第2話


「あぁ抉り出したい」


ぼくにだけ聞こえる声で、絵鈴唯は言います。


「絵鈴唯……」


「なぜ抉ると、死んじまうんだろうか。

人のパーツは……すべてを愛せなきゃ手に入らない」


「ったり前だ」


ゾク、と背筋が震えます。なのになぜか、ぼくはそんな絵鈴唯を怖いと思わないのです。

可愛いとさえ、思うのです。

「人間の数パーセントを愛するために、残りの大半も愛さなくてはならないが、なかなか、そんな相手はいないものだ」



絵鈴唯は、人を形成する、その形そのものを、なぜだか、愛することが出来ないといいます。

だから、相手の形が部分部分にしか見えないらしいのです。

 よくわかりませんよね……


うろ覚えで申し訳ないのですが、

例をあげると、


相貌失認という、認識異常が存在します。相手の顔がわからないというものです。


まぁ、顔がよくわからなくとも暮らしてしまったりするのも人間で。

周りもたいして顔なんか覚えない、と思っていたという人も多く、自覚がある人ばかりではありません。


ざっくりした説明になりますが、頭の中から相手の顔のデータを呼び出すのには、まず、自分の記憶したデータごとと相手の今の情報を照らし合わせなければならないのです。


しかし、そこの照らし合わせにエラーが起きることで、


目の前の相手にたいして、覚えがある相手の顔のパーツのデータがうまく呼び出したり照らし合わせられないという感じだと絵鈴唯からは聞きました。



そして、絵鈴唯は、それに近いかもしれないと。

だけれど、絵鈴唯は、

珍しい色を持つ人間だけは色情報として記憶することがしやすいみたいでした。


「けれど染めたようなのは、なぜか、不思議と頭に残らないんだがな」


珍しいから、格好いいから、嬉しいからではなく単に「誰だかわかるから」。それが絵鈴唯にとっての基準なのかもしれません。


 相手の一部しか思い出せないなんて、きっと、とても寂しい部分や、大きな不安があるでしょう。

他人にたいして温かさを感じることも、場合によってはきっと難しい。 人を愛することはとても困難なこと。

いつの時代でも、たぶん。

性別や種族以前に、情報がきちんと伝達されているかや、個々の価値観から、恵まれていなければ同じ会話にならないと思うのです。


恋に感情論なんて、あまり意味がありません。


共感が出来ないから、個人で抱えるしかない。

孤独なひとには、限りなく孤独なもので、救えないから。



そういう意味では、恵まれている人にしか出来ないのが、ラブソングで聞くような恋愛だから、ぼくは、不思議な感覚を覚えるのでしょうか。

挑発されているみたいだと。

 同じように孤独な、絵鈴唯になら、生身の人間へ恋というものが出来るのだろうかという、錯覚も。

「きみにはわからないだろうな。

珍しいものが好きでミーハーなだけだと、嘲笑われ、冷たい目をされて、まるで卑怯もののような気持ちでしか他人を愛せない苦しみが……」


絵鈴唯がいつか言っていた言葉。

真意はわかりませんが、いつか、わかるのでしょうか。





 絵鈴唯が、シイちゃんに何か質問している横で、ぼくは弁当箱を用意していました。


「うん。わからないみたい」

シイちゃんが、質問にぽつりと呟きながら、弁当箱にパンを詰めていました。


「自分のものじゃないから、やっぱり平然としてる……耐えられない、普通なら。

それが自分の立場だったなら、とっても苦しいはずだよ」


絵鈴唯には意味がわかるのでしょう。そうだなと頷いています。


「訴えたい気持ちって、あるはず、でも言えない理由があるんだ」

「言えない理由とは?」


絵鈴唯がわかっているという風に聞くと、シイちゃんが言います。


「わからない、けど。自分の秘密が暴かれるから。堂々とすることが出来ずにいる……

あの家の周りをうろうろしておくしか無い」


のんびり話していたシイちゃんが見せた饒舌を、ぼくは初めて見ました。

それほどに、真剣なのでしょう。


「暴かれる。

なるほど……こう主張すれば、お前は? と切り返されることを、恐れ、向き合えないということの証明なんだね」










     □


 まだ秋なので、外は薄暗くて視界もあまり開けていませんでしたが、ぼくたちは、ぞろぞろと出掛けました。

ぼくだけがリュックサックを背負って歩きます。

「とりあえず、公園にでも着いたらそこで食べようか」


 絵鈴唯に提案すると、歩きながら食べればいいのではといいました。


「ベタベタするから、あんまり向いてないよ。包み紙もないしさ」


「レポートはどうだ?」


「……ん」


ぼくはただ微笑みました。


「ゴールしてるのに、何回も何回もさせられると、周りは一回で済むのにとは」


なんでぼくだけは、どんなに頑張っても無駄なんだろうとは。


「思うけれどさ」


どんなにもがいても、周りが浚っていった。

いつだって、どれだけ頑張っても、完成品は違う人の手元にあった。

だから、ただ。


「努力できるだけマシだし、才能のなさに嘆くなんてうぬぼれてるよな……それを、知ったよって感じ」


どうかと言われれば、

なんとも言えないものです。なんだって、最初というものは捨てがたいから。


「生きたくても生きられないやつもいる、みたいな話か?」


「ああ、そうかも。土台があるから嘆けるんだろ?腹が立つよ、ああいう。才能さえあればっていうやつ。甘えのくせに……」


 頑張って頑張った結果に、病気や不慮の事故で死ぬやつだっているのが世の中なのに。


才能があったって、殺されたやつだっているのに。


本当に、甘えている言葉だと思う。

才能があればなんて。

それだけで満たされるという傲慢に吐き気がする。


昔あった事件を思い出してしまって、手のひらに強く爪を立てると、絵鈴唯があははと笑いました。


「富や金は、持つ程餓えると言った人も居たが、そういうことだろうよ。


恵まれているからこそ、才能なんて贅沢なものを欲しがる。

甘ったれた連中に、さらにそんなもんまで付いたら、世の終わりだ」


「言えてる」


「どうして、そんな話を、笑って言うの?」


シイちゃんが、不思議そうにぼくらを見上げました。


ずきっ、と胸が痛みます。

うまく悲しい顔が出来ないのです。

昔からそうでした。

たいしたこと無いだろうと言われて、先生の説教がぼくだけ増えたこともあります。


「悲しい顔してなきゃ、悲しくないって言うのは、極端だよ?」


 絵鈴唯がなぜか、ぼくをやんわりと庇うように言いました。


「そうなの?」


「ああ。涙が出なくても、心はとんでもないことになっていたりするのが、人間なんだ。

こいつは、それで何度も、辛い目にあってきた」

ぼくは、落ち着こうと、ゆっくりと目を閉じました。


人の動作一つ一つが、気持ち悪いと思ったことはありませんか?

笑うとか、泣くとか、怒るとかいうものを含めて、です。


 ぼくには、ありました。同じイキモノだということすら、目を背けたくて、とにかく、いつも、笑顔以外は持ちませんでした。

怒るとか、悲しいなんて疲れるだけだしばからしいと、そう思っていたもので……

そしたら、笑う以外が困難になってしまって。


「確かに、いつも笑ってるからと、何かにつけて周りに当たられるようなこともありました。


身勝手なひとに泣くところがみたいと言われて、泣けないのに、一日中強要されて、それでまた、他人はろくでもないと思ったものでしたよ」


「そうなんだ」




 同じ人間なのに……

泣いたり笑ったりが出来ないだけで、憎んだり嫌ったり。


「泣くのを強要するのは、よくないよね」


シイちゃんは言いました。


「出来ないことを無理矢理させて、そこまでして、悲しい顔を見て、嬉しいのかなあ」


ぼくは何を言うべきかわかりませんでしたが、どこで夕飯を食べるかと聞きました。


同じ人間なのに、表情、仕草、恋愛の価値観。

人と違うと、差別されるものは沢山ありました。ただ違うだけなのに、逆に差別だと言われるひともいるのです。

だから、たまに気持ち悪いと思います。


人しか愛せないくせに、愛は平等とか言い出すラブソングみたいだと。



それに期待して、結果迫害された人たちは、果たしてどうなるのでしょうか。

ぜんぜん平等じゃないじゃないか。

どんな気持ちも受け入れるって、嘘だったの?


と、とてつもない絶望に、悔しくて、悲しくて眠れないような気持ちを味わうのかもしれません。



そういえば、物への執着が異様だと言われたこともあったっけ……


だけど恋だった。

真剣な恋だったと思う。

他人に……いや、人間にたいしてでなければ、ぼくは惚れやすい方なのだと思います。

だから、少し傷つきましたが、とりあえずなんてことないように繕いました。


人は、恐ろしい。

いつエラーを起こすかもわからない、仕組みもわからない生き物だから。他の生き物もそうですが、露骨に、密接に関わるのは人間なんです。

















空が清んでいたので、星が沢山見えていました。

さわさわと、木の葉が揺れる音に混じるような小さい声が聞こえてきたと思えば。


ぼくらの前を歩いていたシイちゃんが、掠れた声で言いました。



「でも、おにいさん良かったね。

絵鈴唯は、好きになれて」



なぜでしょうか。

その言葉が、シイちゃんの輪郭をぼやけさせてしまいそうで、ぼくは、しっかりと目にやきつけようと、その大きな帽子の姿を眺めました。


けれど、やっぱりどこか儚くて、どこか、消えてしまいそうなのでした。「とうちゃーく」


と、シイちゃんがぼくらを案内するべく、やがて曲がり角で両手を広げて立ち止まりました。


あ、あの家ではなくて、その前に、近くにある公園にです。


少し砂ぼこりに汚れたベンチに腰かけて、リュックサックをおろしました。シイちゃんの言葉が、先程から、リフレインしつづけています。


ぼくにも、よくわからないけれど、確かに絵鈴唯は……特別なのです。

エラーが起きたとしても、直して、それでそばにいたい、と他人に思うことなんか今までなかったのに。




けろーけろーん。


と、シイちゃんが、地面でアマガエルさんと戯れているのを眺めながら、ぼくと絵鈴唯はベンチに座っていました。


 日差しを遮る目的なら、夜中もあんなに目立つ帽子をかぶる必要は無いでしょうし、やっぱり、シイちゃんは誰かと顔を合わせることを避けているのかもしれません。


ぼくは、ぼんやり思いました。


そういえば、絵鈴唯は、案外真面目な方なのに、小さな子どもが夜も出歩いていることに、最初から何も言いませんでした。親が心配するぞとか、そういうやつです。






 親から隠れるために帽子を?

とは、思いませんでした。

そりゃあ、あり得なくはないけれど、そんなもので顔だけ隠しても我が子が居ないことくらいバレるでしょうし、親が渡した帽子かもしれません。

ここは、絵鈴唯がなにも言わないことを合わせて考えるべきでしょうか。

ぼくが唸っていると、手際よくランチボックスを広げた絵鈴唯が、シイちゃんを手招きしました。

「食べよう。おいで」


「うん!」


 ぱたぱたと駆け寄ってきたシイちゃんに、ウェットティッシュを手渡します。

三人でお弁当を食べながら、持ってきたお茶を飲みます。


小さい頃、道に迷ったことがあったな。

と、ふと思い出しました。あの日も薄暗かった。絵鈴唯とはぐれてしまって、心細くて、もしかして、森の奥に怪物がいるのかなと思って。


怪物よりも、絵鈴唯がそいつに何かビームでも浴びて、エラーを起こしたまま帰ってきたらと、ぼくは想像しました。


知らない言語を話して、制御できない行動をして、あのおじさんみたいに、暴れ回るのです。


頭の中で、何度も考えて、とてつもない恐怖や、悲しい気持ちでいっぱいになりました。





 次あったら、ぼくの知っていた絵鈴唯じゃないかもしれないと思うと、一日、一日、姿を見ない日があるだけで、次に会うのが恐くなって。


とてつもなく不安でした。

数日会わないだけで、

次から二度と会わない方が夢を壊さないかもしれない、もう会わないのがいいかもと、運試しのような、願うような気持ちになるのです。


 ドアの向こうの絵鈴唯が壊れていたら、どうしよう。

どんなきっかけで、脳がエラーを起こすのかもよくわかっていないことは、知っていました。


ある日話せなくなったり動けなくなったり目が見えなくなったり聞こえなくなったりする可能性が、誰にだってあるのです。





 人間は、恐怖の対象でした。

脳も、血も、内蔵も全部ぼくには、本当は恐怖の対象でした。


絵鈴唯を愛せるのでしょうか?

壊れてしまってもそばに居ることが出来るでしょうか。


他人と関わってまず思うのが、人間は特に不確定な要素が多いイキモノということ。

それは、良くも悪くも。だから。

目の前の誰かもいつも、いつ、どうなるかわからないということで、怖くないわけがないじゃありませんか。


「絵鈴唯は覚えてる? 道に迷った日のこと」


「迷ったっけ?」


パンを食べながら、絵鈴唯はなんてことないように返しました。


「っふふ……あはは!」


思わず笑うと、絵鈴唯がびっくりしています。


「うお、どうした」


「バカらしくなるよ、ほんと」


絵鈴唯を見ているときも、

たまに、フラッシュバックしています。

わあわあと喚いて、物を投げつけて、沢山の言葉を聞いて、そのあとに残るものは『病気だから』しかたがなくて、やりきれなくて。


ぼくには何が正しいのかわからないけれど、


その裁きの結果のみがのしかかり、悲しみを否定されて、人間を放棄する人間を作らなくともいいのではないでしょうか、それとも、それが正しいのでしょうか。


「ねぇ、絵鈴唯」


シイちゃんが、一度噴水へと駆け寄っていったのを見計らい、ぼくは言います。


「なにかな?」


絵鈴唯は、パンを食べながら無表情です。





「この近辺には、病院があるよね」


「おや。どうしてそう思うのかな?」


ぼくは、頭上の看板を見上げました。

総合病院が数メートル先と書いてあります。


「ねえ、絵鈴唯」


「なにかな」


ぼくは、息をゆっくり吐きながら言いました。




「この家に居た誰かって、……


風邪じゃないんだね?」








 絵鈴唯はしばらくなにも答えませんでしたが、少し間を置いて言いました。

「いづれ、わかる」


それは否定でも肯定でもなくって、ぼくはなんだか居たたまれない気持ちになります。

 夜だというのに人気があり、あちこちで人が出歩いて居ました。


 歩くだけでも怯え、周りの他人が突然わめいて襲いかかってくる想像に踞った日を、フラッシュバックしてしまいそうになりました。


人が行く先ごとにあちこちに居る……やや異様な状況。

たぶん、絵鈴唯が美人だから。

そして、いろいろとあったせいだ……


昔、つきまとうのはやめてくれと、ぼくたちが頼んだことがありました。しかし「有りがたく思え」と、よりひどくなったつきまといは、いつだって、ぼくからすべての気力を奪います。





「大丈夫か?」


「絵鈴唯は、平気なの」


「あぁ、まぁ」


絵鈴唯にも、いろいろなことがありました。

それこそ執拗なストーカーにあったことも。

身を守るために保護され名前から何からを変えているにも関わらず、


友人や親戚が理由を汲めずに踏み込んで、残酷にも個人を証明までしようとした結果、板挟みに苦しみ、睡眠薬を沢山飲むようにまで追い詰められたこともあったといいます。


 探偵を雇い個人情報を調べようとまでされたりしたそうで。

ポスターまで貼られかけたそれは、

結局はまな板の上に晒しあげて、

『あいつら』の標的を、わかりやすく道しるべにする、残酷な行為です。

それを望む相手を友人とは呼ばなくなるのも、当然だと思います。

生きていたら殺されてしまう。


しかし身を隠すしかない絵鈴唯を、わざわざ訪ねる人も居て……聞く耳を持たない知り合いから「なんでそんなことを言うんだ」「お前を証明するまでは、」

と言われたことをきっかけに、すべてから絶縁。

聞き分けない友達を持つのと、あの連中に殺されるんだったら僕は前者を捨てると、かつての絵鈴唯は自嘲ぎみに言いました。


他人とは身勝手なものです。

誰かを殺している好奇心を、誰も自覚しないのだから。


そこまでして個人を調べたがるとしても、

きっと当人からは深く、強く嫌われて、冷たい目をされるのみだというのに。




 それはもう、絵鈴唯にはただの『敵』でした。優しさを語る敵にしかならない。

保護を妨害する対象なのだから。


 シイちゃんは、大きな帽子をかぶったまま、ついでにと作ったおにぎりをもぐもぐと食べていますが、しかし、顔は背けたままでした。


「シイちゃん」


絵鈴唯がシイちゃんを手招きします。

そして、繰り返します。

「多雨乃、シイナちゃん」

「やっぱり絵鈴唯、知ってるのか」


「多雨乃という名前なら、帽子にちらっと書いてあるかな」


「え?」


確かに少し歩み寄り、よく見ると、鍔の部分に小さく多雨乃とありました。




うっかり流されそうになり、慌てて言います。


「で、っで、でも!

名前が、シイナかなんてわからないよ」


「あらら。流されなかったー」


「危なかったけど」



「多雨乃という名前は、珍しくて記憶していただけかな。

僕は、しばらく病院に通っていたから」


つまり、病院にも多雨乃さんが居るのでしょう。そして、なにかシイナちゃんに繋がる情報を?

「およびした理由は」


シイちゃんが、曖昧な発音で絵鈴唯に聞きます。

「シイちゃんはあの家が空き家だと知らなかった。それは、賢いきみが住所だけを知っていたからじゃないか?」


「ほんとうに、空き家ですか」






「不動産屋のチラシなどで見たことがある。本当だよ」


絵鈴唯が言います。


「回りくどくても役にたたない。はっきり言えば、いいのでは」


ぼくがこそりと耳打ちすると絵鈴唯は肩をすくめます。


「僕は、技術を楽しみたい。ややこしく、ミステリイを模しながら、繊細に複雑に緻密に語る様を楽しみたい。

ただ死んでくだけなんて一ページで終わるし、僕はさっさと警察を呼ぶ」


「変なとこで楽しむなよ……」


絵鈴唯は、艶やかな瞳をぼくに向けて小さな形のいい唇をにこっと歪ませます。

 次に、ここの住民が風邪だと、誰から聞いたかということになります。

「シイちゃんは、歩く間、ずっときょろきょろしていたし、

この辺りには、あまり詳しくないようでしたね」


ぼくは言います。


「あまり来ない道なの」


シイちゃんが頷きます。

「でも、それだけで詳しくないと言い切れますか」


ちらりと後ろを見ると、様子をうかがうような数人がこっちを見ていました。絵鈴唯が舌打ちします。

「わたしは、あの家についてを知っていましたし」


シイちゃんが言います。


「道路の改装が行われた、というのも考えられる、が……さっきから後ろの声がやかましいあたりからしても新参だとわかるよ」

誰だ、とか あの二人の子どもか とか むしろ絵鈴唯と瑞は付き合っているのかとか、一部余計なお世話みたいなのが聞こえます。

彼らは、ずっとぼくらに付きまとったので、シイちゃんを見たのは初でしょう。





だんだんと頭がぼやけている……

ふらりと、倒れそうになったとき、ぐっ、と腕を掴んできた絵鈴唯がぼくを見ました。



「自分のことのように、相手の状況を重ねるのはやめろ、そう言ったのは瑞だろ」


ずきん、と 胸に痛みが走ります。


「記憶の中にある人間は、既に実体ではなく現実にはいないのに、誰かの心には居るからこそ美しいと。


それを、現実の人間のように呼ぶのは醜いと、瑞が言い出した」



「わか、ってる……わかってるけどっ」


「昔、本を読んでいたときも、まるで瑞と僕みたいだと言ったらキレたじゃないか。

登場人物は登場人物でしかないのに、と。今もそうだ。

物語の登場人物が、

実在の人物の情報とは限らない。混ぜられたくなくて、不快で、もがいていたよな」








 あぁ、思い出しました。違うんだと否定するほどに、設定を掘り下げられ、隔離すべく新たに誰でもない点を作ろうとすると、また現実の人間が名乗りをあげようとした……


それが酷くなっていったのを知ってからは、ぼくは心を殺したのです。


現実も空想も変わらないと、必死に思い込もうとしました。

暗示をかけると、なにもかも面白くなくなりましたが。


現実の人間は、寿命によってあっさり死ぬし、

エラーを頻繁に起こす。醜くて、切り離してきたものなのに。


恐怖の対象として、自分自身も自分の物語も受け入れる生活は、ぼくから一切の救いを奪ったのでした。


 そしてどうにか呼吸を続けていられるのが奇跡だと言ったぼくに、絵鈴唯や友人たちは次々に言いました。


「成長しろよ」


「現実にいる人間は、架空とは違うし、誰かの記憶は誰かの記憶でしかない。

それを責めるべき立場のきみが同じ側に立っていいのか」


目を逸らさない絵鈴唯は、未だに、これを謝りはしませんし、ぼくも受け入れています。


現実にも架空にも、帰る場所がない現実。


どこにもいない世界に、どこかにあるものが存在することこそが、美しかったけれど。



それは、成長しないこと……

現実の人間も架空の人間もエラーは起こすけれど、しかしそれはやっぱり現実の人間のせいでしかない。


それを、曲げろと絵鈴唯は強く頼みました。


「きみの支えには、僕がなるから」と。


けれどやっぱり、ぼくの支えは誰でもなくて、どこでもない、次元も季節もない、あの真っ白な空間なのです。

簡単にエラーが起きたり、誰かに壊されたり、理不尽なことをしなくていい、目も合わないし声もわからない、形さえおぼろげな、だけど、存在だけは記憶される、その、切り離された空間だけが、ぼくを救っていたのですが。


泣きそうになるのをこらえて、歪まないよう注意して微笑みました。


「そうだね、ぼくが悪かった」


さよなら世界。

さよなら世界。

さよなら世界。

さよなら世界。


何回も唱えて、絵鈴唯はいてくれるのだと、何度も思い込むようにしています。




 それで、心が壊れそうになることは沢山ありますが、成長しないからだと、また何度も唱えるので平気です。


白い、誰もいない世界。現実の人間が入り込みようの無い閉ざされた空間には、誰も危害を加えに来ないし、エラーも起こさない。

もちろん、それを捨てていきることは、心を破壊して、ひとりぼっちになることを、他人がいつかゾンビのようにわめくかもしれない恐怖に、無理矢理向き合わされていくことを意味します。


「僕が支えるから」という絵鈴唯さえも


泥の塊みたいな溶けていくヒトガタが、口だけ開けて醜くにたりと歪んでいる様に見えて、それはもちろん、自己嫌悪以上のものはないわけですが。

ああ、ひとりになったと、思いました。


「シイちゃんは、いつも帽子をかぶっているの」







現実の、生身の人間が、支えにならないからこそ、ぼくは、あの世界を好んだことをあっさり捨てたのはやはり失敗かもしれませんね。遅いですが。


「家では、かぶらないよ。頭が洗えないから」


シイちゃんは言います。やっぱりおでかけのために帽子で来たみたいです。

確かに異臭がすることもないし、シイちゃんは

お風呂に入っているでしょう。洋服も清潔そうです。


「帽子が、気になるの?」

「そんなことはないけど」

絵鈴唯が居てくれる。

絵鈴唯が居てくれる。

絵鈴唯が居てくれる。

絵鈴唯が居てくれる。

「ずっと、帽子みてません? おにいさん」

絵鈴唯が居てくれる。

絵鈴唯が居てくれる。

絵鈴唯が居てくれる。

絵鈴唯が居てくれる。

絵鈴唯が居てくれる。

絵鈴唯が居てくれる。








「見て、た」


正直に言いました。


「シイちゃんがずっとかぶってるからさ、暑くないのかなとか」


「あぁ、確かにぎもんに思いますよね。わかります」

「……理由とか」


聞くか迷いました。

しかし、話題になる今、どちらにしろ同じだろうとも思いました。


「理由なんて、会ったときにわかったようなものではないですか」


はて。

そうだろうか。

ぼくは考えました。


確かに漠然と、わかっているような気がしますが、それが、うまく表せません。

「ヒントなどありませんよ、たいしたことでもないですし」


 夜が深くなりはじめていました。少しずつ、背後にいた人影も減っています。

絵鈴唯はちらっとそちらを気にしたあとで、弁当箱の中身を見ながら言いました。

「大体腹も満たされたかな、行こうか」


「食休みしない?」


ぼくが言うと、絵鈴唯がきょとんとします。


「あと、せっかく来たんだし少し、なにかして遊ぼうよ」


「夜に三人でする遊びなど、ホラーなやつしか浮かばないぞ」


なんだ、そのホラーは、と言い出すと絵鈴唯の話が終わらなくなりそうなので、じゃあぼくが考えるよと言いました。







数分後。


「浮かんだ?」


とシイちゃんに聞かれてぼくはまた悩みました。暗いから視界にも頼れないし……


うん。とにっこり笑うと、作り笑いはやめろと絵鈴唯に言われました。


本物の笑顔と意図的な笑顔、両方の写真を、どのくらい幸せそうに見えるのかと調べた人がいることによれば、作り笑いは結構バレないらしいのですが。


「どのくらいの付き合いだと思っているのかな?」


絵鈴唯に言われてぼくはしょんぼりしました。

そして同時に、悲しくなりました。

絵鈴唯が居てくれても、目を閉じたら居ない。

絵鈴唯が居てくれても、朝起きて部屋から出るときは居ない。

絵鈴唯が居てくれても、四六時中会話するわけにはいかない。

絵鈴唯がいてくれても、絵鈴唯は人間だからいつこわれるかわからない。絵鈴唯がいてくれても、それは他の人間たちとは変わらず交わってすっと溶けて消えていきそうで、やっぱり沢山の人間の側に違いない。







 いつかは目覚めてドアを開けることさえも、困難になってしまいそうです。

起きて目覚めても大抵、そこに絵鈴唯は居ないし、ぼくをこれまで支えていたはずの世界も見えない。


大体は数歩、歩けばいいだけなのですが、それさえも、町でゾンビに襲われそうな気がして、ひどく吐き気がしました。


昔もありましたが、ぼくはとても優柔不断で不安定な世界に生きているため、


 目が覚めたその時点からパニックなのです。

起きるために身体を起こしてそのあとは一歩外に出るためにどうすべきだったか、なんてことさえ、指針が無いと思い出せません。

それに気がついたのは、絵鈴唯のために世界を捨てた数日後でした。


こんなに、大きなことだったなどとは思いもしなかったのですが、朝起きて着替えるという作業さえも辛く、食べるという行為さえ苦しくて手の届く範囲に服を配置して、冷蔵庫のそばとかで眠っていました。



空腹で仕方の無いギリギリにしか出来ず、今だって、弁当箱のおにぎりはひとつしか食べていません。




そんなとき、絵鈴唯が傷つけばいいのにと思ってしまいます。

 傷ついたって別に何も癒えないというのに、時折どうしても憎くてたまらないのです。

 ただ、食べたり眠ったりを、周りに怯えずにやりたいだけだというのに。

いつかはこのまま殺してしまいたくなるんじゃないかと思うと、ぼくは、ときどき、誰もいない場所に居たくなるのでした。

そして、あまりに辛い日には、むしろ出掛けます。

外に居たら、誰かが背中を刺してくれる気さえするから。


「たいした付き合いじゃない」


だから、ぼくは言いました。


「ふっ、可愛くないな」


絵鈴唯は笑いました。

その笑顔が作ったものかどうかは、ぼくにはわかりませんが。







 結果的に、なにをするでもありませんでした。


しばらく歩いていくと目的の家に着きました。

その庭にはあのロボットが投げ出されているままです。

「2017年の。これは一年前に発売されたものだね」


見るなり絵鈴唯が言うとシイちゃんが、こく、と頷きます。

つまり、一年前から最近までのどこかで、これが置かれたというわけです。

「ちなみに空き家になったのは二年以上前なんだけれど」


絵鈴唯は携帯電話から、住宅情報サイトを見せて言いました。


「絵鈴唯は、二年前は『向こう』に居ただろ。

なんで知っているんだよ」

「いや、だから、この辺りの家を探しててね。今いる家より、高かったしやめたけど」


「あ、そうか……」


結果、あの部屋を、ぼくと折半して暮らしているというわけなのです。

「やはり此処は」


ぼそっと、絵鈴唯が何か言いましたが、ぼくにはわかりません。


「なぁ、本当にここ、空き家なんだよな」


置いてあるおもちゃを見ながら、ぼくは聞きます。


「なぜ、此処にこれらがあるのか、シイちゃんは知ってる?」


シイちゃんは、帽子で顔を隠したままぶんぶんっと首を横に振ります。





「でも、この家の人が風邪をひいてるという話は聞こえたんだね?」


シイちゃんは、少し、黙りこみました。


「なぜ、一人では行かず、知らないおにいさんに話しかけようと思った」


絵鈴唯が淡々と聞きます。

「それは、ぼくが」


絵鈴唯の目が、ぼくを見ました。


「瑞が?」


「っ……泣いてた、からで!」


しぶしぶ言うと、絵鈴唯は一瞬目を丸くしてから、そうかと答えました。






「逃げ出せないことだっていうのはわかってるんだよ、でも」


なにも認められず、なにも出来ず、唯一許された時間にさえ侵食されて過ごしてきたある日、

突如死んでしまうかもしれないと聞かされたときには、それはやはり悲しいものだったと思います。


何もかもを他人に奪われただけで、ぼくにはなにも残らないから。


いつか来る、死は怖くなかったですが、ただ、自分が消えるのは怖い。

焦りにも似たこの気持ちは一体、なんなのでしょうか。


「今まで生きてきたのが、

全て他人の価値に搾取されてて

その代わりに残った不満たちをひたすら押し付けられて。

どうにか生き延びたら、

今度は、ぼくの存在自体を否定するというじゃないか。


ここまで来て、さらにそれさえ奪われて、あとは死?」


神様はどこまでも取り上げる気なのかもしれないと、よくわからないけれど虚しくなるのでした。

「それで、外に出たんだな。気づいてやれなくて悪かったよ」


絵鈴唯はそう言って、穏やかな目をしました。

「心配したんだぞ、昔ペットショップから逃げてきた鸚鵡(おうむ)を思い出した」


「……」


 絵鈴唯が昔すんでいたどこかの町では鸚鵡の子がペットショップから逃げ出して、近所のあちこちに飛んでいて無事つかまえられたというのです。

「あれは、僕も驚いたよ。鸚哥(いんこ)と似ていたけど、

鸚哥は、尾羽が長いけど羽冠が無いのが特徴らしい。

意外と逃げ足の早いやつだったらしくて、ああなると、もうほぼ心理戦だよね。

住処にしそうな場所やら、好みそうなものやら……」


ちょうど、絵鈴唯がペットショップを通りかかったので巻き込まれていたらしいのですが、こいつもぼくに劣らず、変に悪運みたいなのが強いのかもしれません。


「心理戦なんだ。でも、ぼくは鸚鵡じゃない」


「わかっている。こんなに可愛い」


「……」







「なにか気にさわるようなことを言った、かな」


「いや、心理戦の話はまたいづれにしてくれ」



「心理戦?


あー、鸚鵡捕獲作戦のことか。

と、話を逸らしつつ、かわいいと言われて照れているのかな?」


だめだこいつ。

はやくなんとかしないと。無性に恥ずかしくなりました。


「でもさ、日常的にその姿だと、僕は、とってもときめいてしまう、かな」


「す、姿の話はするなっ」


絵鈴唯がいくらぼくを好いてくれていたって……

ぼくが伸び伸びと活躍できるのは、物語のなかだけ。

現実で生き延びるのは難しい。


まぁ、その物語さえも奪われた今となっては、何処でさえも生きられそうにはないわけですが。







「これだから、構わないでちゃんは」


「……」


だってさ絵鈴唯。

他人って、なんかなに考えてるかわからないし、勝手に寄ってくるし、気持ち悪いんだ。


来ないで! って必死に叫んだら勘違いして余計に沸いてくる。

昔死んだ知り合いは、さみしがりやだったらしいけど、僕はその逆なのに。

別人なのに、勘違いしてるみたい。


「でも昔は」


「せっかく遠ざけたと思ったら、周りが否定するんだよ。というか、ぼくも言えないが、ひとのせいにするなよ。


お前が構いたがりなだけだろうが」







絵鈴唯が図星だったのか、戸惑ったような顔をしました。


なるべく相手にしないようにしてても、

誰かがあとからあとから付け足すせいで…… というのも不毛ですが。


「そんなことないよ」


「ある」


会話終了。


さてと、家に……


「あるわけないよ」


「別に、ない」


さて、会話終了。改めて家に向かうとしますか。


「なんで別にって言えるのかな」


なんで、終われないのかな?


「無いからだ」


さて、改めてシイちゃんに。


「ちゃんと聞いて」


「いいだろ、この話終わっただろ」


「まだ終わらない、瑞はそうやって、話をそらすけどやっぱり」


「逸らしてない。終えてるんだよ」


あああもう。

これだよこれ。

結果的に、話してるみたいに見えてしまうというやつです。








「おにいさん……ずるいです、私も絵鈴唯と話します」


シイちゃんが間に入って言いました。


「今は瑞と大事な話をしているんだ」


「そこまで大事ではありません」


「婚姻の契りですか」


なんでそうなるんですか!?


「遠くはないが、近くはないな」


もう、だめだ。

わけがわからない。


「あのなぁ。


自覚しない人間ばかりじゃなく、

先天的か、後天的かで深い愛情というか強い恋情を他人に抱かない人間も居るってこと、覚えておけよ。


差別で訴えるぞ」


まぁぼくは、強いトラウマもあるんだろうけれど。

しかし、非性愛、無性愛の立場って弱すぎませんか……


自覚だなんて、一概に責めていいものでもないと思うんです。



「そんなの、わからない」


「絵鈴唯は不安なのか」


「え?」


「ぼくも、不安だよ」


世界が、がらがらと崩れていく気がして。

何かしていないと正気でいられない。



「ぼくを保証する世界なんか、どこにも無いだろ。


ただでさえ無かったのに……唯一自分で保証して保っていた、


自分と言う世界さえ、売りに出された。


そんな気持ち。



で、例えば医者やらなんやらが勝手に利用していたみたいな。


クリアガラスを隔てて、ただのモルモットだった。

結局鑑賞物なんだね」


後ろを見れば終わり。

前を見ても未来が全然無い。


「ずいぶん前から、生まれたときから『詰み』だったんだよ。そして、拍車がかかってた」



 ふと、気配が消えたなと思って足元をみる……

「あれっ?」


シイナちゃんは、居なかった。


「さっきまでは居たはずなのに。無駄話をするから」

「絡んで来るからだろ」


「人の優しさというものを」


「ちょうどよく会話を終わらせようとしている優しさを無にしてまで言うなよ……」



いやと言っては語弊がありますが、つまりはその熱狂的なファンに絡まれ、裏道とかに連れていかれてボコらるかもしれないという恐怖でいっぱいでした。


 無視したら無視したで、失礼だと非難の嵐でしょうし。

実際、そんな目にあいかけたこともあります。


「まあ、いやがらせだったけど」

「やっぱりいやがらせかよ」



どうやら相手は自覚的に絡んでいたようなので、ぼくの罪悪感は少し薄れました。


 ところでシイちゃんはと、しばらく二人で探しましたが、見つからず、捜索を続けていたところ、少しして家の中の方でガタンッと鈍い音がしました。


中は空き家のはずですが……

ドアを押してみると、なんと開いています。


「さっきは、開けようとしたかな」


「いいや、してないよ」


いつから開いていたのでしょう。

薄く暗い廊下はまるで、飲み込もうと大きく口を開けているかのようです。

「っ……」


灯りはとぼくが手探りすると絵鈴唯は止めました。

「だめだよ、見つかるかもしれないから」


「わかった」






















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