第9話
懐かしい、何かの断片。
かつて、東京のほうで恐ろしく腹立たしい事件がありました。
黒い集団が、誘拐した子どもたちの首を切って殺してたニュースがひっきりなしに聞こえる日々があったのです。
犯人はやがて、
『少し前に流行ったニュースのまねをして自殺サイトで集めた』言っていたのですけれど、あれは嘘です。
……なんとなく、だけど。
正確には、地域を限定する必要があった、と。
絵鈴唯はその頃、理由があり東京のどこかに住んでいたそうでした。
狙われるところだったと言いますが、絵鈴唯はどうにか『それ』に出会うことはなかったそうで。
なぜ絵鈴唯たちを狙ったのかは定かではないものの、東京近辺にいる必要があったという噂は出回っていました。
自殺というよりかは、上京しようとか、東京のどこそこに居るという情報から選ばれた、と。
そこに狙いがあったのでしょう。
「僕らには犯人による一定の基準があったらしいよ」と絵鈴唯は言いました。
「少し前に、遠隔操作事件を起こした犯人がいただろう?」
遠隔操作事件。他人のパソコンを乗っ取って、好き勝手にメールを送ってネカマをしたり、
ラッコさんがフォルダから現れて『イタイ!』と叫ぶメモが一枚ずつ添付される驚異のラッコさんウイルスをばらまいていた犯人が捕まり、
そのとき、警察の、サイバー犯罪に対する対策には世間の目が集まりました。
「警察では攻撃を防ぎ切れないことや、犯罪につかいやすい利便性はあの件でもある程度証明できてるんだとは思うけど、
なんというのかな。あれとどこか、似ているっていうか……どこかしら冷静な分析があるような感じを覚えた」
「どう、いう」
「試しているんだ」
日の光が差し込むうす暗い部屋の中、ぼくは絵鈴唯を見つめました。
絵鈴唯は苦々しい顔をしました。
急に用事が出来たと言い、ずいぶんしてからやっとこちらに帰ってきた絵鈴唯は、そのときどこかしら緊張の糸をピンと張ったままでした。
事件の話をしていないと平静が保てないと言って、ソファの上でも、テーブルについても、新聞を見ています。
それは、空が涼しげに蒼く、しかしじっとりした熱波をはらむようなまだ夏の時期。
一人で居たくないと言った絵鈴唯につれられ、ぼくは絵鈴唯が借りた家にときどき来るようになり、相変わらずずっと、レポートをしていました。
逆光で窓からの光がぼくらに影を落とす中。窓の外の風鈴の音を、聞いています。
りりりん、りりりん。
「瑞は、そんなにレポート書いていて、楽しい?」
りりりん、りりりん。
「絵鈴唯は、そんなに事件について考えない時間、苦しい?」
りりりん、りりりん。
もどかしく鳴らす枠組みは、いっそ砕ければいいのにとさえ思うような、軽やかな音で、ぼくらの会話に加わっていました。
「することが、無いんだよ。事件のあと付きまとわれて、執拗に盗撮とかされたせいで、仕事もやめることになってしまったけどなんら保証はないし」
りりりん、りりりん。
りりりん、りりりん。
りりりん、りりりん。
りりりん、りりりん。
「ふうん。マスコミやメディアや作家は、それを食い物にして、未だに生きてるのにね。ちょっと犯罪した程度じゃ、なんも起きない人も居るし」
りりりん、りりりん。
「ま、どうせ、長生きしない身体だけど。
もう少しくらい、なにかしたかったな」
「さすがに犯罪者に優しいといわれるだけあるや。
ハッピーターンいる?
たまに、幸せの包み紙が入ってるらしいよ」
「……いらない。喉がかわく」
うふふふ、と絵鈴唯は穏やかに笑いました。
張り詰めた空気を、どこかまとったまま。
「しかし、空いた時間、どうしようかなぁ。暇だなあ。安楽椅子探偵でもしようかな」
「そいつはいい」
「どうにもならないなら、いづれ死ぬし……まあ不思議と不安はなかったりして。どうにかなる」
なんていうか入院生活がホスピスに変わったみたいなもんだ。
とにかく今を後悔無く生きないと。
絵鈴唯は穏やかに言い、伸びをしました。
「目を付けられてるから、どうせ目だったものに就けないしなぁ。
やっと退院してリハビリしたら今度は誘拐かぁ……。どこにも行けやしない」
「お前って、いつ健康なんだかわかんないよな」
「瑞は、今、幸せ?」
「ぼくは。幸せが、なにか、よくわからないけど。たぶん、きっと幸せ」
「僕は幸せだよ。だって、今、やつらが居ないじゃないか」
不幸になるって、不幸って意味かと思ってたけれど、不幸になるのは幸せを知ることだったと、言いました。
幸せを知らないのは、幸せかもしれません。
「なんだろうね。
『幸せにしてくれて、ありがとう!』 みたいな気分なんだ。あらゆるものが素晴らしく見えるよ」
「……そう」
「いやあ。人生の教訓になった。かってなイメージだけで人を判断することを言うと、そのイメージを持つ時点で、たかが知れるんだってこと。
その発想はなかったって話を沢山聞けたし。人間、他人は鏡、良い悪いは他人に言うときも本人のことだ」
イメージです。
なぜ、そのイメージになるんですか?
「お茶いれてくる」
悪口も不幸も結局、本人のこと。
自虐にしかならない。
それを、絵鈴唯は知っていた。
……そんな会話を、思い出します。
だから。
ぼくは言うのです。
「ぼくは、幸せ」
手から滴る血は、意外となかなか、止まりませんでした。
それも、幸せです。
冷たい肌。
以外と居心地の良い腕のなかで、少し垂れた絵鈴唯の髪が頬にあたっていて。
ぼくはうっすら目を閉じながら言いました。
「愛されるって、苦しいんだね」
絵鈴唯は、何も言いません。
「痛いんだ。あの子を、見てると……ぼくは、とてもね……息が、できなくなる」
秋になり風鈴をはずした窓の向こうを遠巻きに眺めてからぼくは、いいます。
「誰かを好きな人なんて見ると、こう、しにたく、なるね……」
「瑞」
絵鈴唯は、ただ、ぼくを呼びました。肩にぎゅっとしがみついて、息をはきます。
「絵鈴唯がぼくを、こうしていれば、いつか、わかるかなぁ」
中身のない、愛情なのか愛情とはいれものなのか。もう一度絵鈴唯は、ぼくを呼びました。
「瑞」
ぼくは、自分の足だけで立ち上がると、ドアを開けました。
「わかっているよ」
シイナちゃんは、静かにソファに座って居ました。
二人で降りてくると、なにか気を遣うようにぺこりと頭を下げました。
「……もう、いいんですか」
ぼくは、頷きます。
「うん。待たせたね」
いつのまにか絵鈴唯は二杯目のコーヒーをつくっていました。
「個人の趣味趣向は構わないのですが、瑞は男の娘の方がフェティシズムを感じるのでしょうか」
シイナちゃんが真顔で聞きました。
……。……。
いや。
そんな。
うーん……
「絵鈴唯が大事なだけかな。」
外行こうか。
そう言って、玄関へと向かいます。
あまり街灯のない夜の道は、とにかく真っ暗でした。
そして、ただ足音だけが、響いていました。
ぼくは散歩が好きな方で、本来昼間に歩くのも好きでした。
小さい子もそこそこに好きで、昼間だと保育園や学校から聞こえる賑やかな声を聞けるのにな……なんて思います。
それらはなんだか遠い昔の自分のようで、少し癒されるのです。
最近ではめっきり必要じゃないとき以外は外に出なくなってしまったけれど。
甲高い楽しそうな声は、なんだか、懐かしい。
(干渉されないなら、人自体が嫌いなわけでも、学校が嫌なわけでもないんだ……)
天気がよかったら、明日は昼間から一日中歩きたいな。
ただただ、そんなことを思います。
意味もなく。
なんの意義もなく。
少し前までは、曲がり角にある、いつもの交番の前を横切って帰るのが、散歩コースでした。
もしかしたら、明日ぼくは、交番の前に居るでしょうか。
すぐ横を歩いている絵鈴唯が言います。
「建物のなかが、怖くなった?」
ぼくは……何も言いません。
――本来あのおもちゃは昼間には無いんだろう
――ぼくは普段夜中には外に出ない。怖いんだよ、夜中の誰もいない部屋も、普段夜にいかない場所も
――家には僕がいるじゃないか
――そう、だから、わざわざ、一人で出掛けない。
怖い思いをする必要などないから
「……。今は、真逆の、例外だ」
空き家のある区画まで来ると、その少し離れた向かいに澤越家が見えました。
少し前にシイナちゃんが言っていた、子どもが出来ないとかそんな話をしていた人の住居。
シイナちゃんが思い出したように言います。
「実は、最初に道を聞いたんですが、耳がよくないみたいで、『え? なに? 聞こえませーん。私忙しいんだけどぉ』と言われてしまって」
「あらら」
なかなか聞き取れないことに苛々するのは、確かに少しわかります。
ただ、相手が聞こえないから悪い! と切り捨てるタイプの、ある意味強く生きてきた人のようで、初対面だとビビるだろうなと思いました。
「大きな声は出せないって言ったら、『聞こえん!はぁ? 』となり、……なんか、気まずかったな」
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