2

僧はその日の夜、丑の刻に寝床を抜け出すと、約束通り、寺の門の所で琵琶を持ち、待って居た。

少しして、女ともう一人の足音、それに沙羅の匂いがしてきた。

「どうもお待たせ致しました。

それでは、こちらへどうぞ。」

沙羅はそう言うと、僧の手を取り、ゆっくりと歩き出した。

その2人の後ろを、太之助も着いて歩いた。


僧は目がみえない分、匂いや音といった感覚は、他の人より敏感に感じ取っていた。

沙羅の手の感覚はずっと伝わってくるものの、沙羅や太之助の足音が、時々聞こえなかったりしている事に気付いた。

また、沙羅と太之助の匂いに、時々、人とは異なる別の匂いが混ざる事に気付いた。

しかし、なるべく、それを気にしないようにしていた。


寺から少し歩くと、沙羅は歩みを止めた。

「少しお待ちください。」

沙羅の声が聞こえた。

「ドン、ドン、ドン。

太之助だ、来て頂いたぞ。」

固い戸を叩く鈍い音と、太之助の低い声が聞こえて来た。

「ギィーーーーッ。」

直ぐに、重い扉が開く、軋む音がした。


(やっぱりそうか。

寺からこの距離で、大きなお屋敷は無いはずだ。)

僧はそう思ったが、それを取り立てて言うつもりは無かった。


「どうぞ、お入りください。」

沙羅はそう言うと、また歩き出した。

僧も歩き出すと、ザラザラという音と、石畳の上を歩く感じが伝わって来た。

「只今、戻りました。」

屋敷の戸を開く音がすると、沙羅が屋敷の奥へ掛ける声が聞こえた。

すると、スタスタと床を大股であるく足音と、それに合わせ、ガシャガシャと鎧の音が聞こえて来た。

「僧侶さまに、来て頂きました。」

沙羅の声が聞こえた。

「おお、そうか、でかした。

僧侶さま、よく来て下さいました。

さっ、どうぞ、こちらへ。」

太く しわがれた男の声が聞こえた。


僧は入口で草履を脱ぐと、屋敷に入った。

そして、また、沙羅に手を引いて貰いながら、屋敷の奥へと入って行った。

「皆の者、僧侶さまに、来て頂いたぞ。」

先ほどの鎧を付けた男が、さも、嬉しそうに大きな声を掛けながら、ズカズカと屋敷の奥へ進んでいる音が聞こえた。

「おお、来て頂けたか。」

「ありがとうございます。」

そう言った男女の声や、嬉しそうにはしゃぐ子どもの声が、あちらこちらから聞こえて来た。


奥の部屋に入り、少し進むと、僧の足に座布団が触れた。

「それでは、こちらへお座り下さい。

正面に主人がおります。」

沙羅に勧められ、僧は、そこに敷かれている座布団に腰を下ろした。

「寺で務めさせて頂いています、芳一と申します。」

芳一は、両手を着き、丁寧にお辞儀をした。


「主人は病の為、言の葉を発することができません。」

芳一の左後ろから、少し声を落とした沙羅の声が聞こえて来た。

「解りました。」

芳一は、少し沙羅の方を向き、小さく返事をした。

「それでは、早速ではありますが、琵琶を奏でさせて頂きます。」

芳一はそう言って、隣に置いてある琵琶を持ち、弾き、語り始めた。

それは平家の話であった。


最初は、ガヤガヤとしていた部屋の中も、演奏が進むにつれ静かになった。

そして、芳一が最も得意とする、壇ノ浦の場面になると、シクシクと涙を流す者が多く現れた。

演奏が終っても、しばらくは、シンと静まり返り、すすり泣く声だけが聞こえていた。

(この涙は、わたしの演奏によるものでは無いな。)

芳一はそう思った。


「芳一殿、本日は足を運んでもらい、素晴らしい演奏を聞かせてもらった。

主人に替わり、心より礼を申す。」

左斜め前から、太く逞しい男の声が聞こえて来た。

「いえ、滅相もありません。」

芳一は、両手を着き、丁寧にお辞儀をした。

「それでは、約束通り、また明日もお願い致す。」

男のしっかりとした、嬉しそうな声が聞こえた。

「はい、解りました。」

芳一は、もう一度、丁寧にお辞儀をした。


「それでは、芳一さまをお送りして来ます。」

沙羅の声が聞こえた。

「さっ、どうぞ。」

そう言うと、沙羅は優しく芳一の手を握った。

芳一は来た時と同じく、沙羅に手引きされ、屋敷を後にした。


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