第6話 竜紋ってどこにあるんですか
◇◇◇◇
その日の晩。
シトエン嬢の寝室の前で、さてノックをしようかと拳を丸めた時だ。
「わかっていますね、坊ちゃま。挨拶だけ。挨拶だけでございますよ」
「団長。言っときますけど、十五分以上滞在したら、ためらいなく部屋に突入しますからね」
背後から、家令とラウルが圧をかけてくる。
「うるさい。わかっている。なんでおれを信用しない」
くるりと振り返り、睨みつけてやる。
だが、ふたりとも、しれっとしたものだ。
「そりゃあ、お披露目会や食事会の様子を見てたら……。ねえ、ラウル殿」
「ええ。やばいなあ、もう、めろめろだよ、って。ねえ、家令さん」
互いにうんうん、と頷き合っている。
「いや、別にあれだろ。いちゃいちゃしてなかっただろう」
シトエン嬢と腕組んで、ふたりで親戚という親戚に頭を下げて回っただけだ。食事会の時だって、互いに隣に座った招待客の対応に必死で、「王太子は毎日こんなことしてんのか、辛ぇな」と思ったぐらいだ。
「他人にシトエン嬢を紹介するたんびに、『おれの嫁、超かわいいでしょ』って顔してましたよ、団長」
冷ややかにラウルが言う。
まじか。
顔に出ていたか。
「とにかく。おやすみの挨拶をして、ヴァンデルのことを伝えるだけだから」
おれは言い、くるりとふたりに背を向ける。
どっかに行くのかと思ったら、本当にここで待機するつもりらしい。
「えー……、シトエン嬢。おれです」
こんこんこん、と三度ノックして来訪を告げる。
「はい。どうぞ」
鈴が転がるような声が扉の向こうから聞こえて来た。
おれはドアノブを握る。
「適切な距離を」「時間は十五分」
早口で家令とラウルが言う。
うるさい。
おれはノブを握っていない方の手で、しっしっとやり、扉を開けて中に入る。その後、素早く締めた。だけど、気のせいか、背中がぞわぞわする。視線はそのままだ。
なんだか気持ち悪くて足早に部屋に踏み込む。あいつら、扉を透視しそうだな。
そんなことを考えていたが、ふと、部屋の雰囲気が変わっていることに気づいた。
ここはおれの屋敷の一室。
ゲストルームとして使用していたところだが、執事長やメイド長が女主人の間らしく作り替えるとは聞いていた。
壁紙も調度品も、一切合切変えられていて、随分と女性らしい部屋になっている。
カーテンも淡い色合いで、ランプの色を柔らかく受け止めているせいか、随分と広く見える。
ベッドも天蓋付きのもので、レースの意匠が愛らしい。
とても。
シトエン嬢に似合っていた。
「先ほどは、お疲れさまでした。王子」
部屋の中央にある猫足の椅子に座り、お茶を飲んでいたらしい。
シトエン嬢は立ち上がり、礼儀正しく頭を下げてくれるから恐縮する。
もう、風呂に入ったようだ。
絹の、つやつやした寝衣を身に着けている。丈はくるぶしを隠すほどあるんだけど、腕がむき出し、というか。いや、そういう意匠なんだろうけど。
おや、と思った。
竜紋。
なんとなく、アリオス王太子が毛嫌いしていたと聞いていたので、身体や腕にくまなく刺青があるのかと思ったが。
思いのほか細くてしなやかな腕の表面には、なにもない。ランプの橙色が滲んでいるだけだ。
「あ……、おやすみの挨拶を……」
その、艶やかさに、どきり、とした。
別に、腕だけなんだが、なんだか見てはいけない気がして、急いで目を逸らす。
「わたしの方から伺わねばなりませんでしたか?」
慌てたように言うので、驚いて首を横に振る。いや、むしろ、おれが来ているのが変なんです。ちゃんと、別れ際、おやすみって互いに言ったから。
本当はそのまま眠ろうと思ったんだけど、ヴァンデルの一件があってこうやってお邪魔したわけで……。
「屋敷でなにか不便があればおっしゃってください。その都度、対応しますから」
あー、おれも風呂入ってから来ればよかった。
なんか、汗臭くね?
そう思ったら、迂闊に彼女に近づけない。
「みなさん、とてもよくしてくださっています。侍女のイートンも感謝しています」
瞳を細めて笑うのだけど。
なんだか、胸につまされる。
というのも、執事長の方から報告が入っているからだ。
『どうやら、前のお住まいでは大変ご苦労なさったとか』
アリオス王太子のところでの待遇についてだろう。
あの泣きすぎて腰を抜かしたイートンが、うちのメイドにこぼしたところによると、食事さえろくなものが与えられず、洗濯に出した衣装は切り裂かれたり、小物類も破壊されたりしたのだとか。メイド長も眉をひそめて、『あちらの家格が知れるというものです』と、おれに告げた。
シトエン嬢はなにも語らないが、イートンは、めそめそと泣きながら、『うちの姫様がいったい何をしたというのか』と愚痴をこぼしたそうだ。
当初は、アリオス王太子との関係性をどうにかしようと、彼女なりに頑張ってみたそうだが、それは功を奏さず、無為に二年が過ぎた。
そうして、婚約破棄らしい。
『ぼっちゃま。ここは男の見せどころでございますよ』
執事長もメイド長もおれにはっぱをかけるのだが。
そんなひどい目に遭ったというのに。
彼女はそんな素振りをまったく見せない。
イートンのように、泣いたりなじったり愚痴ったりすれば、慰めたり喜ばせたりできるのだが、何も言わないのに、こちらから何かをするのは変だ。
傷ついてない。
そういうふうに振る舞う人間に、「本当は辛いんだろ」と声をかけるのは好きじゃない。
「あの、王子」
そっと彼女が口を開く。「はい」。反射で返事をした。
「このたびは、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げるから、何事かと目を丸くする。
「アリオス王太子との婚約式で、助け舟を出してくださったばかりか、ご自身の妃に、とお声掛けをいただき……」
「いやいやいやいや。あの」
慌てて遮る。
「そんなことを言いだしたら、こちらこそシトエン嬢に謝らねば。その……」
わしわしと、頭を掻く。
「こんな熊みたいな男で申し訳ない。王子とは名ばかりで」
肩を竦めてみせると、シトエン嬢はさっきのおれのように目を丸くして。
それから、くすり、と笑った。
ぐは。可愛い。
「わたしが想像した通りの王子さまでした。あなたは本当に変わらない」
変わらない……?
「あれ、どこかで……」
お会いしましたか、と尋ねようとしたのだが、先にシトエン嬢が口を開いた。
「王子こそ、わたしでいいのですか?」
「ほんと、満足というか。ええ。はい」
食い気味に頷いてしまった。いかんいかん。がっつきすぎだ。
「それは、よかったです」
ほっぺた桃色にして笑うんだもんなぁ。もう、ずっと見ていられる。至福。
だけど、はたと気づく。
そうだ。
あの男のことを話さねば。
「あ……、あの実はですね」
「はい」
きょとんとシトエン嬢がおれを見上げる。
「明日、友人が来るんです。ヴァンデルという男なんですが……。お疲れのところ申し訳ないが、会っていただけるだろうか」
「光栄です」
いや、光栄なんて。
本当は会わせたくないんだけど、もう、王都に来ちゃってるんだよ。早いんだよ、行動が。
「あの……」
控えめにまた声をかけられる。
「はい」
もうそろそろ十五分経つかな、と考えながら返事をする。
「竜紋が、気にはなりませんか?」
尋ねられ、一瞬口ごもった。ちょうどさっき、考えていたからだ。
「気にならない、と言えば嘘になりますが……。ただ、それほど気になることもないんですけど。えっと。なんか、見ないといけないんですか? 見ましょうか?」
なにが正しいのかわからないまま尋ねると、シトエン嬢は耳まで真っ赤にして顎を引くようにして縮こまる。
「いえ。あの、見ないといけないというわけではなくて……。その。気持ち悪い、とお思いにはなりませんか?」
「なにが、ですか」
「竜紋が」
「いえ、別に……」
どんなものだろう、という好奇心はある。なにしろ、実際に見る機会などないのだから。
だけど気持ち悪い、って……。なんだ、そりゃ。
「その……。殿方によっては見るのも嫌だ、と思われるそうで……」
どんなふうに言えば柔らかく聞こえるのか。
シトエン嬢は最大限の配慮を払って、そんなことを言いだした。
たぶん、あれだ。
あいつだ。
アリオス王太子だ。
あいつが気持ち悪いとかわけわからんこと言いやがったんだ。
「タニア王国を語る上で竜は外せない。その竜を示すうろこの刺青がある方は、尊い方だと思いこそすれ……。それ以上のなにも思いません」
だから、おれも最大限配慮をして言葉を選ぶ。
本当は、「
「もし、シトエン嬢がよろしければ、おれに見せていただけますか?」
おれ史上最高に優しい笑みで言うと、ぼん、と火を噴きそうなほど、彼女は身体中を真っ赤にさせた。
え。なに。この反応。
おれ、おかしなこと言ったか。
「その……。お見せしたいのですが、まだ、心の準備が……」
「心の準備?」
思わず尋ね返すと、シトエン嬢は小さな身体をさらに小さくして、胸の真ん中を指さした。うつむいたまま、消え入りそうな声で言う。
「ここに、あるもので……」
ちょうど。
胸の谷間だ。
「失礼しました!! あの!! 今見たらその!! ええ、まずいですね!!」
両手で押しとどめる。
いや、別に目の前のシトエン嬢は、見せようとしたわけではないが……。
妄想上のおれのシトエン嬢が『ご覧になりますか』とか言って、服を脱ぎ出したのでヤバい。
ここは撤退だ。
もうだめだ。
「それでは、シトエン嬢! また明日!」
言いながら、部屋を飛び出す。
案の定、というか。
扉のすぐ外には、ラウルと家令がいて。
「なんで顔が真っ赤なんですか」「何妄想したんですか」
おれは、うわああああ、と叫びながら、自分の屋敷の廊下を走った。無意味に。
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