12.Despair
「あ……」
私は目を疑った。自分の目が信じられなかった。いや、信じたくなかった。
手に持った旅行鞄を、私は思わず落とした。
心臓の鼓動が高鳴った。そんなこと、あり得ないと思いたかった。これが夢であることをただひたすらに願った。
――これは、現実だ。
私が今、手を掛けているドアノブ。
これは私の家だ。私の借りているアパートの部屋だ。
家を出る時には確かに確認したはずだった。鍵は確実に閉めていた。しかし、鍵を差し込み、回したところで鍵の開く感触がなかった。つまり既に鍵が開いているということを意味している。
では、何故。この扉には鍵が掛かっておらず、開いているのか。
考えられる可能性は、私の中には一つしかなかった。
気配を察知されたのか、中から足音がする。扉越しに私の方へ近づいてくる。
私は逃げ出そうとした。けど、足がすくんで動かなかった。「石になったかのように」という表現通り、私の足は言うことを聞かなかった。
足音は私の目の前――扉の前で止まった。
ドアが徐々に開いてゆく。息が荒くなる。心拍が早くなる。手がしびれてくる。中には、黒い影が立っている
そこに居たのは――。
「朱音、入りなさい」
私の父親だった。
私は、絶望に打ちひしがれた。
日曜日、合宿も最終日だった。前日に夜更かしした分、私たちは寝坊してしまう。ただしオーナーが「帰るまでは自由に使ってていいよ」と言ってくれたため、十一時から最後に一時間だけ、私たちは練習することにした。
「わざわざ来てくれて、本当にありがとうね。HP出来たら報せるから! ……あ、そうそう。来週、アコースティックライブするんだって? 忙しくても絶対に行くからね!」
バス停まで車で連れて行ってもらい、そこで別れの挨拶をする。千鶴によると、クラッカーやケーキ用のスポンジ、生クリーム等は彼女に車で買ってきてもらったそうだ。至れり尽くせりで感謝しかない。
私たちはその周辺で昼食とお土産を探し、二時頃にはバスへ乗り込む。あまり遅くまで遊んでしまった結果、平日に疲れを持ち越すわけにはいかない。
バス内では、私たち四人でぐっすりと眠ってしまった。
次の集合日は火曜日だったが、スタジオに入るのは金曜日だけにして、後は各自個人練習と言うことにした。一回リハーサルからの本番だ。
「チケット代取ってるわけじゃないし、気楽にやろうよ」
千鶴は楽観的だった。もかのギターも上手くなっている。由海ともだいぶ息も合ってきており、ELPISの今後がとても楽しみだった。
――それなのに。
父に逆らえず、私は玄関へ足を踏み入れた。私の部屋の中には、母も居た。まるで私を憎んでいるかのような目で、私を見ている。
――そんな目で見ないで。
「座りなさい」
命令口調を崩さず、父は床を指さした。私は背負っていたベースを床に下ろし、座布団も使わずにその場に正座する。父は私のベッドの上に座り込んだ。
「それはなんだ?」
父はベースを指さす。私は口を開けられなかった。
「それは、なんだ?」
もう一度、同じことを言う。威圧的な口調が強まる。私が口を開かないことを悟ると、父は溜息を吐いた。
「楽器だな」
私は恐る恐る頷く。
「口を開け。これは楽器だろ?」
「……はい。ベースです」
「お前、一昨日から帰ってきてないな。どこ行ってた」
「な……なんで、そんなこと」
父は薄気味悪い笑い声をあげる。そして私の目の前にハガキを投げてきた。
「ポストの中に入ってた。一昨日の消印だろ?」
それはとある店から届いた誕生日クーポンのハガキだった。この男は、私のポストから勝手に私宛てのハガキを抜き取ったんだ。
——気持ち悪い。吐き気すら込み上げてくる。あまりにも気持ち悪すぎる。こんなの、ストーカーと同じだ。唇を噛み、痛みで我慢する。
「どこ行ってたかって聞いてるんだ。答えろ」
「と、友達と旅行に……」
「じゃそれはなんだ? 旅行にそんなもん必要か?」
「これは! ……その」
「なんだ、はっきりと話せ!」
喉がキュッと締まる。私が何を言っても、最早無駄だった。
「朱音、私たちは何も朱音を怒りたくて言ってるんじゃありません。ただ事実を聞いているんです。正月に帰ってこなかったのも、これが理由ということですか」
見かねた母が口を出す。事実を言ったら、怒るくせに。
頭に血が上る。私は無理矢理口を開いて、声を上げた。
「……なんで、そんなこといちいち言わなきゃいけないんですか」
「は?」
「帰ってください。ここは私の家で、私はもう、あなた達に関わる気はありません。出てってください」
「朱音、あんた親に向かって何言ってるの!」
「私はもう20歳になって成人したの。だからあなたたちはもう私の保護者でも何でもない!」
私は、徹底的に抵抗する態度を取ることに決めた。もう二度と解散なんて、二度とあんな想いなんてしないように。
*
なんだか、不安が胸の中に渦巻いていた。私の中の不安は次第に膨れ上がって、割れる寸前の風船みたいだ。朱音さんに送ったメッセージには返信がない。いつもなら、夜中とバイトの時以外は比較的すぐに返ってくるはずだった。もしかしたら、疲れて休んでしまったのだろうか。もしくはきっと急なバイトが入ったのだろうと思って、私は思考を取り消す。
「もか、母さんが夕飯だって」
「わかってるって!」
兄の宗太がノックもせずに私の部屋の扉を開けた。いつも言ってるのに、全然聞いてくれない。私は不機嫌そうに返事をした。
「へいへい」
お兄ちゃんは気にした様子もなく、その扉を開けっぱなしのまま階段を下りてゆく。頭に来るけど、私は仕方なくお兄ちゃんの跡を追った。
ダイニングには私以外の三人が既に席についていた。私は階段から一番近い定位置に腰を掛ける。
「もか、合宿はどうだった?」
「んー? 楽しかったよ。朱音さんの誕生会とかしたり、お泊り会みたいで」
「バンドの方は? アコースティックライブするんだろう?」
お父さんは私がバンドを組んでいることが自分のことのように嬉しいらしく、楽しそうに尋ねてくる。
「千鶴さんとか朱音さんに色々教えてもらって練習中。楽しいよ」
「俺のギター勝手に売ったくせに」
「うっさい。お兄ちゃんどうせ使わないんだから、別に良いじゃん」
「はいはい、二人とも食事中にそんな喧嘩しないの」
「別に喧嘩はしてないけど……」
こっそりとスマホを見た。朱音さんからの連絡は未だに来ない。その事実が私を不安にさせ、苛立たせているみたいだ。
お茶碗に半分ご飯を残し、席を立つ。
「もか、もう食べないの?」
「ごめんなさい、今日はちょっと疲れて食欲ない……」
お母さんにそう告げると、私は自室に閉じこもった。そしてベッドに倒れ込みながら、返事が来るのをただ待っていた。
ただ、昨日借りた髪櫛を返しに行った方が良いかどうか、それだけのメッセージを送っただけだった。それなのに、返信が遅いだけでなんだか胸騒ぎがしている。
しびれを切らして、電話を一度掛けてみた。二度、三度掛けたところで、スマホの電源が切られる。明らかに何かがあったようだ。
また今度でも良いなら、一言そう返してくれれば良かった。瞼を閉じても、眠れそうにない。
私は家を飛び出した。
真っ先に向かったのは朱音さんのバイト先だ。もしかしたら急にバイトを頼まれたのかもしれない。バイト中だから電話がしつこくて電源を落としたのかもしれない。でも、そうじゃなかったら……?
私は悪い考えを振り払うように、徒歩10分掛かる道のりを5分で走り抜けた。肩で息をして、コンビニ前で息を整える。冬だというのに全身が汗だくだった。コートを脱いだ。
そこに朱音さんは居なかった。代わりに立っている男性店員は確か……この間のライブに来てくれていた人だ。気の抜けた雰囲気で、頼りなさそうに見える。その人に朱音さんのシフトを確認してもらい、今日は来てないことを確かめる。
それから挨拶もそこそこに、私は朱音さんの家に急いだ。
エントランスでインターフォンを連打する。しかし、空虚に呼び出し音が鳴るだけで、誰も出る気配がない。仕方なく以前と同じ手法で、偶然住人が返ってきた隙にオートロックを乗り越えると朱音さんの部屋の扉をノックする。
「朱音さん、居ますか!?」
返事はない。
最悪の事態を想定し、無理矢理にでも開けようかと考えてドアノブを捻った。
「え?」
扉は簡単に開いた。エントランスがオートロックとはいえ、相変わらず不用心だ。
部屋の中は電気がついていた。リビングには人影が見える。
「朱音、さん……?」
息遣いが聞こえた。倒れたりしているわけではないようだ。影がほんの少しだけ動いた。しかし返事をしてくれない。
「入りますよー?」
少しだけ声のトーンを上げて、私は部屋に上がった。クリスマスイブに来た時と比べて、少しだけ物が散らかっていた。
「――もか」
朱音さんが居た。ベッドの上で足元を見ながら小さく丸まっていた。私が廊下から顔を出すと、一瞬だけこちらを見る。その目は、虚ろだった。
そして朱音さんは再び足元に視線を戻した。私の位置からだと、何を見ているのかわからなかった。
私は一歩、リビングに足を踏み入れた。
「朱音さん、どうかし……」
思わず、足を止めた。
そんなことがあるのか、と私は自分の目を疑った。
朱音さんの身に何があったのか、想像すら出来なかった。
私の視界に映ったのは――。
折れたベースだった。
ネックの中心がひしゃげていた。棒の中心部に強い力を掛けられたようで、無残な状態でスタンドの横に放置されていた。弦がねじれ曲がっていて、とても痛々しい。その断面はとげが出ているようだ。
「ひ、酷い……酷すぎる……」
誰が、こんなことを……? 私は力が抜け、その場に座り込んでしまった。
朱音さんは何も言わず、青ざめている。
私には、掛ける言葉がなかった。
「――今日は帰って」
このまま帰るなんて、私には出来ない。
「でも……」
「いいからもう、帰って。一人にして」
朱音さんは冷めた声でそれしか言わず、私から顔を背けた。
明らかな拒絶だった。私はもう口を開くことが出来なかった。
結局、私はそれに従うしか出来なかった。震える足を立たせ、机の上に髪櫛を置くとそのまま部屋を出た。
次の日、私は千鶴さんに会いに、パリスへ向かった。
「あれ、もかちゃんどうしたの。今日は月曜日だけど」
私は昨日の出来事を千鶴さんに話した。朱音さんと連絡が取れなくなったこと。ベースが折れていたこと。……朱音さんから拒絶されたこと。
千鶴さんは最後まで黙って私の話を聞いてくれた。やっぱり、千鶴さんは頼りになる大人だ。
「私、朱音さんが急にそんなことすると思えないし、絶対何かがあったんじゃないかと思って……千鶴さんならもしかしたら分かるかもしれないって思って、来たんです」
「……まあ、なんとなく予想は付いたよ」
「本当ですか!? 朱音さんに何があったんですか」
「……朱音の両親のことって、聞いてる?」
クリスマスの日、朱音さんから聞いた話を思い出す。
私はあの話を聞いた後、私はネットで少しだけ調べた。過干渉の親、子離れ出来ない親、それに関する色々な記事やブログがヒットした。朱音さんから直接聞いた話と似たような例もあった。
私は、こんな世界があることに驚きを感じたことを覚えてる。
私は自分の身を振り返って、色々な事を考えてみた。例えば、連絡もせず朱音さんの家に泊まったことについては、私だって結構怒られた。でもそれは私を束縛するためではない。私が事件や事故に巻き込まれた可能性を考えて、両親を心配させたからだ。実際、朱音さんの居る前で私を怒ることはなかった。それはきっと、その相手が私のいつも話してる朱音さんで、実際に話してみて信頼に足る人だと認識されたからだと思う。きっともしこれが悪い男の人だったり、不良の女の人だったら、きっともっと怒ったり、私に縁を切るように求めたと思う。
でも、朱音さんの両親はきっとそうじゃない。自分の知らないもの、不必要だと感じたものは全て否定し、朱音さんに与えないようにしている。それは最早、心配の域を超えていた。
「それって……」
当時、音楽を禁止された朱音さんは、ベースだけは死守したと言っていた。でも今回、何らかの理由で朱音さんが音楽を再開したことを知った朱音さんの両親はベースを壊すことで、音楽から物理的に遠ざけようとした。千鶴さんの予想はきっと、そういうことだ。
頭に血が上ってくるのが分かった。それと同時に、目の前でベースを壊された朱音さんの心情を想像して、私は眩暈がする。
絶対にあり得ない話だけれど、もしも仮に私の両親にそんなことされたとしたら、私はとても正気では居られない。それなのに、私よりも何十倍、何百倍もの情熱を音楽に注いできた朱音さんがそんなことをされたんだとしたら……。胸が苦しい。
「ただし、あくまでこれは想像上の話だけどね。なんにせよ私たちが介入出来る余地はないと思う」
「……千鶴さん、朱音さんの実家ってどこですか」
絶対に謝らせる。私は完全に怒っていた。
「行っても無駄だよ。話すら聞いてくれない。……昔、私も似たようなことをしたことがあるから、もかちゃんの憤る気持ちは凄く分かるけど」
千鶴さんは悔しそうに、私に言い放つ。きっと、3年前のライブ後に起きた出来事なのだろう。でも――。
「そんなの、やってみないとわかんないじゃないですか! ……連れて行ってください」
千鶴さんは無言で立ち上がる。
「……追い返されたら、素直に帰るって約束してくれるなら、連れて行くよ。無理すると、朱音が迷惑するからね」
「約束します」
私は千鶴さんの背中を追いかけた。
きっと千鶴さんも私と同じ思いをしているのに、やっぱり私は子どもだ。
朱音さんの実家は、私の家とそう遠く離れていなかった。歩いて10分程度。朱音さんのバイト先方向とはちょうど反対側だ。もしかしたら小中時代は同じ学区だったかもしれない。
綺麗なマンションのエントランスで千鶴さんはインターフォンを押した。
呼び出し音二回が鳴った後、数秒後に女性の声が聞こえた。
「はい、もしもし」
「私、追川と申します。朱音さんの件でお話があるのですが」
「はぁ……どういったご用件で?」
「昨日、朱音さんの家に行かれましたか?」
「はぁ……それがどうかしたのでしょうか」
「ええとですね……」
女性の声はどこか遠くを見ているような返事しか答えない。そんな態度にも頭に来る。
「どうして朱音さんは音楽をしちゃいけないんですか! どうして朱音さんのベースを壊したんですか!」
「急に大声出して、何ですか! あなた方には関係ないことです。お帰りください!」
一方的に切られてしまった。千鶴さんは急に怒鳴った私を責めるでもなく、肩を竦める。
「ね、こうなっちゃうんだよ」
眩暈がした。私の行動のせいで話が出来なくなった以上、私たちは帰ることしかできない。千鶴さんに引っ張られるようにして、マンションから去った。
「それが本当だとするのなら、器物破損ということになるね」
私はその日の夕飯の後、お父さんに朱音さんのことを相談してみた。法律の仕事をしてるお父さんならきっと、朱音さんとその家族の関係をなんとかする方法が分かるかもしれない。
あの後、千鶴さんは私に帰るように言い、一人で朱音さんのアパートに向かった。しかし未だに連絡は来ていない。不安だった。
「朱音さんはもう20歳を越えてるんだったね」
「一昨日誕生日で、20歳だって」
「それなら成人したことで、少なくとも両親の持つ親権はなくなるね。朱音さんは今後全て自分の意思で行動できるし、責任を持つ義務と権利が与えられた。朱音さんが本当に嫌と言うなら、両親であっても罪に問われなければならない。もしも勝手に家の中に入ったのなら、不法侵入でもある。ただ今回はアパートの契約者が誰だか分からないから、やはり法的には器物破損の線だね」
「……私にどうにかできないの?」
「そうだね、もか一人にはどうすることも出来ない。けど、もかがどうしても朱音さんを助けたいって言うならお父さんも手を貸さないことはない」
「ちょっと、お父さん、他所の家に口出すのはやめときなって。宗太の試験もまだ残ってるのに」
「お母さんも朱音さんの歌を聞いただろう。でもこのままだと音楽を辞めることになって、アコースティックライブの開催はおろか、二度とあの歌を聴けなくなってしまうかもしれない。これはもかや朱音さんのためでもあると同時に、お父さんたちファンのためでもある。それに宗太は宗太で毎日頑張ってるじゃないか。それこそお父さんたちが口出す問題じゃないよ」
「もう……」
お母さんは呆れた顔で食器を片付け始めた。
「今、朱音さんと連絡は取れる?」
私は首を振った。取れたらとっくに取ってる。何度メッセージを送っても、電話をしても電源が切られているから無駄だった。
「そうか……お父さんの方で少し考えてみるよ。もかはあまり考えこまずにね。もしも朱音さんから連絡が来たら、親身になってあげるんだよ」
「……うん。ありがとう、お父さん」
考えこまずには居られなかったが。お父さんの協力が得られればきっと朱音さんを助けられる。私はほんの少しだけ安心した。
部屋に戻ると、つい先ほど千鶴さんからメッセージが届いていたことに気付く。
『朱音と少しだけ話せたよ』
私は慌てて電話を掛けた。すぐに繋がる。
「朱音さんは!?」
「今ちょうど朱音のアパートを出たところなんだけどね。ずっとインターフォン越しに朱音を説得してて、やっと入れてもらったと思ったら全然喋らないし、もう大変だったよ」
「……それで?」
「ああ、うん。やっぱり、予想通りだった。父親にやられたって」
胸が絞まる。私はゆっくり深呼吸をした。
「朱音さんは……?」
「一応、ちゃんとご飯は食べるようにって言っておいた。昨日からずっと壊れたベース眺めてたみたいで、ずっと固まってて。それで精神衛生上良くないから、無理矢理ベース持ち出してきちゃったよ」
「……修理とかって、出来ないんですか?」
「詳しくは分からないけど、出来なくはないみたい。けどなるべく早く専門のところに預けた方が良さそうかも」
「……そのベース、ちょっと私に貸してくれませんか? もしかしたら、頼りになるかもしれない人が居て」
「わかった。もかちゃんも何かしようと焦りすぎないようにね」
私は千鶴さんに自分の住所を送り、電話を切った。
次の日、私は朱音さんのベースを持ち、例の中古楽器店A’Sを尋ねた。店頭は相変わらずごちゃついており、私が店に入るのを拒んでいるようだ。しかし朱音さんのことを想い、意を決して足を踏み入れることにした。
「おう、嬢ちゃんじゃねぇか。今日はベースの姉ちゃん、一緒じゃないのか」
「あ、えっと……」
相変わらず気さくに話しかけてくれるが、怖いものは怖い。店長さんの見た目は凄く怖い。私がしり込みして話しかけられずにいると、店長さんの方から私に次々と話しかけてくる。
「あれ、それって嬢ちゃんのじゃねぇよな。そもそも、それベースだろ。なんでベースなんて持ち歩いてるんだ? 姉ちゃんに憧れてベースでも始めたか?」
「いえ……その」
「どうだ、見せてみ。……ん?」
「あ、ちょっと……!」
私がベースを肩から降ろそうとすると、店長さんはまるでひったくるように正面からベースを奪った。しかし、ギグバッグを触ると慌てた様子で中身のベースを取り出した。すると、中からはネックの折れた朱音さんのベースが現れる。
「これ……どうした」
「その、朱音さんのベースです」
「んなの見りゃわかる。こりゃ……踏んづけたか? しかも思いっきりやられてんな……」
「……みたいです」
私は朱音さんの気持ちを想像する。きっと、目の前で壊されたのだ。朱音さんの魂が、文字通り踏みにじられた。悲しくて思わず涙が出てきた。
「……わかった。事情はわかんねぇけどよ、とにかく急ぎで土曜日までに完璧に直しゃ良いんだろ。俺に任せとけよ」
「……直せるんですか」
「まあ、こんだけ酷いとなると直すのも多少時間は掛かるが……。ただ、時間がないんだろ」
私は頷く。そうだ、ライブまでもう日がないのに、こんな状況になってしまっている。私たち、一体どうなってしまうんだろう。どうしようもなくて、下を向いた
「んな、心配そうな顔すんなよ。嬢ちゃんたちの身の回りに何があったかなんて俺には予想もつかねぇ。けどな、楽器に関して言えば俺はプロだ。俺は俺に出来ることをする。嬢ちゃんたちは嬢ちゃんたちに出来ることをしろよ。こっちはライブまでには確実に間に合わせてやるから、顔上げな」
きっと今の私は酷い顔をしているのだろう。それに数回しか会ったことのない人の前で泣いてしまうなんて、恥ずかしい。何とか涙を拭き、顔を上げると店長さんに深くお辞儀をした。店長さんは優しく微笑んでいた。
「俺はな、嬢ちゃん。感動したんだよ。三か月前、初めてうちに来た時の嬢ちゃんのたどたどしい弾きっぷりから、あのライブを観て俺は感動したんだ。嬢ちゃん、一体一日何時間練習したよ? 嬢ちゃんの必死な努力が見えて、俺ぁなんて良い嬢ちゃんにギターを売ることが出来たんだ、って泣きながらライブを観てたもんだ。だからよ、今度の土曜日、またあの演奏が聴けるって楽しみにしてるんだぜ。だからこれは俺に任せとけ」
もう一度店長さんにお礼を言い、私は店を出た。
朱音さんにメッセージをしても、無駄なことは分かっていた。それなら、千鶴さんのように朱音さんの元に直接向かうしかない。再び、朱音さんのアパートへと向かった。
連打したインターフォンには相変わらず出ない。メッセージを送っても、返事はない。30分程ねばった後、私は諦め気味で最後にもう一度だけインターフォンを鳴らした。
「…………」
「朱音さん!? 私です、もかです! 開けてください!」
声は聞こえなかった。しかし、呼び出し音が消えて通話モードになっているようだ。
スピーカーの奥に居るはずの朱音さんは、何も喋らなかった。ただオートロックを開けたのが返事だった。私はすかさず駆け込み、朱音さんの部屋を目指す。
「朱音さん!」
玄関扉の鍵は相変わらず開いていた。朱音さんの居るリビングまで短い廊下を走る。
「朱音さん……」
「…………」
一昨日と全く同じように、朱音さんはベッドの上に体育座りで蹲っていた。まるで赤ん坊のように丸まり、全てを拒絶していた。こちらを見ようともしてくれない。
机の上には殆ど残されている食べかけのカップ麺や、一口だけかじられたおにぎりが置かれている。千鶴さんの言いつけは守ろうとしていたようだが、食べられなかったのだろうか。
朱音さんの顔は、真っ青だった。この間までベースが置かれていたはずの空のスタンドをじっと見ていた。耳には白いイヤホンを付けており、手に握っている音楽プレイヤーまでコードが伸びている。
「朱音さん!」
私は我慢できず、駆け寄る。ベッドに飛び乗り、朱音さんにしがみつく。その身体はとても冷たい。考えてみれば、部屋の中は暖房も何もついておらず、とても冷えていた。無音の部屋に響くイヤホンからの音漏れすら、寒々しい。
私はエアコンの暖房を付けると朱音さんの冷たい手を握りしめた。
「……もか」
「朱音さん、寒くないですか」
初めて、私に視線を向けた。眠れていないのか、目の下には酷い隈がある。その目は、真っ赤に充血していた。
「……ああ、うん。大丈夫」
そんな様子で大丈夫なわけ、なかった。部屋が暖まるまで自分の着ていた上着を朱音さんに掛けてあげる。
「……これ以上、私に構わないで」
しかし朱音さんは、私のコートを脱ぎ捨てた。
「え――?」
「――もかさん。これ以上は、あなたと一緒に居られない」
今、朱音さんはなんと言ったのか。きっと私の耳がおかしくなったのだと思った。幻聴か、聞き間違えに違いないと思った。
あの夜から、朱音さんは私のことを呼び捨てで呼んでいた。なのに――今、私を何と呼んだのだろう?
私の口が塞がらないうちに、朱音さんは畳みかけるよう喋った。
「もう、私は音楽をやらない。私はもう、何も出来ない。こんなのもう、嫌だ」
酷く震えていて、聞いたことのない声だった。こんなの、知らない。こんなの、朱音さんじゃない。私が何かを言わないと、朱音さんが朱音さんじゃなくなる。そんな気がした。咄嗟に口を開く。
「私は……朱音さんと音楽やりたいです」
「私はもう、やりたくない。千鶴に会わなければ、音楽に出会うことなんてなかったのに。もかさんと会わなければ、もう一回音楽をやることなんて、なかったのに」
頭を殴られたような感覚だった。朱音さんの口からそんな言葉が出るなんて、思わなかった。朱音さんは体育座りのまま、自分の膝に顔をうずめて両腕で頭を抱える。
「朱音さん、本気でそんなこと思ってるんですか?」
「思って……思ってるよ。少なくとも今の私は思ってる。どうしてこんな想いしなきゃいけないんだって、思ってる。こんな想いするくらいなら、最初から音楽なんてやらなければ――」
良かったのに。朱音さんはそう言った。
「でも、私は朱音さんの歌を聞いて、音楽を始めて……」
私は朱音さんの言葉を取り繕うのに必死だった。でももう、こんなの何も言っていないに等しい。
朱音さんは追い打ちをかけてくる。顔だけを上げて、虚ろな目で私を見つめる。今にも死にそうな声で、私に語り掛ける。
「もかさんは私に憧れてるって言ってたよね。でも私には、誰からも憧れる資格なんて、ないんだよ。私なんて、ただ独りで部屋にこもっていれば良かったの。誰とも関わらず、何もしないで生きていれば良かったの。ただ親に言われるがまま過ごしていれば、そうすれば音楽になんて出会わなかったし、みんなに迷惑かけることもなかった。――私もこんな想いしなくて済んだのに」
私は朱音さんの頬を叩いた。反射的なものだった。きっと、私が一番びっくりしている。朱音さんは何も言わなかった。
私の口は、私の意思に背いて動き出す。
「朱音さんが何と言おうと私の憧れは朱音さんなんです! あの日、あのライブを見てから……あのパリスで会う数日前の夜、コンビニで声を掛けてから、ずっとずっと私は朱音さんのファンで、朱音さんのその姿に憧れていて……。あの時の朱音さん、今よりずっと格好良かったです。音楽だろうがバイトだろうがなんだろうが、真剣にやってれば誰しもが格好良いんです。私はそんな皆さんの姿に、凄く憧れてます。……でも今の朱音さんは全然真面目じゃない。他人からのことに捉われて、真面目に音楽やってない。真剣に音楽に向き合ってない。音楽を本当にやめたい? それならそんなの、早く捨てちゃえば良いのに!」
私は朱音さんの手から、音楽プレイヤーを奪い取った。朱音さんの耳からイヤホンが外れる。流れていたのは、合宿で作ったあの曲のデモ音源だ。朱音さんの誕生日の日に二人で一緒に歌詞を考えた歌。さっきから朱音さんはループでこの曲を聴いていた。ずっと音漏れしていたから、とっくに知っている。
本当に音楽をやる気がないのならこんな曲、聴きたくないはずだった。一度もライブで演奏出来なかった呪いの曲なんて私なら聴きたくない。それなのに、朱音さんはずっとこの曲を聴いていた。音楽バカの朱音さんのことだから、きっとこの三日間ずっと聴いていたに違いない。忘れないように、いつでも弾けるように、頭の中に叩きこむように。
正直言って、私は今の朱音さんの態度が気に入らなかった。私の知らない事情は、きっと数えきれないほどあるんだと思う。私には計り知れない苦悩があったのかもしれない。
でも、それ以上に大切なものがあるから、朱音さんは千鶴さんと音楽を始めて、そしてまた私たちと音楽を再開したんじゃなかったのか。それなのに、その大切なものを棚に置いて「こんな想いしたくない」だなんて、都合が良すぎる。私たちと一緒に過ごした思い出が無下にされた気がした。私は、そんな朱音さんのことが許せなかった。
「私の返して……返して!」
「嫌です! 今の朱音さんにこんなもの、必要ない!」
朱音さんは私から音楽プレイヤーを力づくで取り返そうとする。返すつもりはなかった。しばらく引っ張り合い、押し問答をして、やがて朱音さんは力なく諦めた。
そして、声を上げて泣き始めた。まるで子どものように泣き出した。
驚いた私はどうすれば良いか分からなくなる。急に後悔が押し寄せる。混乱気味に音楽プレイヤーを返そうとしても、朱音さんは受け取ろうとしなかった。
「あ、あの……朱音さん、ごめんなさい。ちょっとやりすぎました……。そんな、泣かないでください……」
私は自分の行動を省みる。ただでさえ精神的に疲れている朱音さんに、私はなんて酷いことをしてしまったのだろう。猛烈に反省した。そして小さな子どもをあやすように朱音さんの背中を擦る。しかし泣き止むことはない。嗚咽を漏らしながら、朱音さんはぽつりぽつりと語りだした。何度も言葉に詰まりながら、私に気持ちを伝えてくれた。
「ううん、私が悪いの。私はもかに、酷いこと言った。もかは私のこと、好きってずっと言ってくれてるのに、私はそれを受け入れられなくて。もかは私のこと、何度も支えてくれたのに、私はもかに何も返せてなくて、ずっと貰ってばかりいた。何も返せないまま、私はただ居ることしか出来なかった。ううん、今度は居ることすら出来なかった。……なのにもかは、また私のところに来てくれた。本当はもかに愛想尽かれても仕方ないのに、なのにもかは今でも私のことを想ってくれてる。だから私が悪いの」
涙でベッドが濡れる。朱音さんはそんなこと、厭いもせずに続けた。
「もかはどうして、そこまで私にしてくれるの。私はこんな私のことなんて、大嫌いで、どうしようもなく駄目で、自分からは何も与えられなくて、救われないような人間だと思ってる。でももかはきっとそれを否定してくれる。どうして?」
「それは……」
朱音さんに出会うまでの日々を思い返す。
3年前、あの人と初めて出会ったあの日。私はずっと一人で壁に寄りかかっていた。正面では大勢の男女がステージの方を見て盛り上がっている。でも兄に無理矢理連れてこられたライブは私にとっては面白くなくて、大音量で流れる音楽も私にとってはただのノイズでしかなかった。当の兄は私なんてお構いなしに先ほどまでステージに立っていた人たちとその辺で楽しそうに話し込んでいる。
――勝手に帰ろうかな。
兄は怒るかもしれないけど、今私が一人帰ったところで誰も気づかないし。そんなことを思いながらも、何も行動できない私はじっと演奏が終わるのを俯いて我慢していた。
「面白くない?」
「え?」
声が聞こえて、顔を上げた。気付けば、隣には制服姿の女性が立っていた。長い髪が綺麗で、とても格好良い雰囲気の人だ。ライブの騒音で聞こえないと思ったのか、その人はもう一度私に問いかけてくる。
「あんまり面白くない?」
「…………」
この人も兄と同じで、きっとこのライブが楽しみでここに来たのだろう。そんな人に対して正直に言っても、気を損ねてしまうに違いない。
私はその問いに、答えられずにいた。
「良かったら、どう?」
その人はそう言って、懐から黒飴を取り出した。断るわけにもいかず、私はしぶしぶそれを受け取り、口に入れる。
「次、私たちが出るから。少しでも楽しめるように歌うから」
私は思わず、その人の顔をもう一度見た。とても綺麗な人だった。私を見つめながらにこやかに微笑んでいる。制服姿だから、もしかして高校生なのだろうか。私は思わず息を飲んだ。まさか、ライブの出演者だとは思わなかった。
その女性は私から飴の包み紙を持っていくと、ステージ裏へ向かう通路手前でバンドメンバーらしき人たちの元へ合流した。謝っているみたいなのに、なんだか楽しそうに笑っている。
そんな姿が少し、羨ましかった。
それから転換を終え、新たなバンドがステージ上に立っていた。。
あの人が居た。ステージの中心で、ベースを背負って歌っていた。その姿はとても魅力的で、儚げで、触れれば壊れてしまいそうだった。私は寄りかかった背中を壁から離し、少しだけ身を前に乗り出す。今までのバンドはどうも興味が湧かなかったのに、何故かあの人の歌は私の心の奥まで染み渡ってくるようだった。あの人と目が合った。
私は最後まで夢中で、その歌を聴いていた。
演奏終了直後、私は兄に呼ばれ、さっきから兄が喋っているバンドに挨拶させられる。本当は真っ先にあの人のところへ行きたかったのに。でも、結局次バンドの転換が終わるまで私はそこに拘束され続けていた。
そして――結局、最後まであの人に会うことは出来なかった。あの後ライブハウス中どこを探しても、あの人はもう居なかった。ライブの出演者らしき人に訊ねても、誰も知らないと言う。あの人の一体どこへ行ったのか、その時の私には知る由もなかった。
高校生になり、私は自分のスマートフォンを持つようになった。友達も何人かできて、あの日のライブのことなんて、すっかり忘れて日々を送っていた。
そんな時、由海ちゃんに出会った。
高校二年生となった私の隣の席には、クラスの中でも一際目立っている子が座っていた。授業中はずっと寝ているし、その割には休み時間の度にずっと話しかけてくるし、私はそのマシンガントークにずっと目が回りっぱなしだった。やがて夏休みもとうに過ぎたある秋の日、その子は自分がドラムをやっているという話をし始めた。
「うち、実はこう見えてもドラムやってるんだよ。小学生の頃からバシバシやってて、ついこないだまではバンドも組んでたし」
私はふとに、あのライブのことを思い出した。あの女の人は、一体どうしているのだろうか。お礼を言えなかったことが未だに心残りだったことを思い出した。
ふとSNSで当時兄が好きだったバンドを検索してみる。どうやらもう既に活動休止していたが、SNSのアカウントだけは削除されずにそのまま残っているようだ。あの日まで投稿を遡り、あのライブの日のタイムテーブルを見つける。このバンドの二つ後の出演者が、確かあの人の居たバンドだったはずだ。
――『シレーヌ』、きっとこれだ。この情報を使って、何とかしてこのバンドメンバーを見つけたい一心だった。
直接バンド名を検索してみても、全然関係ないアカウントが表示されるだった。改めてそのタイムテーブルに戻り、試しに他のバンドを探してみる。いくつか当たりを付け、なんとか現在も活動中のアカウントを発見することができた。私は初めてSNSのアカウントを作り、内心緊張しながらもメッセージを送ってみた。
『初めまして。急な連絡ですみません。「シレーヌ」というバンドのボーカルの方を探しています。そちらが2年前に出演されていたライブに同じく出演していたようなのですが、知りませんでしょうか』
返信まで、数日待った。何度もメッセージが届いていないかを確認し、ようやく返事が届く。
『友人が元シレーヌのメンバーですが、何かあったんですか?』
『伝えたいことがあって、シレーヌのベースボーカルだった方を探しています。どうにかその方と連絡が取れないでしょうか?』
私はすぐに返信をした。すると、シレーヌの元メンバーだと言う方の連絡先が届いた。メッセージアプリで連絡を取ることとなり、「kana」という名前の方へ私は恐る恐るメッセージを送る。
『初めまして。柳もかと言います。急な連絡で申し訳ありません。kanaさんがシレーヌの元メンバーと言うことで連絡を差し上げたのですが、ボーカルの方と連絡は取れるのでしょうか?』
『こちらこそ初めまして。大変申し訳ないですが、諸事情によりシレーヌは既に解散しています。私もあの子とはしばらく連絡を取っていません。ただ音信不通という訳ではないので、良ければうちの朱音との間にどんな事情があるのか教えてもらえませんか?』
初めてあの人の名前を知ることが出来た。朱音さん。小さく口に出してみた。
私は朱音さんとの間での出来事を伝えると、kanaさんは今でも朱音さんと連絡を取っている人に、更に引き継いでくれた。どうやらシレーヌの元ギターらしい。やがてその人から私宛に連絡があり、やっとの思いで朱音さんと会わせてもらう手筈となった。
初めてパリスへ向かう前日の夜、ここまで色々な人を巻き込んでまで、どうして朱音さんと会いたいのだろうと考えた。
ただ「楽しかったです」とだけ、私はそれだけが言いたいだけだった。それなのに、なんだか自分の中で大ごとになってしまっているようだ。
綺麗な人だった。素敵な歌声だった。格好良い演奏だった。そう思ったのは確かだ。でも、そうじゃなくて――。
きっと、私のことを唯一見つけてくれたから。
あの時、私は世界にたった独りきりだった。あのライブハウスにおいて、私は存在しなくても良い人間だった。いつ帰ろうとも誰も気づかない。誰からも必要とされない、そんな存在だった。それなのに、朱音さんはそんな私を見つけてくれたから。私のために歌ってくれたから。朱音さんが話しかけてくれたことで、私が認められて、必要とされたから。きっとそれが嬉しかったんだと思う。
「……最初は、多分ちょっとした好奇心だったんだと思います。音楽を楽しんでいる人がたくさん居るライブハウスで、つまらなそうにしてるこんな私に声を掛けてくれた人は一体どんな人なんだろうって。それで話の流れで朱音さんとバンドを組むことになって……。でも最初、実はそこまで乗り気じゃなかったんです。もちろん、朱音さんと千鶴さんのあの演奏を聞いて、格好良いとは思いました。でも、自分でそれをやろうとは思わなくて……。ただ朱音さんの歌をもっと聴きたかったから、そのためにたまたま私が必要とされたから、そんな漠然とした理由でギターを始めたんです」
ギターを始めた理由なんて、本当に成り行きと言っても良かった。音楽自体はあのライブ以降色々聞いていたから、好きだった。たまたま兄のギターが家に置いてあった。でも自分でやろうとは夢にも思っていなかった。……バンドから逃げ出してしまおうと考えたことも一度ではない。
「でも、今の私はそうじゃないんです。朱音さんと一緒に音楽が出来て、凄く楽しくて……。確かに私は朱音さん以外の人とバンドを組んだことがないですし、もしかすると数十億人の中には朱音さんよりも凄いと思える人はたくさん居るのかもしれないです。――でも、あの時のライブハウスで私に声を掛けてくれたのは世界中でも朱音さんだけなんです。私とギターを買いに行ってくれた人も朱音さんだけなんです。あのクリスマスイブに遊んだり、喧嘩して朝からうちまで挨拶に来てくださったのも、合宿中一緒に作詞をしたのも、全部全部朱音さんしか居ないんです。朱音さんの代わりは朱音さんしか居ないんです。だから、私は朱音さんと一緒に音楽がしたいんです!」
あの時の朱音さんが私だけを見てくれていたように、今の私は朱音さんだけを見ている。たった、それだけのことだった。
私は鞄からポケットティッシュを取り出し、真っ赤な目の朱音さんに渡す。
私よりずっと大人だと思っていた朱音さんも、今はずっと子どものように見えた。私は朱音さんの乱れた長い髪を後ろに戻し、手櫛で整えてあげる。なんだか大きな妹が出来たみたいだ。
朱音さんはそんな私を見た。さっきまで青かった顔が真っ赤になっている。私はそんな朱音さんの両手を握った。朱音さんも少しだけ力を入れて握り返してくれる。嬉しかった。さっきよりも暖かくて、私より少しだけ大きな手だった。
「朱音さん、私と音楽やってて、つまらなかったですか?」
「そんなわけ、ない。ほんとに……ほんとに凄く、楽しかった」
嗚咽交じりに朱音さんは答える。意地が悪い質問をしたな、とまたも反省する。
「私もです。だから、私はずっとこれからも楽しいままで居たいんです。朱音さんが居て、千鶴さんが居て、由海ちゃんが居る。みんなが一緒に居ないと駄目なんです」
朱音さんは頷く。朱音さんだって、本心でやめたいと言ったわけではないのは、最初から知っていた。朱音さんほど音楽を愛してる人は居ない。今はきっと自暴自棄になっているだけだ。
「私は朱音さんのこと、まだまだ全然知らなくて、きっとたくさん大変なことを抱えてるのかもしれないですけど。でもだからこそ私は朱音さんともっとたくさん一緒に遊んで、もっと仲良くなって、もっと一緒に音楽がしたいんです」
「私も、もっともかと遊びたい。音楽したい。だって……もかが大好きだから」
朱音さんからそんなことを言われるなんて、初めてのことだった。照れる気持ちを隠しながら、私は朱音さんに抱き付く。
「なら、また憧れさせてください。朱音さんには私の憧れている朱音さんで居てほしいんです。いつも格好良くて、少し不器用で、音楽に真剣な、私の大好きな朱音さんに戻ってください」
それは私のエゴかもしれない。私は他人に「こうであれ」と言えるような出来た人間でもない。それでも……それが私の願いだった。そしてその願いに応えるように、朱音さんは私の背中に手を回して頷いた。そして一言、
「わかった。だから……ごめん、待ってて」
なにかを決心するように力強い声でそう言った。
次の日、パリスへ向かい、朱音さんとの出来事を千鶴さんと由海ちゃんに話す。
二人は朱音さんが私の説得を聞いてくれたことに安堵し、そして今後の方針を話し合うことにした。
「つまり朱音は土曜日のライブに確実に来るってことで良いんだね」
「……多分」
音楽を続ける決意はきっとしてくれたはずだ。でも、あと数日の間にライブへの決心がつくのかは分からなかった。
「多分じゃ駄目だよもか。絶対来てもらわないと、困るのはうちたちなんだからね。それにベースが居ないバンドなんて、玉ねぎの入ってないハンバーグみたいなもんだよ!」
由海ちゃんはおかしな喩えをしながら私に言い放つ。私は苦笑いしか出来なかった。
「……でもまあそれなら、あたしたちも準備しないとね。朱音のぶっつけ本番を支えられるようにしなきゃ。朱音は朱音できっと自分のやるべきことをやってるはずだから」
私たちは本来金曜日までは行く予定の無かったスタジオへ向かい、練習に励んだ。もちろん、千鶴さんの体調に気を遣いながら、そして私のギターの腕を少しでも上げるためにも。
朱音さんからの連絡は依然として来なかった。
『待ってて』と言う言葉を本当に信じていいのか、私には分からなかった。でも、千鶴さんは朱音さんの邪魔になるから、と言って本当に何も連絡をしていないみたいだ。千鶴さんが信じているのなら、私もそうするしかなかった。
二日経ち、金曜日。未だに朱音さんからの連絡は来ない。今頃何をしているのだろうと、不安でたまらなくなる。
学校帰り、パリスへ向かう前に由海ちゃんとA’Sへ向かった。一人で行くのはまだ少し怖かったということを前回思い知ったため、由海ちゃんと二人なら大丈夫だろうという魂胆だ。
しかし、店内には誰も居なかった。レジ奥のラジカセだけが音楽を奏でている。由海ちゃんは特に何も気にすることなく、売り物のスティックを品定めて見ている。
「おう、嬢ちゃんか。そっちは……ドラムの子か」
やがて、どこへ居たのか、部屋の奥の方から店長が顔を出した。
「その、朱音さんのベースは……?」
私は間髪入れずに訊ねた。ベースがなければ、演奏は出来ない。
「ちょうど今、作業してたところだ。ついさっきようやく必要なもんが揃ってな。明日の昼までには完成させるから待ってろ」
私は安心して息を吐いた。
「あ、初めまして。うち、泉田由海って言いますです。もかと一緒にバンド組んでて、ドラムやってるっす」
「知ってるよ。あんたのあの安定感抜群のドラムなんて聴かされた日にゃ、もう忘れらんないね」
「うお、べた褒めっすね。そこまで直接言われるとちょっと照れるすけど、嬉しいっす!」
相変わらず物応じない由海ちゃんの態度に脱帽する。
そして私たちはそこで少しだけ談笑した後、パリスで千鶴さんと合流すると、スタジオで最後のリハーサルをする。ベースがいないため、全然物足りない。朱音さんからの連絡も依然として来る気配はなかった。
土曜日。本番当日、私は午前からA’Sへ向かい、朱音さんのベースが直るまでそこで待った。店長はきっと私に見られてやりづらかったと思う。でもむしろ気合を入れて直してくれたようだった。
「よっしゃ、これで完成だ」
椅子に座りながらうたた寝をしていると、店全体に声が響いた。私は飛び起き、店長のその手に持ったものを見た。
一見、完全に元通りに戻ったと思い込んだ。折れた継ぎ目が一切見られないのを見て、きっと店長が頑張って繋げてくれたのだと思っていた。しかし店長は誰にも告げず、私の思っていたよりもずっと大変なことをしていたことは、今の私には知る由もなかった。
「これ、持ってけ。代金はまた後でだ。今日のライブ、楽しみにしてるからな」
「あの、ありがとうございます!」
『朱音さんのベース、無事に直りました。今日の開演まで、絶対に来てください』
朱音さんにメッセージを送信し、私は千鶴さんたちが待つスタジオへ戻い、ライブまでの最終調整をした。
午後4時50分。開演10分前。私たちは店内奥で待機をしていた。店内には人が続々と集まり、やがて席は殆ど埋まった。立ち見の客も何人か来ているようだ。今日は私たちだけの単独ミニライブだと言うのに、こんな多くの人が集まったことに私は感動する。期待に応えられるよう、私の出来る限りをやるだけだ。
「5分だけ待つ。それだけ」
千鶴さんは目を瞑りながらそう言った。
「5分後、来なかったらどうするんすか」
「さぁね。由海ちゃんのトークショーでもやろっか」
「……最高っすね。ネタ考えときます」
二人はそんな冗談を言い合っている。もしかしたら由海ちゃんにとっては冗談じゃないかもしれないけど、何にせよ私にはそんな余裕はなかった。
やがて10分経ち、開演時間となる。私たち三人は観客の待つステージへと足を運んだ。朱音さんは、まだ来ていない。私は焦りながらも、既定の位置に置いてある椅子へ腰かける。マイクの前だけ、誰も居ない。私たちの緊張感の様子は観客にも伝わってしまったようで、ざわめきが聞こえる。咄嗟に耳をシャットアウトする。
アンプとエフェクターの接続、簡単なチューニングまでを終え、後は朱音さんを待つだけだった。5時3分。もうすぐ私たちが決めたレッドラインを越えてしまう。朱音さんが来ることを祈る。きっと、千鶴さんや由海ちゃんも私と同じ気持ちだろう。
ステージの中央には紫のベースだけがアンプの前に立て掛けて置かれていた。
フロアはある種の静寂に包まれた。これだけの人が居るのに、誰一人として喋らず、音を発せず、私たちの様子を見守っていた。視線が痛い。それでもあと2分耐える必要があった。
そして、5時5分。千鶴さんは一度私たちを見ると、椅子から立ち上がり、息を吸う。
パリスの扉が開いた。
入店を知らせる鈴の音が静かな店内を包み込んだ。
皆、一斉に振り向く。
私たちも見る。
そこに居たのは。
――朱音さんだった。
朱音さんが、帰ってきた。、人の中をかき分けて私たちの元へ向かってくる。
息を切らし、そして私たちのステージへと上がる。
「ごめん、遅くなった」
その一言を、私はずっと待っていた。
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