第1話


 季節は夏、照りつける日差しが教室内の気温を上昇させ、思考をする気力を奪っていく。だらりと椅子に深く腰掛け、机に突っ伏す。じわりと滲み出してくる汗がカッターシャツの中に着るTシャツに染み込んで、気持ちが悪い。


「あっつ……」


 外からはソーエス、ソーエスと何処かの運動部の掛け声が聞こえてきて、それがまた気温を上げている要因のようにも思えてくる。蝉の声がジジジと鳴り響き、それがまた嫌と言うほど夏を主張する。


 こんな暑い中よくやる、俺には無理だな。


 顔を窓の外に向けて、手元のプリントをうちわのようにして仰ぎながらそんな事を思う。生じる風は微々たるものだが、こんなのは気持ちの問題だ。


 プリントには大きく、進路希望と表示されており、その横には西宮遊助の文字、そして下には空白の欄が三つ並んでいた。

 中学3年生、高校進学率が98パーセントを超える現代日本において、学校が求める進路は進学一択。


 殆どの生徒はサッサと書き込み、提出したようだ。まあ田舎であるこの街には、そこまで高校の数は揃っていないし、迷いようが無いんだろうけど。



 別に俺も進学する事に嫌悪感は無いし、するつもりだ。大体今の学力でいける高校も絞れるし、サッサと書けば良いんだけど、何だか億劫でそのままにしていた。


 しかし、その事が原因で放課後に呼び出されたのだから、やはり面倒臭がらずに書くべきであった。


 こんな暑い教室に居続けるのも馬鹿馬鹿しいが、俺を呼び出した張本人である担任が、校内放送で呼び出されたせいで、未だに待ち惚けを食らってしまっている。


 冷房、いやせめて扇風機ぐらいあればマシなんだけどな……


 そんな事を考えながら、左手を枕にしてぼんやりとしていると、不意に首筋にヒヤリとした物が当てられる。


「うおっ!……おい」


「すまん、すまん。そんなに驚くとは思わんだ」


 俺は驚いて振り向き、その先にいた人物を見て睨みつけた。

 悪りぃ、悪りぃと言いながら首筋を掻くこいつは神守中学の韋駄天の異名を持つ、金森啓治、小学校からの旧友だ。


 短く切り揃えられた髪に、浅黒く焼けた肌がよく似合っている。また、俺の身長を裕に超える長身と引き締まった肉体は、流石は陸上部のエースと言ったところだろうか。


こいつと並ぶと俺のもやし振りがよく際立つ。俺の天パの混じった髪に、いかにもインドア派であると分かる細い体は正に正反対と言っても良いだろう。


「ケイ、部活はどうしたんだよ」


「休憩や、休憩。こんな暑い中走り続けたらいくらワシでも倒れてまうわ。それよか、まだそれ提出してなかったんか」


「そ、それで呼び出されてんの」


「アホやなー、サッサと書いとけば良かったのに」


「ケイは推薦だっけ?」


「そうや、俺は高校でも陸上するつもりやし、推薦してくる高校は俺に走ってほしい、うぃんうぃんってやつや」


 啓介はどこぞの訛りが入った喋り方で、軽快にそう話す。

 この町で生まれて、他県に出る事なく育ったくせして、こいつは小学校の頃から変わった話し方をする。これが何処の方言かは知らないが、自然とその話し方が似合うのだから不思議なものだ。


「ユウも早よ書きや、どうせ行く所なんかある程度決まっとるんやし」


「分かってるよ。はぁ、何処に行くにしてもそろそろ勉強始めないと」


「ワシと違って勉強苦手な訳やないやろ、そのものぐさな性格直した方がええで」


「うるせえ、こればっかりは性分だからなあ……」


 自分でも分かってるが、俺は何かを始めるのが苦手だ。めんどくさいとは少し違う、けどそれは言葉に言い表し難い煩わしさで。

 まあ結局周囲からはものぐさな人間にしか見えないのだろうが。


 うっすらと汗が染みてしまったプリントに目がいく。サッサと書いて帰るとするか。担任には悪いけど、職員室の机にでも置いておけばいいだろう。


 時計の針を見れば、時刻はすでにホームルームを終えてから、1時間以上が経過していた。まだまだ日は高いが、いかんせん帰るまで自転車で4、50分ほどかかる為、早く出ないと家に着く頃には暗くなってしまう。


「帰るわ」


「そうか、ワシはこの後もうひと練習やな。気ぃつけて帰れよ」


「おう、お前も頑張れよ」


 お互いに立ち上がると、啓治はそそくさと走り去ってしまった。慌ただしいやつだ。さてと、俺も帰るとしよう。重い体を持ち上げ、のそりとゆったり動き出す。


 途中で職員室に立ち寄り、おそらく担任の机であろう場所に投げやりに置いておいた。外に出ると、遠くの方で陸上部が走っている姿が見える。


 ほんと、青春って感じだよな。

 でも俺には自分が汗を流して努力する姿は、全然想像できない。青春が、汗と努力と友情で出来てるなら、別に青春なんて欲しいとは思わない。


 そうだな、出来ることなら雲のようにのんびりと過ごしたいものだ。


 空は青々と住んでおり、雲一つない晴天。時折吹く強い風が、俺の漕ぐ自転車を揺すった。太陽の光が、側にある瓦屋根に反射して眩しく感じる。


 俺の家は山の上の方に位置しているため、帰り道は殆ど登山をしているようなものだ。

 その中でも特に勾配が急な坂に差し掛かり、俺は腰を少し浮かし、身体を左右に揺らしながら、ペダルに乗せる足に力を込める。


 多分、降りて押した方が楽なんだろうけど、それをしないのは、8年近くこの道を通っている意地なんだろう。


 額からはだらだらと汗が流れ、カッターシャツもほんのりと濡れ始めていた。


 その後も自転車のペダルがギコ、ギコと鈍い音を立てながら漕ぎ続けること数分、少し坂が穏やかになったところで俺は足を止めた。


 ふと後ろを見れば、そこには俺たちが住む町、神守町が広がっている。最近道が広く作り直された国道42号線を走る車は、まるでチョロQのように小さい。人なんて皆んな蟻のようだ。


 自身の反対側に位置する山には、白くて大きな人工物がそびえ立つ。現在建設途中の神守大風力発電機は、ここからでもその存在感が伝わってくるほどの大きさだ。


 あまり詳しくは無いが、ここらの地形は本来風を呼び込むには不適な土地らしい。しかし、どう言う訳か、この町では不思議と風がよく吹く。

 町のマスコットキャラとして、風をモチーフにしたものが作られるぐらいだ。


 風に靡かれながら、眼下に広がる景色を楽しむ。


 俺はここから見る景色が堪らなく好きだ、町全体が見下ろせるこの場所が。


 別に地元愛なんて無いし、田舎なんて遊ぶ場所もなくてつまらないが、多分都会ではこの景色を見ることは決してできまい。


 そう思うと、田舎臭いこの町も何だか、悪く無い気がして自然と笑みが溢れる。


 苦労して坂を登ったものを労うかのように、一陣の強い風が頬を撫でる。その風は僕をすり抜け、周囲の木々を揺らし、ザワザワと葉音を立てさせた。


 この風を感じるために、俺はこの坂をくろうして登っているのかもなあ……


 そんな事を考えてるうちに、陽が少しずつ傾き始める。朱色を含んだ薄い雲が、空の色と混ざり紫苑色へと染まっていく。


 さて、そろそろ帰るか。


 俺は自転車のストッパーを蹴り上げ、鞄を背負い直す。次の瞬間——視界の端に奇妙なものが映ったような気がした。


「あん? 何だありゃ」


 俺は空を見上げる。そこには謎の黒い影、随分と大きいものが空に黒染のように、ポツリと浮いていた。

 よく見ればそれは徐々に落下しているようで、影は少しずつ大きくなってきている。


 おいおい、まずいんじゃないか?


 そう思い逃げようとしたが、随分降ってくる速度が遅いようだ。それにあの形は、ヒト、人か?


 そんな馬鹿なと俺はパチクリと瞬きをし、目を擦る。


 空から人が降ってくる訳ないだろ、疲れてるんだ。


 そう思い、もう一度空を見上げるもそこにあるのは紛う事なき人の影。多分それが背格好から、女の子であると分かる程には距離が近づいていた。

 それはフワフワと漂いながら、こちらに近づいてくる。


「きれいだ……」


 自然と口から溢れた言葉だった。

 

 空から降下する少女は横に倒れ、セーラー服をはためかせながらゆっくりと降下していく。


 その光景はまるで、絵本の中のワンシーンのようで、言いようのない神秘性を放っており、俺はその光景に魅了される。


 ヒュウと強い風が吹く、その風に煽られて彼女は近くの雑木林の方へと、方向を変える。


 俺はそれを見て、慌てて薄汚れたガードレールを乗り越えると、転がるように斜面を滑り降りる。慣れたもんだ、ここらはガキの頃からの遊び場なのだから。


 俺は木々をすり抜けながら、彼女の落下地点へと滑り込み手を広げて、割れ物を扱うかのように彼女を受け止める。


 予想外にズッシリとした重みを感じ、少しよろけてしまう。風に漂う様子からは、想像できないほどそれは人の重さをしていた。


 彼女の姿は、肩にかかるほどの少し癖のある髪。小さな顔には、閉じられた瞳からでも分かる長いまつ毛に、筋の通った鼻、そして薄い唇が白い肌によく似合っている。彼女の容姿を一言で表すなら、清楚とか、気品のあると言う言葉が適切であろう。


 容姿だけ見て一目惚れなんてするやつはアホだと、小馬鹿にして生きてきたが、するやつの気持ちを少しは理解ができた気がする。


 目がゆっくりと開けられる。


「……あなたは、だれ?」


 彼女は寝惚けまなこをこちらに向け、鈴のような声でこちらに問いかける。


 その瞳に俺は吸い込まれるかのような錯覚を起こして、言葉が出てこない。


 聞きたいのはこちらの方だ、まさか生きているうちに空から降ってくる女の子を受け止めるなんて、経験をする日が来るとは思いもしなかった。


 俺があまりの出来事に動けなくなっていると、いきなりスイッチが入ったかの様に動き出し、ひょいと彼女は俺の腕から抜け出した。


 そして、キョロキョロと辺りを見渡すと、こちらに気づいた様で何やら慌てた顔をして、こちらに詰め寄ってくる。その勢いは顔がぶつかるのではと思うほどで、俺は思わず後ろに身を反らす。


「もしかして、見ちゃった?」


 彼女は左手で頬をかきながら、反対の手で空を指差す。彼女の見たと言うのが、空から降ってくる姿のだとしたら、俺はそれを間違いなく目撃した。


「見ましたね……」


「見ちゃったか〜。あちゃー、やらかしたな……」


 彼女は頭を抱え、その場に蹲った。そして、曲げた膝の反動を使い、器用に跳び上がり彼女は俺に指を差す。


「今日貴方は何も見ていない。見たことは全部忘れて!」


「いや……無理がありますよ」


「やっぱ無理かー、無理だよね〜」


 彼女から連想した清楚とは、まるでかけ離れた彼女の言動に俺は驚く。結局容姿は容姿、その人の内面までは分からないものである。


「君、名前は?」


「……西宮です、神守中3年の西宮遊助」


「中学生!? 若いね、良いねー」


制服を着ている事から推測するに、そう年齢は離れてないはずだが、混乱してる俺はそこまで頭が回らず、機械的に名前を聞き返した。


「貴方は?」


「私?うーん、どうしようかな……そうだ! じゃあ私の事はカゼヒメって呼んでよ」


「カゼ……ヒメ?」


「そう、カゼヒメ! 良い名前でしょ」


 彼女はそう言うと、屈託のない笑顔をこちらに向ける。もう既に陽は傾き、鬱蒼としたら木々の間は薄暗かったが、彼女の周りだけは月明かりのお陰か不思議と明るく照らされていた。


 かくして俺は、自身をカゼヒメと名乗る怪しげな少女と出会うこととなった。


 どこまでも続くと思っていた平凡な日常が、非日常へと変わる様な気がして、自然と心拍数が上昇した。





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