第8話





「辛いことばかりだなぁ……」




ため息を吐きたくなる。いい加減に抜け出したいのに、なぜ、嫌なことばかりなのでしょう。




ちょうど、その日は月末で、遠くに見える近所のスーパーが、30パーセントoff! といったアドバルーンを出していました。




「ポイント何倍より、オフの方が助かるわ」と母さんがよくいっているのをぼんやり思い出しながら、自分のすんでいるアパートの部屋を出ました。




(もちろん、外出の意味)







秋の空は澄んでいる。


そして、寒い。


マフラー越しに冷たい秋の風を感じながら、


手前から柱を数えて五本目までをまっすぐ前に進み、次に電線のある左側の道へ、横断歩道で曲がります。




今住んでいる音色島辺りは港町で、そして電柱が多い。昔は各家庭への電力が安定しなかったんだとかで、とにかくよく停電していたのが、関係しているのかもしれませんね。






 それはともかく、最近は、へんなことばかり起きるのです。


そのせいで憂鬱。




昨日もレポートを書こうとパソコンに挿したUSBに「このファイルは、インターネット経由で入手したものであるため」


と出てて……




「あのパソコン、繋いでないのに」




不思議なことがあるものでした。







なぜか、レポートをそっくりコピーされることがありました。


提出出来ないことが何回もあって、ようやくクラスの人と和解できそうだったんですがどうやら……深く恨まれているらしいのです。




 だからあの日からは、ぼくがアパートに戻ることはありません。




と、書いてもわかりませんよね。




大きくいえば、そこの大家さんに嫌われているからです。




大家には借金があるらしいからどうとか、手癖がよくないという噂が入居者のあいだでささやかれていたけれど、


家賃が安いし、それなりに気に入っていました。


しかし、ある日学校に出掛けた帰りに、部屋に入ると、ぼくは、大家の皆倉すばきさんと出くわしました。









「あら。帰ってたの!」




いつもならば居ない時間。ただ、今日は課題が少し早めに片付いて帰ったらこれですよ。




 大家さんは、ぼくの時間割を把握しているようです。




何をしていたのか、とぼくは聞きました。


「ちょっと、ねえ。部屋の様子、どんなんか見ておかないと、散らかすかもしれないし」




謎の同意?を求めながら、その日の大家さんはいそいそと玄関に向かいました。






 そこは、入っては消え入っては消えるという出入りの激しい場所。


だからただでさえ『それなり』だったのかもしれません。






そうそう。


今のご時世にアパートやマンションの管理だけではそう簡単にがっぽり儲かるというものではないようです。


駅近とか、会社のそばとかならまた変わるのでしょうけれど、大家さんは確かにあまり儲かったような顔をしていませんでした。




出入りが激しいのもありましたが、それにしたって、引っ越し代金は結構大きなお金ですから、そう何度もするひとばかりでありません。




あまりにも、サイクルが早い。そんな感じは、確かにしていました。


侵入された時も違和感はありましたが、そういうものかなと、そのときは流したのです。




こういう場所にはワケがある――――!


そして、大家さんは怪しい。


と、気付くのはそれからすぐのこと。




それがぼくと絵鈴唯がどうにかなるきっかけでもあるのです。


「金銭で、不法滞在者入居を斡旋しているんじゃないか?」




 それから少しした、今のような秋……ではなく夏頃。


久々に『こっちに』帰郷した絵鈴唯が、ぼくのレポートを書く横で言いました。


「侵入とは別件で」




ここの出入りの早さもだが、海外からの人が多いような感じがする。




「え、でも」




そうだとしても。


そうなのだろうか?


あまり、隣人は顔を出さないし。




「瑞、現実じゃあ、そうそう善人なんかいないし、


清らかな大家なんか居ないよ?」




なにか経験でもあるのでしょう。絵鈴唯はため息をつきました。





手癖の悪さはその日露見しました。


二人でおやつを食べながら借りてきたDVDを観ていたら叫び声。


 どうやら近くの部屋が盗難にあったのです。




そのときにぼくのすむ部屋の少し離れた向かい側にある大家さんの家に、警察の人が二人組でなにやら聞き取りをしているようでした。





 ぼくらのすぐそばの窓の下では、被害にあったらしきおばさんが、大家だから言いづらいけどねぇ…… という話をしながらやや大家邸より少し距離のある、自分のすむ部屋に戻るべく、階段をカツカツと歩く音。





『大家ハラスメント』




と、ぼくだったか絵鈴唯だったか、呟いたのを機にぼくらは何度か、


『大家ハラスメント』


と口を小さな声で揃えて、意味もなく笑いました。ぼくらは今より若く箸が転げてもおかしい時期だったんです。





 実はこういった大家の話は多いそうです。


独り暮らしの女性の部屋に、大家の男性がちょくちょくやってきていたとか、もちろん住んでいる人のものをさりげなくもっていったり。




職権を乱用しても、結局「嫌なら出ていくしかないんだから」と落ち着くわけなのです。


皆さんがそういった物件に当たらなければよいのですが。




「うゆ……少し、眠くなってきた」




絵鈴唯はそう言って、目をこしこしと擦りました。普段の口調は文体だと少し偉そうな堅い口調に見えます。


ですが絵鈴唯はどちらかというと、淡々とした力の抜けた声なので、そこまで強い雰囲気はありません。







「瑞も、狙われないようにね……?」




「ん。わかった」




 気が付くと外では、雨が降ってきていました。絵鈴唯が、明日はくずざくらを持って来るよ!


と言い、その日の会話は終わりです。




 やがてレポートを盗むべく近くの部屋に越してくるという、常軌を逸した人と大家さんの関係がじわじわ明らかになるのですが、そのことで、大家さんともあまりうまくいかなかったのです。





……。


ふいに、なぜかこんなことを想いだしながら、ぼくは、今の家に向かっています。




「くずざくらのクズは、デンプンの破断伸帳度25.0、付着度は500mgだったな」


クズざくら、


クズざくら、


クズざくら、


クズざくら♪




クズざくら♪♪




「クズざくらだーよー」





歌を思い出すとなんだか楽しくなってきてぼくははなうたまじりに、リュックを揺らしました。




「クズざくらが食べたい?」




横から声がして、見ると、クズざくら……じゃなかった、絵鈴唯が立っていました。




「うわっ。寝てないと」




「もう平気だよ」




「いや、なんかさ、空き家とかなんとかの話していたら、クズざくらを思いだしちゃって」




「くずざくらのクズは、デンプンの破断伸帳度25.0、付着度は500mgだ」









「それ、前にも聞いたよ。クズざくらのクズの話を生き生きとしてたよね」




「クズざくらといったら、クズだよー、瑞」




クズざくら、


クズざくら、


クズざくら、


クズざくら♪




クズざくら♪♪




「クズざくらだーよー♪」


ぼくのまねをして歌い出す絵鈴唯の額に手をやるとやはり熱があるようでした。




「あぁ、寝ていないと!」


「クズざくらを食べたいなら、つくろうか?」




「クズは、元気なときにお願いするよ」







「なぁ、瑞……」




多少熱がありそうなものの、しっかりした声が、ぼくを呼びます。




「カサンドラ症候群って知ってる?」




「うん」




カサンドラ情動剥奪障害。




「瑞は常に自分を責めているけど、本来誰にでも起こりうる、もっと理解されるべきことだよ。




どちらかが悪いとか弱いものいじめだとか言える方が、偏見だと思う」





「いじめも、そうだよ。




一人でいるのが好きな人と、いじめられてる人を、誰も見分けられない。




いじめられていると言われるのが嫌で、ぼくは誰かと居るようになった」






 でも、『友達』とばかりいるうちに、精神が安定しなくなってしまったのでした。


ぼくは、ときどき一人になる時間を作らないとおかしくなってしまいます。それは恐らく『生身の人間』に対する恐怖と苦しみによるのでしょう。


だのに、いじめられてるんだよね?と、やってくるいじめられっ子が居るし、邪険にもできないけれど一人の時間を作るのは大変。





一人だから何?


なんで決めつけるのか。





「学校って場はいじめられてるか、いじめられてないか、二つの人間しかいないから」




ところで、何をしてるのかと聞くと、絵鈴唯はきみを探しに来たよと言います。今はちょうど授業の帰りでした。









――天高く、馬肥ゆる秋。


空は青く澄み、冷たいけれどすがすがしい空気をいっそう爽やかに感じさせます。


木々はだんだん紅く色づき始めていました。





「あ、そうだ、クラスに変わった子がいて。




お兄ちゃんキャラが大好き過ぎておかしくなって」


「それで?」






「実際のきょうだいは虐待だなんだとあるだろうに。





クラスのきょうだいがいる子の愚痴に逐一


『そんなこといって大好きなんでしょ?』


って、話してた。引いた」


恐ろしいのは、その愚痴を『ラブコメのネタにする! 可愛いお兄ちゃんにしてみせる』と豪語するところだった……


餌食になりたくない。


「ああ、あるある。


妹キャラとか、なんとかと混ざってて『羨ましい』みたいな」











 くずざくら の話に結構時間をつかった気がするけれど……


ぼくらはそれからなにごともなく帰宅しました。が。




ドアのところに人影が。


そして。




「鉄板ダイニング 夢元


鉄板焼き ステーキ


金剛駅 徒歩3分




クーポンあり


串揚げDINING Lamp亭


串揚げ オムライス


金剛駅 徒歩7分




飲み放題・個室


クーポンあり


とりでん 狭山店


居酒屋 焼鳥


金剛駅 徒歩7分




飲み放題・食べ放題・個室


クーポンあり


産直焼肉ビーファーズ さやま本店


韓国 焼肉


金剛駅 徒歩14分




飲み放題・個室


クーポンあり


千一夜


ステーキ 洋菓子


滝谷(大阪)駅 徒歩10分




飲み放題


クーポンあり


和風居酒屋はっちん 狭山店


居酒屋 焼鳥




2500円




飲み放題


クーポンあり


阿波水産 大阪狭山店


居酒屋 魚介料理・海鮮料理


大阪狭山市駅 徒歩15分




飲み放題


クーポンあり


たんぽぽ


カフェ・喫茶店 軽食・カフェ





クーポンあり


焼肉 くらべこ 狭山店


韓国 焼肉





飲み放題・個室


クーポンあり


焼肉 みや 狭山店


韓国 焼肉




個室


クーポンあり……」





なにかぶつぶつ呟きながら、玄関前に、シイナちゃん。


「うーん……金剛って、韓国の関連するお店が多いんだなぁ」




「えっ、とシイナちゃん?」




ああ、こんにちは。


とシイナちゃんはぼくを見て、少し驚いた感じで言いました。




「こんにちは、瑞と絵鈴唯」




「旅行にいくの?」




「……昔、いえ。ちょっと調べ物ですよ」




携帯をスライドさせてボタン部分をしまうと、彼女はにこりと笑います。帽子はなくて、短い髪の少女がそこに居ました。




 ぼくと絵鈴唯は、じっと彼女を見つめていました。


変わったところなんてないはずなのに。


いや、あるのでしょうか。





じとっと、何かを訴えるような眼差しと目が合うことをぼくは否応なく拒否してしまいます。




きもちわるい。


はいってこないで。


こわい。




誰かが、好きだとか、嫌いだとかじゃない。


 ただ、そっと目をそらして絵鈴唯を見ました。絵鈴唯は彼女から目をそらさなくて、それがなんだかとても胸を締め付けました。





――人を愛せるから、悲しいと思える。


人を愛せるから、愛されて嬉しいと思える。




無くして悲しいと思える。だから、無くして悲しいと思えないなら、薄情だと思える。





でもぼくは、何もわかりませんし何も、わからない。




なので、二人の間にあるなにかが悲しく、絵鈴唯の水晶体はきっと美しいなと思いました。


それは気味の悪い感情ではなくって、愛、の代わりに。




人は 可愛いとかきれいとか物的な感覚をせめて向けて、愛、をしめせないことの苦しみの代替としてのせめてもの感覚、広義の愛を、語ろうとするのだと思います。






  だからぼくは、愛そうとしている努力の欠片を、一方的に不気味だなんて、語りたくない。









きらきら、きれいな水晶体。生き物は、きれいだ。


「それをきみも愛だと思おうとしたんじゃないか」





 雨が降りそうな日にも、晴れた日にも。たまに、昔の事件を、思い出します。


 ぼくは『そちら側』にはならない。けれど。


だからこそ、


愛さない人を見下す人の前で愛そうとしているだれかの間違えてしまった心が、つきささるように伝わる気がするときがあります。





「こんなに、人間なんだよ」と、語っている。




「綺麗だよ」「美しいよ」そう言えば、認めてもらえる気がするから。


誰も理解しない世界より愛を持たないのもまた正しいことだと、もっと誰かが肯定すればいいのに。


もがいていたのだと、時折、そんな感覚が流れ込んでくるようで。




誰かを愛せないことは、ときに地獄に変わる。


愛されないのと同じことだから。





「あなたは、ちゃんと、誰かを愛せるね」





 ぼくは幸い『あの人たち』にはならなかったけれど。


誰かのことを愛さず、恋を気にしない世界も、もっと、素晴らしくていいんだと、恋や愛で全部片付けて来たのは迫害の歴史なんだと、せめて語ることにしています。






 しばらく、黙っていたら彼女はぽつりと呟きました。




「二人を、待っていました。」


「そう……またせました、か」





 ぼくは、


『昨日からの』感情の変化を出さないようにとずっと絵鈴唯の方を向いていました。




 そうしないと、おかしくなりそうでした。




自分に無いものを持つのもですが、さらに、人を愛さない人へのそういった人たちの態度は、強い批難をするものだからです。





小説や漫画でやっていた恋愛話、テレビでやっていたラブコメのアニメだって大体がそうでしたし、それに影響されて育つ子どもたちの態度も、そうなってしまうことがある気がします。





「……瑞。大丈夫だよ。彼女は、理解できる人だ」





 絵鈴唯が横から囁きました。




「きみの恋愛対象を知った上でも慕ってくれる、貴重な存在だ。


どこかの誰かとは違って」




 ぼくがかつて誰か、に何と言われたか知っている彼は、そんなことを言います。


その誰かも、ぼくが好きだと言ってくれました。ただぼくはありがたみを感じられず、吐いてしまい、恐怖してパニックに陥りました。


無理だったから。




 けれどそれを強く責め立てられ、暴行に代わり……


さらにトラウマになったのです。






出来損ないなんだ!!


生きていてはならないんだ!!




その頃一晩中、嘆くぼくを、絵鈴唯がずっと慰めてくれた気がします。








「必要としてる感情の形が周りと違うだけなんだ。好きや嫌いでしか物をみない他人に、相手のいったい何がわかる?」




そう言い今のように、ぼくの背を撫でて、絵鈴唯は言い聞かせてくれました。




「でも、今は、違うから」


ほんとに?


と見上げると穏やかに目を伏せながら絵鈴唯は頷きました。






「で……知らないかなーと思ってたあの空き家なんだけど、ほら、これ」




帰宅して、テーブルのそばで絵鈴唯はそう言ってこの町の航空写真の本を見せます。




「どうかな、と、自信はなかったんだ」






「ここが、空き家のある場所」




指差された先には、今とは様相のちがう民家が建っていました。




「おじいさんの、居た家だよ」




「おじいさんって。あの、倒れていたおじいさん?」


「そ。ずいぶん昔は彼の家だった。それを今も、ときどき思い出したんだろうね」




ぼくは、絵鈴唯とシイナちゃんがなにかを共有していると思いましたが、すぐにはピンと来ません。




「そういえば、絵鈴唯、なぜ夜までぼくらが待ったのか聞いたよね。


『その人物と会った時刻まで待つしかなさそうだ』ったからだ」





「そ。彼は、死亡していたけど」




 今日、昔の住所や、そのへんに住む人の名前を調べていたんだけれど……あのおじいさん。もそうらしい。


あちこち聞いたら『住宅街になる前』を知る人は、知ってたね。




と絵鈴唯は付け足しました。空き家と知りながらシイナちゃんに関する人に夜中に会えることを知っていた。


それに病院……病院に何か関わりがあるような気がします。




「病院に多雨乃という人居たんでしょう?」




ぼくが聞くと絵鈴唯は、寂しそうな目をして微笑みました。




それと関係があるのだろうか、と続けることができず思わず口をとざします。





「ああ、多雨乃というのはそこの医者。


そして、同じ名の患者も入院していたから夫婦だと院内では噂だったの、かな」




「強制立ち退きですよ」




掠れた小さな声が、いいます。




「『あの家』が邪魔だった人たち。親は、そいつらに襲われた。私は、家から出た」




「え、でも……」




ぼくが戸惑っているうちにシイナちゃんは言います。




「絵鈴唯。おじいさんの家は、引っ越したんです。うちも、引っ越したんです。みんな、あの土地からは出ていく。




買い手がつかない、ついても、すぐにつぶされるのがあの家」


値段も手頃で、きれいでなぜ買われないのか不思議で仕方ないような家というのには運が良い場合と『この場合』がある。




「そもそも、この辺りを閑静な住宅街に『したがった』のが、あのホームに居た何人かの家らしいですが」




とまで話して、少し疲れましたと彼女はその場にしゃがみこむ。


どうやらそれが円満とはいかない結果、今のような中途半端な具合になっているらしい。




「え、っと、待って……ここに来るのは初めてなんじゃないの?」




「だったら、鍵なんか持ってませんよ」




彼女はそう言って、ポケットから小さな鍵を出しました。そうだ、あの家、開いていた。





 それに――ポケット。


今日彼女が着ていたのは、ワンピースではなく、短めのズボンだったので、長い足がよく見えていました。




「……あれ、太ももに打撲跡があるね」




「ああ、この程度。


事件にもなりません。


軽く殴られるくらい、誰だって経験することでしょ?」




「まあ、確かに」




痛い、と叫ぶ自分を、バカだなあと思った記憶が甦ります。


状況を吐露しようが、痛いもんは痛いのになんでそれ以外に語彙がないんだろうか、と、ゲシュタルトと平凡の狭間にある、よくわからない滑稽さに、なにしてんだろ? と思ったりして。




「確かに、誰だって一度は殴られたことも、それで吐いたことも、血を流したこともある。珍しいことなどないけどね……」




ない、ってやつが居たら、それはとても嫉妬を買うでしょう。








 たいしたことは、確かに起きていませんでした。ぼくだって、髪をわしづかまれたことも、ひたすら蹴られたことも、周りと同じではないにしろ、それなりに経験しています。


当たり前の暴力です。




 ただ、彼女があまりにも平然とさらけだしていたから、気にとめたというだけ。


「転んだの?」




「はい。痛くないですけど」


結構青くて、痛くないのはなによりだった。




「絵鈴唯の、周りにいる人たちが何も言わないのも、特に噂にならないのも、口封じの圧力が働いているか、管轄があるからかすれば納得でしょう?」


隠すしぐさをすることもなく、彼女はぼくらを見上げて言いました。


けれど。




「だったらどうして、お見舞いにいくと言ったんですか。空き家だと知っていた?」


「いいえ。


おじいさんは居たはず。私が訪ねる予定の、ほんの数日前まではここに住んでいるはずだったんです。




だから知りませんでしたが……




今日、部屋の様子からしてすぐに予想がついてしまいましたよ」




彼女は改めて言います。


 横壁の下の方に、石でもぶつけたような跡がいくらかあったこと。


壁には、露骨に卑猥な言葉が落書きされている部分があったこと。







「あれ、たぶん、いじめです」




いじめ。




「『ここに、男の子は住んでいません』。でも、あそこにロボットがあるだけでも印象が変わるでしょう?」




いじめではなくて、


こどもの無邪気ないたずらだと。




「それだけとは、思えない」




ぼくは言います。









 シイナちゃんの親が襲われた相手が、夜中はいなくてよかったと思いました。


立ち退きとはいっても、夜中に特に何かあの家のまえで行われはしないようで、あくまでも居なくなればよかったのでしょう……


あるいは。





ぼくは、ちらりと絵鈴唯の背後を見ます。暗闇の向こうには常に『監視』がいるのか。




「おじいさんが、夜、あの家に寄ろうとするのは『夜中に男の子が現れると信じているから』ですね」


「そう、ですよ」




シイナちゃんが、少しだけ悲しそうな顔をしました。


東後、跡川、馬尾、椰子田、西野……


横をみると絵鈴唯がなにか、呟いていて、シイナちゃんはそんな彼を一瞥した後に、改めて口にします。





「私が会ったときは。


病院に、居たんです。




いつも一人だった私と遊んでくれて、男の子と私をよく間違えていて」





彼は深夜に必ず、壁際に立っている。


おもちゃを持っていったら喜んでくれると言っていた。




おじいさんは入院してると思ってたんですけど、違ったみたい。


ちゃんと家にすんでいるんだと言っていて鍵も見せてくれましたよ。




私くらいの見た目の男の子が深夜に壁際に立ってるなんて、だけど変だ。絶対、もう、居ないと思った。




そう、まっすぐに話すシイナちゃん。それから。




「だけどここに来たばかりで、家族の入院が無かったら来たりしなかった町のことなど知りもしないから、誰に聞けばいいかわからない」




と、ぼくは、言いました。


「そんなときに、ぼくに会ったと、言った」





なんとなく、住み慣れてそうな感じがしたことや話しかけやすかったから


「『きっと一緒に男の子を探してくれる』これが、きみが、言った願いだね」


「おじいさんはいつからか、私を男の子と混同するようになってしまった」




 新しい、とはいえ少し古いけどロボットとかをくれた。




要らなくて、いつも家の下に隠してて、夜中に、来るかもしれない男の子に見せてあげようと出していた。




「つまり、数日は前からあの家のそばに居た。


それで。


こういう言い方は嫌いなんだけど……


おじいさんのためというより『その子に、喜んで欲しい』のかな」





シイナちゃんは言います。




「正確には。その男の子が喜ばない限りおじいさんはずっと、あの家に来るでしょうから」




おじいさんの遺体のことを思い出します。秋の少し寒い空の下、ワンピース姿で亡くなっていた白髭のおじいさん。


どんな気持ちだったんだろう……




ぼくには想像がつかない。




けれど顔が火照るのを感じて、絵鈴唯に抱きついて顔をうずめました。




「今思い出したか……」




くすくすと絵鈴唯は小さく笑いながらぼくの背中を撫でました。




「異常かな」




「愛しい」




「なんか、思い出したらくずのさくらが食べたい」




「あとで作れば良いよ」




「なぜ絵鈴唯は、おじいさんが夜に、居ると思った? 空き家に」




「はて。『おじいさん』が居るか、は僕にはわからなかったかな」




「じゃあ」




「瑞も『あの壁』、見ただろ? 夜中に用がある人が来るかもしれないと思ったけど、やっぱりそうだったらしいね」




あれは。少なくとも、おじいさんが刺されたときにできた血のりではない。刺された跡は無かったから。


「それで……。


そうだ、それだけとは思えないって話をしてたっけ」




椅子をすすめるとシイナちゃんは一礼して座り、ぼくは3つカップを手にしてなにか飲み物をいれてくることにしました。コーヒー、カフェオレがいい、というそれぞれのオーダーを聞いて、続けます。




「改造したロボットを置いたのは、なぜ? 組み合わないパーツでオリジナルから離れたものは。




人によるだろうけど、当人しかあまり嬉しくないんじゃないかな、いや、プレゼントにするにはかなり運次第というかさ」





絵鈴唯はにこっとぼくに微笑みかけました。





「僕が病院に通ったのもここ二年。シイナもその範囲にはこの町に居るよね」


シイナちゃんは、何も、答えません。




「二年のうちに町の様子が変わっていた」




シイナちゃんは、何も、答えません。


ぼくは、ポットのある机の近くで飲み物をそれぞれに作りました。


そしてお盆に乗せて運びます。




「ほら、できたよ」




一番大きなテーブルに並ぶカップ。二人のをまず置いて、それから自分のぶん。




「瑞」


絵鈴唯が、ぼくを呼びます。


「それで、『心』は感じたかい?」




そっと囁くような声。




「なんの」


と言いかけて、ぼくは固まってしまいます。




「……」




ぼくは。あれ?心、心。絵鈴唯は優雅にカップに口をつけて、それから言います。




「まあ、あとでいい。




彼女が、親の入院でこっちまで来たとなると、二年前には既に居なかったけど、それより前、三年以上前には居た。




おじいさんは、三年以上より前に、その家に住んでいたことがあるがもういない。そしてここ二年に至っては彼女を頻繁に目撃している。孫は三年以上より前に近辺に存在するかなんらかの手段で遊びに来ていることになる。孫は夜中にしかあらわれない」




ぼくは言います。




「……このあたりの田舎のバスは8時には大体無くなってしまう」




つまり、近辺に存在するか車で移動しやすい距離である可能性に絞られる。




「重要である『三年』の分岐点は、彼女が存在することでもひとつ条件、だけは成り立つわけだ」








 そしてあのロボット。万人受けはしないと思うけれど、例えば彼女がなんらかの理由で『持ち主』である場合は、おじいさんとの関係もまた変わってくる。




「ん。美味しい、瑞」




コーヒーをごくごくと飲み干して絵鈴唯は微笑みます。




「……やめろ」




「どういう意味?」




「意味なんかあるか」




若干青ざめたぼくに、絵鈴唯はガキだなー。などと言っています。




「うん、髪みたいに青くなる表情もいい」




この髪は『先祖』ゆずり。本来白髪になる部分が変異で青っぽく滲んでしまっていて、黒髪から若干浮いています。


別に全部染めなくたってよかったのにとよく言われるけれど、黒髪と混ざる違う色の髪を伸ばして笑顔で映る家族の写真がぼくは、なんだか嫌いでした。











 窓の外は欠けた月。


むらなく塗りつぶしたような蒼紺の空。


今日も悲鳴みたいな風が吹き荒れていて、黙っていると本当に、闇に飲まれそうでした。


話題を変えたくて、ぼくは言います。




「近辺に子どもがいるかも」




「聞いてみた……けど、このあたりは学校からも遠いし、そもそも少子化が進んでいるのもあって、あまり聞かないらしいね」


「絵鈴唯」




ぼくは、じとっと絵鈴唯をにらみました。




絵鈴唯はぼくの額につん、と人差し指を当てて、クククク、と笑います。「帽子の理由とは違うけれどね」と付け足して。


「僕は人の顔の形に判別がつきづらいし、そもそも、そうじっくり見はしない。君は人自体にそんなに触れたがらない」




シイナちゃんを見ました。


彼女は、ただまっすぐに目を逸らすこともなく、ぼくらを見つめています。


やっぱり、可能性が高いのは――――




 そう思いはするもののぼくは何も言いませんでした。


自分自身で直接言うかどうかに任せたい。


好感を持っているからこそそう思うのでしょうか。絵鈴唯も、何も言いません。


もしも不都合な状況を隠していた場合は、そこではねたり強く当たる場合もあるでしょうから、ぼくや絵鈴唯はそれなりに受け取るだろうと、思いました。





静かな空間。


チクタクと時計の針の音が、やけに際立ちました。





「瑞は」




シイナちゃんはやがて、ぽつりとこぼしました。


「え?」




「お父さんお母さん、いますか」




ぼくは、どう答えようか少し考えました。




「死んだって、聞かされて……ずっとそれを信じてきた。記憶にないんです」


実際は手放されただけだとあとで祖母に聞きました。


知らない場所でずっと生きていたらしい、と。




あ。なんだ死んでなかったのかと、どこか裏切られた気持ちにもなったりしました。


 生きていたならなぜなにひとつ連絡がないのでしょう。




愛していたかとかはぼくにはどうでも良いことですが、ただ純粋に疑問でした。子どもを『どう』捉えているか、全く見えないのです。




「そう、ですか」




「シイナちゃんの親御さんは、優しい?」




 彼女は何も答えませんでした。


ただ二階の方をちらりと見てから、二人は仲がよくていいですね、と言います。




 それを見ていたら、ふと、なんだか痛みが欲しいと思いました。


天井に明かりがついていたことを、今さらながらに実感します。


あー、あかるい。


あかるい。


あはは。


あはは。




「ごめん、ここ、頼むよ」


絵鈴唯にそう言って部屋から飛び出すと、ぼくは二階に籠ります。


理由はないと思うけれど他人は嫌いで、許せないものなのでしょう。


だからこそ、意識的に優しくしていないとキレそうになってしまう。




そうなったらきっとぼくは……


いや、どうにもならないか。




我が家の家訓


『どんなに辛くとも金だけは貸し借りするな』




をふと脳裏に浮かべながら、ぼくは笑いました。どうにもならない。


でも、家訓はずっと守ってきた。つまり、まだ余裕がある。


『もっと泣けよ』




『驚くかと思ったのに




『なんでいつもそんな表情なんだ!』




『傷つくまでやってやる……』





やめて。


やめて。




自分が、されたことでの泣き方なんて知らない。


苦しんでいるのに。




『こいつ全然反応しないな!』









「……」




ぼくは、物。





感情を持つ人間よりずっとずっと、あたたかい。




人間らしさや、感情を強制して醜く笑うのが、彼らの役目。





今のぼくは、ちょっと痛いくらいで、正気に戻る余裕がある、という自己分析が出来ている。




だから、窓際の引き出しを開けてぼくはカッターを手にしました。


刃をゆっくりと手首に滑らせます。




『痛い』


なんとなく感じながら、赤い液体が零れる様を眺めました。


痛いから、なんなのだろう?


切り傷擦り傷が増えただけで、騒ぐなんてそもそも、大袈裟じゃありません?




それよか道で転んで、枝が突き刺さったときの方がずっと大事件だった気がします。





転んだときは、笑われたんですよ?


間違えば手術だったのに。




こんな切り傷より。





「このくらいで」




 ぼくは、なにかに余計に苛立ちました。




「このくらいで、このくらいで、このくらいで、このくらいでこのくらいで、このくらいでこのくらいで、このくらいで……!」




大したことない、





大したことない、






大したことない、





それが聞きたいだけかもしれません。


大したことない、よくあることだよ、と。


だからぼくは、こんなことをして、傷を増やすのだろうと思います。










そう、世界は、痛みに大袈裟なのだと、ただそんな風に思います。




壁に垂れていた赤。




壁に垂れていた赤。




壁に垂れていた赤。




壁に垂れていた赤。




壁に垂れていた赤。




「あぁ……」




なにか、わかりそうな。わからないような。


わかりそう。





「転んだときみたいに、笑えよ。切っただけだろって、それで、いいじゃないか」




痛い、痛い、痛い。


大したことない。










 近くの白い壁に、血を塗ってみました。


薄くなって、赤が、垂れていきます。


ぼくは、ぎゃははは、と笑いました。


あぁ、 なにしてるんだろう。




下に戻りたいのに。


ふと、絵鈴唯の顔を思い出しました。ふと、誰かのあの髪型を思い出しました。




殴られたかった。殴られた方がマシだった。違う人が倒れるよりもずっと。


暗い部屋。暗い、暗い部屋。暗い部屋。幻覚。幻覚? いや。あれは……


ぐらっ、とめまいがしてぼくは倒れます。











……が、頭上に誰かが見えました。絵鈴唯がぼくを支えながら無表情で、こちらを見ています。




「あ。ごめんー」




「こっちこそ。なかなか戻らないからいきなりはいってしまった」




「うふふ。ふ、あははは!」


ぼくは笑います。


絵鈴唯はなぜか泣きそうでした。




「わかったか?」




「うん。うん。あははっ! あははははははははは! あははははははははははは!」




「そうか。もっと、具体的に想定がついていればこんなことにはならなかったんだが……僕のミスかな」




「天才なんてさ、


頭でも打ってから言え、ってね」




「なんの、話かな」










軽々しく、軽々しくて、軽々しい。怖い。怖いもの。




「本当に、ぶつけたから笑ったなぁ。自分の子を大事に、してないのかな?、がっかり」




「……瑞」




「絵鈴唯」




目が合います。静かな時間。静かな空間がありました。絵鈴唯がぼくの肩を後ろから支えたままでじっとこちらを見ていました。




ぼくは少し乱れた呼吸を取り戻すようにゆっくり息を吐きます。




「えれいは、幸せ?」




絵鈴唯は何も、答えません。




「いつだって大人は戦ってばっかりで互いに足止めばかりして時間を稼いでいる。




いつまでも、いつまでも時間を稼ぐのが狙いなら、付き合ってらんない」


◇◇





「直接謝れないなら、誰にも謝らないのがいい、と今は、ぼくは思う」




ある日のぼくは、言っていました。


他のものに代わりになにか言ってたってそれは、ただ時間が留まってるって感じで。




ぼくはただ、時間を、動かしたいんだ、と。









「時間を動かさないと、


いつ死んじゃうんだろうってそればかりが、目につくだろう? だから」

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