第11話

帰宅し、ぼくが電灯を点けるあいだに、靴を脱ぎながら絵鈴唯は言います。




「あの日の夜……変な叫び声が聞こえたな」




そのときぼくは眠っていたので、聞いていませんでしたが、シイナちゃんも頷いていました。




「男の人が、なにか、ほぼ奇声みたいだったけれど」


「あれがもしかすると……」




「老人ホームに居た『彼ら』と《関わり》のある人じゃないかと、思います」




 ぼくが立ち尽くしているのを見て、絵鈴唯が言います。




「そうか、瑞は聞こえなかったか」




「寝てたから、わっ」




 ぽい、と彼のカーディガンから出されたカイロを投げられ、


あわててキャッチします。





少し冷えていた肌にはそれがあたたかくて頬にあてました。


その間に、台所方面に向かう絵鈴唯が苦笑いを浮かべています。




「それにしたって……あの夜、会うはずの人に会う手順が狂ってしまった。


見張りが居たとはね」






「絵鈴唯の『とりまき』は、出てこないの?」




「彼らはあまり表立っては現れないよ。『日常』には入らないんだ」




普通はね、といい、彼はポットのある小さなテーブルで、3つのカップに暖かいお湯を注ぎます。


「ふうん……」


そういうものなのか。


なにか今のこの時を温める飲み物が出来そうな予感を期待しながら、ぼくは思い返します。


男の子について、シイナちゃんが『壁際に立っていると言っていた』と、聞いた点。




「屋根があるからね、あそこは日当たりがよくない。玩具の劣化具合もだからマシだったかな。




あの構造だと、夜は壁際には影が出来るから光がどうしても遮られる。


目視しづらい」


やがてインスタントだけどと、カップに入った『カフェラテ』の粉末にお湯を居れたものを絵鈴唯がぼくとシイナちゃんに手渡します。




「さっ、飲んだら、腹筋をしよう」




優雅なしぐさでカップに口をつけながら絵鈴唯は言います。




「まじでやんの?」




「男女関係なく、握力や腹筋は少しあるべきだと思う。脂肪の塊が無意味にぷるぷるしてるよりマシだね」




「……そうかい。本音は?」


「少し鍛えないと、体力が落ちる。今日ちょっと歩いただけでも結構呼吸がきつい」






「医者に言われたわけ?」


「まさか。ではないけど、自主的にね」




 ほんのり湯気が立つカップを口許に当てて、カフェラテをゆっくり飲み干していきます。


外はもう暗く、ひゅうひゅうと北風が騒いでいました。




「昔……中学生くらいの頃、はやったけど。


格好いいかな、暗殺とか組織とか、ああいう人って。


ぼくは、わからないな」




「食肉加工やとさつをする人は嫌な目で見られるときがあるらしいけど、


人になった途端格好いいんだから、笑える」





 確かに、格好いいとさつシーンなどというものは、ほぼ漫画などにはありません。


敵、と見なした相手を殺すシーンは沢山あるのに食料になった途端にどこか人間らしい傲慢が見える感じです。




「死んで当然で、そのために生まれる命もある」




「殺されて良い命なんか、沢山ある」




「まるで」




「そう、僕たちだよ」





二人で顔を見合わせてげらげら笑います。


みんなが死を願っている。そういう人たちだって世界には、確かに居るのです。





 けれど、それなのに人が、そんなことはないという理由は、


自分に罪を感じたくないというのに他ならないのです。




「まあ暗殺者も、正義も、今やにたようなもんだけど」


 ただただ、ぼくたちは、笑いあいます。




凍える空気を、やんわりと甘い香りが包んで、なんだか、世界のなにかが溶けていくようでした。


「幸せな中にいると、不幸や苦労にさえ憧れる。


人はそういう面倒な生き物だということかな……」


 死んでいくために生まれる人と、殺すために生まれる人。


どちらが幸せなのでしょう。








……ふと、おじさんを思い出しました。


奇声を上げて、ぼくをいじめていた人。




「結局、絡まれたら負け、か」




 障害があるから、なにをしても庇われるのだったらぼくの命は、それ以下だ。




絵鈴唯が言っていたカサンドラ症候群は医学的な正式名ではないものの




 アスペルガーなどの人とのコミュニケーションがうまくいかず、自信を喪失し、自我が破壊され、感情や感覚がおかしくなってしまうような、


昔から密かに言われていた状態だそうです。





これは男性の症状に多かったので、妻の病気とも言われていたらしいのですが、偏見が多く、吐き出すことが人間的な否定までされてしまいます。


「そうだね。現状、絡まれたら終わりという面もあるだろうね……」




 社会がなにかするわけでもなく、こんなことをネットに書いては炎上するような人が出る始末。


彼女らの苦しみを、否定し、逆に叩き、引っ張りあげるのが現代社会。




政治家、テレビでさえ、さらしあげては強い口調で批難します。


正義がなにかも空回りしたまま。




「ほんと、終わってるよ」


シイナちゃんは、静かに中身を飲んでいました。ぼくたちに気を遣ってくれているのかもしれません。ふと、申し訳なくなります。




「ごめん、退屈だったかな」


「……いえ」




「シイナちゃんは、なにか、夢とか、ある?」




彼女は、そうですねと薄く笑いました。




「夢も、希望も、死んだら終わりですね。走り回って、よくわかりました」




「生きてるうちにしたいこと、ある?」




「今、していますよ。


呼吸も、きれいな世界を見ることも。自分の足や手がある実感も。


静かな時間も。みんな、いいものですね」





 どうでもいいような雑談を、沢山しました。


ぼくは、考えていました。


 どちらを否定するのも良くないことだっていうそれだけ。




誤解し、保障に目をつけ弱者を隠れ蓑にし始めた悪い人までいる世界なんだから。




せめて――愛されないことが。




絡まれないことが幸せな人もいるってことは、それを産み出した人たちに否定されなくていいと思うのです。










(地獄とは他人である、か……)





なんだか、頭が痛い……






暫くの会話の後、


少し休みたいと言い、




逃げるように二人から離れてふらふらと、近くにある部屋の隅、定位置に居る恋人に会いに行きました。




 恋人は相変わらず無表情のままぼんやり空間を眺めています。いつのまにか着せられている上着と、いつもの服。





「元気だった?」




心のなかで呼び掛けます。恋人はただ黙ってそこにたたずんでいました。


「今日、少し寒いね」




 ひんやり冷えた身体に寄り添うと、ぼくの体温をより密接に感じます。想いに、差別はない。


なのにどうしてシイナちゃんを、いや、ぼくを好きだと言う人を見ると悲しくなるのでしょう。




まるで、自分を、否定されたみたいに胸の奥が痛むのです。




「ぼくは、ちゃんと、きみが好きなんだよ」




小さな顔をそっと両手で包み込んで、唱えるみたいに言います。




「血がなくても、魂はある」




さっき堪えた涙が、また頬に伝いました。


なぜだかぼくは『此処』が、この世界が、生きづらい。




「魂があるものは、生きてる」




生きてないものが好きか。ううん。


みんな生きてるんだ。


そう言えばよかったのに。




「みんなが言う『生き物』を好きにならなきゃいけないのか。


ぼくは、きみのことで、怒ったり泣いたりしちゃいけないのか?


……好きなんだ。ぼくは、生きてるって、思ってるんだ」






 周りが否定するぶんまで、世界が否定するぶんまで、息をしないこの恋人を愛そうとその一心で抱き締めます。




生身の人間ならとても、絵鈴唯にくらいしかできないことで、あり得ません。




 エッフェル塔と結婚した人だっている。


人の愛情は、平等で幅広くあるべきならぼくたちだって許されるはずなのに。




絵鈴唯に向ける気持ちと、この恋人に向ける気持ちは違う。




「あったかい……」




落ち着く空間。


会話が無い幸せ。


この気持ちは、やはり生身の人間なんかじゃ埋まらない。




「生きてないって、難しいね」








 というか、生きるってそもそもなんなのでしょうね。


と。そのとき。






――きみは   が無いから。





「え?」




なにかが聞こえた気がして、思わずぼくは聞き返しました。周りには誰もいないのに。




――きみは が無いから。





(何が、何が……ないんだっけ)




なんだか、その声は懐かしい気がしました。


聞いたことがあるような。


いつか、確かに。





だから、ね―――――


代わりに





……なんだっけ。


なんだか大事なことだった気がする。




 頭が、重く痺れて、動機がしましたが、やはりわかりません。





――――固くてざらついた肌が。


ひんやりした体温が。


微動だにしない身体が、ぼくを誘っているのに。




 ――好きだ。


どんな人間に囲まれるより、重たい感情に挟まれるよりずっと好きだ。




孤独を選んでも、


この恋人の側がいい。





 ぼくには周りの他人のそれは重すぎて抱えられないから、いつもいつもいつも逃げて突き放すことになる。


社会の禁忌。


親戚も母さんたちも、この想いをきっと許さない。


だけど、好きなんだ。












――怖い、苦しい、痛い。




 呼吸が荒くなりめまいを覚えてもぼくは『その人』から離れられなくて、ただ、生きていることを噛み締めるように、抱きついていました。




世界は窮屈だ。




――ぼくは。




他人なんかに愛されなくていい。




人一倍努力して、強くなって、他人を必要とせずにやりたいことをして、生きたかっただけなんだよ。


愛されなくても、生きられるように。





 独りで、大人になりたかったな。


そして、『きみ 』を、ただ見ていたかったのに。





――ぼくの代わりに誰かが愛だけを、もらって、




居場所と孤独を引き受けたら。


どんなに楽しいだろう。








    ◆◆




 今、が出来上がるまでの話をするといつもなぜか驚かれます。




 ぼくはもともと隠してはいたけれど血の気が多い方でした。




語り口を敬語にしているのだって自分を制御する重石に他ならなくて……いや……懐かしい話をするにはやや窮屈だな。


少しの間取っ払う。





 暇なときは鉄柵に腰掛けながら、よく、頬の傷から滴る血をなめたりしてた。夕暮れが一番見渡せる場所。


ビルの屋上。





あれは数年前――今になれば理由なんか些細なものだが、たぶん自殺願望を手軽に満たすために危険なスポーツをしていた。




よいこは真似しちゃダメなやつ。


今だとなんていうんだか。ビルの間や高い場所をとびうつったりする、あのスポーツ。


もう一度いうが、真似してはならない。




 まあ、それで。


ぼくの近くに集まるやつは、大体そうだった。


自殺願望がどこかにあった血気盛んな死にたがり。




……なぜだか他人に向けようとはしないのは偉いもんだ。


迷惑に代わりないのに。




 ぼくらが決めたルールは『下』に居た場合はしない。または、着地点だけは間違うな。


他人を巻き込みかけたやつはもう中止ってこと。


まぁ田舎の、寂れた町中は建物の方が多いし、夜中も人が来ないルートは確保しやすいから、別段そんなこともなかった。


初めは一人でふざけていただけだった。


なのにいつのまにやらぞろぞろとついてきてしまい、気付いたら5、6人になってた。




靴紐を結ぶこと。


靴の重さを変えないこと。前髪で視界を遮らない、など、軽い約束は一応存在していた。


特に靴紐だけは、確認を怠ってはならない。


体調が悪いときは絶対に些細なことだろうと報告。


……なんだか死ぬ気の無さそうな優しい感じがするが、これらはちゃんとしないと本当に大変だ。


 わざわざそこまでしてバカたちは、飛び回って遊ぶ。




結局ほとんど少しやさしめの、間違っても自分は死なない距離でしか飛ばなかったけれど、死ぬか、死なないか。




――飛び降り自殺するみたいな気持ちで、窮屈なビルを駆けたあとは、


また生き返った気になった。


生きてる、生きてる、生きてる……







――夏の日。


風の少しある、比較的涼しかった日のこと。




せっかくのいい天気なのにメンバーはみんな出掛けてたから、ぼくは一人でいつものビルに居た。夏休みの昼間。


受験勉強の息抜き。


いや、死んだっていい。そんな、錯綜した気持ちだ。


この思春期の時期の若者には、とくにふいに、退屈とハイテンションが入り交じる、わけのわからない気分がやってくるときがある。




 ぼくもまた、とても良い気持ちで屋上に居た。よろしかないことだが、バイクよりは空気がクリーンな非行だという、やや意味不明な持論もあった。




――これは、ほら、趣味でやるボルダリングの反対みたいなもんだ。




いきまーす、などとふざけて言う相手もない。


コンディションも好調。一人だけの舞台を、スポットライトのような日差しが照らす。




 靴底が地面を蹴り、受け身のことを考えながらもさほど離れていない隣のビルに飛ぶ。




「……ふー」




少し風をまとうだけで、人はなにか強気になるんだろう。





 科学的になにか、根拠があるかもな、なんて言いつつ。


 タンッ、タタン、と軽快にいつものコースを飛び、ラストの階段に差し掛かったところで、下に影が見えたので即座に足を停止した。




――顔色を変えたように青ざめてこちらに向かってくる少女……?


愛されるために生まれたような人形みたいに整った顔、少しふわっとした艶やかな黒い髪。




「ふーん。この学校にも、こんな子が居たのか」




 あんまりクラスの生徒を把握してないぼくは、そんな感想を持つ。




知らない子だ。


その子は、やがてビルの階段を上がってきて、そんでぼくを見るなり、やけに真剣な目をして「死にたいの!?」と言った。


そうなりにくいようにちゃんとルールをもうけているとか、慣れている範囲でだからとか、これもスポーツうんぬんを言うのも面倒だ。




「ぼくの死に興味あんだな」




世界一どうでもいいことのように、そう言うと、その子はあるとかないとかではないと言った。




「目の前で人が死ぬなんざ、縁起でもない」




「いいじゃない」




ぼくは、けらけら笑った。




「死ぬのといきるのって、変わらない。ひとつに繋がった概念だろ」




そいつは、小さく、肩をゆらして息を何度も整える。


 へえ僕っ子か、なんてぼくが思ってるうちに、キッ、とこちらを睨み付けた。




「自殺したいのか」




「したくないと言えば嘘っすわ」





この子、ぼくの死体見たら、どんな顔するかな。まさか悲しむかな。


人間じゃないのに。


弱者からも逃げるクズなのに。


この前も、そう、ぼくは叱られたし。


ぼくの人格なんかさ。




こんな風にぽいっと。








そしたら、羽とか生えて、しあわせな場所にいけそうだ。




 そんな、まるでメルヘンみたいなことを考えては苦笑する。




水色の、空。


綿みたいな雲。


まるでどこまでも続きそうな、境目の曖昧な空間。平和そのものが、熱気をはらみながらぼくたちを包んでいる。




夏休み。ぼくって、なにしてんだろうかね。




「あんたはさ、したくない?」




「僕は……」




その子は、困ったように眉を寄せる。




「ぱたっと死ねるんならいいが、中途半端に助かると苦労するかもな」




「きみはなぜ、死にたいのかな」


なぜ。考えてみる。


答えはひとつしかない気がした。




「あー。社会に真の意味で、不適合だからかな」




「真の意味とは?」




聞かれて、少し言うか迷った。なんでこいつは興味津々なんだろ。




「まれにだけど。




他人がみんな、ぼくにはゾンビが蠢くみたいに、不気味な様相をもって視界に映るというか」




「なるほど……」




「少し病気の知り合いがいてさ」




暴れるだけ暴れては、優しくなって、また暴れて……周りは、優しいときしかみなくて。




「付き合わされたぼくだけが、おかしくなったっていうか。


誰もきいてくれないっつーか」


はっはっはー、とぼくは朗らかに笑った。





「まっ。大抵のことは、あれに比べりゃ愉快なんだが」






 ――その子は、しょんぼりしたように聞いている。


聞き上手かもしれない。





「……そうか。その、キツい態度がつらいのか」






「まーさか。ぼくが辛いのは優しさの方だよ」




ぼくは目を伏せて苦笑いする。




「優しさ?」




「たとえば髪を引っ張られて


『さっさと地獄に行け!』と怒鳴られるだろ?


ぼくは地獄に行く準備をいそいそとするわけだ。遺書も用意する。


 相手はその間に、勝手に我にかえる。


『お前、なにしてんの』




さっきまで、さんざんに地獄行きを勧めておいてこれ、笑うしかないだろ」


その子は目をぱちくりと動かして少し何を言うか考えていた。




「どうしても死ぬのか」




ただ、淡々と。そいつはどう言おうと受け入れるという風に、ぼくに聞いた。




「その前に、名前、なんていうんだ」


「僕の?」




「ぼくは、瑞。あんたは」


エレイ。


聞き流してしまいそうなくらい優しい声音が、名乗る。




「変わった名前だ」




「よく言われる」


互いの自己紹介で、少し親しくなったぼくら。




死ぬために居たわけではないことをぼくはネタばらし。




「――実はストレス発散をしないと生きていけないから、放課後のわずかな時間とかにこうやって運動してるんだ。


危ないけど、自殺より安全でさ。


これ短い距離でもね、


もう一度生き返った気分になるんだ」





よく、きみって真面目そうなのにとか、がっかりだと言われる。


絵鈴唯は言わなかった。


「みんなには内緒だよ」











――後にぼくは、絵鈴唯が彼であることを知った。




死ぬつもりだったのは、絵鈴唯の方だったことも。







ぼくには研究する夢があり絵鈴唯には創作する夢があった。


同じ学生だった。






 夏休みも暇で、学校に来て本を読みながら毎日レポートを作る横で、絵鈴唯は毎日毎日様々なものを創る。





身体が弱くてそのせいで心も弱ってしまったのだというが、なにかしてると気が紛れるらしい。




 今までも人体模型を見たくて保健室にいくことがあった。




それに、新たに絵鈴唯に会いたくて、が追加される。






まさか、すれ違っていたなんて。




保健室には、きのこが好物だという涼乃音捺(すずのねなつ)や、札木五月(さつきごがつ)がよく来ていた。別段、すごい親密ということもなかったがこれといって避ける理由もなく、談笑する日もあった。




やがてぼくの日常は、保健室や、周辺を軸にするようになっていた。





 ときに。


二次元や自分の世界にそそいだ愛を、三次元や現実にそそいだと言われるのはとても心を引き裂かれることだ。




 周りを拒絶し、排除して、ぼくだけの世界に籠ると、どこに居ても楽園。






――そしてそれは部屋に閉じ籠らなくてもできる。素晴らしい。


他人を好きなフリが出来る、他人に優しいフリが出来る。





――わざわざ籠らずとも周りを否定しながら笑い全力で偽善者になれば良いんじゃないだろうか。誰も視界にも視野にもいれず独り打ち込めば、成績だってあがるし、親も心配しない。


朝一番に保健室に来ていつもの挨拶。


「おはよう、絵鈴唯」




そいつは、どうでもよさげに「きみもすきだねえ」と言い、ベッドのなかでの読書に戻る。




そのあとは、すきなひと、に会いに向かう。






 心のなかは、独り。




ぼくだけの空間がありぼくは特にあの人体模型を愛していて、周りではがやがやと『人間』。あれは異端で、頭が病気になりやすい。


ぼくと別の世界の生き物。





――ぼくの世界は、此処に、ある。


そこにだけある。




保健室に居る人体模型は頭が病気になったりしないうえでも、恋愛対象だった。


結ばれなくても良いし、言葉を交わさなくても良い。ただ、居るだけでときめくからいいのだ。




「ここに来るやつの何割かは君目当てなのに」




カーテンの向こうから絵鈴唯が残念そうに呟く。


「だから? そいつらがぼくになんか関係ある?」




「人の心は厄介だぞ? この僕が言う辺り、説得力あるだろ」




「んー、でも、こんなにも毎日模型のそばにいるんだからさ。好きな相手だとバレそうなもんだよ」




「いや、たぶんバレない。人間は人間同士ってのが普通だから。はははっ。不憫だなお前がなんにも他者に」




むっとしたぼくは言う。


「だったら、絵鈴唯」




「……なにかな」




身体半分、カーテンのなかに入る。


軽く咳こみながら絵鈴唯は、ぼくを見る。



 「絵鈴唯が好きだけど結ばれないってことにしとく」


絵鈴唯はウケたらしくて、ごほごほ咳き込みながら笑った。




「おいおい……瑞、ほんと面白いな」





「絵鈴唯も好きだよ」




「はぁ。どういう意味で」


じとっとした目がぼくを見る。




「なんか、ぼくが思う


『人間らしい』があるから」




 話してくれたことによれば絵鈴唯はこの見た目と身体のせいで、自由に歩き回れず、好きなように創れず、変な目に晒されたりつきまとわれてきたらしい。




だから、一人。





 しばらくむせたあと、絵鈴唯は言う。




「まあ僕も確かに、変なヤツにつきまとわれるよりかはずっとマシか」




「ぼくのことは」




「瑞は。……あの日、笑いながら飛んでたんだ。


死を喜ぶようだった。生から解き放たれるようだった。このうえなく幸せそうだった。




そうだね。なんというか、それからこうして話すのが、不思議な気持ちなんだ。好き嫌いはよくわからないが、まあ瑞がしたいのなら、なんでもいいよ」




陽気に笑い、そいつはまた真顔になり本を開く。ぼくもうなずいた。


両想い?になりたいわけでもなく、ただ、利害の一致を得た。





「わかった、そうする」





  そこを卒業して、また進学したあとも、ぼくと絵鈴唯はそのままだった。




――今、家に居る模型は、いろいろあった末に、『すきなひと』をなくして酷く憔悴したぼくに絵鈴唯が新たに作ってくれたものだ。





「きみの、好きな相手にはなれないかもしれないけど」




そう言って苦笑いしながら。





 「嬉しい、嬉しい……」




――ぼくは、迷わずその人を抱き締めた。


絵鈴唯は冥利に尽きるといい、二人ぶんのココアを作ってくれて、そのあと二人で飲んだ。






すきなひと、は絵鈴唯の家に置かれた。




 絵鈴唯は、また会いに来ればいいと言った。






 悲しいときも、苦しいときも、抱き締めた。


他人、が来ると、心は余計に壊れてしまう。


こいつも暴れる、と思ってしまう。







  「きみは、  、なの?  なのに    だね」




好き。




好きだ。好きだ。




ねぇ、絵鈴唯。


ぼくは、好きなひとを




消したくない




否定もしたくない







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