4.Named

 久しぶりに出た大学の授業は退屈だった。最早出席を取る授業の単位は取れないことが確定しているため、せめてそれ以外の授業の単位を取れないかと、12月にしてようやく足掻き始めたところだった。大講義室の端の席に座りながら、実践経済だか実践経営だかの授業を呆然と聞いている。

 つまらない授業も終わり、私は帰る準備をする。今日はバイトもないし、パリスも今日は千鶴が休みのため、行く気が起きない。つまり大学に来たのはただの暇つぶしで、ほんの気まぐれだった。

 私はふと、一年前に一度だけ顔を出したことがある軽音サークルの存在を思い出した。大学に入学してから少し経った後、勧誘のビラを受け取って興味を持ったサークルだった。音楽をやりたかったわけではなく、大学の地下にある防音室で好きなだけ練習が出来るという話を聞いて、面白そうだと思っただけだ。

 何気なく、向かってみた。暇つぶしくらいにはなるだろう。

 地下への入り口は何の標識もなく、傍から見れば職員や事務員用の出入口にしか見えない。重い鉄の扉を開けると、まるで秘密基地かのように地下へと繋がる階段があった。階段を降り切ると、細長い廊下が正面と右方向にそれぞれ2つ伸びており、それぞれ右は倉庫、正面が防音室のある通路へと通じている。防音室側からは軽音サークルの音だけでなく、吹奏楽サークルのブラスの音色やコーラス部の歌さえも漏れ聞こえてくる。

 私は件の軽音サークルの部屋まで歩いて向かった。入り口前にはサークル名と「見学ご自由にどうぞ」と手書きで書かれた張り紙がある。防音扉のガラス越しから仲睦まじそうな男女四人が楽しそうに楽器を持ち、談笑しているのが見えた。

 やはり私には馴染めそうにない。あんな無邪気に笑うなんて、今の私には出来そうになかった。私はたった今までの出来事を全て忘れるように、今来た道へ踵を返した。


 次の土曜日、私はいつものようにパリスへと向かった。しかし木製の扉をくぐった先に千鶴は居らず、代わりにもかと由海がカウンター席に座っていた。

「今日、千鶴は?」

「あ、朱音さんこんにちは。千鶴さんなら遅れてくるって、入江さんが言ってました」

「あ、そうなの」

 千鶴のことだ、何か無茶なことをしていなければ良いけど。口には絶対出さないが、内心では心配だった。

 いつものように入江さんからコーヒーを頂き、ありったけの砂糖とミルクを注ぎ込む。その様子を見ていた由海は私にちょっかいかけてきた。

「うっわぁ、朱音さんってめちゃくちゃな甘党だったりするんすか? MIXコーヒーとか好きだったりするんすか?」

「まあ……確かに甘いものは嫌いじゃないけど。でもここ以外じゃコーヒー飲まないし」

「へぇー、うちはコーヒーはブラック以外飲まない主義なんで。あ、もかは大のココア好きだよね」

 もかはホットココアを美味しそうに啜りながら、小刻みに何度も頷く。

「あ、そうそう、今さっきもかと二人で朱音さんのあだ名考えてたんすけど聞いてもらっていいすか? まずフレンドリーだと思ったのは『あかねっち』とかっすかね。でもやっぱり一応先輩なんで『あかねっち先輩』とか。でもそれって結構ありきたりだなって。あとは音読みにしてみて『シュオン』さんとか『シュネ』さんとかはオリジナリティ高いかなって思ったんすけど、どういうのが良いっすか?」

「あかね、で良いよ」

 私は苦い顔をして由海のそんな話を聞き流しながら、千鶴が来るのを待った。後輩がこうして話しかけてくれるのも、慣れてくれば案外可愛いものだ。


 それから三十分後、千鶴は勢いよくパリスへ現れた。そして私たち三人に向けてこう言った。

「ライブが決まったよ! 約一ヵ月後の12/29、渋谷のライブハウスでの年末合同ライブイベントに出演させてもらえるって!」

「まじすか、すげぇ!」

 脊髄反射のように由海は叫ぶ。私はまだ千鶴が何を言ったのか、理解するのに時間が掛かっていた。

「ライブ……って、ライブハウスで私たちが演奏するってことですか?」

「それ以外に何があるっていうの。知り合いにバンドを組んだことを伝えたら、その人伝手にとんとん拍子に話が進んじゃって。で、みんなの意見を聞いてなかったから、一旦途中までしか話は付けてないんだけど、どう? 特にもかちゃんは」

「え、私ですか!? ええと、その、正直わからないので皆さんにお任せします……!」

「うちは出たいっす! 一ヶ月あればもかも上手くなるし、大丈夫!」

「朱音は? 朱音はどう? 嫌だったら嫌で、本音で良いよ」

 千鶴は私に話を振る。私は……。

「出てみたい。せっかく千鶴の知り合いが声かけてくれた機会だし、もちろん不安もあるけど……メンバーが揃ったんだから、とりあえず目標を決めないと」

 いつまでもだらだらしているわけにはいかない。ここに来てのライブと言う目標は私たちにとって大きな役目を果たすことになるはずだ。

 千鶴は笑い、大きく頷いた。

「了解。それじゃ今のところは出るって方針で。となると、やらなきゃいけないことが山積みだ。もかちゃんへの指導、私たちのリハビリ、ライブで演奏する曲決め。あとはスタジオ練の回数だって確保したいよね。あとは……」

 千鶴はずらずらと今後やるべきことを話し続けていた。しかし重要なことを千鶴は忘れている。私たちにはまだ——。

「バンド名が決まってない」

 思わず大きい声が出ていたようで、三人からの視線が私に刺さる。咄嗟に私は口を押えて目を逸らした。

「……それもそうだった! 各自、来週の土曜日までに『これだ!』と思えるバンド名を考えて、発表会しよう。私たち四人を指す固有名詞になるんだから、それなりのものを考えてきてね。それまでは一旦、各自個人練で」

「りょーかい、っす。因みに一応参考にしたいんすけど、チズさん達の前のバンド名はなんて言うんすか?」

 由海は無邪気に問う。思わず私は千鶴を見つめた。千鶴は口を歪めて笑いながらこう言った。

「『シレーヌ』……歌声で人々を狂わせる怪物、つまりセイレーンだよ」


 その日は確か、軽音楽部で借りている空き教室で過ごしていた。お菓子を食べながら私と千鶴と先輩二人の四人でお喋りしていた覚えがある。部活に入りたてで、先輩たちとバンドを組んだ直後だ。

 あの頃も今と同じように楽器も弾かず、ずっとくだらない会話をしていた気がする。そんな中、先輩の一人がある話題を口にした。

「そう言えば次の定期演奏会、出演予定に入れておいたから。まあ二人のことだから全然余裕だと思うけど、一応伝えておかないとって思って」

 定期演奏会、二か月に一回に開催される軽音楽部による校内ライブのことだ。部室である音楽室に友人などの観客を呼び込み、練習の成果を披露する場でもあった。実際には本当の観客なんて殆ど入らず、軽音楽部員による身内ライブではあったが。

 もう一人の先輩もその話に乗っかる。

「そうだそうだよ、その話しないと! でね、ライブやるんだけど、まだバンド名決めてなかったから『朱音‘sバンド』って名前で一旦タイムテーブルに出しちゃったの」

「え、私の名前なんですか……!? 使うなら先輩方の名前の方が良いと思いますけど」

「美人なベースボーカルの新入生なんて属性が付いていれば、そりゃ先輩たちも使いたくなって当然ですよね。うわ、怒ってる顔も様になってるねぇ、って痛った!」

 千鶴は私の疑問に笑ってそう答えた。私は千鶴をにらみ、机の下でその足を蹴った。

「まあまあ、二人とも落ち着いて。バンド名に関しては仮だから、せっかくなら来週までにみんなで案を持ち寄って考えようよ」

 その日、私は家での宿題中、ずっとそのことを考えていた。ふと、机の上に無造作に置かれている教科書に手を伸ばし、ぱらぱらとめくってみる。

 例えば世界史の教科書にはバンド名になりそうな用語が無数に並んでいた。人物名、地名、文化……きっとここに書かれているもの以外にも世界の歴史ではもっと様々な事件や出来事があったんだろうなと、感慨にふける。私はバンド名になるようなワードを探していたはずが、気が付くと教科書を読むのに夢中になってしまっていた。

 一週間後、私たち四人は相変わらず空き教室で練習もせずに喋っていた。もちろん、常に遊んでいるだけではなかったが、当時は私も千鶴も経験者で、他の新入生とは違って基本練習に時間を要することがなかったため、比較的のんびり過ごしていた。

「それで、各自バンド名候補は持ってきた?」

 先輩は黒板を使い、チョークで「バンド名候補」と書き始める。

 それぞれがメモ帳に書いてきたバンド名を黒板に記してゆき、その中からプレゼンなどして吟味する。

「私が推す名前はずばり『セイレーン』です! これは古代の偉人ホメロスの『オデュッセイア』に書かれている海の怪物でして、美しい歌声で人々を惑わして破滅させる人魚なのです。つまり朱音をボーカルに据えたバンドとしてはこれ以上に適切な名前はありません!」

 私たちは千鶴の熱弁に呆気を取られた。他の三人が字面や語感を気にしていた中、千鶴はフロントマンである私にそぐう名前を探していたようだった。

「『セイレーン』ね、確かに良い名前かも。分かりやすいし」

「惑わして破滅させるだなんて……なんだか怖いけど、私は好きだなぁ。朱音ちゃんはどう?」

「私は……まあ、千鶴の説明を聞いた上だとちょっと恥ずかしいですけど、先輩たちがそう言うならこれで良いと思います」

 結局、そこから先輩の提案で一捻り加えた『シレーヌ』が私たちのバンド名となった。一捻りと言っても「あ、フランス語にしたらオシャレじゃない?」と言った程度だ。

 そうやって私たちはおよそ二年の間、そのバンド名を使い続けることとなった。


 夜、私は昔のことを懐かしみながら、高校時代のメモ帳を開いた。昔考えたバンド名を今見返すと少し気恥ずかしさを覚える。

 ふと私は昔と同じように大学の授業資料を引っ張り出した。文学部歴史学科所属らしくぼんやりと適当な歴史系のレジュメを流し見する。ふと、一つの項目が目に入った。古代ギリシアや地中海・エーゲ文明に関する授業で、史料には遺跡や神話にまつわる内容の解説などが書かれていた。

「……パンドラが開いた箱の中からはありとあらゆる悲しみや絶望が現れ、この世を覆いつくした。そして箱の底には希望[Elpis]だけが遺されていた。……」

 箱、はこ、ハコ……音楽をやっている人たちはライブハウスのことをよく『ハコ』と呼ぶ。私はそんなライブハウスという『ハコ』を開け、そして絶望した。ハコの底に希望なんてものは見つからなかった。

 だけど、私はもう一度その『ハコ』を開けようとしている。絶望があることを知りながらも、その底に希望があることを信じて。

 箱の底に残る希望――『Elpis』、私たちにぴったりの名前だった。


 一週間後の土曜日、私はメモ帳を持ってパリスへ向かった。

 既に私以外は揃っており、仲良く三人でボードゲームをしているようだった。不思議な絵柄のカードを出し合いながら、ウサギ型のコマをそれぞれ進めている。私はコーヒーを飲みながら、ゲームが終わるまで見守っていた。

「いやぁ、やっぱり一人でやるのとは違って楽しいね。誰かさんは誘っても絶対にやってくれないから」

 私が来てから10分程でゲームは終わったようで、千鶴は片付けながらそんなことを口走る。

「いつも一人でも楽しそうにしてるくせに」

「それじゃあ、今度は朱音さんも一緒にやりませんか? 千鶴さん、色んなゲーム知ってるんですよ」

「……まあ、もかさんがそう言うなら」

 そんな会話をしながら、本題に入るまでだらだらと話していた。


「それじゃみんな、例のやつ、ちゃんと考えてきた?」

 千鶴はそんなこと言いながら用意してきたノートを開き、それぞれの案を書いて隣の人に回すよう指示する。千鶴から由海、由海からもかへ回され、もかは私の元へノートを持ってくる。私は書かれている他のものをなんとなく見ないようにしながら、その一番下に『Elpis』と記した。そして千鶴へ返す。

「それじゃあみんなこっち来てよ。一つひとつ見て、どれが良いか考えよう」

 千鶴はノートを机の上に広げた。上から順に見てゆく。

 ・オスカー

 ・躁楽娘々

 ・浮かびませんでした。ゴメンナサイ。ToT

 ・Elpis

「ちょっと待って、この三つ目はどうしたのこれ。もかちゃんだよね?」

「うっ……そうです……。頑張って考えてみたんですけど、どういうのが良いのか全然何も浮かばなくて……」

 先ほどからずっと俯いていたもかは名前を呼ばれるとぎこちなく口を開いた。それに由海も同調する。

「ま、しょうがないっすよねぇ。うちもなーんにも浮かばなかったんで、なんか中国風に楽しそうな可愛い感じにしておいたっす。娘々って響きが猫みたいで可愛いんすよね。チズさんのもなんか猫の名前ぽいっすね」

「一応、アカデミー賞取れるくらい有名になるぞって意味を込めてみたんだけど。……まあ元々は名前から来てるみたいだし、そう言われてみればそうかもね。朱音のこれはどういう意味?」

「……ギリシア語で『希望』って意味だって。つまりライブハウスのハコをパンドラの箱に見立てて、私たちがハコの中に最後まで残る希望になれれば良いな、って思って」

 口に出して解説することに少し恥ずかしさを感じながら、そんな風に喋った。三人の反応を私は窺う。

「うん、良いんじゃない? 私が考えたのよりもよっぽど良いじゃん」

「おー、ハコを箱に見立てるなんて、乙っすなぁ」

「エルピス……響きも可愛くて良いですね」

 思いのほか評判が良く、私は一息吐いた。

「一応全員のをざっと見たわけだけど、みんなどれが良いか決めた? 『せーの』の合図で一番良いと思ったのをで指さそっか」

 私たち四人を表す名前として、最も相応しいもの言葉。そんなもの、わからなかった。それは私たちの関係値が浅いとか深いとか、そういうことじゃなくて――きっと言葉には表せない想いがたくさん詰まっているから。

 千鶴は私たちを一度見渡し、大きく口を開いて叫ぶ。

「せーのっ!」


 その日の夜。バンドのメッセージグループ宛に千鶴から文と画像がそれぞれ送られてきた。

『枠、取ってもらったから、残り一か月間頑張ろ!』

 語尾は千鶴に似つかわしくない可愛らしいハートの絵文字で締め括られていた。私は画像をタップして、拡大する。

「あ……」

 それはライブの香盤表――タイムテーブルだった。私たちのバンド名は最後から二番目、つまりトリ前に書き込まれている。

『ありがとうございます! 練習、頑張ります!』

『おー、トリ前じゃないっすかー! こりゃ期待されてると見て間違いないっすね!』

 メッセージにはもかと由海のコメントが矢継ぎ早に書き込まれる。私もすかさず入力をした。

『私たちの初めてのライブ、忘れられない思い出にしよう』

 もう一度タイムテーブルの写真を見る。元々空白だった箇所に手書きで記された文字、そこには『ELPIS』と書かれていた。

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