2.Precious
そうして私たちは毎週火、金、土曜日にそれぞれ集合することとなった。集合と言っても毎回スタジオに入るわけではなく「その曜日にはとりあえずパリスに集合」、と決めただけだ。平日は高校生のもかの時間帯に合わせて放課後以降、土曜日は昼頃から集まることにした。バイトのシフト調整に苦心しつつ、私もそれに同意する。なんだか、部活みたいだ。
私はいつもの扉を潜った。
「遅かったね、朱音。もかちゃんならもう来てるよ」
いつものカウンター席に千鶴ともかが並んで座っていた。二人はお互いに見合って、数字の描かれた板を目の前に並べあっていた。きっとまたいつものボードゲームなのだろう。それにしても、二人でやるボードゲームならテーブル席の方がやりやすそうなのに、何か拘りでもあるのだろうか。
私はもかの隣に腰を掛け、入江さんにコーヒーを頼む。コーヒーを待っている間、隣に座っている二人の様子を眺めていた。千鶴は本当にこれで働いていると言えるのだろうか。
やがてゲームも終わり、何気ない日常会話をした。パリスの話、もかに兄がいる話、私のバイトの話……。
ふと、私はあの夜の出来事を思い出した。あの夜にコンビニで話しかけてきた少女。もしかしたらあの子はもかだったのかもしれない。バイトの話をしながら、何気なくもかの表情を窺うが、彼女はそのことを覚えていないようだ。
私は話を逸らすため、バンドの話を始めた。
「――それでバンドの話に戻るけど、ドラムはどうする? 現状は打ち込みか、最悪メトロノームでも良いけど、もしメンバー集めるなら早めに動かないと」
「朱音は真面目だなぁ。あ、真面目な人は大学サボらないか」
私は千鶴をにらむ。けれど図星なので何も言えない。今日も本来なら授業がある日だ。
「さっき千鶴さんにも少し話したんですけど、実は私の友達にドラムを叩ける子がいて……ひとまずその子に声を掛けてみようかなって思ってるんです」
「その子、もう他にバンドを組んでたりとかしないの?」
「んー、少し前に話した時は組んでないって言ってた気がしますけど、今はわからないです。でもいつも『スタジオ行きたい』って言ってるんですよね」
「それじゃ、もしバンドに興味があるようだったら、どっかのタイミングの集合日に一回ここに連れてきてみてよ。あたしたちが話してあげるからさ」
千鶴の言葉にもかは頷いた。
それから少し喋ってその日は解散した。私は家に帰ると、久しぶりにギグバッグからベースを取り出す。中学生の頃、一目ぼれした紫のボディは、何度もぶつけたせいで細かく凹んでいる。弦はすっかり錆びてしまい、まともに弾ける状態ではなかった。
ふと、もかのことが気になった。飽き性の兄が数年前に買ったギターでどうやら練習しているようだが、ちゃんと出来ているだろうか。チューニングはちゃんと合わせているだろうか。弦は錆びていないだろうか。ピックはちゃんと好みのを見つけられただろうか。クロスやポリッシュで拭いてあげたり、メンテナンスはどうなっているのか。
私は気づけばもかに電話をかけていた。
「はい、もかです。朱音さん、何かありましたか?」
「急にごめん。ちょっと、心配になって」
「え? どうしたんですか?」
私は先ほど考えていたことをもかに伝える。千鶴が多少指導しているとは言え、あの千鶴だからこそそこまで細かいことまで教えているとは到底思えなかった。そして案の定、もかは殆ど何も知らなかった。ただ流石にチューニングは教えてくれたらしい。
「明日か明後日、時間ある?」
「ええと……明日は放課後以降なら一応大丈夫ですけど」
「わかった。明日学校が終わったらギター持って駅前まで来て」
明日のバイトのシフトを確認しながら返事をする。夕方からシフトが入っているが、バイト先にはいつもあれだけ恩を売っているのだから、最悪少しくらい遅れても問題ないだろう。
私は返事もそこそこに電話を切った。
次の日、もかは制服姿で現れた。よく考えたら昨日も見ているはずだったが、こうして改めて全身を眺めるとなんだか懐かしさを感じる。背中にソフトケースを背負っており、歩いている私の姿を見つけるやいなや、もかは遠くからでも見えるように大きく会釈する。若々しくて、なんだか微笑ましい。
「それじゃあ、行こうか」
挨拶もそこそこに私は目的地へ向かって歩き出した。もかは何だか緊張しているのか、一歩後ろから私についてくる。
「……どうかした?」
「いえ、これ慣れなくて……。今日学校でも色んな人に見られたり話しかけられたりで、すごく目立って恥ずかしかったんです」
「ああ、ギターね」
もかは少し頬を赤らめながら、背負っているギターを触る。
「そのうち慣れるよ。……それで、例のドラム出来るって子はギター見て何か言ってた?」
「え、まあ、少しは話しましたけど……『え、もかギター弾けるの!? 見せてー!』だとか『バンド組むの!? 良いなぁ』とかそんな大した話じゃないですよ」
「ふうん。その子と仲良いんだね」
「まあ、隣の席なのでよくお喋りしてますけど」
もしその子が一緒にバンドをしてくれるなら、きっともかももっとリラックスして居てくれるだろう。そんなことを思いながら目的地まで向かった。
目的の店は昔と変わらずの佇まいだった。商店街から一つ角を曲がった先にあり、その軒先には格安の中古ギターやギター関連部品が並べられている。その隣には薄汚れた文字で『A’S』と言う店名が書かれており、なんとなく人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
「……ここは?」
「一応、楽器屋。ギター本体は中古専門だけど部品とか弦とかの小物は普通に売ってるから」
外からは様子がよく見えない薄暗い店内へ、私は久しぶりに足を踏み入れた。
店内には依然として物が多く、人同士がすれ違うことは困難そうだった。一番奥のレジにはいかつい店主が腕を組んで座っており、彼の後ろに置かれているラジカセからは往年のロックの名盤が流れている。
もかはなんだか怖がって入り口付近で右往左往しているが、私はもかの腕を引き、レジ前まで行くと店主に話しかけた。
「この子のギター、ちょっと見てもらいたいんですけど、良いですか?」
「……見せてみな」
店主はもかを一瞥すると、ギターを引っ張るようなジェスチャーをしながらそう言った。もかは緊張したように背中からゆっくりとソフトケースを下ろすと、恐る恐る店主に差し出した。
「この子、初心者なんです。だから色々教えてほしくて」
ケースからギターを取り出している店主に向かって私はそう告げる。もかは店主の見た目や威圧感があまりにも怖かったのか、私の背中にぴったりくっついて肩越しに店主を見ている。
店主はしばらく赤いレスポールのギターを見てから、やがてため息を吐いた。
「こりゃ最悪だな。ネックは逆反りしてるわ弦の錆がフレットにこびりついて汚ねぇし。そんでこれ格安メーカーの1万そこらの安モンギターだろ。これ調整して使い続けるくらいだったらいっそ買い換えた方が良いと思うぜ俺は」
「この子のお兄さんが数年前に買って以来、ずっと押し入れに入ってたものだそうです」
「そりゃあいけねぇよ、嬢ちゃん。ギターなんて言うのはね、初心者の内には見て楽しむためにあるんだよ。嬢ちゃんも女の子だからわかると思うけど、見た目や色がイマイチな服やアクセサリーを身に着けたいと思うか? ギターって言うのはね、そういうもんと同じなんだよ」
急な力説が始まって、もかはポカンとした顔をしている。そして泣きそうな顔で助けを求めるかのように私を見た。
「つまりね、店長は毎日でも着たいと思う服を選ぶように、毎日でも弾きたいと思うようなギターを自分自身で選んだ方が良いって、言ってるんだよ。店長、店内のギター見るだけでもちょっと案内してくれますか?」
店主は待ってましたと言わんばかりに椅子から勢いよく立ち上がり、私たちを先導するように軒先へ向かう。
「ほら、もかさん。店長に付いていって。で、自分が一番好きそうな見た目のやつを指さしてみて」
私はもかを私の前――店主の後ろに付いてゆくように、彼女の背中を文字通り押した。
「この辺ならエントリーモデル――入門者向けに近い価格帯だから、学生でも手は出しやすいと思うが……でもまあ、まずは値札なんか見ないで自分の直感で選んでみろ」
もかは迷子の少女のような表情で並んでいるギターを見てゆく。仕方なく私は助け舟を出してみる。
「自分の好きな色だとか、形だとか、模様だったり、何でも良いんだよ。例えば私のベース――って言っても前のライブでしか見たことないっけ――はボディの木目がすごく綺麗な紫カラーで、そこに何か秘めたるものを感じて、一目ぼれして買ってみた。そういうので良いんだよ」
もかは私のアドバイスを聞きながら、小さな唸り声をあげている。そんな中、店主は私に話しかけてくる。
「そっちの姉ちゃんはベーシストか。良いねぇ、俺も大昔はベース弾きだった」
「知ってます。三年くらい前まではここに弦とかピック買いに来て、そんな話を聞いたこともあるので」
「三年前……紫のベースか……。ちょっと待ってな」
店主は少し考えこみ、そして何かを思い出したかのように店内に戻っていった。そしてレジ周りや奥の引き出しを探ると、何かを引っ張り出してこちらへ戻ってくる。
「これ、あんたか」
一枚のチラシだった。店主は私にそれを手渡す。そこには紛れもなく、制服姿の私が写っていた。紫色のベースを握り、自然な笑みでステージの上に立っている。
「これって……」
「三年前、これを店頭に貼ってくれって頼まれてな」
それは私の高校の文化祭の宣伝用チラシだった。あの頃の軽音部はかなり精力的に活動しており、より多くの観客を呼び込むため、周辺地域の色々な商店街に対してチラシを貼ってくれるよう頼みこんだことを覚えている。きっとこの店にも誰かが頼みに来ていたのだろう。
「それであんた、ベースボーカルだったろ。高校の文化祭であのクオリティ、俺も行った甲斐があったもんだ」
「観に来ていただいた上、私たちの演奏、まだ覚えていてくださったんですか……!?」
「そりゃ俺が観に行った限りじゃ、高校生の文化祭であんなイカしたオリジナル曲やってんのはあんたらくらいだからよ。加えてそれがガールズバンドとなりゃもう役満よ。だからこのビラは記念に取っておいた。まさかそのベースボーカル張本人が姉ちゃんだったとはな」
目が回るような感覚だった。知らない間に、見ず知らずの人に影響を与えていたという事実が信じられなかった。感動したからチラシを取っておく、それ自体はほんの小さな影響かもしれない。でも、私にとってはそれすらも信じられないことだった。
もかも楽器屋店主も、私にとってはただ知らない人でしかなかった。にも関わらず、もかはSNSで調べてまで私に会いにきてくれた。店主は私が写るチラシを記念として取っておいてくれていた。そんな中で私は……自分のことしか考えていなかった。
真っ白な思考はもかの声がかき消してくれる。
「これ、好きです」
気が付けばもかは店内に入っており、そこの壁に掛かっているギターを眺めていた。ミントブルーで小型のボディ。この店に飾られているどのギターよりもポップな色合いが特徴的だった。
「良いギターを選んだな。そいつはムスタングっつぅギターでな。弾いてるとチューニングが狂いやすいってことで別名『じゃじゃ馬ギター』なんて呼ばれたりもしてる」
店主はもかを椅子に座らせると、壁からギターを外し、アンプにつないだ。そして軽く調整すると、もかに差し出す。
「弾いてみな」
もかは店主が怖いのか、それともギターを触る緊張からか、恐る恐るそれを受け取る。そしてアンプの上の小皿から適当なピックを取ると、弦を弾いた。
アンプから出る音は胸を震わせた。小さなボディからは想像もつかない太い音色。もかは何度か適当に開放のまま弦を弾くと、ゆっくりと左手でネックを掴み、Cコードを作った。それからD、Eと順番にたどたどしく弾いてゆく。
「どうだ」
「すごい、です」
もかは何とかFコードの形を作りながら、そう答える。
「さっきはじゃじゃ馬だなんだ言ったが、実はそいつのネックは他のギターよりもちょいと細いんだ。だから手の小さい人でも多少弾きやすい。特にレスポールなんかと比べると断然にな」
じゃあベース弾きは全員手が大きいとでも言いたいのか、とひとりでに自分の手ともかの手を見比べ、そして自分のおかしな思考を振り払うように目を逸らした。
「姉ちゃん、あんた、ギターは弾けないのか?」
「……遊び程度なら触れないことはないですけど、持ってはいないので」
「じゃあたまにはちょっとやってみな」
もかからギターとピックを受け取る。ストラップを肩に掛け、椅子に座って適当にフレーズを流してみる。確かこんな感じで……。
ブリッジミュート気味にパワーコードを弾き、カッティングを入れる。私たちが最初に作った曲のイントロだ。
「すご……」
もかは独り言をこぼした。このくらい、ちょっと練習すれば誰だって弾けるのに。
「確かに、弾きやすさで言えばかなり弾きやすいですね。ボディも軽いですし……ネックも細いし」
「だろ。音良し、見た目良し、弾きやすさ良し。初心者向けだと堂々とは言えねぇが、そこはまあ大丈夫だろう。嬢ちゃんもちゃんと練習してるみたいだしな」
私はギターをもかに返す。もかはじっとムスタングのボディを眺めた。そしてふとアンプの上に置かれていた値札を見た。税込み79800円。高校生が買うには少々値が張っている。初心者であれば尚更、買うのに勇気のいる値段だ。
「もし嬢ちゃんが本当に買うんであれば、多少値段の融通は利かせるぜ。例えば、あのギターを下取りとして1万引き、弦・ストラップ・ピック・ポリッシュも付けて、あとは気持ちの値引きで6万までは引いてやる。分割でも構わねぇよ」
正直、話を聞く限りではとんでもない条件だった。もかの持ってきたギターが中古1万円で売れるとは到底思えないし、気持ちだけで1万円も値引いてくれるのは普通であればあり得ない。
しかし、もかは首を傾げたまま、固まってしまう。バイトをしておらず、日頃お小遣いだけで暮らしている彼女にはやはり厳しいらしい。店主も困り顔で頭を搔いている。私は口を挟むことでもないため、じっとその様子を見守っていた。
やがて、店主は私の方を見た。いかつい顔は何度見ても慣れそうにない。
「あんた、もう一度バンド組むのか?」
もう一度、という言葉に胸を締め付けられる。そうだ、私は一度やめたバンドを、もう一度始めようとしている。私は店主から少し目を逸らして頷いた。
「ならこういう条件ならどうだ。『今後あんたらがライブをやる際には、俺にチケットを無償で提供する。その間に限り、無償でギターを貸与する』なんて言うのは?」
「流石にそれは……!」
思わず声が上擦る。それじゃあ商売にならないはずだ。しかし店主はあっけらかんとして聞いてくる。
「はは、それじゃ逆に怖いか。じゃあまあ商売上の最低限の値段として、5万でどうだ。さっきの6万の条件に加えて、ライブチケット無償で1万引き。これで5万だ。店まで来れば軽いメンテナンスくらいなら無料でしてやるし、本気でギターやるならこりゃあ、一生モンになる。まあ別に今すぐ決めろってことでもないけどな」
「…………」
もかはギターを眺めながら、考えている。最早、私が口を出すことではない。やがて、口を開いた。
「わかりました。私、買います。本気でギター、やりたいから」
「そうこなくちゃな。……ならこのベースの姉ちゃんのこと、絶対に離すんじゃねぇよ。しがみついてでも付いていきな」
もかは店主の声に力強く頷く。でも、私は本当にそこまでの人間なのだろうか。他人から見た私は、一体どんな風に見えているのだろうか。私は私がわからなくなる。
結局、もかは後日に現金一括で払うことに決めた。両親にちゃんと話して、お年玉貯金を使って買うらしい。
店主は「餞別だ、一式持ってけ。その代わり、音楽用品は漏れなく絶対うちで買ってけよ。知り合いへの宣伝も忘れずにな」と言って、チューナーからカポ、ギタースタンド、果てはギター用のギグバッグまでを全てプレゼントしてくれた。それだけでもざっと1万は下らないだろう。私はせめてものお礼にベース弦を何セットか購入した。
私たちは礼を言い、帰路についた。もかの背中には行きとはまるで比べ物にならない物品が詰まっていた。私たちはなんとなく、無言で歩き続けた。
「朱音さん。今日は本当にありがとうございました」
交差点での別れ際、もかは私に大きくお辞儀をする。背中のギグバッグも一緒に揺れた。
「ごめん。ギターなんて買わせるつもりなかったのに、結果的にこんなことになって……」
「いえ、私もいずれは自分のギター買わなきゃなって思ってたので。むしろ早くに決心がついて良かったんです」
私の卑屈な発言に対し、気を遣われている気がした。いい加減、自分がしょうもなく思えてくる。
「そう。それなら良かった。じゃあ、またね」
私はそんな自分の心を隠すため……守るために、淡泊な返事をする。そしてもかに背を向けて歩き出した。
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