8.Live

 ライブ前日の夜はいつも緊張して眠れなかった。いざステージに立つとそこまで緊張しないのに、どうにも前夜だけは胸が高まって眠れなくなる。もしかしたらステージ上のあれは一種の諦めに近いのかもしれない。

 高校生組が冬休みに入ったこともあり、私たちは火曜日から三日間スタジオに入り浸り、練習に勤しんだ。そのおかげで一曲目、二曲目までは無事に仕上がる。

 問題は三曲目だった。例の高難度の曲だ。元々メンバー全員が慣れてきた後に書いた曲であるため、難易度は二曲と比べて明らかに難しい。初心者のもかだけでなく、この曲を初めて叩く由海も、久しぶりの私と千鶴ですら苦戦していた。ブランクのせいか、昔は弾けたフレーズが弾けなくなっていた。

 練習最終日にしてようやく通しで合わせることが出来た。ただその出来栄えはあまりにも心配であるため、本番で弾くかどうかはその場の調子で決めることにした。そうして、心配事を抱えたまま本番前夜に至る。

 眠るのを諦めた私はベッドから起き上がり、ベースをアンプに繋げるとヘッドフォンを着けた。そして一通り曲を通しで練習した後、ELPISのグループメッセージに短文を送ってみた。

『久しぶりのライブ、すごく楽しみ』

 すぐに既読が付く。きっと千鶴か由海だ。

『うちもライブ出るのは久しぶりなんすよね、ぶっちゃけ緊張してます』

『本番前日なのに寝れない子がこんなに居るぞ~?』

 案の定、その二人だった。

『うん。目を閉じても寝れなそうだったから、練習してたところ』

『うちもっす! 夜中でも叩ける電子ドラム便利!』

『やっぱり? 何故ならあたしもそうだからね。もかちゃんはしっかり寝れたのかな』

 夜の二時を回っていた。普段のもかならとっくに眠っている時間だ。

『……実は私も眠れてません!』

『お、やっぱり来た笑』

『だって、頑張って寝ようと思ってたのに皆さんから通知来るんですもん!』

 それなら通知オフにしておけば良いのに、と思ったがそれはそれできっと気になって眠れなくなるのだろう。

 私たちはほんの少しだけメッセージ上でお喋りをして、そして二時半までには解散した。


 当日は昼頃の開場だった。トリ前であるから、いつ来ても問題ないと主催者から言われたそうだが、折角だから開演からライブハウスに行き、他のバンドの演奏を観ようという話になった。

 受付にてバックステージパスを受け取り、服の見えやすい位置に張り付ける。私と千鶴は腹部、もかは腕、由海は右肩に張り付けた。これをスタッフに見せればライブハウス内の出入りは自由となる。

 会場内は既に多くの人が詰め寄っていた。この中にはきっと私たちのように演者側も居るのだろう。

「とりあえず主催に挨拶しにいこう。きっと向こうも待ってるはずだし」

 私たちはステージ裏、楽屋という名の共有荷物置きスペースに向かった。

「おー、千鶴、よく来たね! 朱音も元気そうで何より。後ろの二人は例の新人?」

 くしゃっとした笑みが特徴的な女性が部屋の椅子に腰かけていた。茶髪のショートで、千鶴に向かって仲が良さそうに声を掛ける。私のことも呼び捨てだったが、見覚えがない。

「お久しぶりです、佳那先輩! 直接会うのは二年ぶりくらいですよね?」

「佳那先輩……?」

 私の記憶の中から、ふと彼女の笑みが浮かび上がった。音楽室、軽音楽部の部室、ギターを弾く横顔……。様々な景色がフラッシュバックした。この人は――。

「たった数年会ってないだけで元バンドメンバーを忘れちゃった? 右も左も分からない朱音のこと、あれだけお世話してあげたのに」

「え……先輩……?」

 そこに居たのは、私が軽音楽部で組んでいたバンド『シレーヌ』のギター、つまり二人居る先輩のうちの一人、佳那だった。

「仕方ないですよ、あたしは先輩の活動、ちゃんとSNSとかで見て知ってますけど、朱音は本当に久しぶりですからね」

 懐かしい笑みを浮かべ、先輩――佳那は私を見た。

「それにしても朱音もずいぶん大人になったね。あの頃はまだ幼くて可愛いって雰囲気もあったけど、今じゃもう美人って感じで」

「ちょっと……久しぶりなのに、そういうのやめてくださいよ」

 口ではそう言いつつ、私も嬉しさのあまり、思わず笑みがこぼれていた。ずいぶんと見た目は変わったが、本当にあの先輩だ。

「ほら、もかちゃんと由海ちゃんも挨拶して。この人は昔、私たちと一緒にバンドを組んでた先輩の竹田佳那先輩」

 千鶴に背中を押され、もかたちは佳那の前に立つ。

「ども、初めましてっす。うちは泉田由海って言います。よろしくおねがいしますねタケカナ先輩!」

「は、初めまして! 柳もかって言います。先輩方のお話は千鶴さんと朱音さんからよく伺っています!」

 フランクな由海と声が上擦るもかの落差が何だか面白かった。

「ん、よろしくね。ずいぶん元気で面白そうな子たちだねぇ。今から演奏も楽しみになってきたよ」

「ドラムならブイブイ言わせてるんで! うちに任せてくださいっす!」

「わ、私はまだ始めたての初心者なので……その、頑張ります!」

 挨拶もそこそこに、私たちは荷物を置いて部屋を出た。もう少し話していたかったが、そろそろ一バンド目が始まってしまう。

 私たちは暗くなったフロアへと向かった。


「バンド名の可愛さで言ったら娘々も負けてないんすけどねぇ」

 受付で貰ったタイムテーブルを見ながら、由海は未だにそんなことを呟いている。三バンドの演奏が終わり、今はちょうど転換の時間だった。今回の合同ライブは合計で九つのバンドが出演することとなっている。

 トリを務めるのは主催者である佳那が現在組んでいるバンドのようだ。どうやら最近インディーズとしてCDも出したようで、着実にファンを増やしているところだという。そのため、今回出演するバンドはどれも佳那の人脈で引っ張ってきたバンドではあるが、どこもプロやメジャーを目指しているようなバンドであり、今回のライブイベントはそんな若手が一堂に会する場でもあるという。そんなライブでのトリ前であることに、私は萎縮してしまい、ますます緊張することとなった。

「どう、久しぶりのハコは? ってまだ出演前か」

 佳那先輩だ。忙しい合間を縫って私たちに会いに来てくれたらしい。

「凄く、楽しいです。佳那先輩がいつの間にこんな凄い人になってたなんて、私知らなくて」

「まあ、まだ凄いなんて言える規模じゃないけどね。もっともっとライブして、近いうちに全国回って……地元に居るうちは、まだまだだよ」

「いえ……本当に凄いと思います。正直、私たちがトリ前なのも場違いじゃないかと思っていて」

 佳那先輩は朗らかに笑う。

「だって私が主催のライブだもん。私が入ったことのあるバンドは人生で二つ。今のバンドとシレーヌの二つだけ。だったら、私の後輩二人が入ってる新生シレーヌ、もとい『ELPIS』は私のバンドの直前に置くのが相応しいと思わない? 今日のセットリスト、心から楽しみにしてる」

 佳那はそう言うと、人に呼ばれて去ってしまった。

「三人とも、ちょっと良い?」

 私は千鶴たちを集めて宣言した。

「今日は絶対に三曲目までやろう。もし、失敗しても大丈夫。私たちならやれる。それと相談があって——」

 そうして、四バンド目の演奏が始まった。


 私たちの知っている人が次第に集まってきた。パリス店主である入江さんや中古楽器屋の店主とその友人、もかの両親、果ては昨日の夜、余ったチケットをなんとなく渡した佐々木までもがライブに来てくれている。気が付けば、私はこれほどまでの人と繋がっていた。

 七バンド目が始まった。緊張は最高潮に達した。心臓が脈打つ音が大きく聞こえた。全身が震え、いくら息を吸っても空気が足りなかった。背中を強く叩かれる。

「もうちょっと落ち着きな、らしくないよ」

 千鶴だった。背中の痛みが全身を巡る。

「ごめん。ちょっと外出てくる」

「おっけ。10分ね」

 私はそう言い残し、ライブハウスの外に出ることにした。大きく深呼吸して、心を落ち着かせる。18時を過ぎた空はもう暗く、辺りはすっかり夜に包まれていた。渋谷駅の方は煌々と輝いているように見える。

「……あ、朱音さん」

 どうやら先客がいたようだ。もかはライブハウスへ続く扉付近の壁に寄りかかっていた。上着も羽織らず、ただ立ち尽くしていた。

「もか」

 もかは私の隣まで来る。そして私の手を掴んだ。

「あ、朱音さんも震えてる。……良かった、私だけじゃないんだ」

 その手はとても冷たく、そして私と同じく震えていた。脈が速く打っているのが伝わる。

「もか、寒くない?」

「緊張でそれどころじゃないです。もしかして、私に声を掛けてくれた時の朱音さんもこんな感じだったのかな……」

「多分ね」

 実際にはここまで緊張していなかったと思う。でもそんな嘘でもかが安らいでくれるなら、それで良かった。

 もかは私の手を放そうとしない。もうすぐ千鶴の決めたリミットだ。私はもかの手を暖めるように両手で強く包むと、もう一回大きく深呼吸をした。


「来たね」

「待たせた」

「二人とも遅いっすよ!」

「由海ちゃん、ごめんね」

 そして私たち四人は集まった。

「最初は音の確認とチューニングだから、そんな緊張しなくて大丈夫。その後一旦楽器置いて捌けて、暗転した後SE流れてから改めて入場ね」

 千鶴は一人でスタッフと打ち合わせをしてくれていたようだ。こんな時の千鶴は仕事が丁寧で本当に助かる。

「それで、最初一曲目と二曲目を続けて演奏、その後MC入れて三曲目って感じで。MCはあたしがやろうか? それとも朱音がやる?」

「ごめん、任せて良い?」

「りょーかい、もかちゃんも由海ちゃんも喋れそうなら喋っちゃって良いから。……いや、由海ちゃんは喋りすぎないようにね」

「わ、わかりました!」

「了解っす。因みになんすけど、前入ってたバンドでは喋りすぎるからって理由でマイク置いてもらえなかったんすよね」

「……やっぱり由海ちゃんは喋るの禁止で」

 そんな緊張感のない話をしているうちに、客席側からは大きな拍手が聞こえてきた。どうやら前のバンドの演奏が終わったようだ。

「まあ、楽しんでいこうよ。あたしたちはプロ目指してるわけじゃないから。失敗を恐れるよりも楽しむことが第一で」

「なんか、気合入れしたいっすね」

「掛け声とか?」

「……じゃあ、みんな手を出して」

 私は最初にライブをした瞬間を思い出す。あの頃は、今よりももっと自由だった気がする。

「『ELPIS』、楽しもう!」

 「おー!」という四人の掛け声が一致し、私たちは楽器を持ってステージへと向かった。正面からはちょうど演奏し終わったバンドが戻ってきていた。

「あんたら佳那の後輩だろ。初ライブ、頑張れよ」

 すれ違いざまにそんな声を掛けてもらい、私たちは壇上へ向かう。


 ステージから見る風景はとても広かった。トリ前だけあり、観客席には大勢の人が居る。佳那も早く準備をしなければいけないだろうに、その中に混じって私たちへ手を振っていた。

 冬だと言うのに、首筋へ汗が伝うのを感じる。電球からの光が熱い。スポットライトが私たちだけを照らす。今この瞬間、この場の主役は紛れもなく私たちだった。ここにいる大勢の人たちは皆、私たちの歌を聞くためにそこに立っている。私たちの演奏を聞くためにここに居る。

 ならば、私はどうするべきなのだろうか。あの時、私はライブに興味のない人——もか——が少しでも楽しめるようにと、心を込めた。今日の私はどうするべきなのか。

 ……今日の私は、私自身が楽しむために演奏をするだけだ。最初に私が楽しまずして、誰が楽しめるのか。スモークが視界を曇らせる。今日の私は私自身のために歌う。私のためだけに歌う。ここは我儘な私のための我儘なステージだ。ならば——するべきことは決まっていた。

「初めまして、ELPISです。今日はよろしく」

 私はもかを見る。もかは私を見ている。

 私は由海を見る。由海は私に笑いかける。

 私は千鶴を見る。千鶴は私に頷く。

 そして千鶴は由海を見た。それが合図だった。私は足元に置いてあるエフェクターのスイッチを踏み、ピックアップに親指を乗せる。

 ハイハットの四カウントがフロアに響いた。そして、私は弦を弾いた。

 一曲目は私たち『シレーヌ』の始まりの曲。そして『ELPIS』で最初に演奏した曲だ。セットリストは急遽変えることにした。佳那が観ていると言うのなら、話は変わる。私たちの新曲は一番最後に決まっている。

 私は大きく息を吸い、そして歌った。

 歌詞に深い意味などなかった。平凡な女子高生四人が平凡ながらに書いた歌詞に過ぎない。それらしい人間の心情や言葉を綴った歌だった。でも、私にはそれが良かった。本番のライブで歌うのは両手を越える程度の回数でしかなかったが、私にとっては何十回と練習し、すっかり口に馴染んでしまっている歌詞だ。改めて覚え直す必要がなかった。身体はもう、その歌を思い出している。指先は過去をなぞるように軽やかに動く。人が詰まっているこんな窮屈なハコなのに、私にとってはどこまでも広がる舞台のようだった。

「青い春はいつか過ぎ去って、朱い夏が訪れて、白い秋を通り越して、玄い冬だけが残される」

 『青朱白玄』と言う曲だった。曲としては何の変哲もないシンプルなロックナンバーだ。爽やかなガールズバンドらしくもあった。

 そして、最後にはゆっくりとフェードアウトする。もかが右手を下ろすと、ギターのハウリングノイズがハコ中に走る。そのまま由海の4カウントで私たちは次の曲に移った。

 私が最初に作った曲は、当時高校生だった私たちには異様に難しく思えた。BPMは200を超え、止めどないギターのピッキングが鳴り響く。ベースもそれに劣らず、うねり動く。イントロだけとは言え、このベースを弾きながら歌うのは至難の業だった。ドラムはまるでこの地を踏み鳴らす巨人が如く響き渡った。由海がツインペダル使いでなければ、私の作曲通りには叩けなかっただろう。もかには、歪みのエフェクトを強くかけ、簡単なパワーコードを弾かせている。

『アンノウン』と言う曲だ。この世への不条理をぶつけた歌だった。それにしても、私が歌詞を作ると世界観が独特らしい。

「分からないことすら分からない。それってただの傲慢じゃん。溶ける氷河の上で、アイスクリームみたいって、耳を塞ぐ」

 そしてこの曲は一番と二番で曲調が変わる。由海はそれを自己流に上手く解釈し、シレーヌ時代とは違うドラムを魅せた。

 そしてギターソロ。ハーモニクスやチョーキングを混ぜながら見事に弾きこなす。やはり千鶴は凄い。私も負けずに、最後のサビに全力を込めた。

 アウトロが終わり、シンバルの音だけが最後まで残る。額の汗を拭い、私は息を落ち着かせた。

 千鶴は少し笑い、そして私に視線を寄こした。私にMCまでやれということだ。その想いを私は受け取る。

「改めまして、ELPISです。今日はELPISの初ライブにも関わらず、トリ前という大役を務めさせてもらって、主催の佳那さんや出演バンドの皆さん、来場者の皆さんには本当に感謝しています。ありがとうございます」

 本当はこんなありきたりなことを言うつもりはなかった。やはり緊張しているみたいだ。拍手が止み、静まり返る会場で、私は一人喋る。

「……私は、一度、音楽を辞めました。昔、 そこに居るギターの千鶴と、今回の主催の佳那先輩と、もう一人ドラムの先輩とで、私たちはバンドを組んでいました。でも、色々なことがあって、私たちのバンドは三年ほど前に解散……いえ、自然消滅しました。以降、私は佳那先輩とも今日まで連絡は取っておらず、正直に言うと三か月前まではこのベースすらまともに触っていませんでした。今後、私はもう二度と音楽をやることはない、とすら思っていました。何にも情熱を持たず、ただのうのうと生きてゆくんだ、と思っていました。……でも、今隣でギターを弾いているもかが私のファンだと名乗ってくれたから。そしてドラムの由海さんがこのバンドに入ってくれたから。千鶴が背中を押してくれたから。私はこうやって、もう一度音楽を志すことができました。

 ……今ここに立っている私は、皆さんのために歌えていません。これは私が私であるために、ただ歌っています。――でも、それでも、私たちの演奏を少しでも好きと言ってくれる人が一人でも居れば、私はただそれだけで嬉しいです」

 私は天を仰いだ。白いライトが眩しく、目を細める。ハコの中を開けると、そこから悲しみや絶望が私たちを渦巻いた。しかし、最後には希望だけが残されるという。私は、音楽という最後の希望にもう一度、しがみついた。

「『New Hope』」

 私はベースを弾く。ベースソロから始まる曲だ。これが私たちの新曲。シレーヌとの決別の曲。そしてELPISの始まりの曲。佳那に――過去の私に、今の私を見せつけるように、歌った。

 由海の叩きつけるようなリムショットの音が気持ち良い。もかのバッキングも安定している。千鶴のギターは相変わらず華麗だ。だから、私も負けないようにベースを弾き、そして歌う。

 酸素が足りない。頭が回らない。汗も止まらない。熱い。暑すぎる。何も見えない。ただ、音楽だけは鳴りやまない。この両手と口だけは動き続ける。

 そして、気が付けば私は立ち尽くしていた。拍手と歓声の中、私は立っていた。佳那はもう居なかった。きっと、準備をしに向かったのだろう。私の見知った顔がフロアのあちこちに居た。三年前、一緒に対バンしたことのある人たちもいた。どの人も皆、私たちだけを見て拍手をしていた。

 私は大きく礼をし、ステージの上を去った。

 胸の高鳴りが止まない。拍手の音も鳴りやまない。正面からは佳那が現れる。その後ろには知らない三人の顔ぶれだ。

「あんなの魅せられちゃ、堪らないね。でも私の新しい仲間も負けてないから」

 すれ違いざま、佳那は私たちに挑発的にそう言った。その声は、とても弾んでいた。


「本当はもっと、三人とバンドしたかった。でも出来そうにないと悟った瞬間、私は一人でも音楽する道を選んだ。正直、三人に『裏切られた』と後ろ指さされてもおかしくないと思ったよ」

 打ち上げはパリスで行うことになっていた。ライブの各出演者が店内に集まり、全ての席が埋まる。こんな騒がしい店内は初めてだった。

 私は各バンドの方々に挨拶をしに行き、そして最後に佳那の元へ向かった。佳那は私を隣に座るよう促す。

「……私は当時、それどころじゃなかったので。佳那先輩が新しくバンドを組んだことすら、実は知らなくて」

 なにせ音楽を続けていたこと自体、今日知ったくらいだ。

「でも、うん。千鶴から色々と話は聞いたから。二人がまたバンド始めたって、千鶴から急にメッセージ来たときは本当に驚いたよ」

「私はただ、流されてただけで……」

「でも新曲、最高に良かったよ。あの曲、また朱音が作ったんでしょ。私たちシレーヌはみんな変わっちゃったと思ったけど、私たちの中にあるものはずっと変わってない。……私たち四人のifの未来では、きっとあんな曲も出来たんだろうなぁって思うと悔しくなってくる。『なんで私がそこに居ないんだ!』ってね」

「佳那先輩は私たちが立ち止まっている間にも進み続けていました。それにはきっと覚悟も勇気も必要だったと思います。……私は佳那先輩のこと、本当に尊敬してます」

 佳那はいつもの笑顔で私を小突く。

「そういうの、こそばゆいじゃん。恥ずかしいことを言う奴め」

 気が付くと私もつられて笑みを浮かべる。佳那は昔からそういう人だった。周りに人が居る時はムードメーカー気質で、自分に対してはとてもストイックだった。

「で、久しぶりにやる気分、どうだった?」

「今でも身体が宙に浮いてる感じで……夢の中みたいです」

「そりゃあ良かった。――今度さ、もし良ければ風香も呼んでシレーヌの四人で……」

「ちょっと、朱音さん! 千鶴さんがホール人数少なすぎるから手伝ってくれって怒ってますよ! 由海ちゃんもその辺でドラマー引っかけてお喋りしてるし……」

 佳那がそう言いかけた途中、私の元にエプロン姿のもかが走ってくる。今日は普段お世話になっている入江さんへのお礼、そして佳那含む他のバンドへの急なライブ参加のお礼を兼ねて、ELPISの四人でパリスの手伝いをすることになっていた。私だけ一旦抜け、挨拶回りをしている最中だったことを完全に忘れていた。それにしても、エプロンを着けているもかは何だか新鮮だ。

「あぁ、ごめん。すぐ行くから。佳那先輩、話の途中ですみません。今日はゆっくりしていってください」

 私は佳那の言葉を最後まで聞かずに、その場を立ち去った。

「今更、だよなぁ……」

 小さく呟く、そんな声がした。


 12/30、私はいつものようにパリスへ向かった。昨日の喧騒がまるで嘘みたいに静まり返った店内には、いつものようにボードゲームをしている三人の姿があった。

 世界地図が描かれているボードの上のコマを動かしながら、赤や青など色付きのブロックを取り除いたり増やしたり、カードをめくったりしている。なんだか忙しないゲームだ。私は相変わらず、コーヒーを飲みながらそれが終わるのを待った。それにしても、最近ボードゲームの時間が長いように感じるのは、気のせいだろうか。

 やがて30分後、決着はついたらしく、私たちは手分けしてパリスの大掃除に取り掛かった。今日は年内最後の集合日であり、昨日の片づけ残しがまだだいぶ残っていた。それぞれ、箒や雑巾を持ち、掃除してゆく。

 思えばここ数年で一番濃い二か月間を過ごした気がする。もかと出会い、由海と出会い、バンド名を決め、曲を作り、そしてライブをした。

 ふと、私は気付いてしまう。私たちの終わりについてを。私たちはプロになるつもりはない。ただ、流れでバンドを始めただけに過ぎなかった。

 私たちはこれから先、どうするのか。私たちはそれについて話し合う必要があった。

 でも今は、こんなのんびりとした日々が続くことだけを願っていた。

 ……ただ、願っていただけだったのに。

 その日、千鶴は家で倒れた。私がそれを知るのは、千鶴が入院してから数日も経った後のことだった。

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