7.Sorry

 嫌な夢だった。きっと今日の出来事は全て夢だと思いたかった。私たちの関係は引き裂かれ、もう二度と立ち戻れなくなる夢だった。私たちはもう二度と元に戻れないかもしれなかった。

 自業自得だった。


 頭の痛みで目を覚ました。きっとお酒のせいだ。何もかもお酒のせいにしたかった。

 そもそもアルコールにはめっぽう弱く、好んで飲むことは滅多にない。冷蔵庫に入っているのは千鶴が遊びに来た時に置いていったボトルキープのようなものだった。それを私は小道具的に活用し、もかの前で飲んで見せた。

 今思えば酷いことをしたものだと、自己嫌悪が頭の中に渦巻く。

 壁の時計は早朝4時を指している。早く寝すぎたせいでこんな時間に目が覚めてしまった。窓の外は依然として暗く、冬の季節を実感する。

 水を飲むためベッドから立ち上がり、真っ暗な部屋から台所を目指す。そしてコップ一杯の水道水を飲むと、ようやく部屋の電気をつけた。

 そこには、もかが眠っていた。座布団を枕代わりに、私の上着を布団代わりにして横になっている。どうやら帰らなかったようだ。

 机の上にはすっかり冷めてしまった私の分の総菜が取り分けられ、そしてアルコール入りの缶は空になっていた。

 まさか……飲んだのだろうか。そんなことを考えながら、私は慌てて電気を消し、もかが起きてくるまで待った。

 やがて、6時。もかは目を覚ました。身体を起こし、辺りを見回している。

「……おはよう」

 一瞬、声を掛けるかどうか迷った。なんとか話しかける。もかは私の方を振り返ると、バツが悪そうな顔をする。

「……おはようございます」

「お酒、飲んだ?」

「……はい」

「どうだった?」

 半分好奇心のようなものだった。きっともかは咎められると思っているのだろう。

「……味は普通のジュースの方が好きです。でもちょっとずつ飲んでる間に頭がぼーっとしてきて……色々考えてたら眠くなっちゃって」

「寒くなかった?」

「いえ、朱音さんの上着、勝手に借りたので。このアウター、私には少し大きかったですけど、凄く触り心地良くて眠りやすかったです」

「そう。なら良かった」

 私はそれ以上口を開けなかった。本当は謝りたかった。けれど私の中の私がそれをさせなかった。私は誰からも期待されず、生きてゆきたかった。何も求められず、生きてゆきたかった。ただ死んだように生きてゆきたかった。

「……なんで、怒らないんですか」

 でも、もかはそうさせなかった。もかの目は赤く腫れていた。きっと、私のせいだ。

「私に怒る権利も資格もないから」

「なんで、怒らないんですか」

 もかは言葉を繰り返す。きっと、怒っているのはもかの方だった。

「私はもかを怒れない。だって、怒られるべきなのは――」

 私の方だ。

「なんで怒らないんですか、なんで叱らないんですか!? 私だって朱音さんと同じで悪い子なんです! 朱音さんが悪い子だから、私は朱音さんに怒ってるんです。なのに、朱音さんはどうして悪い子の私を怒ってくれないんですか!?」

 きっとそれは、私ともかとの関係性が非対称的だからだ。もかは私に対して、出会ったその日から既に強い好意の矢印を向けていた。対して私はこのように、どのようにしたらもかから嫌われるか、なんていう挑戦さえしている。私たちは、お互いへのベクトルの向きや強さがあまりにもかけ離れていた。

 だから、私がもかを怒ることは出来なかった。私の中の矢印がもかの方を向かない限り、それは不可能だった。

「…………」

 黙り込む。沈黙が訪れる。もかは赤い目で私を見つめる。私は……壁に寄せられたベースを見ていた。

 ふと立ち上がり、スタンドからベースを持ち出す。そしてもう一度ベッドまで戻った。

「もかは4人家族だっけ」

「……そうです。一つ上の兄が居ます」

「そっか。じゃあ今の時期は受験勉強も大詰めだ」

「毎日予備校の自習室行ってるみたいです。今、少しピリピリしてるみたいで、私のギターの音が煩いって言ってきたり」

「もかも来年は頑張らないとね。……お兄さんとは普段は仲良いの?」

「え、まあ、それなりには……。昔は色々と喧嘩とかしましたけど、でも最近は私の好きなお菓子とか買ってきてくれたりもしてくれて」

「良いね。私は一人っ子だから、そう言うの結構羨ましい」

「兄弟、欲しかったですか? 朱音さん、弟とか居たら凄く可愛がって面倒見そうですよね」

「そう見える? 私は姉か兄が居れば良かったのにってずっと思ってた」

 ベッドに横たわり、天井を見上げながらベースを弾いてみる。手首の向きや肩が固定されてしまうため、手が全然動かない。

「うちの両親はね、高齢出産だったんだ。ずっと子どもが出来なかったみたいで、やっとのことで私が生まれたんだって。だから兄弟の話なんて、そんなこと口にも出せなかったよ」

「そうだったんですね……」

「バンドが解散した理由――私が音楽を辞めた理由って、千鶴から聞いた?」

「一番最初、一回だけ尋ねたことあります。……でも『本人に聞いた方が良い』って言われました」

「……そっか、千鶴らしいや。折角だしそんな話しても良い?」

「……お願いします」

 もかは小さく頷いた。

「バンドが解散した原因って一言で言えなくて、色々あったんだよ。メンバーそれぞれの中で色々な要因重なってて、私の話はあくまでその中の一つでしかないんだけど。私にとっての一番の原因は、家族だった」

 もかの息を飲むような声がする。私は続けて話し出す。

「昔から私は過保護に育てられてたんだ。欲しいものがあったら何でも買ってくれたし、お小遣いも普通より多分たくさん貰ってた。でも遊びに行くときはどこに居るのかが常にわかるようにGPS付きの携帯電話を持たされてたし、外に居る時には一時間に一回電話をするように言われたり、中学卒業までは原則電車で出かけるのは禁止だったりで……。もっと他の子みたいに自由にしたいって思ってたけど、口には出せなかった」

「……どうしてですか?」

「なんとなく、両親の考えてることがわかってたんだと思う。きっと私のことを想ってやってくれてるんだって思うと、何も言えなかった。ただ中学生になってもずっとそんな風だったから、数少ない友達からも段々と面倒臭さがられてたけど」

「そう、だったんですね……」

「まあ、高校入学してからはだいぶマシになったけどね。それでも相変わらず『バンドなんかやるな』だとか『18時までには帰って来い』って言われて……。当時なんて毎日のように叱られてたよ。そんな気にしてなかったけど」

「…………」

「バンドを解散した原因の一つは、私の両親に学外でのライブがバレたから、なんだよ」

 人込みの中、私に近づいてくる黒い影が見えた。そしてそれは私に向かって手を伸ばし――私の頬を叩いた。

「もかが観ていたあの2月のライブ。あそこに私の両親も居たんだ。あの時のライブは観客も多かったし、私は演奏に必死だったから客席なんて全然見てなくて。ただあのつまらなそうな女の子が楽しめたら良いなって思いながら、夢中で歌ってて……。それで、演奏が終わってからしばらくして客席側に戻ったら――その場で無理矢理、家に帰されたよ。荷物は身に着けてたもの以外全部置きっぱなしだったし、他のバンドへの挨拶とかも全然出来なかった。……本当はあの女の子――もかにも、感想聞きたかったのに」

 私を探している少女が居た、と後日千鶴からのメッセージが届いていたことを思い出す。今思えばそれは、もかだったのかもしれない。私はそれに返信しなかった。

「両親はもしかしたら前から私のこと不審に思ってて、こっそり付けたGPSで追ってきたのかもね。それから、一晩中ずっと怒られて、家の外に出られないよう監視されてた。何日か学校も休むことになったし、親は学校にクレームを入れてた。『子どもだけでライブハウスに行かせるなんてどういうつもりだ』って。それで、部活の規則の『課外活動の禁止』って言うのに引っかかった。先輩二人は3月に卒業と言うことで見過ごされたけど、私たちは1月から3月までの2か月間、部活停止処分になって……当時部長だった千鶴は降ろされることになった」

「そんな……」

「なんとか、ベースを捨てられるのだけは死守したけど、二度と触らせてもらえなくなった。それに、触るような気分にもならなかったし」

 ベースを撫で、私は身体を起こした。

「それで大学入学して、一人暮らしを決めたんだよ。高校3年生の時はずっと親の言いなりで動いてたおかげで多少緩くなったし、今が抜け出すチャンスだって思って。それで、ベース一本だけこっそり持ち出して今こうして過ごしてる」

 もかは、何故だか泣いていた。私は泣けなかった。きっと私の代わりに泣いているのだと思った。私は自分のことだというのに、ニヒルに笑った。

「でもね、笑い話なんだけど、こうして一人暮らしをしてからの私の生活は酷いよ。大学はサボってるし目標もなく無為に過ごしてる。両親の元に居て過保護に暮らしてた方が、私はきっと幸せだった。かろうじてバイトだけは続けてるけど、そんなのただの惰性だし、最後の抵抗に過ぎない。親からは辞めろって言われてるけど、これだけは社会との唯一の繋がりだから」

 気が付けば空は明るくなっている。7時を回り、世界はまた動き出すのだろう。

「だから私はもかの憧れるような人間には……」

「――嬉しかったんです。今の話を聞いてて。一言程度しか喋ってない私のことを想ってくれていたことが、凄く嬉しかったんです。正直、あのライブハウスで話したことを覚えてるのはきっと私だけだろうなって思ってたから。だから、私も朱音さんみたいに誰かを想えて、誰かから想われる人間になりたいんです。そんな格好良い人に憧れちゃ、駄目なんですか? 私がこれまで朱音さんと出会ってから、私は一度も朱音さんのことを駄目だとか酷いとか思ったことはありません。……だから、昨日の夜は頭の中が疑問だらけでした。私の知ってる朱音さんは、人に気遣いが出来て、ベースが上手くて、格好良くて、優しくて、冷静で思慮深くて、でも情熱も持ってて――私は朱音さん本人に比べたら、朱音さんのことを詳しく知らないかもしれません。でも私が尊敬している朱音さんのことを、そんなに悪く言わないでください! それだけは、朱音さん自身でも許せません。私が知ってる朱音さんも朱音さん自身に含まれてるんです。それは私にとって、朱音さんの全てです。人間なんて、誰しも駄目なところとか、欠点はあると思います。でも私は私の知り得る朱音さんの全てに尊敬して、憧れてるんです。それなのに、そんな朱音さんのことを否定しないでください!」

 まるで殴られたかのように頭がふらつく。もう一度後頭部からベッドに倒れ込む。ベースのボディがあばら骨に勢いよく当たり、痛い。もかは立ち上がり、私の顔を見下ろした。

「もしも、朱音さんが自分を嫌いだって言うなら、私がそれを変えて見せます。朱音さんがどれだけ凄いのか、私がどれだけ憧れてるのか、ずっと伝え続けます。――だから、そんな暗い顔しないでください」

 まるで愛の告白のようだ。年下の少女から、ここまで言われて返さないわけにはいかなかった。いや、そんなことは関係ない。一人の人間として、私たちは対等だった。

「……ごめん」

 私は呟く。

「許してほしいんですか」

 私は頷く。

「じゃあ、まずは私を叱ってください。『高校生なのに、お酒飲むな』って」

「うん……」

 私はベースをベッドの上に退かし、起き上がって言った。

「もか、お酒飲むのはせめて大学生になってからにしなさい。それと、そのお酒は千鶴のものだから勝手に飲んだことを千鶴に謝りにいってください」

「え、でも開けたのは朱音さんじゃ……」

「飲んだから私と同罪。それにもかの方が私より多く飲んでるし。一緒に怒られにいくよ」

「わかりました……。それと、叱る以外にもう一つだけお願い良いですか?」

 もかはばつが悪そうに言った。

「一緒にうちまで謝りに来てください。『無断で泊まってごめんなさい』って」


 もかの家はうちから10分も離れていなかった。ここまで近いと偶然出くわしてもおかしくない距離だ。朝の8時、もかはこんな時間に帰るなんて初めてだという。何とも健全な高校生なのだろう。

 もかは一度大きな溜息を吐くと、立派な一軒家のインターフォンを恐る恐る押した。

「あの、もかです……ごめんなさい!」

 通話が繋がったと同時にインターフォンのカメラに向かって謝罪をする。私もその後ろで俯きがちに謝罪のポーズを取った。無言のまま切られ、玄関扉の奥から足音が聞こえてくる。

 やがて扉が開いた。現れたのはもかの両親と思われる二人だった。

「あの、ごめんなさい! 朱音さんの家に行ってたらつい遅くなって、そのまま寝ちゃって……その、連絡すら忘れててごめんなさい」

 もかは両親が口を開く前に再び早口で謝罪をする。二人の視線はもかから私へと移った。頭の中が真っ白になる。

「そちらが……朱音さん?」

「はい。比良田朱音と言います。いつもお世話になってます。ええとその、昨日は……すみませんでした」

 なんとか謝罪だけ口にする。

「いえいえ、立ち話もなんですし、どうぞ中に入ってください。もかもそろそろ頭をあげなさい」

 これから怒られるのだろうという緊張感を持ちながら、私たちはもかの父親に従った。

 整頓されつつも生活感のあるリビングまで通され、私はソファに座らされる。うちとは違い、とても清潔感のある家だ。少し羨ましい。

「改めまして、もかの父です。いつももかが世話になってます。朱音さんの話はいつも聞いていますよ」

「どうも、こちらこそ……」

 正面にはもかの両親がいて、なんだか面接や面談のようだ。隣に座っているもかは今にも泣きそうな顔をしている。目の前にはティーカップに入ったおいしそうな紅茶が湯気を立てていた。

 私が緊張して視線を彷徨わせていると、もかの父親はあっけらかんとして笑って話しかけてくる。

「もしかして、怒られると思いましたか? ははは、いやね、もかが朱音さんと遊びに行くことは予め聞いていたので、実はそこまで心配はしてなかったんですよ。朱音さん、そこの交差点のコンビニでバイトしているんでしたよね。それならきっと住んでいるのもこの辺りなんだろうというのも予測付いていましたからね」

「はぁ……そうでしたか」

 ほっと安堵する。それはもかも同じだったようだが、もかの母親が放った次の一言で再び萎縮してしまった。

「もか、あんたには後で言うことがあるからね」

 もかは私に助けを求める目を向けるが、家庭内の問題には迂闊に踏み込めない。無視する。

「それで……もかはどうですか。最近ギター始めたみたいで得意がってますけど、朱音さんや他の皆さんに迷惑掛けたりしてませんか?」

「そんな、迷惑だなんて……! むしろもかさんにはいつも凄く助けられていて……ギターも吸収が早くて私たちも教えるのが楽しいくらいです」

「そうでしたか、それなら良かった。私も昔は少しだけ楽器をやってたものですからね。今の子がどんな風にやってるのか、少し気になっているものでして」

「はあ……そうだったんですね」

 もかの父は笑顔のまま活き活きしている。その笑顔をじっと見ていると、もかに似ていた。

「だからもかがいつも話してくれる朱音さんという方も一体どんな人なのか気になっていて。……こうしてお話が出来て私は嬉しいんですよ。今度のライブも非常に楽しみにしています」

 その後、もかの両親との会話は終始和やかに終わった。頂いた紅茶はとても香りが良く、上品で甘い風味だった。「もし何かあったら」と言うことで、もかの父から名刺を貰うと、私はもかの『助けて』と訴えかける目を見なかったことにして、その家を後にした。


 火曜日の午後五時頃、パリスに向かう。いつものように私以外の三人はカウンター席に並んで座り、ボードゲームをしていた。ヨーロッパの地図に小さい電車型のコマを置いて遊んでいるようだ。しかし、もかは私が店内へ入ってきたことに気付くとゲームを放棄して私の元まで駆け寄ってくる。

 そして一言、

「なんで助けてくれなかったんですか!」

 と叫んだ。

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