13. Life

 パリスがここまで混んでいるのを見るのはこれで二度目だった。一度目は私たちELPISの初ライブの打ち上げ。そして二度目は今日、ELPISのライブで。

「ごめん、遅くなった」

 きっと、三人は私が来ることを信じてくれていた。だから時間寸前までこうして準備をしたまま待ってくれている。中心の椅子にはマイクとベースが用意されていた。そこに座るのは、私しか居なかった。

 ふと周りを見渡す。観客席からステージの上まで、みんなが居た。みんなが私を見ていた。私を待っていた。ならば――それに応えないと。私はステージ中央のベースを拾い上げた。


   *

 何が起きたのか、最初は理解できなかった。目の前の男――父は立ち上がり、足元に落ちている私のベースが入っているギグバックを睨みつけた。そして――その足はベースを目掛けて――。

「やめ、やめて……!」

 振り下ろされた。

 木材が折れる音がした。まるで太い枝が折れたような、骨が折れたような大きな音がした。男の踵は、間違いなくネックの上に置かれていた。

「なっ…………」

 目の前が白黒に点滅した。声が出せない。息が出来ない。何が起きたのか、理解したくなかった。

「最初からこうすれば良かったんだな」

 男は、そう吐き捨てた。

 女は、満足そうに頷いている。

 私は慌てて男の足を払いのけ、ギグバックを開ける。中からベースを取り出した。

 ……全身の力が抜けた。

 私の大切なベース。千鶴と買いに行った、思い出のベース。多くの人の記憶に残った思い出が、踏みにじられた気がした。――私の心を折るには、たったそれだけで充分だった。

「わかったか、朱音。これに懲りたら二度とそんなチャラチャラしたことはするな」

「私たちは朱音のために言ってるの。分かって」

「そもそもお前が朱音の一人暮らしを許すからこんなことになるんだ」

「何言ってるの、お父さんこそあの時は文句言わなかったのに、今更そんなこと言って……」

 私は何の言葉も返せなかった。目の前の両親は私を差し置いて口論をしている。でも、どうでも良かった。そんなことはどうでもいい。ただ静かにしてほしかった。

「朱音、また来るからな。また次にそんなものやったとしたら、今度はうちに帰ってきてもらう」

「これも朱音が危険な目に遭わないためなの」

 二人はしばらく説教垂れた後、そんなことを言い残すと、私の部屋から出て行った。

 そして部屋には私と、ネックの折れたベースだけが取り残された。何もかも空虚だ。

 涙すら、出なかった。


 それからもかや千鶴が心配して家まで訪ねにきた。頭が回らず、話したことはあまり覚えていない。ただ、ちゃんと食べろと言われたから、カップ麺を作ってみた。気持ち悪くて、一口で吐き出してしまった。おにぎりも同様だった。

 することがないから、私は音楽を聴くことにした。流れてきたのは、ついこの間の合宿で作った曲のデモだった。気が付いたら、私はそれをループして聴いていた。

 もう二度と音楽は出来ない。

 そんなことを思うのは、これが二度目だ。

 一度目は三年前。ライブが見つかり、家に閉じ込められた時。

 あの時は高校生だったから。だから何も出来ないんだって思ってた。

 でもそれは違った。年齢なんて関係ない。今でも何も変わらなかった。

 私はずっと親の選んだ道に従って生きていて、そこから外れるのが怖かった。知らない道を歩くのが怖かった。

 だから、私はもう音楽が出来なかった。両親から見捨てられるのが怖かった。一種の洗脳みたいなものかもしれない。でもそれでも怖いものは怖かった。怖いものからは逃げたかった。

 ――でも私は。

「私も、もっともかと遊びたい。音楽したい。だって、もかが大好きだから」

 もっと、楽しいことがしたかった。

 もっと、嬉しいことがしたかった。

 もっと、気持ちを共有したかった。

 だから、私は大好きなもかに告げた。

「だから、ごめん、待ってて」

 自分の心と決別するために。

 自分を縛るものから、解かれる必要があった。

 きっと私は直接両親と話す必要がある。

 ……でも、どうやって?

 直接話したら、きっと私はまた駄目になってしまう。

 かと言って、他に方法が浮かばなかった。

 私は、考えるのをやめて横になった。

 久しぶりにたくさん眠れそうだった。


 次の日、私はとある事務所の戸を叩いた。一人ではどうしようもないと考えた私は、どうすれば良いのかを考えながらゴミで溢れた部屋の片づけを始めた。その際、一枚の名刺が目に留まった。もしかしたら……力になってくれるかもしれない。

「こんにちは、柳さん。お願いがあってきました」

 柳法律相談事務所。そこはもかの父が経営している法律事務所だった。オフィスは渋谷の景色をよく見ることが出来る立地にあり、パリスもここから近かった。私はそこまで一人で足を運んだ。

「まさか朱音さんがここへ来るとは思いませんでしたよ。どうやらあの名刺は役に立ったみたいですね。もかのお友達ですし、私に力添えできることならどんなことでも言ってください」

「……その、私と両親との話し合いについてきてもらえませんか?」

 これまでの人生の中、頼れる大人というものが身近に居なかった。頼ることのできる先がどこにあるのかすら分からなかった。両親に頼れば否定され、教師を頼ろうにも頼りない態度で、結局何もしてくれない。しかしもかの父親ならきっと、頼れる大人に間違いないはずだ。もかと話すことで、もかがどれだけ両親に愛されてきたのかが分かっているし、法律の専門家なら尚更頼りがいがある。もしかしたら仕事として頼むのは間違っているかもしれない。お金がどれだけ掛かるのかすら調べていない。それでも頼れるのなら頼りたかった。

「わかりました。いつお会いするんですか? 早いところ、予定を決めてしまいましょう」

「え?」

 思わず聞き返してしまった。いくら娘の友人だからと言って、まさか二つ返事をされるとは思っていなかった。柳は顔色一つ変えない。

「あ、もしかして話し合いの日程はもう決まっているんですか?」

「いえ、まだ何も……」

「それなら、早く決めましょう。遅くても土曜日までに終わらせないと、ですよね」

 なんだか嬉しそうな顔でそう言う。そうだ、土曜日までには終わらせなければ、もかたちに合わせる顔がない。

 私は柳と予定を詰め、そして打ち合わせをする。

 話し合いの結果、金曜日の夜。私たちはその日に両親に会いに行くことにした。

 その話し合いに備え、私はこれまでにあった両親との間の出来事を、細かく柳へ話した。もかに語った時よりもずっと正確だ。柳はしっかりとパソコンでレポートを取り、資料としてまとめている。

「もしもご両親の方から接触してきた場合には、なるべく穏便に対応してください。録音をするというのも効果的な場合はありますが、何らかの証拠として使うには絶対とも言えません。また、身の危険を感じたら私ではなく、すぐに警察を呼んでください」

「……どうして、二つ返事で了承してくれたんですか?」

「え? どういうことですか?」

「だって、内容も全然聞かないうちに返事してくれましたし、支払い能力もあるかすら分からないのに……」

 柳は私の言葉に笑った。何かおかしいことでも言っただろうか。

「朱音さんは私の娘の友人です。こんなこと思われるのは嫌かもしれませんが、私にとっては朱音さんももかと同じ、娘みたいなものなんですよ。それに、私は私の信条として『せめて手の届く範囲だけでも幸せに』と考えています。朱音さんの幸せはもかの幸せです。もかの幸せは私の幸せなんですよ。それなら、私が朱音さんからのお願いを無下にする理由はありませんよね」

 すっかり夕方になってしまった。私は柳に礼を言い、事務所を出た。

 パリスへ寄ろうかと考えたが、まだあの三人に合わせる顔はない。私は家に帰り、休息を取ることにした。もかに連絡をするのは、全てが終わった後だ。

 そして金曜日、私は柳の事務所を訪れていた。二日前に交わした打ち合わせの内容を再考し、そして話の詳細を詰めてゆく。

「改めて聞きますけど、朱音さんとしては、今後ご両親とはどういった関係を持っていたいですか?」

「……もう私とは関わらないでほしい。私のことを制限しないでほしいと思ってます」

「わかりました。その方向で話を進めます。それなら――」

 柳は少し考える素振りを見せ、口を開いた。

「朱音さんは今日、来ない方が良いかもしれない。私が朱音さんの代理人となって、ご両親とお話しします。きっとその方がスムーズだ」

「でも、これは私の話で……」

「そうです、朱音さんの話です。ですが、家庭内不和は民事案件でもあります。今後一切の関係を断つのだとしたら、プロに一任してしまった方が朱音さんの身の安全は保証出来ますよ」

 私は少し悩んだ。確かに、私がその場に行けば、きっと父は逆上するだろう。それに、もしかしたら私が余計なことを言ってしまうかもしれない。そのようなリスクを考えると、専門家に任せてしまった方が楽なのかもしれない。

「……いえ、私も立ち会わせてください。私が何とかしないと、きっと駄目だから」

 ……でも、例え書類上で何らかの処理がされたとしても、私の心は何も変わらないままだ。私自身が変わるためには、私自身が動かなければならない。私がもう一度音楽をやるためには、私が行動するべきだ。

 柳は優しく頷いた。

「わかりました。それでは準備が出来次第向かいましょう。朱音さんは朱音さんで、私に構わずに言いたいことやしたいことをしてください」


 正直なところ、足取りは重かった。立ち会わせてほしいと啖呵切ったものの、私に出来ることなど何もない。ただ柳の話を隣で聞くことしか出来ない。

 柳は何の迷いもなく、私の両親が住む部屋のインターフォンを鳴らした。数回呼び出し音が鳴った後、母の声が聞こえる。

「はい、どちら様でしょうか」

「私、柳法律相談事務所の柳と申します。本日は比良田朱音様の代理人として訪問いたしました。お話出来ますでしょうか」

「はあ……ええと、ちょっと待ってください。主人に代わりますので」

 母の声が遠くなり、やがて高圧的な父の声がした。

「ご用件は何でしょうか」

「比良田朱音さんの件でお話があるのですが」

「話すことなど何もありません。お引き取り願います」

「私は朱音様の代理人として訪れています。対話拒否と言うことであれば、今後朱音様との一切の接触を禁止させていただきます。それではポストの名刺を投函しておきますので、もし朱音様に何か連絡等ありましたら私の方までご連絡くださいますようお願いいたします」

 柳は毅然とした態度で対抗する。

「ちょ、ちょっと待ってください。一体どういうつもりですか」

「直接、お話しいただけますか?」

 電話越しの相手は無言でオートロックを開ける。柳は感謝を伝え、颯爽とマンション内へ入った。私も後ろからそれについてゆく。

 私の家の玄関前には両親が待ち構えていた。私は来なければ良かった、と即座に後悔する。二人は私の姿を見て、驚いているようだ。

「初めまして。柳法律相談事務所の柳と申します」

 二人が私を見て黙り込んでいる隙に、柳は私の父に名刺を渡す。父はぶっきらぼうにそれを受け取ると、じろじろと眺める。

「本日、私は朱音様の代理人と言うことで訪問しておりますが、本人のご希望により朱音様も同席いたしますのであしからず。ただし、朱音様と直接会話は避けていただいて、必ず私を介すような形でお願いします」

「そんなバカなことあるか! 朱音、これはどういうことだ」

「私を介してください。これは朱音様の意思です。……長話となりますので、お部屋の中でお話しできませんか?」

 両親は顔を見合わせる。やがて母が私たちを中へと招いた。

 実家に戻ったのは半年振りだった。相変わらず薄暗い廊下を抜け、リビングまで向かう。

「それで、話と言うのは何でしょうか」

 私たちが席に座ると、父は苛々した態度を隠さずにそう言った。

「結論から言うと、今後朱音さんと関わるのをやめていただきたい。朱音さんは貴方がた両親からの精神的苦痛を受け、精神病を患っていらっしゃる」

 柳は私が昨日、精神科で受け取った診断書のコピーを二人の前に提示する。

「どうして我々がそんな謂れを受けなければいけないんですか。朱音、一体どういうことなんだ」

「これは朱音さんからの正式な依頼です。いくら朱音さんのご親族とはいえ、この診断結果は覆せません。先日、あなたは朱音さんの楽器を故意に踏みつけ、破損させたという話を聞いています。それにより朱音さんは精神的苦痛を負い、この診断書を受け取ったということです」

「お前、何を企んでる? 朱音に何を吹き込んだ? 何が目的だ、金か?」

「我々が望むことは朱音さんに二度と接触しないと誓ってもらうことです。金銭は一切必要ありません。朱音さんの方もこれまで送られてきた仕送り金は全額返金すると言っています」

「どうして……朱音……私は朱音のために……」

 母は泣き出す。この期に及んで何が悪いのか理解していないようだった。父は椅子から立ち上がる。

「朱音、お前脅されてるのか? 何とか言ってくれ」

 いい加減、父の態度にムカついてきた。柳と一瞬目を合わせ、私は口を開いた。

「……お父さん。お父さんが踏んだあのベースはね、本当に大切なものだったんだよ。中学生の時、大切な親友と一緒に買った大切なベースなの。――あの時、あんな大金を私にくれたことは凄く感謝してる。そのおかげで今の私があるから。私と一緒に楽器のお願いしてくれたお母さんも、お金をくれたお父さんにも感謝してる。……だから、ショックだったの。みんなへの感謝が、私の色々な想いが踏みにじられたようで、もう立ち直れなくなりそうだった。音楽から生まれた想いが全部壊されたようで、私はもう何もかもが嫌になったの。……でも私の大切な友達が、私のことを奮い立たせてくれた。だからここに来て、二人と今後について話したかったの」

 私はずっと自分を卑下してきた。私には何もないと思い、自堕落な生活を送っていた。でもそれは違うと、みんなが教えてくれた。私には私にしかない価値があるんだと、もかがそう言ってくれた。

「二人が私のすることを認めてくれないのは、もう仕方ない。私は二人に対して、ここまで育ててくれたことに感謝はしてる。でも……だからもう、これで終わりにして」

 私はこれから自由に生きる。誰からも縛られず、自由に過ごす。怠惰な生活を送ろうとも、ストイックに生きようとも、好きな人と一緒に自由な人生を送る。私は私自身の責任を私で負わなければならない。

 父は椅子から立ち上がったまま、固まっている。母はじっと泣いている。

「……ということですので、今後朱音さんへの干渉は控えていただきたい。もし何らかの事情があって朱音さんにお伝えしたいことがあれば、まず私の方までご連絡ください。私どもの話は以上となります。そちらからは何かありますでしょうか」

「ふざけるな……朱音は俺の子だぞ! なんで見ず知らずのあんたなんかの言うことを聞かなきゃならないんだ!」

「私の言うことではなく、これは全て朱音さんのご意思です。何度も言うように、私は朱音さんの代理人に過ぎません。この場において私の意見は全て朱音さんのものと考えていただいて結構です」

「朱音! 何とか言ったらどうだ!」

「……お父さんはもし私が『二度と関わらないで』って言ったら聞いてくれる? 当然聞かないよね。だから私もこうする以外の方法がなかったの」

 父は絶句した。もう母の泣き声しか聞こえない。

「……ということで、よろしいでしょうか」

 誰も、何も答えなかった。私も答えられなかった。

「それでは失礼いたします。先ほども申し上げたように、朱音さんへと連絡を入れる際には私の方まで連絡をお願いします。内容によっては私立ち合いの元とはなりますが、直接お繋ぎすることも可能ですので。……では、夜分に失礼いたしました」

 柳は立ち上がり、私に退室するように促した。私は呆然と見つめてくる両親を見ないように、目を瞑って家から出た。その後最後まで、二人は何も話さなかった。

「これでもう、大丈夫でしょう。もし万が一何かあれば、すぐに私の方に連絡をください。では、また明日」

 マンションを出て、駅に着いた直後、沈黙を解くように柳はそう言った。そしてそのまま去ろうとする。

「あの、お金はいくら払えば良いのでしょうか」

 依頼料の話をまだしていなかった。打ち合わせ含めて数日のうちの数時間だけだったとはいえ、私が依頼した相手はプロだ。当然対価を払う必要がある。それに今後の受け答えもしてもらうのなら、尚更払わないわけにはいかない。

 柳はにっこりと笑いながら、わざとらしく私のことを見た。

「そうですね、それならサインをください」

「……はい?」

 聞き間違いかと思ったが、柳は笑顔を崩さないまま、そんなことを言っている。

「前にも言ったでしょう。私、朱音さんのファンだって。だから本来ならこうして一緒にお話をするのだけでも、充分嬉しいんですよ」

 なんだかもかみたいなことを言っている。同じ血縁なのだから当然か。それにしても、こうして話していると少しふわっとしているところなんて、本当にもかそっくりだった。

「でも、流石にそれは……」

「それにね、実はもかからも相談されてたんですよ。『朱音さんをどうか助けてくれないか』って。もかのためならこの程度お安い御用ですよ。それにきっと、今後のライブだって毎度招待してくれるんでしょう? なんて幸せ者なんだろう、私は」

「はぁ……」

「そういうことで、明日楽しみにしています。今度、もかに色紙を持たせるので、その時はサイン、お願いしますね」

 話をはぐらかされ、柳はそそくさと改札を通ってしまった。

 今度、サインの練習をしておこう。


 家に帰り、ベッドに倒れ込んだ。疲労感がどっと押し寄せてきた。

 本当にこれで良かったのだろうか。いや、良かったに決まっている。

 それなのに、私の心の中はもやが掛かったように薄暗い。そこはかとない不安に襲われている。

 私はスマホを見た。相変わらず三人からの報告が随時来ていた。曲は完璧に仕上がったこと。やはりベースが居ないと駄目だということ。私の歌が早く聴きたいということ。私のことを励ましているのか、それから少しの間、おかしな内容ばかりが送られてきている。それを見ながら、私は笑っていた。気が紛れて少し楽になった。

 そんな時、電話が鳴った。電話主は――母だった。

 柳を通さず、わざわざ私に電話をかけてきたということは、やはり私直接の言葉が聞きたいということだろうか。柳の言いつけ通り、切ろうと思ったが、私はもやもやした自分の言葉をぶつける先を求めてしまった。

「朱音……? 朱音なの?!」

「……お母さん、私だよ。どうしたの」

 悲哀混じる声が聞こえる。ずっと泣いていたようでその声は枯れていた。

「良かった……もう二度と、朱音と話せないんじゃないかって思って……」

「私も、お母さんと喋りたくないわけじゃないの。ただ理解してほしいだけなの」

「ごめん、ごめんね、朱音……お母さん、朱音のことが一番大切だから……」

「大切にすることと過保護にすることは違うと思う」

「そうね……私、きっと間違ってた……だからどこにも行かないでぇ……」

 それは無理だ。私はもう進むしかない。ずっと停滞しているままでは居られない。

 口を開いた時、電話越しから大きな声が聞こえる。父の喚くような声だ。

「ごめんね、朱音。お父さん呼んでるから、切るね。……また電話したら、出てくれる?」

「……うん。お母さんからなら出るよ」

「――良かった」

 電話が切れた。切れる寸前、父の怒鳴るような声が近くに聞こえた。

 もしかしたら母も、大切なものを失くしたくないだけだったのかもしれない。私がベースを壊されたくなかったように、母も私から離れたくないだけなのかもしれない。

 母の泣く声がずっと耳に残っていた。


 目が覚めた。

 時計は昼の12時半を指している。待ち望んだ土曜日だ。久しぶりに寝すぎたせいで身体の節々が少し痛い。

 私はもう何も恐れることがなかった。私はもう自由だった。

 なのに、私の胸の中には小さなわだかまりが残ったままだった。どうしてだろう。

 ふと、母のことを思い出した。失くしたくない大切なもの。それが私のことならば――。

 もしかすると、私のしていることは、父が私にしたことと同じだったのかもしれない。

 私は碌に支度もせずに家を飛び出す。何も考えていなかった。私の突発的な行動によって、柳の手まで借りてやったことが全て無駄になるかもしれなかった。

 でもそれで良かった。私は私のしたいことをするだけだ。私の行動は誰にも制限されない。私はもう、自由だから。

 13時過ぎ、マンションのエントランスに着く。自身の鍵を使ってオートロックを抜けると、自分の実家へと向かう。

「お父さん、お母さん……!」

 玄関の扉を開け、リビングへと向かう。

 家の中は、酷く荒れていた。昨日までは整頓されていたはずの棚は床に転がり、椅子は倒れていた。

 中心には父と母が居た。母は蹲り、父にしがみついている。父はそれを厭わず、暴れていたようだ。

「朱音……? お前、帰ってきたのか」

「お父さん、もうやめて。お母さんを苦しめないで」

 母は顔を上げ、私の顔を見るとまた泣き出してしまう。

「朱音……やっぱりお前、あの男に無理矢理言われて……」

「話を聞いて。私は二人と話をしに来たの。やっぱり私の言葉で全部話したい。それで、二人から理解されたい。そうじゃなければ、またここに来た理由がないから」

 言葉は相互理解のためにある。それに、何があろうとも私たちは家族だ。全てを分かり合えなくとも、私が好きなものを二人にも知ってほしかった。ただそれだけのことだった。

 私は椅子を元の位置に直し、座った。二人も黙って私の正面へ座る。

「多分、今まで私は二人に何も伝えてきてなかったんだと思う。何が好きで、何が嫌だったのか。だからもう、昔のことは何も言うつもりはない。だから今の話をするね」

 依然として二人は静かに話を聞いている。いつもなら有無を言わさないあの父ですらそんな態度なのは、きっと柳のおかげかもしれない。

「私は音楽がしたい。音楽は、お父さんとお母さんが思ってるような野蛮で粗悪なものじゃないんだよ。楽しい時、悲しい時、辛い時、どんな時でも歌は感情を昇華してくれて、聴いてる人の人生を照らしてくれるの。それに、私は音楽を通じて色々な人と出会った。その中で悪い出会いなんて、一つもなかったんだよ」

 これまで出会ってきた人たちを思い浮かべる。……みんな、良い人たちだった。誰も、私の人生において不利益になるような人なんて居なかった。

「私のライブ、観に来てよ。最初から決めつけて、頭ごなしに否定するんじゃなくて、自分の目で見て、それから判断してよ」

 私は鞄の中から四つ折りのチラシを取り出した。パリスでのアコースティックライブの告知が書かれている。日時は今日、あと4時間後だった。

「私、今日これに出るから」

 父はチラシを受け取る。そして――。

 そのチラシを破った。

「え……」

「いつまでこんなごっこ遊びをしているつもりなんだ? あんな脅しをして、それでいてこんなふざけた話をしに来たのか!?」

 父は椅子から立ち上がり、机を叩いた。破れたチラシの破片が床に落ちた。

 どうやら、駄目だったようだ。私の説得は父には効かなかった。でも、正直予想の範疇を越えなかった。いかにも父のやりそうなことだ。

「私はお父さんのことが嫌いだからあんなことをした訳じゃない。脅しのつもりもないし、嫌がらせしたいわけでもない。ただ話し合いたいだけなの。お父さんは私のこと、そんなに嫌い?」

「話し合うことなど何もない。お前は言うことを聞いていれば良いんだ。好きだの嫌いだの、関係ない」

「そうやってすぐに思考放棄するの、やめて。私だってもう一人で考えられる人間なの。いつもいつも、自分勝手に考えないで!」

 私はもう赤ん坊ではない。二人と対等の人間だ。この人はどうして、こんな考えになってしまうのだろうか。

 やはり、私一人で会いに来るべきではなかったのかもしれない。過ぎた後悔が押し寄せてくる。

「朱音、いい加減にしろ! いつまでも手を焼かせるようなことをするな!」

「お父さんこそ、もうやめて! 朱音はもう、私たちがどうこう言うような子どもじゃありません!」

 そう言ったのは母だった。その言葉を皮切りに、二人は口論を始めた。

「そもそもお前が楽器を買わせたからこんなことになったことが分かってないのか!」

「私は朱音のためを思って行動したまでです。あなただってあの時は……」

 そんな調子で、とうとう私のことは無視されるようになってしまった。こんな話をしている暇はない。

 ふと私は思い立ち、自分の部屋へと向かった。二人は白熱しており、私を気にしている様子はない。机の引き出しに入っていたDVDディスクを取り出し、再びリビングへと戻った。三年前、千鶴が倒れる一週間前に受け取ったディスクだ。結局、一度も観ることはなかったけど。

「朱音、何してるんだ」

 私はそれ以上何か言われる前に、テレビを付けるとDVDプレイヤーの再生ボタンを押した。


 画面には珍しくラフな姿でベースを握っている私が映っていた。水色の生地にポップなペンギンのイラストが描かれているそのTシャツは、その日の学園祭のために特注で作った軽音楽部のユニフォームだった。

「朱音―? こっち見てー!」

 千鶴の声が画面外から聞こえてくる。画面の中の私はビデオカメラに気付くとこちらを見つめ、笑顔で控えめなピースしている。若々しすぎて観ている私が恥ずかしくなってきた。

 私の隣には佳那と風香がいた。二人は椅子に座ってジュースを飲んでいる。きっと学園祭で買ってきたものだろう。全然覚えていないが、どうやら音楽準備室での一幕らしい。

「ちょっと朱音ばっかり映してズルいよ、こっちも撮ってー」

「風香先輩もちゃんと可愛く映ってるんで安心してください!」

「ホント!? やったー!」

 そんなくだらない話をしている。懐かしい思い出に浸りながら、私はじっとその様子を眺めていた。

「朱音、聞いてるのか!?」

 現実の私の背後から、迫ってくる父の気配を感じた。私はリモコンを取り、早送りする。

 やがて画面全体が暗くなり、ステージが映し出された。その中心に私が立っていた。早送りを止める。

「二人にも、私の曲を聴いてほしいから」

 やがて画面から私の声が聞こえる。

「こんにちは、シレーヌです。早速一曲目やります」

 風香のカウントが始まり、私たちの演奏が始まった。このライブは学内ライブで初めて全曲オリジナル曲でセットリストを組んだライブだった。A’Sの店主が見たライブはきっとこの公演なのだろう。一曲目はELPISでも聞きなれている私たちの最初の曲だ。

「いい加減にしろ。早く消すんだ!」

「少し聴くくらい、別に良いでしょ」

 ここまで拒絶されると、音楽に対して何かトラウマでも抱えているのかと思えてくる。でもそんなこと、私には関係ない。

「改めまして、シレーヌです。私たちは四人組のガールズバンドとして、今日は全曲オリジナルで演奏します。もし気に入っていただけたなら、とても嬉しいです」

 私は暗い部屋でも分かるくらい顔を赤くしながら、必死に喋っている。ライブはもう何度もやっているというのに、当時からMC慣れだけはずっとしなかった。この文化祭の時も挨拶以降は佳那や千鶴が殆ど喋っていて、私は相づちくらいしかしていない。

 そして二曲目、三曲目……次々と懐かしい曲をシレーヌの四人は演奏してゆく。

 こうして映像で見ると、歌はヨレてるしベースのフレーズは間違えてる。しかし楽しそうに歌っていた。今よりもずっと楽しそうだった。

「これ、高校の学園祭だよ。二人は知らないと思うけど、私はこんな風に過ごしてたんだよ」

 正確に言えば、私は二人を呼ばなかった、というのが正しい。学園祭の日時は教えなかったし、来てほしくもなかった。でもきっと私の方もそうやって二人を遠ざけていたせいでこうやって拗れて、今に至っているのかもしれない。

 二人はじっと映像を観ていた。このまま平穏に全てが終われば良いのにと願った。

 やがて学園祭でのライブ映像が終わり、学園祭を遊んで回る私たちの映像が流れ始めた。きっと学園祭二日目の映像だ。

 お化け屋敷に入ったり、出店巡りをしたり……そこにいたのは普通の学園祭で遊ぶ普通の女子高生だ。家では見せたことのない私が、そこには映っていた。何も怖いものがなく、何も辛いものがない私たちは、何もないのに楽しそうだった。それは紛れもなく、音楽が繋いだ輪だった。佳那に引っ張られて、風香に頭を撫でられて、千鶴にちょっかい出されて、そんな何もない日常が私は大好きだった。

 やがて映像は終わった。そう思ったら、次はライブハウスが映し出された。私たちの姿がしっかりと見える位置にカメラが固定されている。これは……三年前のあの日のライブ映像に違いなかった。千鶴はここまで映像を回していたのかと驚く。

 あの日の記憶が鮮明に蘇ってくるようだ。私はつまらなそうに立っていた少女のために、そこで歌っていた。ライブハウスに来ている全員が楽しめるように、心を込めた。

 ――当時の父と母は楽しめなかったみたいだけど。

 相変わらず両親は黙って見続けている。何を考えているのか、想像すらつかない。きっと私たちは生きてきた文化がかけ離れすぎていた。

「私は――音楽をやってる私を認めてほしいだけ。……ううん、知ってほしいだけ。ただそれだけなの。お父さんとお母さんが嫌だろうが、そんなの私には関係ない。私は私で、音楽をするために今こうして生きてるの。そんな私を否定して、捻じ曲げようとするなら、やっぱりもう二度とあなたたちとは関われない。これまでのことは感謝してる。でもこれから先、私の信じた道を遠ざけようとする人とは、もう関われない」

 私は時計を見た。あと2時間。向かう時間を考えるとあと1時間程度しか猶予はない。

「……朱音、朱音は一人で生きていくの?」

「一人じゃないよ。みんなが居る。私はこの家以外でも生きていけるってことが分かったから。私だって、本当はお母さんたちと一緒に居たいよ。一緒に居たくないわけじゃない。でも昔のままじゃ居られない。だって今の私は昔の私とは違うから。二人にとって、私はいつまでもお父さんとお母さんの子どもかもしれない。でも私にとっては違う。私は一人の大人としての責任を持てるようになった。心も体も成長した。いつまでも変わらないままじゃ居られないんだよ。生き続けてる限り、私たちはずっと変わっていくから」

 私たちは変わってしまった。数か月前、千鶴とそんな会話をしたことを思い出した。それでも情熱だけは変わらない。そんな話もした。でも実際はやっぱり何もかも変わっていた。あの頃と比べて環境も違えば状況も違う。バンドメンバーも違う。DVDに映る無邪気な私のようには、きっともう笑えない。

 でもそれは不幸なことではないと思う。それが大人になるということで、子どもではなくなるということだと思う。……いや、子どもだとか大人とかはきっと関係ない。本来、生きていく中で変化というものは常に受け入れていくべきものなのかもしれない。シレーヌは解散したことで、佳那が新しいバンドを作ったように。そしてもかが現れたことで、私たちのELPISが生まれたように。私たち家族の中だけ、ずっと変わらないわけにはいかなかった。

「朱音……それでもお前は俺の子どもだ。それなのに俺は朱音の言ってる意味が何一つ分からない。朱音は何を言っているんだ?」

「分からないなら、無理に分かってもらおうと思ってない。私の歌を褒めてほしい、だなんて押し付けようとも思ってない。聴きたくないなら聴かなくても良い。私の願いはただ一つ、私の道を勝手に決めないでほしいだけ私の歌を否定しないで。私の中の音楽を消さないで。ただそれだけ」

 父はどうして、すぐに思考放棄に陥ってしまうのだろう。ふと、私は自分自身のことを思い返した。もかに何か一つ褒められる度に、私は卑屈になっていた。あれだって、一種の思考放棄じゃないのか。私の褒められるべき箇所を無視して、劣っている欠点ばかりを見つめていた自分。

 きっと、父はあの時の私と同じだ。

 見なければいけないものから目を背けて、ただずっと昔のまま変わらずに居られるように、呆然と過ごしていた日々。私だって、ずっとそうだった。

 でも私はあの時とはもう違う。あの時だけじゃない。昨日の自分、1分前の自分とも私は違う。人間とは、きっとそういうものだ。

 しかし結局、話し合いは平行線を辿った。頭ごなしに否定する父とそれに反発する私、そしてただ狼狽えている母の構図は最初からずっと変わらないままだ。

 もうすぐタイムリミットが迫ってくる。結局私は、何も終わらせられないままなのか。3年前と変わらない関係性のまま、私たちは過ごしていくしかないのか。

「……朱音、本当にありがとう」

 そう言ったのは、母だった。急な感謝の言葉に私は動揺する。

「朱音、私が昨日掛けた電話を聴いて、今日ここに来てくれたのでしょう? これから大切な予定があるのに、私たちを優先してくれたのでしょう? だから、ありがとう」

「……うん」

「それから、今までごめんなさい。私たちの事情ばかり押し付けて、朱音の意見なんて聞かずにいて……。私たちにとって、朱音は決して変えられない宝物なの。私たちの全てなの。だけど朱音にとって、私たちが全てではなかったのよね……私たちは全然、朱音のこと分かってやれてなかった」

 母は私の前に立ち、私を抱きしめた。昔大きく感じた身体は、すっかり小さくなってしまっていた。

「お父さん、いい加減朱音に迷惑かけるのはやめましょう。朱音ももう20歳になって、すっかり大人です。なんだか私たちの方が子どもみたいです」

「……ああ」

 母が話し始めてから、すっかり父のトーンが落ちた。理解してくれたのだろうか。

「朱音、もう行く時間でしょう? 人に迷惑かけないよう、行ってきなさい」

「でも――」

 私は父の意見をまだ聞いていなかった。父の説得ができなければ、結局昔と変わらないままだ。

「……朱音、今度、絶対うちに帰ってくる約束をしろ。まだお前のお祝いをしてないだろ」

 父から口に出た言葉はこの場に最も似つかわしくない、突拍子もない単語だった。お祝い……?

「実はね、お父さん、朱音とお酒が飲めることをずっと楽しみにしてたの。朱音が生まれた時からずっとね。だから先週の日曜日、本当は朱音の二十歳の誕生日のお祝いのつもりで行ったのよ。それなのに、こんなことになってしまって……。ほら、お父さんからも何か言ってあげて」

「……え?」

 信じられなかった。そんな話聞いたことなかった。20年間の楽しみだった……?

 話がよく理解できなかった。私は混乱していた。

「……言うことなどない」

「もう、強がらないの! そうやって拗ねるから話が大事になるんです! 金曜日からずっとその話ばっかりしてたっていうのに……。なのに当日、朱音の家に行ったら留守にしているし、次の日の昼間にも居なかったから、仕方なく合鍵で中に入って待ってたの。サプライズも兼ねて、って」

 頭がぐるぐる回った。父は私を制限することだけを考えているんだと、本気で思っていた。私の邪魔をしたいんだ、と。それが、今になって『20年間ずっと朱音とお酒を飲むのを楽しみにしてた』って……?

 母はキッチンへ向かい、棚から包みを持ってきた。

「これ、朱音が生まれた日にお父さんが買ってきたの」

 それは、ワインだった。『since 1997』と銘打たれ、未開封のまま箱に入っている。

「……ずっと、それが飲みたかった。ただそれだけだ」

 父は一言、そう言った。

 ――そんなの、ずるい。

 まるで後出しじゃんけんだ。

 自分勝手で、私のことなんてこれっぽっちも想ってくれていないと思っていた父が、そんなことを考えていたなんて。私は想像もつかなかった。

 頑固だし、自分の思い通りにならないことがあれば私や母に対してきつく当たることも多かった。

 それなのに、そんな態度を取っているにも関わらず、私のことを本当に好きだっただなんて。思いもしなかった。私が父を好きになる要素なんて、どこにもなかった。でもきっと父は、私が生まれた時以来、私のことを無条件で愛してくれていたとでも言うのか。父の言う『お前のため』という言葉は、本心からの言葉だったとでも言うのか。ただ頭が固くて、口が悪くて、言葉が少なくて、感情任せで、不器用なだけだった、とでも……?

 そう思うと、口の悪さ以外は私そっくりだ。頭の固い私、言葉数が少ない私、そのくせ感情任せでおまけに不器用な私。笑えてくる。笑いすぎて、涙が出てきた。

「朱音、私たちはもう朱音のすることに口出ししません。朱音のしたいことをしてください。でも……たまには顔を見たいの。朱音にとっての音楽と同じように、それ以上に私たちにとっては朱音が大切な宝物だから」

 自分勝手なのは、私の方だったのかもしれない。私が音楽を奪われて怒っているように、二人も音楽に私が奪われるような感覚だったのかもしれない。やっぱり、私たち、同じじゃないか。

 泣いているのを隠すように、私は手で顔を拭いた。

「朱音、そろそろ出る時間よ」

「……うん。分かってる」

 そんなの、とっくに分かってる。本当は全部父に責任を押し付けて、逃げ帰るつもりだった。それなのに、今の私にはそれは出来ない。

 私はじっと、立ち尽くすしかなかった。私は、どうすれば良いのか分からなかった。

「早く行ってこい」

 父はそう言った。私を見ることはなく、ただモニタに映る三年前のステージに立つ私を見て、そう言った。

「……うん。絶対帰ってくるから、待ってて」

 いつもは煩く、忌み嫌っていた父の言葉が、今だけはとても頼り強く感じた。


 一度自身のアパートへ戻り、私は急いでライブの準備をする。

 必要なものは全て持った。ベースはもかがパリスまで運んでくれているはずだ。エフェクターボード片手に私は駅まで駆けてゆく。

 ――そうだ、ライブの前に心残りを失くすのなら、しばらく無断欠勤していたバイト先に謝りに行く必要があった。私は駅に向かう道すがら、バイト先のコンビニへと向かう。

 店頭には珍しく店長が立っていた。直接会うのはいつぶりだろうか。

「店長、ここのところ急に休んだり、色々すみませんでした」

「ああ、比良田さん久しぶりだね。いや、全然良いよ。僕ね、比良田さんに無理言い過ぎてたから、とうとう無断でばっくれて辞めちゃったのかと思ってひやひやしてたんだよ。今日は佐々木君も用事あるって言うし、代わりも居ないしで、もう人が足りなくてね……。でもまた来てくれるなら歓迎するから」

 どうやらあまりの人手不足のために、仕方なく繁盛している駅前店を差し置いてこちらへ来たらしい。

 私はもう何度か謝罪を述べ、明日からまたシフトに入れることを伝える。店長は快く、私の無断欠勤を許してくれた。

 それから駅まで走った。赤信号がもどかしかった。久しぶりに動いたせいで、気分が悪くなる。なんとか電車に乗り込み、額の汗を拭った。

 スマホを見る。16:47。あと13分。駅からパリスまで5分程度。駅から駅までは8分程度。……大丈夫、走れば多分間に合う。私は息を整えた。

 ――電車は2分遅れで駅に着いた。時計はもう数分で16:59を指していた。定刻には間に合わない。それでもきっと、あの三人なら待ってくれている。久しぶりの運動から来る眩暈を何とか抑えながら、そして私はパリスへとたどり着いた。


 見渡すと、ここにはたくさんの人が居た。私が知ってる人、知らない人、私を知ってる人、知らない人。そんな人たちが集まって、私たちの演奏を待っていた。

 千鶴は私を見て笑っていた。

 もかも私を見て笑っていた。

 由海も私を見て笑っていた。

 それを見て、私も笑った。心の底から笑った。

 私はここに立っていた。紛れもなく、このステージの中央に立っていた。私の意思でここに立っていた。誰からも言われることなく、私がELPISのベースボーカルだった。

 これまで、私はただそこに居れば良いだけだった。幼い頃から常に両親の言いなりであり、私からの自発的な行動は常に制限されつづけていると思い込んでいた。そうして私はいつしか、自らの意思で行動することを諦めた。そして両親の指示に依存していた。

 音楽を始めてからもそうだった。自分の意思で音楽を始め、ベースを始めたと思っていた。これは両親に対する反抗なんだって思っていた。

 ……でもそれは違った。依存先が変わっただけだった。両親から千鶴へ、ただ私の行動指針が移っただけだった。千鶴が私にベースを勧めたから、私はベースを始めた。千鶴が軽音楽部に入ったから私も入った。千鶴がバンドを組んだから、私もそこに加入した。それは今現在でも続いている。私は千鶴の言うことをただ聞き入れている機械に過ぎなかった。

 ……でも今の私は全てから解放されている。もう私を縛るものは何もない。両親から解放され、誰の言うことも聞く必要ない今の私は、きっと何だってできる。


 ストラップを肩に掛け、ベースのネックを掴んだ。

「……あれ」

 フレットの感覚がいつもと違う。前はもっとネックが固く、少しだけ反っていた。そのはずが、今握っているこのネックは前のものよりもやや細く指に馴染み、そして滑りも良くなっているようだ。

 不思議に思い、ベースを眺める。ボディは私の知っているままだった。昔ぶつけた跡が懐かしい思い出と共に幾つも残っていた。しかしネックからボディに掛けて、それは私の知っているものではなかった。そのヘッドからはメーカーのロゴが消え、代わりの手彫り文字が躍っていた。

『AKANE from A’S』

 私は思わず笑ってしまった。きっと、もかがA’Sの店主を頼り、このベースを修理してくれたのだろう。ただ折れたネックをくっつけるだけではなく、きっと木材からネックとヘッドまでを加工して作ってくれたということだ。店内を見回すと、あのいかつい店主が笑ってこちらを見ていた。

 他にも、私の知っている顔がたくさんあった。バイト仲間の佐々木、もかの両親、佳那、ライブで対バンした人々、コテージオーナーの恵美、入江さん、他にも様々な人がそこに座っていた。私を見ていた。本当は私の両親にも観てもらいたかったが、残念ながらそれは叶わなかった。。

 アンプの電源を入れ、ベースのボリュームを上げる店内全体にベース音が振動する。身体が震える。心臓が震える。照明が震える。心も震えた。

「朱音、大丈夫?」

「もちろん」

 私はもかを見た。

 もかは力強く頷いた。

 私は由海を見た。

 由海は大きく笑った。

 私は千鶴を見た。

 千鶴も私を見ていた。

 そして千鶴は由海を見た。

 由海がスティックでカウントを取る。

 そして、私は――――。

 ベースを弾いた。

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