第2話
雨のせいで室内は薄暗く、部屋の隅から闇が這い出てくる気配がする。僕はカメラのISO感度――フィルムが光を受ける能力の値――を上げて、部屋の撮影を始める。理想的な構図を探りながら移動して、ファインダーを覗き、感性の赴くままにシャッターを切っていく。
「二階にはどうやって行くんですか?」窓際で佇む彼女に僕は尋ねる。「玄関の近くにあった階段は、壊れてましたよね」
「外階段から上がるんだよ」こちらに向き直って彼女が言う。「裏手に回ると階段があるんだ。老朽化してるし、かなり錆びてるから、上るなら気を付けてね」
僕は頷いてから玄関の方へ向かう。雨は勢いを変えないまま、絶え間なく地面に降り注いでいる。外階段を利用するとなると、一旦雨が止むのを待つ必要がある。もしも一日中降るようなら、二階の撮影は諦めて、一階の撮影に留めるのがいいだろう。
僕は廃墟の中に戻り、しばらく撮影に没頭する。退廃していく建物が醸し出す哀愁を、可能な限りフィルムに収めようと努める。手ブレが生じないように、なるべく脇を締めて、慎重に撮影をする。タイプライターのタイピング音に似たシャッター音が、雨音に混ざって鳴る。
数十枚ほど写真を撮り終えると、僕はカメラを構える手を下ろして、ちらりと彼女の方を見る。彼女は相変わらず外を見つめたまま窓辺に立っている。窓枠に
僕は彼女を撮影したい衝動に駆られて、思わずカメラを構える。そして自分の中でそんな欲望が湧いてきた事実に戸惑う。僕は普段、風景や建物の写真を主に撮っていて、人物を写すことはほとんどない。それなのに、今僕は彼女を写真に収めたいと思っている。一体どんな風の吹き回しだろう? 僕は心の中で自問自答する。
だが、答えが見つかる前に彼女が口を開く。
「雨、止みそうもないね」独り言のように彼女が言う。
「そうですね」首から下がるカメラから手を離して、僕は答える。
「君、名前はなんていうの?」僕の方へ振り返り、彼女が訊く。
「小西和明です。お姉さんの名前は?」
「東藤祐美」教科書を読むような平坦な口調で彼女が言う。「小西君は、どうやってここまで来たの?」
「電車とバスです。N駅から神社前までバスで向かって、そこで降りてからは徒歩で……」
「ふうん。じゃあ小西君が気の済むまで撮影をしたら、車で駅まで送るよ」
「本当ですか? 助かります」僕は素直に礼を言う。「車って、シルバーのライトバンですか? 木の下に停まっていた……」
「そうだよ」
「東藤さんがあの車に乗っているのは、少し意外ですね」彼女の醸し出す雰囲気とライトバンの無骨なデザインは、ミスマッチな印象を受ける。
「あれは大学の共有車なの」椅子の上を手で払い、そこに彼女が座って足を組んだ。「いつも大学の総務課に届けを出して、貸してもらってるの。だから私の所有車じゃないんだ」
「休憩のために、わざわざ借りてるんですか?」言葉尻にわざと不信感を滲ませて喋る。
「そう、わざわざ借りてるの」僕に向けられていた彼女の視線が少し揺らぎ、組まれた足のつま先の辺りに向かう。「他に使う人もいないから、有難く使ってるんだ」
彼女の言葉に僕は頷き、自分のカメラを一瞥する。そして一呼吸分開けてから彼女に向き直る。
「あの、東藤さん」
「何?」
「お願いが一つあるんですけど、いいですか?」
「お願いの内容に依るけど、いいよ」
「東藤さんを撮影したいんです」
「私?」彼女は二、三回素早く瞬きをした。「別に構わないけど……被写体としては力不足だと思うよ、私は」
「いえ、そんなことないです」語気がわずかに強くなる。
「ふうん」
「はい、そのままの姿勢で大丈夫です」
僕は片膝をついてファインダーを覗き込んだ。冷たくて硬い床の感触が膝頭に伝わる。椅子に座る彼女を中心に据えて、崩壊している壁面を背景にして、最適なアングルを探る。彼女は両手を膝に乗せ、軽く顎を引き、微笑んでいる。それは風に散る桜の花弁みたいな儚げな微笑みだ。僕の首から上が、緊張と興奮で熱を帯びていくのがわかる。僕は深呼吸をして、カメラを持つ手に神経を集中させる。そして息を殺してシャッターを切る。その瞬間、全ての物音が消えて、時間が静止したような感覚に襲われる。
「どう、上手く撮れた?」背筋をぴんと伸ばしたまま、彼女が僕に尋ねる。
「はい、ばっちりです」カメラの液晶モニターを見ながら僕は言う。「確認しますか?」
「もちろん」
彼女は立ち上がってこちらに歩み寄り、僕の肩越しに液晶モニターを見つめる。洗ったばかりの陶器のような、仄白い彼女の横顔が、僕の眼前にある。
「へえ、よく撮れてるわね」
「普段あまり人を撮らないから、緊張しました……」
「そうなんだ。いつもは廃墟ばかり撮影してるの?」
僕は頷く。「廃墟以外には、町の風景や建物をよく撮ってます」
ふうん、と彼女が呟くと、携帯電話の着信音が鳴り響いた。彼女がジーンズのポケットを探り、携帯電話を取り出して液晶画面を見つめる。
「ごめん、ちょっと出るね」
彼女は僕に目配せをして、部屋の奥へ移動しながら電話に出た。こちらに背を向けたまま、何やら話し始める。密やかな話し声には、人の気を引く力がある。聞く気はないのに、自然と耳をそばだてていた。弱まりつつある断続的な雨音に紛れてしまい、話の内容は判然としないが、[タイヒソウ]という言葉だけが耳に入ってきた。
タイヒソウとは何だろう、と僕は思案する。どのような漢字を当てはめるのか、単語を区切る箇所はどこなのか、頭の中で考えてみるが、鶏小屋のように取っ散らかって、上手くまとまらない。
東藤さんは電話の相手と数分間喋った後、通話を切って僕の方に振り返った。
「小西君。悪いんだけど私、大学の方に戻らないといけなくなっちゃった」
「了解です」カメラの電源を落としながら僕は言う。「では僕も帰ります。写真も十分に撮れましたし……」
「それは良かった」そう言うと、彼女は足元に転がるスーツケースをちらりと見た。「じゃあ行こうか。雨脚も少し弱まってきたみたいだし」
カメラをリュックに入れて、僕は彼女と共に玄関へ歩き出す。雨はすっかり小降りになり、ハープの弦のような細い粒を落とすだけになっていた。風が吹くと、樹木の葉が水滴を散らし、跳ねた水が地面に落ちる。雨に濡れた景色は重みを増し、草木も地面も雲も色濃く見えた。
「車まで走るよ」彼女はそう言って駆けだした。僕も彼女の背中を追うように走り出す。ぬかるんだ地面に足を取られないように注意を払いつつ、懸命に足を動かす。雨が顔に降りかかり、頬を濡らしていく。車まで辿り着くと、僕は助手席に、彼女は運転席に乗り込んだ。
ライトバンの中は閑散としていた。車を頻繁に使用するという東藤さんの言葉とは裏腹に、生活の気配が感じられるような物は車内にはなかった。座席のシートの下に消臭剤が二つあり、床には汚れた土の跡が見て取れた。
「使いますか?」リュックの中からタオルを取り出して僕は言う。「まだ使っていない、綺麗なタオルなので安心してください」
「ありがとう、助かるよ」
彼女はそう言ってタオルを受け取った。彼女の髪や衣服に付いた雨の雫が拭き取られていく。水滴をあらかた拭き終えると、彼女はタオルを僕に手渡し、ワイパーのレバーを弄った。レバーを触る彼女の指は細くしなやかで、その動きは神秘的な力を宿す白い蛇を思わせた。
「じゃあ出発するね」
ライトバンはゆったりとした速度で進み始めた。小雨がフロントガラスを打ち、ワイパーがタンッ、タンッ、という単調な音と共に水滴を拭い去っていく。タイヤが砂利道を踏みしめて、轍に溜まった水を跳ねる音が聞こえる。
何度もブラックハウスを訪れたことがあると言っていたとおり、彼女の運転は上手だった。舗装されていない道でも、適切な速度でハンドルを捌き、アクセルの踏み込みを調整した。彼女は口を真一文字に結んで運転に集中している。幅の狭いトンネルを抜けて広い通りに出ると、彼女はふうと一息ついた。
「小西君は、あの廃墟にまた来る予定はあるの?」道路の先を見つめたまま彼女は言う。
「あります」僕はきっぱりと答える。天気の良い日があれば、また訪れるつもりだ。
「そっか。悪いことは言わないから、あそこにはあまり行かないほうがいいよ」
「どうしてですか?」
「あの場所は色々と危ない場所だからよ」色々と、の部分を強調して彼女は言う。
「危ない?」
「例えば、ガラの悪い連中に絡まれたり、凄惨な事件に巻き込まれるかもしれない」
「全て承知の上です」
廃墟が不良の溜まり場や事件の現場になる事例は、多々見かける。僕がなるべく昼間に廃墟を訪れるのは、その手の事件になるべく巻き込まれないようにするためだ。
彼女の射貫くような視線が、僕のこめかみの辺りを刺すのがわかる。僕はその視線をあえて無視し、口を固く結ぶ。そのうち彼女はため息をつくと、前髪を軽く手で払った。
「君って案外、強情なのね……」呆れたような口調で彼女が言う。
「東藤さんこそ大丈夫なんですか、そんな危険な場所に行って」
「あら、心配してくれてるの?」事も無げに彼女は言った。「平気だよ。いざという時のために武器もあるしね」
「武器って……もしかして、あのナイフですか?」ナイフでロープを切断していた、彼女の姿を思い出した。
「そうだよ。幸い、あのナイフが誰かを傷つけたことはまだないんだけどね」
「そんな機会はできれば来ないほうがいいですね」
「それについては私も同感だよ」
彼女はウインカーを出して、穏やかな速度で交差点を曲がる。雨はすっかり降り止んでいて、千切れた雲が空に浮かび、赤いガラス玉のような夕日が遠方の山に接近していた。
「東藤さんは、どうして土に関する学部に入ったんですか?」
「入った理由かあ」呟いてからたっぷりと間が開く。「一番の理由は、ドソウに興味があったからかな」
「ドソウ?」僕は聞き返す。
「土葬。土に埋める埋葬のことね」赤信号になって車が停まる。「私が昔、犬を飼っていた話はしたっけ」
「言ってましたね。確かゴールデンレトリバーを飼っていたって……」
「私が小学生の時にその子が死んじゃってね。近くの斎場で火葬してもらったんだけど、子どもながらに考えたの。『どうして日本では土葬じゃなくて火葬が一般的なんだろう』って。私、死んだ生き物は皆、土に埋めるものだと思ってたからさ。それで土葬について調べているうちに、土そのものに興味を持ったんだ」
「土葬がきっかけなんですね」膝の上に置いたリュックを抱え込んで僕は言う。
「変わってるでしょ」
「風変りだな、とは思います」
「君は君で、面白い言い方をするね」
東藤さんは軽く微笑んだ。そして信号が青に切り変わると、パソコンの電源を落とすように、元の凛とした表情に戻る。彼女はそのまま車の運転に注力して、駅に向けてライトバンを走らせる。僕は黙ったまま、雨で濡れた窓ガラス越しに、流れていく景色を何ともなしに見つめる。街灯の明かりが道行く人々を
駅に到着したのは午後五時過ぎだった。車は噴水広場の側に滑らかに停まった。駅前には学生や主婦の姿があり、活気づいている。もう少し日が暮れると、仕事を終えて帰路に就く会社員で混雑してくるだろう。
「気を付けて帰りなね」開いた運転席の窓から彼女が言う。
「今日はありがとうございました」会釈して僕は言葉を述べる。
「いえいえ」差し込む夕日が彼女を照らし、車内に長い影を落としている。「じゃあね、小西君。またどこかで」
彼女は僕に向けてそう言うと、ハンドルに手を添えた。僕の心の奥底で、焦燥感が沸々と湧いてくるのがわかる。
「あの、東藤さん」緊張のせいか、声が少し掠れる。
「なに?」彼女が僕を見て答える。
「東藤さんは、急にこの世からいなくなったりしないですよね?」
彼女の目が驚きで丸くなる。「どうしたの、突然?」
「失礼なことを訊いてるのは重々承知です。でも、東藤さんからそういう気配を感じていて……」
「そういう気配っていうのは、私が急に命を絶ったりしそうな、危うい気配がするってこと?」
「うまく言葉にできないんですが……」次に紡ぐべき言葉を頭の中で整理しつつ、僕は話し始める。「廃墟に行くと、僕はいつも『死の気配』を感じ取るんです。崩壊する建物や朽ちていく草木から漂う、その『死の気配』に触れるのが好きで、僕は廃墟に足を踏み入れたり、写真を撮ったりする。そして何となく、東藤さんからそれと似た気配を感じ取ったんです」
一旦話すの止めて、僕は彼女の顔色をうかがう。彼女は真摯な面持ちをこちらに向けたまま、僕の言葉を待っている。
「だから、もしかしたら東藤さんは死に向かっているんじゃないかな、と思ったんです。あくまで僕の勘だけど……とにかく、居ても立っても居られなくて、声をかけました」
彼女と僕は見つめ合ったまま静止していた。まるでお互いの目を通して、相手の思考を読み取ろうと試みているみたいだった。湿気を含んだ冷ややかな風が吹き、僕の髪を揺らす。
「ねえ、小西君」彼女の瞳に真剣さを帯びた光が宿る。「心配してくれてありがとう。結論から言うと、私の人生計画には『自殺』というイベントは今のところ組みこまれてないよ。家族や友達だっているし、今やってる大学の実験も好きだし、将来やりたいこともあるしね」
「なら良かったです」胸を撫で下ろして僕は言う。「すみません、急に変なことを言って……」
「ううん、いいよ」彼女が目を細めて話す。「やっぱり、君はユニークな子だね」
東藤さんはそう呟くと再び僕に手を振り、車の窓を閉めた。そして車を発進させて、大学の方へ向かっていった。僕は駅前で佇んだまま、遠ざかっていく車を目で追う。ライトバンが交差点を曲がって見えなくなると、駅前の喧騒が突然耳に付いた。没頭していた小説を読み終えて顔を上げたときのように、消失していた現実感が急に僕の周りに押し寄せてくる。リュックを背負い直すと、僕は駅の方に歩みを進めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます