10.Band

 もう、一週間はパリスに行ってなかった。これだけ長い期間行かないのは千鶴がパリスでバイトをし始めて以来、初めてだった。千鶴は大事を取ってまだ病院に入院しているようだが、あの場所に足を運ぶ気には到底なれなかった。

 ELPISのグループメッセージはあれから動いていなかった。もかと由海からは個人メッセージが何件か来ていたが、どれも返信していない。ただ、二人で千鶴のお見舞いには行ったような話だけは知った。

 私が過ごしていたのは、ただバイト先と家を往復する日々だった。今度こそ、本当に虚無だった。他に行く場所なんてどこにも無かった。ずっと体調が悪かった。そして、私はバイト中に倒れた。

 栄養失調と過労と貧血だった。碌に食事をとらず、碌に寝ず、ずっとバイトのシフトを入れていたせいだ。気が付くと私は事務所の椅子の上に寝かされていた。事務所に入ってきた佐々木は私が起きたことに気付くと、早退して病院に行くようにと店長指示が出ていることを伝えてくれる。心配かけたことと迷惑かけたことを謝り、店を出た。ふらつく足取りで最寄りの病院で診断されたのはそんな三つだった。

 私は栄養剤を摂り、精神科か心療内科に掛かることを勧められる。店長にそれを伝えると、しばらく休むように言われた。

 こうして、私はただ家で引きこもるだけとなった。

 ただ一人で惰眠を貪るだけ。誰とも関わることのない生活。最早、遮光カーテンを開けなければ今が朝なのか夜なのかすら曖昧だった。

 私が望んでいたのは、案外こんな生活だったのかもしれない。喧騒が嫌いな私にとって、孤独は一番心が安らぐ。はずだった。

 なのに、メッセージの通知音が鳴るたびに、スマホを覗き込んでしまう。返事は返さないくせに、いつ連絡が来るのかを待ちわびている自分が居た。

 一人で居るのは、とても怖かった。電気の付けていない部屋で、スマートフォンの通知を報せる光だけが私を照らした。無音の部屋はとても寂しかった。

 気が、狂ってしまいそうだった。

 そのインターフォンが鳴るまでは。


「朱音さん。居ますよね。開けてください」

 外からはもかの声がする。なんだか、もう懐かしい。もかは戸を叩いて、部屋の中に問いかける。下のオートロックはどうやって突破したのだろうか、なんてことを考える。

 やがて、私が返事をしないと悟ったのか、ドアノブを捻って扉を開けようとした。その扉はそのまま開く。鍵なんて、掛けた覚えがなかった。だから当然、開いた。

 居たのはもかと由海の二人だった。廊下には放置されたごみ袋が置いてあったが、それを無視して通り過ぎてくる。

 私はベッドの上から起き上がらなかった。起き上がれなかった。起き上がる気力も体力もなかった。ただ顔だけは二人を向いた。

「朱音さん……!?」

 よほど酷い顔をしていたのだろう。二人は私を見ると驚いたような表情をした。もかは私の身体を無理矢理起こす。

「ちゃんとご飯、食べてますか?」

 最後にまともに食べた記憶があるのは、二日前だった。それから私は、ずっと寝ていた気がする。

 私が首を振るともかは私に抱き付いた。まるで親が子どもに愛情を込めるように、もかは私に身体を寄せる。

「もっと、自分を大切に扱ってください」

 涙声で、もかはそう言った。

「悪い予感、的中っすね……飲み物と軽いご飯買ってきたんで、食べてください。何が好きか分かんなかったんで、適当すけど」

 由海はそう言うとコンビニ袋からお茶とおにぎり、菓子パンを取り出す。私はそれを何とか受け取り、口に含む。甘いパン生地が美味しかった。

「昨日、千鶴さんの二回目のお見舞いに行きました。それで、朱音さんのことも聞いたんですけど、濁されてしまって……それで、その日中に連絡が返って来なかったら、家まで行ってみようって由海ちゃんと約束したんです」

「一応、さっき朱音さんのバ先にも行ってみたんすけど、バイト中倒れてしばらく休んでるって言われたんで、こりゃマズいなと思ってこうして色々買ってきたわけっす」

「……あぁ、うん。ありがと」

 パン生地を飲み込みながら、返事をする。久しぶりに出す声は掠れていた。

「千鶴さんが倒れて、朱音さんが居なくなったら、残された私たちはどうすれば良いんですか……? 折角ライブまで出来たのに、私たち、もう、終わっちゃうんですか?」

「そう、だね。もう終わりだ……」

 そうだ。もかの言う通り私たちはもう終わりだった。千鶴はライブに出られない。そもそも、私たちはゴールを決めていなかった。ライブを一つの区切りとするのなら、私たちはもういつ終わっても良いはずだ。

 そもそも私たちの関係性なんて、そんな曖昧なものだ。「私の歌が聞きたい」というもかの要望には、もう応えている。ならば、私の役目はもう終わっても良いはずだった。だから、私たちはここで終わりだ。

「……なに勝手に終わらせてるんすか。勝手に終わらせるなっすよ。勝手に誘っておいて、そっちの都合でバンド組ませておいて、それでライブ一回ちょろっと済んだら『はい終わり』って、そりゃあないっす。あり得ないっす……流石にふざけんな、って感じっすよ。あんな程度のライブで終わりなんて……うちはまだこの程度じゃ満足してない!」

 由海が叫んだ。私を押し倒し、覆いかぶさる。ベッドのスプリングが強く跳ねる。菓子パンのくずが床にこぼれる。

「由海ちゃん、ちょっと……!」

「うちは元々バンドを組むためにここに居るんすよ! でもそれ以上に好きだから……朱音さんもチズさんももかもみんな好きだから、ここに居るんです。うちは今まで何個かのバンドを組んできました。けど、みんなやる気がなかったりうちの性格で嫌われたり音楽性が合わなかったりで、どれも全部抜けてきました。元々一人でやる方が性分に合ってたんで、最後のバンドを抜けてから、ずっと一人でやってましたし――実はもうバンドなんて組まなくても良いって思ってました。でも、もかとの縁があったおかげで、うちはチズさんと朱音さんに出会えて……ELPISに入れました。三人はうちを受け入れてくれました。それなのに折角見つけた居場所を、そう簡単に壊させてたまるか! ……っす」

「……そんなこと言っても、もう四人でライブは出来ない」

 もうライブは出来ない。これは変えられない事実だ。由海の目を見ず、私は言う。視界が滲む。

「うちは……! ……うちは、うちをうちとして認めてくれる人が居れば、それだけで良いんすよ! バンドをして、音楽をすること自体もうちにとっては確かに大事です。でも、バンド仲間と――大好きな人たちとああいう風にパリスでダラダラお喋りするのが、うちにとっては一番大切な時間だったんすよ。だから、それを繋ぐための『バンド』っていう関係性がこんな簡単に壊れることは許せないんす!」

 由海は、まるで病室に居た千鶴に反論した私のようだった。喩え、他に居場所があろうとも、『ELPIS』という四人の空間に代わるものはどこにもなかった。

 私は、千鶴にそんなことも伝えられなかった。ただ、感情的に怒り、自暴自棄にさえなっていた。

 あまりにも自分らしすぎて、笑えてくる。由海は私の上から起き上がると、床に正座した。

「……それで、朱音さん。実はうち、ずっと黙ってたことがあって。この間、チズさんがこうなったのはうちのせいって話をしたと思います。多分、チズさんの症状に一番気付いてたのはうちなんすよ。……うち、後ろにいるからみんなの様子よく見えるんすけど、スタ練中のチズさん、時々心臓の辺り押さえたり苦しそうにしてて。休憩中、スタジオの外で何度もうずくまったりしてたんす。……当然、心配したっすけど、たまたま持ってた痛み止めを分けたり、飲み物買ってくるくらいしか、うちにはできなくて……。軽く病院行くように言っても本人は『大丈夫だよ』としか言わないし、みんなには……特に朱音さんには絶対に気付かれないようにしてたっぽかったんで、うちも相談とか、言えなかったんすけど……」

 私は一度も、千鶴の辛そうな顔を見た記憶がなかった。しかし、考えてみれば、スタジオ練習中の千鶴は休憩になるとすぐに外へ出て行っていた覚えがある。思えばこの間のライブハウスでの演奏直後だって、しばらく千鶴の姿を見た記憶がなかった。

 千鶴はずっと、苦しんでいたのだ。そして苦しんだ結果、最後には倒れてしまった。私はそんな千鶴の様子に気付かず、何不自由ない生活をのうのうと送っていた。

 私は鈍感な自分自身を呪う。ずっと気付けなかった私を憎む。

 こんなんで、何が親友だ。

 私は立ち上がり、ぼやけた頭のまま、外に出る支度をする。立ち上がると、倒れそうなほど強烈な眩暈がした。でも、行かないと。

「ちょ、朱音さん!?」

「千鶴のとこ、行ってくる」

「今の状態じゃ、朱音さんの方が倒れちゃいますよ! 今日は休んで、明日にしませんか?」

「それじゃ、遅すぎる」

 私はもう充分休みすぎた。私のこの行動は本来であれば一週間早くするべきだった。しかし立ち上がろうとする度に酷い眩暈で平衡感覚が掴めず、膝から崩れ落ちてその場に座り込んでしまう。

「朱音さん、チズさんは今日退院なんで、今から病院行っても無駄っす。明日にしてください」

 何度かの問答の末、私は二人の説得を仕方なく受け入れ、由海の買ってきたおにぎりを食べる。

「由海さん、ごめん」

「うちの方こそ、チズさんのことずっと黙ってて、ごめんなさい」

 それから私はただ無言で胃を満たしていた。


 次の日、由海からメッセージが来た。

「今日の午後2時にチズさんとパリスで待ち合わせしました。朱音さんも来てください。もちろんもかも呼んでます」

 ちゃんとした文章も書けるんだなと内心感心しつつ、私はパリスへと向かった。昨日よりも眩暈は良くなった。

 久しぶりの扉をくぐる。由海ともかはもう既に来ていた。千鶴はまだ来ていない。

 私は二人とは喋らず、近くのテーブル席に座った。入江さんの煎れてくれる美味しいはずのコーヒーは、全く味がしなかった。角砂糖をいつもよりも多めに追加しても無駄だった。

 やがて2時を少し過ぎた頃、パリスの扉が開いた。千鶴が顔を出す。でも私はそちらを向けなかった。向けられなかった。

「千鶴さん! 体調はどうですか?」

「あー、うん。色々薬も貰ったし、過度な運動しなければ、日常生活程度なら全然大丈夫だって」

「ホントすか! なら良かったっす」

 三人が和気あいあいと話している間、私はどうするべきかを考えた。でもきっと、考えるより行動した方が私らしい。立ち上がり、千鶴の方を向いた。

「千鶴。久しぶり」

「……朱音、久しぶり」

 お互いにたどたどしい挨拶だ。そんなことはどうでもいい。

「千鶴、私は千鶴と一緒にこうやってバンドが組めて、本当に――」

「あたしはね、朱音。ずっと朱音が羨ましかったんだよ。ずっと、って言うのは、初めて会ったあの日から」

「――え?」

 初めて会った日――講演会の日。

「覚えてる? 『中学女子の悩み・カウンセリングセミナー』――あたしたちはそこで出会ったよね。たまたまその講演会の席が隣同士で、あたしから話しかけた」

「……覚えてるよ」

 私は覚えていた。忘れるわけがなかった。私にとって、人生が変わったあの日を。


 小学生の頃から友達が少ない私は、中学に上がっても依然として一人で過ごすことが多かった。両親は自分たちの落ち度を無視し、私を『人に馴染めないおかしい子』なんだと決めつけた。

 中学二年生だったある日、両親に無理矢理連れられ、そんなタイトルの相談会兼講演会に参加させられることとなった。最初は行くことさえ嫌だったけど、両親は別室に居ると言う話を聞き、ほっとしたことを覚えている。

 そんなセミナー中、講師は私たちに向けて、隣の人とコミュニケーションをとるように仕向けた。ちょっとしたレクリエーションだった。簡単な自己紹介と、好きなものなどを自由に話すと言ったものだ。

 私は一番左端の席であったため、右隣の人に話しかけるよう指示されたが、そんな無駄なことに大して興味もなかったため、やらずにいた。

「やる?」

 ふと、右隣の少女が私に声を掛けてくる。ショートヘアの少女だ。

 やさぐれていた私はぶっきらぼうに返事をする。

「セミナーが終わったらどうせ知らない人だし、やる意味ないじゃん」

「同感。あたし、なんでこんなところ来ちゃったんだろ」

 私以外にも仕方なく訪れた人が居たことに驚き、私は共感を示した。

「私も、両親に無理矢理連れてこられた」

「え、そうなの。……じゃああたしと似たようなもんか」

 私たちは笑い合い、せっかくなら、と結局自己紹介をし合う。

「私、比良田朱音」

「あたしは千鶴。追川千鶴。ええと、好きなことは音楽かな」

「音楽?」

「うん、CDから曲を聴いたり、ギターとか弾いたり。あんまり興味ない?」

 私は首を振る。音楽なんて、学校の授業以外ではまともに聴いたことがなかった。ほんの少しだけ、興味があった。

「気になる」

「じゃ、これ」

「……なにこれ?」

「イヤホン。耳に着けて」

 レクリエーション中にも構わず、千鶴は私に白いコードを手渡し、耳に着けさせた。千鶴は音楽プレイヤーを操作し、再生ボタンを押す。その瞬間、私の身体は飛び跳ねた。

 激しく掻き鳴らすギターの音が耳を貫いた。

 心臓をえぐるようなドラムの音が響いた。

 低くうねるベースの音が耳元ではじけた。

 私はそのとき初めて、ロックというジャンルを知った。衝撃を受けた。

「どう?」

 千鶴は笑いながら私に問いかける。

「凄い」

 心からそう思った。頭が痛くなりそうな騒音で、心臓を揺さぶるような振動だ。こんなもの、私は知らなかった。ただ一言しか、言葉が出てこなかった。

 私の感動は言葉が少なくても千鶴にも伝わったようで、満足そうに頷いていた。

「良ければ、連絡先教えてくれない?」

 セミナー終了直前、千鶴は私にそう言った。

「最初、『セミナー終わったら知らない人だし』って話してたじゃん。だから、せっかくなら終わった後でも仲良くしたいなって思って」

 そんなことを言われたのは初めてだった。私は両親に無理矢理持たされていた携帯電話のメールアドレスと電話番号を紙に書いて渡す。

「ありがと。また連絡するよ」

「その……私の方こそ、ありがとう」

 それが、私と千鶴の最初の出会いだった。


「あの日、朱音は『両親に無理矢理連れてこられた』って言ってたよね」

「うん。千鶴も同じだって言ってた」

「あたしはね、実は全く違うんだ。あたしからお母さんに行きたいって言ったんだよ。……迷惑ばかり掛けてて、ごめんなさいって言うために」

 千鶴は深呼吸をして、話を続ける。

「あたしの両親は小学生2年生の頃に別れてて、あたしはお母さんと二人でずっと暮らしてたの。もちろん、養育費だとか慰謝料だとかはお父さんから貰ってたみたいだから、お金が全く無いって訳じゃなかったけど。でも中学生に上がって、あたしは『他の人とは違うんだ』って思い込んで、不良グループとつるむようになった。多少悪いこともしたし、夜遊びなんてしょっちゅうだった。……で、中二になってとうとう警察沙汰を起こしちゃったの。万引きがバレて、スーパーの事務所に連れていかれて、警察とお母さんが来て……。でもお母さんはあたしを叱らないで、ただスーパーの人やお巡りさんに謝ってて、あたしのために角が立たないようにひたすら謝ってたの。あたしはそれで、あたしがやったことの重大さに気付いて、改心しようと思って……。それでたまたま見つけたあのセミナーに申し込んでみたのが、きっかけ」

 私は知らなかった。千鶴が不良だったことを。母親と二人暮らしなのは会話の上でなんとなく知っていた。しかし、それ以上のことは何も知らなかった。私は千鶴のことを本当の意味で何も知っていなかった。

 私のショックなど知りもせず、千鶴は私に向かって話し続ける。

「だから、朱音がそういうことを言った時、凄く羨ましかった。心配してくれる両親がちゃんと揃って居ることが羨ましかった。楽器を買いに行った時だって、羨ましかったんだよ。あんなにお金の入った封筒を見た時、朱音はあたしと違って裕福に暮らしてるんだなって悟ったよ。あたしのギターは小さい頃に貰ったお父さんからのお下がりだったから」

 千鶴はもう、私を見ていない。きっともう、私に向かって喋っていなかった。

「ずっと朱音が羨ましかった。初めて会ったあの時も、一緒に楽器を買いに行ったあの日も、軽音部で朱音がちやほやされてたのも、もかちゃんが朱音に憧れてここに来た時も、今もずっとずっとずーっと羨ましかったんだよ」

「千鶴……」

「これが嫉妬って言うことは、あたしだってわかってる。あたしだって思いたくて思ってるわけじゃない。

 ……朱音はもっと、自分が恵まれてることに気づいた方が良いよ。こんな、みじめな人生を送り続けて、ようやく頑張ろうって思った瞬間に病気になっちゃった私なんかよりも、ずっと幸せなんだって」

「そんなこと……」

 そんなことない。私の否定しようとする言葉は、千鶴によって掻き消された。

「そうやって、自分が持ち上げられたくないからって、都合悪い発言を否定する朱音の態度、ずっと嫌いだった。朱音のことなんか――ずっと大嫌いだった!」

 千鶴は逃げるように去っていく。病み上がりだというのに、あれだけの勢いで走っていくのは、明らかに危険だった。

 私は、追いかけられなかった。追いかけたところで、掛ける言葉がなかった。私は恵まれている。きっと、千鶴から見れば、私はとても恵まれていた。でも、私にはそうは思えなかった。目の前が真っ暗になったようだった。

「千鶴さん、嘘は言ってるように見えませんでした。……でも本心を言っているようにも見えませんでした」

「……うん」

 もかは私に寄り添って優しく囁いてくれる。私に気を遣ってくれている。そんなことすら、今の私には悔しかった。

「私、千鶴さんのこと探してきます。どこか心当たりある場所はありませんか?」

 そんなの、無かった。私は千鶴のことを、何も知らなかった。長い間ずっと、一緒に過ごしてきたはずなのに。時間だけがただ無駄に流れていたことに気付いた。私はただ横に首を振ることしかできない。

「……とにかく、探してきます! 万が一すれ違いで帰ってきたら連絡くださいね!」

 もかは無言の私に無理矢理な笑顔を見せ、店を出て行った。そして私と由海がその場に残された。由海はコーヒーを飲みながら私に問いかける。

「二人きりの場って、意外と初めてかもっすね。朱音さん、どうしたいすか?」

「…………」

 決まっている。千鶴を探して――探しても、私が何かを言える立場ではない。

「そりゃそっすよね、探したいっすよね。でも『私なんかが探しても~』って思ってる。それ、千鶴さんが嫌いって言ってたことそのものっすよ。そうやって、自分のことを駄目だと思い込もうとして、自分が駄目であることを人に押し付けることが、チズさんは嫌だったんすよ。……多分、朱音さんの態度がチズさんのコンプレックスを刺激したんだと思います」

 由海は私の心を読むように、そんなことを言う。

「あ、なんで分かるのって顔したっすね。うち、昔から色んな人と会って、その度に嫌われたりしてたんで、この人がこう思ってるんだろうなって言うのとか、なんとなく分かるんすよ。こんなちゃらんぽらんでも、見てるもんはちゃんと見てるんす。

 ――だから言いますけど、チズさんのところに行ってあげてください。朱音さんじゃないと、駄目なんすよ。朱音さんがチズさんのことを大切に思ってるように、チズさんも朱音さんのこと、きっと大好きなんです。……チズさんは多分、店出た辺りでもかに捉まってると思いますよ。いつもよりも苦しそうに走っていったから」

 私は、外に飛び出した。パリスから外に続く階段を駆け降り、左右どちらへ向かったのか考える。直感で、左を向いた。渋谷の中心街へ続く下り坂だ。そちらに向かって走ろうとするが、ふとすぐパリス隣の路地裏を見た。

 そこに千鶴は居た。胸の辺りを抑え、アスファルトの上で、壁に向かって蹲っている。隣にはその背中を優しくさすっているもかが居た。

「ち、ずるっ……!」

「朱音さん……」

 私は千鶴の元へ駆け寄り、声を掛ける。

「千鶴、千鶴……!?」

「……大丈夫……ちょっと、休憩すれば……」

 苦しそうな息遣いで、千鶴は返事をした。私は頭が真っ白になった。そして、このまま千鶴が死んでしまうかもしれないという考えが、頭をよぎっていた。

「そ、そうだ……救急車、呼ばないと!」

「そこまでじゃないから、本当に大丈夫……急に動いたせいだから……。呼吸整えて、だいぶ良くなってきたところだから」

 私は黙って見ていることしかできなかった。

 やがて、千鶴は身体を起こし、壁を背にして座った。右手は未だ心臓付近を押さえている。ゆっくり呼吸をしているが、とても苦しそうだった。

「朱音……なんで探しに来たの」

「なんで、って」

 理由なんて要らない。友達を探しに行くのに、理由なんて要らなかった。

「あんな酷いこと言ったのに……なんで」

「酷いことを言われたから、だよ」

 千鶴は黙り込んでしまう。そのまま、私たちの間には時が流れた。もしかしたら、今この世界には私たち二人しか居ないんじゃないか。そんな錯覚があった。

 やがて世界の外から、もかがしびれを切らしたかのように口を開いた。

「千鶴さん。朱音さんに謝ってください。酷いこと言ったって自覚があるんですよね。だったら、謝ってください」

 もかの言葉に千鶴は顔をしかめる。数度、口ごもった末に口を開いた。

「……朱音、ごめん。ちょっと言い過ぎた」

 千鶴は私の目を見て、そう言った。

「……朱音さん、何か千鶴さんに伝えたいことがあるんじゃないんですか?」

 もかに促され、私は口を開いた。年下に仲裁される私たちは酷く幼稚だ。

「私は……ずっと千鶴に甘えてきてた。千鶴が引っ張ってくれることを良いことに、私は千鶴が決めたことにただ付いていってるだけだった。私から何かを決めたことなんて、今まで何一つもなかった。私の行動は全て、千鶴が導いてくれていたから。……だから、私だって千鶴が羨ましかった。私よりも明るくて、格好良くて、行動力があって、いつもみんなを引っ張ってくれる千鶴が、本当は羨ましかった。本当は千鶴みたいになりたいけど、私には出来なかった。だから何もできない自分が嫌いで、でもそんな自分を受け止めてくれる千鶴にまた甘えてて」

 そうだ、きっと私は――。

「私はずっと、千鶴に助けられてきたんだよ。だから憎まれはしても、謝られる義理なんてなかった。だから――私こそ、ごめん」

 千鶴に出会ってきてから、私はずっと千鶴の後ろを歩いているだけだった。もかと出会ってからもそうだ。私は千鶴によってバンドを再開させ、千鶴が決めたライブに出た。千鶴は『自己満足の自業自得』だと言ったが、きっと千鶴は自分のために決めたんじゃない。私のために、決めたんだ。日々のスタジオの予約や予定決め、ライブでの進行打ち合わせまで、千鶴は私たちに見えないことまでをこなしてくれた。それらは全部、全部全部私のためだった。

「私には千鶴が必要なの。私には――千鶴みたいなことは出来ないから。千鶴が私を羨むように、千鶴にも私が羨むような力があるんだよ。だから、死にたいとか、朱音には別の居場所があるとか、そんなこと言わないで」

「ちょ……痛いよ……」

「あ……ごめん」

 私は思わず掴んでいた千鶴の肩から手を離す。

 千鶴はゆっくりと息を整えながら、壁に寄りかかった。そして千鶴は少しだけ笑う。

「……確かに、そうだよね。朱音ったら、あたしが居ないと何にもできないもんね。あたしが居なければバンド組もうにも声掛けられないし、逆に掛けられても口下手だから知らない人相手だとすぐ黙っちゃうし、そのせいで怒ってるのかと思われてすぐに避けられちゃうし。よく黙ってれば美人って言葉があるけど、むしろ黙りすぎてるせいで朱音って結構損してるよね」

「……別に得しようと思ったことないけど」

「そうやってむくれてる時の朱音、凄く好き。恥ずかしがってるのを隠そうとしてる感じがして可愛い。もかもそう思わない?」

「え。……まあ、少しだけ」

 私は二人を睨もうとした。けど、睨めなかった。そんな私を見て、千鶴は笑っている。

「うん。……この間の私は多分、落ち込んでたんだと思う。折角ライブが成功して、私たちの仲も深まってて、やっと動き出そうとしてる時に、私はまたこうなっちゃうんだって。正直言うと、ショックだったんだよ。だから、だからこそみんなには私が居なくても頑張ってほしくて、あんなことを口走った。その、ごめん」

「でも私の方も、配慮に欠けてた。謝る」

「ううん、私の方こそ、朱音への配慮がなかった。今さっきもかちゃんから聞いたけど、あれから自棄になってバイト先で倒れたんだって? 全く何してるんだか……。それなのに、さっきはまた突き放すようなこと、言っちゃった。なんかもう朱音のこと、分かんなくなっちゃってさ……。本当にごめん。朱音のことなんて、嫌うわけないのに。私の一番の友達のことなんか、嫌いに思ったりするわけないのに」

 私は首を振った。

「千鶴の言ってたことは一理あると思う。私はずっと卑屈だった。自分でも気づいていた。ずっと殻にこもって、ただ千鶴に付いていくだけで、褒められるとすぐに否定して……そんなの、不快に思われても当然だと思う」

 私は自分のことが嫌いだ。でもそんな自分を羨ましがってくれる人が居ることは、きっと幸せなことだ。

「だからさ、あたしはそんな朱音も含めて好きって言ってるの。もかちゃんもそうだって、さっき聞いたでしょ?」

「え?」

「だから……褒められて照れ隠ししてる朱音のことも、私たちは好きってこと。卑屈すぎるのは確かに良い気はしないけど、それを含めて朱音は朱音なの。ベースを弾いてるときは格好良いのに、実は根は暗くて、口下手で、不器用で、恥ずかしがり屋な朱音があたしは好きなの」

 好きという言葉を連呼されると、どうも恥ずかしい。ということは、きっと今この瞬間の私も千鶴は好きなのだろうか。

 私はあまりに面白くて笑った。つられて千鶴も、もかも笑った。

「そろそろ戻りましょうか? 多分由海ちゃん、ずっと一人で待ってて怒ってますよ。戻ったら絶対『仲間外れっすか!?』って言ってきますよ」

「そうだね、じゃ、そろそろパリスに戻ろうか」

 千鶴はゆっくりと呼吸を整えて、深呼吸する。

「――でももう、ライブには出られないんだよね。激しい運動が出来ないってことは」

 私は小さく呟いてしまう。千鶴が居なくなっても、リードギターを外してスリーピースとして活動出来ないことはない。しかし、そこまでして活動することで何になるのか。私たちはまだその話し合いが出来ていなかった。

「……勝手にライブできないって、決めつけないでもらえる?」

「何言って……」

「――激しいだけが、ロックじゃないってことだよ」

 千鶴はもう一度大きく深呼吸をすると、立ち上がった。

「由海ちゃんも交えて今後の方針について、話そう」

 そう言うと、パリスへ向かって歩き出した。その顔は、元の千鶴に戻っていた。

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