第3話

真っ暗い廊下を歩きながら、ぼくたちは違和感を覚えていました。


「変だな……」


「変だね」


一年以上、もしかすると二年以上使われていない部屋にしては、あまりにもきれいなのは、まぁ、管理されているからなのかもしれませ……ん?


「そういえば、あの家、誰か見に来たりしていないのかな」


「僕もそこは引っ掛かっていたよ」


ここを管理する人は、少し話を聞くと忙しいと言って電話を切ってしまいましたが。


「いわゆる、買い手がつかないというやつでは」


「えーっと、ここの、値段いくら?」


 絵鈴唯は、相場にしてはやけに高い値段を言いました。



「高いね」


「あまり買わせる気が無いのかもしれない、かな」


 まぁ今ここでそんな話をしたって意味はないのですが。


「なんか、すごく、苦しい」


真っ暗で、広い部屋。

売りに出された買い手の無い家、いなくなる子ども。


「なんでだろうか」


少し歩いているうちに、何か粘着性のある水滴のようなものが頬に触れました。


「ねぇ、絵鈴唯」


絵鈴唯は、黙って先に進んでいます。

ぽたぽたと、水滴はぼくの髪や頬を濡らしていました。





 水滴は、足元に落ちてじわりと靴下に染みていきます。


「え、れい……」


絵鈴唯は何も言わず、ただ先へと進みます。右に部屋があったのでまずは、そちらに向かいました。


真っ暗ですが、やや目が慣れてきた視界で見る限りは、家具も何もありません。



目の前に何かが見えました。ハーフアップにした、若い、背の高い、女の人が……


「うぇ……」


いない、いないいないいないいないいないいない。幻覚だ、幻覚だ幻覚だ幻覚だ。


身体の奥を燃えるような例えようのない衝動がめぐっていきます。


「はぁ、よりによって……そうか」


絵鈴唯が何かを悔やむようなことを言いました。







「僕だけで見てくる。ここは、きみにはよくないかもしれない」


「いや、置いていかないで」

薄い暗い部屋。

ぼくの前にいる庇うような背中。大声。


それから――


「わかった……ただ、辛くなったら言うんだよ」


絵鈴唯が言いましたが、ぼくは既に何か予感していた気がしました。


だからそれどころではなく……



次に入った部屋は、やはり何もない部屋。

さっきよりは小さい、くらいです。


部屋を確認するよりもまず、ぼくの視界は、少しずつ暗くにじみはじめていて、なんだか息が苦しくなっていました。

このまましゃがみこんでしまいそうです。

 と、振り向くと、絵鈴唯も居ません。


「え……?」


どきん、どきんと心臓が早鐘を打ち始めます。

置いていかないでといったじゃないか。


きょろきょろと辺りを見渡して、覚悟してさらに奥へと歩くと、また、部屋がありました。


降ってきた液体がまた、口もとへと伝いました。 近くに浜辺があるのか、どこかで少し、海のようなにおいがしているような気がします。




 静かな空間。

自分の体温だけを心の友のように抱き締めています。

しかし、ああ、暑い。

気温が高いのか、なんだか、歩くたびに身体がやけに火照っているようです。


「絵鈴唯、シイナちゃん」

うまく、声が出ず、震えました。


「どこ、に、いるの」


怖い。脳裏に焼き付くようなあの映像を見るのが怖い。


この空間が怖い。たすけて……

パニックになりかけて、出口へと向かおうとしました。いっそのこと、電気をつけてしまいたい。点くかはわからないのですが。


「やだ、いやだ、いやだ……」


必死に、自分を落ち着かせる策を練りますが、うまく頭が回らないし、ぼーっとしています。




怖い。苦しい。けれど。

「……おかしいな、昔の自分の苦しみと

同じ状況になれば、悲鳴をあげて逃げ出すと、思っていたのに」


恐怖というのは、

もともとは、自分のカケラの寄せ集めの部分なのです。

 だから本当に外部にはなんの関係も無いし、他人には恐怖はわからないと思いますが、自分にとって正当なものなんです。

なのに。

どうしてか、この日、ぼくはすぐに出ていこうと思いませんでした。


「まぁ返してもらっても、辛いけどな」


他人は言います。

偶然だ、このくらい、と。けれど、何より誰より真っ先に浮かんだ気持ちは、なにより正直なもの。だから、大事にしようと思うのでした。


「この辺り、絵鈴唯は鈍感過ぎるんだよな」


ぶつぶつと言いながら、ぼくは歩きます。

あと、それでも一応は、気を遣ってくれたことも思い出しました。


「ぼくが、恐怖を感じ過ぎるのかもしれないけれど」

カケラの寄せ集めを、集合させているだけで、それをひとつずつ拾うことは、ずっと、毎日、繰り返している気がします。

点を描き続けて、線になるかのように、

自分が選んだはずの言葉が、自分をつくっていく。

 いっそのこと、全部の部屋を見て回ろうと、歩いていると2階へ続く階段を見つけました。

いつもなら帰宅していたかもしれない。


でも、今日は違う。

死さえも、あまり怖くなく、そうすると、怖いものは数えるほどでした。

そして最近になって怖いと思ったのは、死を恐れない……というのがなにを意味するか。

つまり、自棄。

セルフネグレクト。


そういう、自分への虐待もまた近頃は問題になっているといいますが、まぁつまり、なんでもこいみたいな気持ちが、とても危ういものだということです。

階段を上がっていると、なんだか闇に飲まれそうな気分になりますが、黙って上り続けました。



 二階にも、誰もいませんでした。

そして、ほぼなんの家具も無いのです。

あるのは、壁と一体化したクローゼットだけ。

まさか、この中に。

と、とってに手をつけて引きましたが、そこにシイナちゃんや絵鈴唯は居ませんでした。


 ……みんなして、どこに行ったのでしょうか。だんだんと、先へ進むのさえ嫌になってきて、ぼくは、床にしゃがみ込みます。


ひんやりした感覚が、背筋を這い上がるのを気にしないようにしました。

「さて、と」


けれど。

此処は目立たない。

誰の目もなく、存在を否定されたりもしない。





向き合うことこそが、『独自』なのかもしれません。


 そういえば、そのままの自分が一番だと昔、絵鈴唯は言いました。

 正解は自分の中にしかないからこそ、自分が正しいと思うことを言う。それが揺らぐから、他人に当たってしまうだけで、でも、他人は他人への正解を持っているわけじゃないのです。


違うと思ったなら、違うと思った、その考えをもつ自分自身の味方をすればいいだけだと。


攻撃によってではなく、いかに他人と自分が違うかを表せば良かった。

どれだけ自分が正しいのかを平然と、周りをうかがわずに、顔色を見ずに表せば良かった。



『独自』


という孤独から、ぼくたちは、逃げて、他人を理由にしてしまいたくなるのは、やはり、他人とは相容れないというだけなのでしょう。



「目の前の人間を否定することを、個だと履き違えているね、バカらしい、

か……」


頭に浮かぶのは、懐かしい言葉でした。

すでに、相手に乗っている証明だよという、大人になっても忘れてしまうそれのこと。


「空っぽなのが、いやだってだけの理由。だからこそ最低だな」


衝動にも似たそれは、

単に

『むかついたから刺した』

と何も変わらないようで。だから、ぼくは同情したりしませんし、きっと理解をしめせたときは、誰かを殺せる側の考えなのかもしれないと思い、なんだか恐ろしいのです。


それは、逆らいがたい狂気。単なる殺意。

はきちがいなんて言い訳をしたとき、終わってしまうと思いますし、衝動は病のようなものだという部分だけ理解を示せますが。


結局は、その狂気に飲まれないようにしなかったのが、悪いように思えるから。


肯定は、ぼくには一ミリもできないのです。




 二階の右側の部屋に誰もいなかったので、左を見ました。

左の部屋にもやはり、誰も居ません。


「絵鈴唯、居ない」



 不安でいっぱいの頭で、とりあえず玄関に向かうということを考えます。

考えてみたら、知らない家にいるわけですし、勝手に入っているわけで。

……早く出なくては。


今さらながら、そういえば携帯電話を持っていたのを思い出し、ぼくは絵鈴唯にメールしました。

「いまどこ」


の四文字。




 指を動かしていると、ぽたぽたと液体が携帯に降って来て、あわてて拭きます。


「早く、帰らなくちゃ……」


 返事が来ないうちから、階段を降り始めました。手にしていた携帯電話を灯りのかわりにすることも考えたのですが、無駄な消耗はやめようと思い、それを却下して……目の前の壁を見ました。


ん。

灯りによって今、なにか、余計なものが見えなかったかな?


気のせいだと思いつつ、ふたたび携帯をそーっと開いて壁に向けました。

凍りつきそうになりました。

赤い液体が、びちゃっと吐き出したようについてるのですから。


「ひっ……!」

目の前の壁で、何があったのでしょうか……

ぼくは急に何もかもが恐ろしく感じて、灯りを再び消すのさえも忘却しそうでした。


ゆっくり、ゆっくりと、下へ降りていきました。もう、あんなの見ないぞと決意を固めました。

絵鈴唯から連絡はありません。


「絵鈴唯……ぃ」


弱々しい声が出てしまいます。シイちゃんも居ません。


「やっぱり、寂しい。こんなとこで、力尽きたくない」



 このときのぼくは、何かを忘れていることを忘れていました。

しかし、それがなんだったのかははっきり浮かびませんでした。


ただ必死に階段を降り、廊下を歩きました。

途中、どんっと、なにかにぶつかりました。

柔らかい……?

思わず息を止めました。

「ひっ、やだ、まだ生きてやるっ」


暴れていると、囁くような優しい声。


「瑞」


身体から力が抜けていきます。


「僕だよ、瑞」


「絵鈴唯」



「なにかあった、かな?」

絵鈴唯にしがみつくと、仕方ないなという感じに頭を撫でてくれました。

「絵鈴唯、あの、血みたいなのが、二階の壁で」


「それを見たの?」


こくこくと頷くと、そうか……と絵鈴唯は言いました。


「濡れてる」


絵鈴唯はそっと、袖で頬を拭いてくれます。


「くすぐったい」


「メールを返せなくて、悪かった」


「怖かった」



「さっきまで、シイナを見つけて追っていたんだが」

「ん……?ぼくら、同じ部屋に居て、絵鈴唯は隣にいたよね。居なかったよ」

「どうやら、外に居たようでね、玄関から入ってきて僕らを呼びにきたんだよ」


絵鈴唯は、マイペースに自分の話をします。


「え?」


あとから、ぼくらを呼びに?

それまで何処に。

というか、外をあんなに二人で探したときには居なかったような。


「……とても言いづらい話をしなければならないかもしれない」


絵鈴唯が意味深なことを言いました。

どういうことなのか、と問いましたが……返っては来ません。


言いづらいことなのでしょうか。

 なんだか、絵鈴唯は少し震えている気がしました。



「此処はなんだか、喧嘩していた家族を思い出す」



 ぼくたちは、二人とも、薄く暗い部屋にいい記憶がないのでしょう。

互いに苦笑いしました。

「早く、出たいものだ」


「うん……」


「ところでその血は、新しそうだったかな」


絵鈴唯に聞かれ、ぼくは少し考えました。


「うん。新しかったと思うよ。

たらーっと、下のほうが垂れていたから」


ちなみに、量は、驚いたよりは少な目で、誰かが少し血を壁へ吐いたという感じでした。


「……今の気温とこの壁の吸水性、窓の向きなどから考えても、

昼間か、夕方少し前くらいに何かが此処に居たかもしれない、かな」


壁は、よく校舎で見かけるような白くてつるつるしているものでした。


「昼間、歩いていたけど、この家の二階なんて見ていないよ」


というか、ほぼ、泣いていました。




「ん? 二階に行ったの」

「いいや。外からでもわかる。壁だけは」


「そうか……」


確かに、窓というのは大抵、外へ向けられていますからわかるでしょう。あの壁に、赤い液体を吐くためには、ちょうど窓を背にして吐いたことになります。


あるいは、背中に口があることになるでしょう。


「それより、シイナを探さないと」


ふと。

いつの間に呼び捨て?

とか、気になりましたが、ぼくはそうだねと返します。





窓に背中が映っていて、更には赤が外から見えてもおかしくないはずでした。

 だって、カーテンはつけられていないし特に家具もないので、窓を遮るものはないのです。


「此処に入る前、二階の様子に気がついた?」


「まさか。だって、このそばは角度的に、見上げるようになるから、死角、かな」


シイちゃんは、果たして気がついて居たのでしょうか。

ぼくらより小さいシイちゃんが気が付くのは不自然な気さえします。




「それだけじゃない、ただでさえ、売り出し中のはずだから、放置しないようにつとめてもいい」


「でも今日ついたなら、それは」


「電話は切られたんだったかな。壁について知る様子ではなさそう、かな?」

「あぁ」


大体は、察しがついてきた気がしたので、ぼくらはいったん会話を止めました。


「ちなみに家具は」


「無かったよ、二階も」


「やっぱり、ないか」



 風が絵鈴唯の黒い髪の毛をふわふわと揺らしました。

甘い、桃のにおいがします。



 絵鈴唯は考え込んでいました。ぼくは絵鈴唯、と呼びました。


「釈然としない。なにかが根本から、引っ掛かるというか……シイちゃんが消えたのはわかりそうだけど、もっと、こう……」

「そりゃそうだ。

僕たちはシイナが消えたとき、家の中に入ったとなぜ思った?」


「……中から音がしたから?」


「家具や、音を立てそうなものはあったか」


「全くない」


シイちゃんが消えたのと音のあいだにあった時間は、そんなになかったはずです。大体、シイちゃんは外にいるはずなのですから。





「ひぐまだ!」


 誰かが叫びました。

ぼくたちは同時にそちらを見ましたが、絵鈴唯の追っかけしか見当たりません。


「なにか、あったの、かな」

「ひぐまだってさ」


「ふうん……」


絵鈴唯が首をかしげながらも、ぼくを見ました。この辺りは自然も多く残っているので、出てもおかしくはありませんが。

そして、それからすぐです。


「子どもが死んでる」


そんな声が耳に入りました。


「子ども?」

ぼくらは、顔を見合わせます。



慌てて、道行くひとを掻き分けて騒ぎの方へ向かいます。病院へと向かう方角と真反対にある、公園の、奥の道でした。




シイナちゃんだろうかという気持ちが、ぼくによぎります。絵鈴唯はよく知りませんが。


人混みへと向かっていくと、くったりとした帽子をかぶった人物が地面にうつ伏せていました。


はらりと帽子が脱げて行き……


目を閉じたままのその人物を見ました。

確かにあのワンピースを着ていましたが様子が違います。


「えっ」


ぼくが思わず手で口を覆う間に、絵鈴唯は警察だか救急だか電話をしていました。


「じいさんだな」


「だよな」


誰かが言いました。

というか……

この取り巻きたちが神出鬼没な方が驚きです。



倒れていたのは、白い髭を生やしたお爺さん。

小さな顔や、細い身体つきは子どもと見まがうような気もしなくはありませんし、子どもとそう変わらない背丈のかたもおられます。


……が、起こったことが理解できず、ぼくは絵鈴唯を見上げました。



 ぼくを気にかけてくれていたのは、ワンピース姿のお爺さん。

お弁当を食べたりしていたのも、お爺さん。


「おにいさんの好きなタイプ」を聞いたのもフィギュアについて聞いたり女の子について話したのもおじいさ…… ん?


呆然と、様々な想いをめぐらせるぼくの腕を、絵鈴唯が引きました。


「帰ろう、警察が来る」


「え、あ、あぁ、うん……」


『――もう二度と、こんなに趣味では』


「何か言った?」


「何も言ってないが」


「幻聴、か」



ぼんやりしたまま、道を歩いているうちに、絵鈴唯は近くにいた取り巻きの一人になにやら質問していました。


「ヒグマが出たといったのは誰だ」と。




□■


 ヒグマが出たと言った人について、詳しくわかることはなくて、ぼくたちは少ししょんぼりしながらも、夜道を見渡していました。


 なんだか足ががくがくと震えるので、ぼくはそろそろ終わるかもしれないという不安が、頭をよぎります。

シィナちゃんの居場所もわからない……


それに、あの赤は、なんだろう。


「少し、疲れたな」


絵鈴唯が言ったので、ぼくはうなずきます。


「うん……」


「どうして、外に出ていた?」


絵鈴唯は、身に付けている上着をぼくにかけてくれながら言います。

絵鈴唯が好きな、茶色いカーディガン。

その頃の絵鈴唯はなぜか、ブラウンなものを身に付けることが多かったのです。







辛いことがあった、とは察してくれたと思うものの、細かいことは何も、答えませんでした。


「ありがとう、あたたかいね」

 ふわりと揺れたぼくの髪を撫でながら、絵鈴唯は満足そうに言います。

「うん。美味しそうな感じがして、良い」


「なにがだよ」


絵鈴唯は、どうして、

僕が夜まで待ったかわかるかと聞きました。ぼくはわからなくて、首をかしげただけです。


「少し、寄り道していこうか」


 スーパーのある方角まで歩きながら、いろんなことを考えました。

でも、どれもとりとめのないことで、はっきりとは思い出せませんが……

断片的に覚えている会話は「きれいだったり、可愛いと、壊したくなるという人もいるらしい」という話です。


生物の赤ちゃんは、無力ながらに生き延びるために庇護欲をかきたてるしぐさをするという話から始まって、やっぱり人は多種多様だという話になっていました。








夜は風が、さらに冷たく感じられました。

 身体を包むこのカーディガンの茶色は、絵鈴唯を思い出す色……

だから、ぼくも茶色が好きなのかもしれない、なんて思いながら、ぼーっと絵鈴唯の隣を歩きます。

辺りは、昼間は鮮やかに目に優しい自然色なのに、夜はなんだかそれさえグレーがかって見えていました。


緑いっぱいの、とかパンフレットにはかかれるけど、海外だと、緑はモンスターの定番色だったりもするようで、なんだか捉え方って様々です。


「じゃあ緑茶とか、

落ち着くよって勧めても宇宙人やモンスター、人外のもの定番の色の飲み物と感じられるのかな」


「どうだろう。


どちらにしても、そういうものが好きな人もいるし、みんなが人外映画を見てるわけじゃないし、


純粋に好きな人もいるだろう」

「どーんっ!!?」


背後から声がして、ぼくたちは振り向きました。

「こんなところでー、なにしてるのーっ?」


短めのポニーテール姿の、知らない女の子。

背はぼくらより10センチほど低めで、丸みを帯びた印象の子です。

とはいえ太っている、わけでもないから顔などのパーツごとの影響でしょう。


「あ。河辺」


絵鈴唯が短く反応します。

「誰?」


「知り合いだ」




「その子、女の子?」


 ぼくを指差して、河辺さんが言いました。

絵鈴唯が違うよと言います。年齢は、ぼくらとそう変わらないか、また若いように見えました。

 ただ、絵鈴唯が年下の知り合いと話すのをあまり見ないから、きっと、同年代でしょうか。


「女の子ではない。よかったな」


絵鈴唯がなんだかどうでも良さそうに、僕の背中をトントンと叩きました。

「なに、どういうこと」


「さあ」


絵鈴唯は特には答えず、こんなところに居たのは散歩だと言いました。


「女の子だったら、狙っていたのに」


ぽつりと、河辺さんが言いました。

絵鈴唯があえて言わなかったのはこれでしょうか。そして、絵鈴唯がなんだか渋そうな顔をしたのもこのためかもしれません。


「恋愛感情はなくても、女子なら関係を持てるタイプの人間らしい」


「そ、そうなんだ。お前の知り合いは、相変わらず、メンツが濃いね」


知り合いに、似たような言葉を発した人は居ましたが、

彼らの場合は身体やらなんやら自体を求めてるわけでもないらしくて、少し違う、と考えてしまいました。


恋愛は別枠にあって、違う人と関わるのと、別枠がない前提。


「あぁ。そうだ、河辺」


「なにー?」






「この辺に、ヒグマが出ていなかった?」


「それよりも、夕飯を買いに行かなくちゃなんだけどさ」


ふと、絵鈴唯がなに気なしにカーディガンをかけてくれたことなどで、大事なことを思い出しました。


「……そうだ。そうだよ!」

「ん?」


絵鈴唯がびっくりして目を丸くしました。



「公園に、戻らなくちゃ」

「どうして」


「いいから、行こう」


「理由もなしに、いいから、というやつは嫌いだよ」

「そうだね、ごめん。

ぼくに茶色の上着をかけてくれる絵鈴唯の両手が塞がってないのを見て、公園に、お弁当を忘れたことを思い出したんだ」

「あの事件を覚えているかい?」


 夜道を歩きながらぼくが聞くと、絵鈴唯は寂しそうに頷きました。

昔、大々的に報じられたこども誘拐事件。

犯人の供述は「私の心に入ってこようとしたから」

というもので、関係者たちを困惑させました。


現実と区別のつかなくなった妄想にとりつかれた加害者は、


拉致だけでなく暴行という行為で被害者の心の中に土足入り込んだだけでなく実際の人間関係や、社会の関係まで壊したといわれるそれは今でも、被害者を苦しめています。

心をみんなにわかるように可視化する技術はなく、何が心に入ろうとしたのかは未だに誰にもわかりません。



「あの日は猛暑で、7月で月のある夜だったな」


ぼくと絵鈴唯は、わけあって『その場』にいました。


「『理由はあるけど、もっと自分を傷つけることになるから言わない』


あの言葉が、あまりに、意外だったものだよ」


まるで殺されそうになったからやったとでも言うように


「心に入られそうだから連れ去って暴行した……か。何度聞いてもわからない」


予告現場には、ドクロマークが必ず残されていて、だからぼくらは、骨を見るとあのドクロマークを思い出します。


「だーいたい。心なんか、実体がないものに入る入らないって、扉でもついてるのか? ばからしい」

絵鈴唯が笑いましたが、ぼくは、そんなのわかんないだろと言います。


「透明なドアかもしれないし」


「んじゃ侵入罪にでも問うのか?」


「被害者は、自宅に入られてるから、問えそうだけれどね」


心にはドアがある……とか、ポエムみたいで、

案外空想家だったんだなということばかりがぼくらを唖然とさせていました。



加害者の、

心の町名、番地など、心のドアがどこにあるかについての情報を詳細に知っていれば、あんなことが起きなかったかもしれません。

うっかり踏み要らないように、ここからは私の心の所有地です、と。


そしたら入る前に、立ち去れたかもしれないし、

心に入ったことを理由に責めてももっともらしいのにね、というと、きみもなかなか空想家だと絵鈴唯が言いました。


「知るか、でいいよ。あんなの」



「本当に、何が、あった?」

絵鈴唯は、ふとぼくの目を見つめて聞きました。

 大抵の悲しいことにはなれていたはずでした。何があっても、そう傷つくこともありませんでしたし、自信があったのです。いつだって笑っていられる、と。


なのに、あの日のひとことのどこに、ぼくが苦しむのか、理解出来なかった。

争いは常に避けてきた。嫌な展開は極力回避するように常に考えて努力している。

本来、苦しみ様が無いはずなのだ。なのに。



あなたは死ぬと、それだけの言葉が、なぜ。



その程度で悲しむ人間になりたくなくて、悔しい。

「ただ、死ぬのが怖いんだ。一時の痛みだと思っても決断を下すなら、早い方がいいのに、ずるずると引きずっている……


違うな、死ぬと表されるのが、嫌なのかな」


「やっぱり、よく、ならないか」


「あぁ。もう、無理かなって、思ってみた」



「こんなこと、言うつもりもなかったのに」


「背負わなくてもいい」


「だけど」


昔『簡単に弱音を吐くのは、相手をいじめることと変わらない』と、思っていたのです。

 例えば、何か苦境やいじめられて辛いと言う人間に、なりたくなかった。



すぐ弱音を吐くのは、相手をいじめてもいい、と決める人間だからだ、と。


冷静に言うなら

『敵、味方の判断が早い人』

『理不尽な状況を理解し、いじめられている自分を即座に把握、泣くことができる』


と。


「それを貫いてたら『うるせぇよ、弱音くらい吐かせろ』と殴られて、いじめられたんだけどね」


だから。これは半ば素直になれないくせのようになっただけかもしれませんが。


頭のなかによぎるのは


「お前は強いかもしれないけどな、普通は弱いんだよ」


という言葉。


「わざわざつらいなんて言わなくていいじゃないか、余計に苦しむのに」

という想いを、打ち消すにはこれだけ適した言葉はないでしょう。


キモチワルイ、と遠回しに言われたようなもの。


 つらいときに辛いと言っても、夏に、いくら暑い暑いと言っても無駄です。


でも、暑いと騒ぐ人の方が『人間らしい』なのでょう。




弱い、クズだ、と自己主張するだけの人間にはなりたくないという気持ちは、持ってはならないもの。



もし死ぬと聞いても、きっとぼくは笑おうとするでしょう。

しかしそれは、持ってはならないもので、『キモチワルイ』でしかないもの。


夏になれば、暑い暑いと騒ぎ、冬には、寒い寒いと騒いでいなくては、人間として見てもらえない。

人として生きるためにはリアクションから大事にしなければならないのですが、それを無駄だと判断しがちなぼくは、もとより、生命活動に向いていないのかもしれません。


――弱音くらい吐かせろ


――どうして、はかなきゃならないの。



助けてもらえると思う?何が変わる?

その一声で、季節も温度も世界平和も、叶うの。夏に、暑い暑いと言うだけの無意味な行為を、切り捨ててはいけないのだろうか。


 絵鈴唯は、ため息をつきながらぼくを抱きしめました。


「まあ、さ、あまり、あせるなよ?」


「うん。誰かと争って無意味な戦いをするより、なるべく出来ることをする」



 二人で、夜道を歩きました。

シイナちゃんは無事でしょうか、ぼくは、あのとき見たおじいさんと帽子を忘れられません。


「瑞」


「何さ」


「戻っても、おじいさんはいないと思う」


「知ってるよ」


「つまり、こう考えているんだろう? お弁当を忘れたことに気がついたシイナが慌てて、僕のとりまきに混じるような形で消え、公園まで引き返したところで、おじいさんと何かがあったのだと」


図星をつかれて、ぼくはじっと絵鈴唯を見上げました。


「だったらシイナはなぜ、言わなかったのかな」



絵鈴唯は真顔のまま聞きます。

な、なぜ。



「慌ててたからだよ」


「まぁいいけど」



清んだ空にはとてもきれいな星たちが散らばっていて、それらになんだか吸い込まれてしまいそうな気さえしました。


 思い出すのは、あの日……孤独で、苦しくて、最期の助けを求めたら殴られ、助けなんか来ないよといわれた日。


 確かにこんな夜だったから。



ぼくは、宇宙には行きたくないなぁと思います。

単純に足がつかないことや呼吸が苦しいのが怖いからだと思いますが。



昔から、宇宙に得たいの知れない怖さを感じていたためです。


「理科の授業で重力がなくなる話を聞いたときにね、ゾッとしたんだ。

怖かった。


自力で地面に立っているのか、

本当は地球に立たされていたのか、わからなくなったからだと思う」



中学生で習う内容で、

自我が不安になるような時期に聞いて、ぼくは、宇宙なんか嫌いだと思ったのでした。


「まぁ、正確には無重力や、呼吸が出来ないことが怖かったんだけど」





 息が出来ないのは、まるで喉の強くなかった昔を思い出すようで、つらいのです。

あのヒリヒリした嫌な感覚や、肺に痰がねっとり絡み付き気道を塞ぐ嫌な感覚。

それからあの日、声を出すなとやんわりと脅された、嫌な感覚や恐怖心。

その頃、ぼくはまだ子どもで、純真な世界を信じきっていました。

 きっと今だったら、多少恐怖が憎悪に変換されたことでしょうが、昔は

「何かよくわからないけど、この人は優しい」とか「共感ができる」と、わりと信用していた気がします。


「変だよね。ぼくや絵鈴唯に共感ができる人間が、そもそもそんなには、いるわけがないのに」



だから。


ただ、あまりの恐怖に、声を忘れたかのように、ぱくぱくと口を動かすだけ。


まだ信じたい世界を見ていよう、と、耳を塞ごうと……


「あんな、甘い嘘に、なぜ気が付かないんだろうね」

おいで、と手招く指に、なぜ誰も爪を立てないままだったのか。


「スーパーに寄るが、いいか?」


絵鈴唯が、小さくうなずいてからぼくに言いました。

「なにか、買うものが?」

「まあね」


「シイナちゃんは」


「たぶん、元気さ」


「どうして」


 絵鈴唯はただ穏やかに微笑むだけでした。

ぼくは、かけてもらったカーディガンをぎゅっと握りしめます。

やがて、少し冷えてきたな、なんて考える耳に、絵鈴唯の穏やかな声が入って来ました。


「言いにくい話をしなければならなくなると、言っただろう?」


「話して、欲しい」


ぼくは、まっすぐに絵鈴唯を見上げて言います。

「まず、ヒントをあげるよ。きみは、あのじいさんを見て、どう思った?」


「きれいな、感じ。

なんていうか毒とかそんな感じじゃなくて……」


難しいことはよくわからないけれど、口から血や泡を吹いているかとか、瞳孔が開いているかくらいは、素人でも感じられることで、それは推量に過ぎないけど、


「なんていうのかな、異常性は、なさそう?」


今聞かれたのは

『ぼくがどう思ったか』なので、とにかく少ない語彙を駆使して答えます。


それだけ?


と聞かれてぼくは首をかしげました。


「身体は痩せてた。髪はほぼ薄くて、無いみたいだったよ、でも髭はしっかりしてて、白かった」


「その髭にほんの少しだけ茶色がついていることは」

絵鈴唯がじっとぼくを見つめるから、少しどきりとしました。


「単なる汚れだろ。あんな風に、伸ばしてたら、そうなることもあるさ。

けど、にしても、結構ハンサムな人だった気がするね」


絵鈴唯はぼくをじとっと見て、

「そう、かもね」と、返します。


ぼくははっと思い出しました。

――そいつが、人の顔を認識把握するのが苦手だということを。


「えっと、うん、そうなんだよ」


どうにか、取り繕う代わりに言います。









 ジリジリと、虫か何かが鳴いている音があちこちで聞こえていて、ぼくの肌も汗でややしっとりとしていました。


「ん、泣き止んだかな」


絵鈴唯は唐突に言います。

「泣いてなんか」



「可愛い瑞。

僕が、夜まで待たせた理由を知りたいか?」


「いや、なんとなく、わかった」


ぼくは言いました。


「本来あのおもちゃは昼間には無いんだろう」


絵鈴唯はしばらくじっとぼくを見ていましたが、聞きました。


「なぜ、そう思うんだ」


「ぼくは普段夜中には外に出ない。怖いんだよ、夜中の誰もいない部屋も、普段夜にいかない場所も」


「家には僕がいるじゃないか」


「そう、だから、わざわざ、一人で出掛けない。

怖い思いをする必要などないから」


絵鈴唯が、ぼくの頭をよしよしと撫でました。


「それで?」


「ぐ……、だから、普段は、見たことない。

あの空き家についての話も、近所で地元にもかかわらず、

僕は知らないし、存在も認知していなかったわけで」


「そうだね」


「それに、えっと、この辺は、住宅が比較的集まっている場所だから、

部外者には、まず用がない。

買い物や通院の通り道として使うくらいだ」


「そう。シイナちゃんは、知り合いを探すか、通り道のどちらかであると考えるね」






彼女は、知り合いを探していたからこそ、おみまいに行くのだと言ったと思います。

 でも、風邪と聞いて遠くから遙々と家を探しに来るとは思えません。

「それに、あのおじいさん、!……まさか」


ぼくがなにか、

思い出したのと同時に


「いこう、瑞」


絵鈴唯は、ぱちっとウインクしました。

ああ、全部わかったんだ。



 道を、夜景が照らしています。

ぼくらの貸しきりの町みたいな静寂が支配しています。

足元を、魚をくわえてにやついている三毛猫が走っていきました。

ど、泥棒みけ……


「絵鈴唯、雄だったら、高く売れるね」


「あいつは雌だ、たぶん」

三毛猫はほとんど雌らしいので、雄は高値がついています。




「前に、本で読んだけれど三毛猫の茶色、って海外だとオレンジらしいよ」


「明るいね、なんか」


ひとまずは、スーパーに向かってぼくらは歩きました。


 歩きながら考えます。


あのなかで、ヒグマだと言ったのは誰なのでしょう。それだけがまだわかっていませんが、ヒグマが居たのかどうかさえ、ぼくらは確かめていないので、気になりました。

「『目が黒い』って書いたつもりが、『あざだらけ』って書いてたりするからな……」


なにか、経験があるのか絵鈴唯があはははと笑います。


「感性の違いかぁ」


ぼくは、絵鈴唯を照らしている電柱を見上げました。たまにまだ、ヒラタクワガタとかが居たりしますが、いませんでした。
















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る