたいな雰囲気をまとっていた。
「竜は我が国にとって神であり、国そのものでもあります。その印をつけた王族と言うのは、それ自体が気高く、また、国を体現していると教えられて育ちました」
シトエン嬢の瞳は紫水晶のようで。
シトエン嬢のひととなり自体が鉱石のようで。
シトエン嬢の存在自体が、おれにとっては貴石のようなので。
「おれも、そう聞いている」
素直に頷いたのに。
彼女はつらそうに、そして苦し気にひとつ息を吐いた。
そんなにしんどそうな顔をしているのに。
彼女は、「ありがとうございます」と礼を口にした。
「我が国の歴史、我が国の文化に理解を示し、共感をしてくださるこの国の方々には、本当に感謝以外ありません」
「それは、シトエンが同じようにこの国を愛してくれるからだ」
実際、おれが促すまで彼女は母国語を話さず、今の今まで故国の服を身に着けようとさえしない。
「ですが、礼を礼で返す国ばかりではないのだ、とわたしは身をもって知りました」
うつむいた彼女の口から、そんな言葉が漏れ出た。
「……すみません。失言でした」
堅い顔で彼女は顔を上げる。不思議な色合いの銀の髪が揺れ、空気に残像を
「すべては、わたしが至らぬことです」
「起こったことすべてを自分のせいにするのはよせ」
ついきつい言葉が出たが、シトエン嬢はなぜだか嬉しそうな顔をした。
「やっぱり優しいのですね、王子は。昔と変わらない」
微笑んだ彼女は、そのまましばらく口を閉じた。
まただ、と思った。
また、彼女はおれのことを「昔と変わらない」という。
いつ、どこで会った?
おれは全然覚えがない。
まじまじと彼女を見つめる。
ぎゅ、と下唇を噛んだまま動かない。
なにか迷っている。
ただ、言おうとはしていた。
おれに対してなにか伝えようとしている。
なら、おれは待つしかない。
沈黙は悪じゃない。
時間は時に誰かを優しく包んでくれる時がある。
「その……、嫌悪感と言うのは、どうしようもないのです」
静かに。
シトエン嬢は話し始める。
だが、それは、おれと昔会った話、ではなかった。
「わたしは、……そうですね。
想像したのか、ちょっと彼女は肩を震わせた。
「王子はなにか苦手なものが?」
尋ねられて、「母と皇太子です」と即答すると、大笑いされてしまった。
「そうですね……。うーん」
くすくすと笑いの余韻を残してシトエン嬢は、何度かまばたきをした。
「その……、例えば、わたしのように蜘蛛が嫌いな人間がいて……。その人間の前に、蜘蛛の刺青をした人間が現れたとしましょう」
シトエン嬢はおれを見て、悲し気に微笑んだ。
「大嫌いなものを身体に施された者を、王子は好きになれますか?」
ああ、これは。
アリオス王太子のことかと察した。
あいつが嫌いなものをおれは知らない。
魚なのか。うろこなのか。刺青なのか。そもそも、タニア王国が嫌なのか。
アリオス王太子は。
生理的に嫌だったのだ。
シトエン嬢のことが。
いや、シトエン嬢の身体に施された、その竜紋が。
それが、やつの嫌悪感を刺激するのだ。
「生理的に拒否するものをわたしが持っていたら……。きっと好きになどなれないのです」
淡々と言うシトエン嬢に、おれは悲しくなるというより。
腹が立ち始めた。
紫の瞳を潤ませ、桃色の唇で。
あの男のことを語るな、と怒鳴りたい気持ちを必死でこらえる。
もう忘れちまえ、と叫びだしたい。
今、目の前にいるのはおれじゃないか、と。
あいつはもういないんだ、と。
「なので、王子。わたしの竜紋を見てください」
「見て、どうするんだ」
気づけばけんか腰の声が口から飛び出していた。
「
意地悪な言葉ばっかりが、ぽんぽん出て来る。
目の前のこの子より、おれのほうが5つも年が上だというのに。
いらいらして仕方ない。
なぜ、あんな最低男とおれを比べようとしているのか、この娘は。
「あの王太子と、王子は違う」
きっぱりとシトエン嬢がおれに言い放つ。
枕をぎゅっと抱きしめ、腰を浮かさんばかりにおれに向かって身を乗り出した。
「あの王太子のことを、好きになろうとしました。愛そうと思いました。夫として尊敬しようとした。だけど、無理。
ぽろり、と紫色の瞳から水晶の珠のような涙が流れ落ちるのを見て、我に返った。
言い過ぎた、と。
彼女の努力も、苦労も、しんどさも知っていたはずなのに。
「シトエン……」
名前を呼ぶが、続きが出てこない。
すまなかった、ごめん、違うんだ。
そんな言葉より先に、シトエン嬢が口を開く。
「自分が何とも思わない人に嫌われても傷つかない。あんな人に拒否されても、痛くもかゆくもない。だけど、ア……」
シトエン嬢は、何か言いかけ、語尾を飲み込んだ。
ぽろぽろと、透明な宝珠のような涙を流しながら、シトエン嬢はおれに言う。
「王子には嫌われたくない」
振り絞るように言った。
「サリュ王子のことを、わたしはとても好ましく思うんです。わたしを大事にしてくれるあなたのことを、わたしは大好きなの。わたしのことを好きになってほしいとさえ願ってしまう」
ぱくり、と。
シトエン嬢の言葉がおれの胸を圧迫した。
同時に、呼気と無意味な「え?」という問い返しが漏れだす。
「だけど、生理的嫌悪感を覚えるのなら、わたしはあきらめなくてならない。だって、どうあがいても、わたしのことを好きになどなってくれないのだから」
ぐう、と嗚咽を喉の奥でこらえるシトエン嬢は、はかなくて霞みそうで。
どうかしたら、そのままおれの前から消えてしまいそうで。
「嫌いになんてならない」
姿をつなぎとめるためだけに、彼女の肘を捕らえようと手を伸ばす。
「だからこそ、竜紋を見てほしいのです。いま、ここで」
だけど、おれの手を逃れるように身をよじり、彼女は首を横に振った。涙が散る。
「それを見て、気持ち悪いとおもうのなら、わたしはわたしのこの気持ちを消しましょう。今なら、まだ思いきれる。ただの人形として暮らせる。そして、ただただ、あなたの国と、わたしの国のために婚姻を継続します」
涙の残滓が睫毛から落ちた。凛々しい表情のまま、おれを見る。
おれを、試そうとする。
「だから竜紋を」
「見せて、おれに」
シトエン嬢の言葉を途中で断ち切る。
じ、と。
紫色の瞳がおれに向けられ、それから無言でひとつ頷く。
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