やがて土になる日々
塚井理央
第1話
大学の入学試験を来年に控えた十月のある日、僕はN駅に向かう電車に乗っていた。
N駅は僕の地元の駅から三つ離れたところにあった。確か大学の最寄り駅として利用されている駅だった気がするが、一度も降りた記憶のない、印象の希薄な駅だった。
二両連結の電車のシートに座り、流れていく風景を眺めていると、十分ほどでN駅に着いた。頭上の網棚に乗せていたリュックを背負い、電車を降りる。家族連れが二組と、大学生らしき若者が数人下車した。土曜日の昼間なのに、プラットホームに降りる人影は疎らだ。
ホームにはプラスチック製の青いベンチや自動販売機、小型の売店などがある。二階の改札に向かう階段の側に花壇があり、濃いチョコレートに似た色のコスモスが植わっている。花壇の傍らには[心に咲かそう、笑顔の花]と書かれた看板が立っている。僕は首に掛けているカメラを構え、花壇の方に向けたが、少し
階段を上って改札を抜けると、正面に大きな窓があった。窓ガラスは丁寧に磨かれていて、駅前の光景がくっきりと見渡せた。ロータリーにはバスやタクシーが数台停まっていて、中央の広場には水の出ていない噴水があった。駅の左手にはコンビニエンスストアやカラオケ店、居酒屋、ハンバーガーショップなどが立ち並び、右手には大型のスーパーマーケットがあった。灰色の雲が空一面を覆い、遠方に見える山の頂の辺りの雲は、汚水を吸い込んだ脱脂綿みたいに、一段と濃い灰色になっている。
デジタル一眼レフカメラを首から下げたまま、僕はエスカレーターを下った。下方から冷たい風が吹き上げてきて、僕は思わず顔をしかめる。パーカーのファスナーを首元まで上げる。そして視線を自分の胸元に向けて、カメラを
僕の持っているカメラはただの新品のカメラではない。夏休みの間にアルバイトをして、稼いだ金で購入したカメラだ。以前は誕生日に父が買ってくれた、小型のデジタルカメラを使っていた。しかし、インターネットや雑誌で調べるうちに、一眼レフの存在を知った僕は、たちまちその無骨なデザインに魅了された。そしてアルバイトにせっせと励み、このカメラを購入したのだった。
腕時計の時刻は正午過ぎを示していた。空腹を覚えていた僕は駅前の手頃なうどん屋に入った。温かいうどんと、野菜のかき揚げを注文して食べた。うどんにねぎをたっぷり入れて咀嚼する。うどんはこしが強く、出汁の風味が豊かだった。かき揚げはさくさくと小気味良い音がして美味しかった。
昼食を済ませると、僕は停留所でバスを待った。目的のバス停はここから五つ先にある神社前だ。神社そのものに興味はなかった。神社から歩いて数百メートルのところにある、廃墟に用があった。
廃墟が好きな人なら、ブラックハウスという名前に聞き覚えがあるのではないだろうか。ブラックハウスは昭和の初め頃に建てられた建物で、大きな箱の上に一回り小さな箱を乗せたようなデザインが特徴的だ。外観の色合いは、黒というよりも灰褐色に近い。元々はある裕福な一家が別荘として利用していたそうだが、家族全員がある日突然いなくなり(精神病を患った娘が一家を惨殺した説と、悪魔に取りつかれた娘を隔離して家族が家出した説の二通りがある)、そのまま廃墟になったそうだ。夜中に訪れると亡くなった娘の霊が出るという、ありがちな怪談話も相まって、心霊スポットとしても人気の場所だ。
数年前から廃墟に興味を持った僕は、このブラックハウスが自分の住んでいる地域の程近くにあることを知った。そして廃墟までの道のりを調べて、カメラを携えて、こうしてバス停の列に並んでいるわけだ。
廃墟に行くのはこれが初めてではない。今までにも何十か所か巡り、その場所の写真を掲載したブログも更新している。閲覧する人の数は少ないが、自己満足で書いているブログだから、特に気にしていない。
秋の風に身を縮めながら停留所で待っていると、五分ほどでバスがやって来た。僕は一番奥の席に座り、膝の上にリュックを乗せた。バスはディーゼルエンジンの鈍い音をさせて、冬眠明けの熊みたいな緩慢な動きで走り始めた。
バスは広い街道を進み、交番前の交差点を左に曲がった。歩道を通る若者の数が増え、左手に大学の正門が見えてくる。門の前にはイチョウの樹木が立ち並び、地面に黄色い葉が落ちていて、
大学を通り過ぎると、高い建物が身を潜め、サツマイモの畑などが顔を出し始める。マンションの工事現場やガソリンスタンドを横目にバスに揺られていると、アナウンスが神社前を知らせた。僕は降車ボタンを押してバスを降りた。停留所の目の前には神社の入り口があり、周囲を見渡すと閑静な住宅地が広がっている。
僕は神社の前を通過して、舗装された道から、車が一台やっと通れるくらいの小道に入る。民家の塀と背の高い木々に挟まれながら進むと、道の表層に砂利が増えてきて、やがてコンクリートで固められたトンネルが見えてくる。
僕はリュックの中から懐中電灯を取り出して、トンネルの内部を照らした。トンネルの壁面には落書き(卑猥な言葉や、誰かの名前を英語で書いたものなど)があり、本物かどうかは分からないが、禍々しい護符のようなものも貼られている。トンネルの中は暗く、湿った空気が漂っていて、巨大な生き物の腹の中を進んでいるような感覚に襲われる。スニーカーが砂利を踏み、その音がトンネルの中で反響した。正面から吹き抜ける風が耳元でひゅうと鳴き、誰かの囁き声のように耳朶を打つ。これから現れるであろう廃墟に、僕は期待を抱きながら歩いていく。
トンネルを抜けると、重なり合った樹木が両脇にそびえ立っていた。伸びた枝葉が頭上に覆い被さり、辺りは夕暮れ時のように薄暗い。吹いてくる風は相変わらず冷たいが、湿気を含み始めている。もしかしたら雨が降るのかもしれない。
砂利道には自動車で通ったであろう轍が残されている。こんな人里離れた場所に車の往来があるという事実に、僕は驚く。それだけ人気のスポットなのだろうか。
しばらく歩いていると、生い茂る木々が開けて、目的の廃墟が急に姿を見せた。僕はカメラを構えて、遠方からシャッターを切る。廃墟の一階部分は木々に隠れているから、見えているのは二階部分だろう。廃墟には窓枠だったらしい四角い穴があるが、窓ガラスは
森の中に堂々と建つ灰褐色の建物は、遠目から見ても異様な存在感を放っていた。シャッターを切る手が少し汗ばんでいて、僕は自分が静かな興奮を覚えていることに気づく。
より近づいて廃墟を撮ろうと歩を進めたとき、僕は一台の車を見つけた。シルバーのライトバンが、立派なケヤキの木の下で、神社の狛犬みたいにひっそりと停まっていたのだ。
もう既に誰かいるのだろうか。この家に立ち寄る人の目的は、廃墟探索か心霊スポット巡りの二通りくらいしかない。僕は他人と積極的に関りを持つ人種ではないから、誰かと鉢合わせるのはばつが悪い。この場所は自宅からそう離れているわけではないし、人がたむろしているのなら、さっさと引き返すのも手だ。
ブラックハウスの前に立ち、その全容をまじまじと眺める。昭和初期に建てられた家屋にしては頑丈に作られているらしく、家全体が傾いていたり、柱が曲がっている様子はない。玄関の扉は外されていて、近くの
腹の底から高揚感がこみ上げてくるのがわかる。僕は唾を飲み込んでから、そっと廃墟に足を踏み入れる。廃墟に侵入するとき、僕は自然と音を忍ばせてしまう。派手な音を立てて踏み込むのは、なんとなく不躾な感じがすると思っているからだ。
家の入口に入ると、すぐに二階へ上がる階段があった。だが、段差の部分は既に腐食が進んでいて、途中から抜け落ちている。とても二階には登れそうにない。階段の奥にはトイレがあり、剥がれ落ちたタイルと便器が見える。
廃墟の中は濃厚な草木の香りと、何かが
僕は先ほど通ってきた砂利道の轍と、壁に立てかけられていた箒を思い出した。この廃墟は誰かが定期的に訪れて、清掃しているのかもしれない。過去に行った廃墟は、火事で焼けた跡があったり、動物の死骸が落ちていたり、部屋の壁一面に落書きが描かれていたりした。そういう悲惨な状態の廃墟に比べると、ブラックハウスは割と整頓されていた。
浴場の左側から光が漏れていて、そこにも部屋があるみたいだった。家の構造からして、おそらくリビングだろう。そう思って足を前に出し、部屋の方を向いた僕の身体は、そのまま硬直してしまった。部屋の中央に先客がいたのだ。
一人の女性がロープに手をかけていた。ロープは天井から吊り下がり、先端部分が大きな輪になっている。サスペンスドラマなどでよく目にする、
彼女は木製の椅子の上に立ち、薄い口を開けてこちらを見ている。僕は驚愕の仮面を被ったまま、立ち止まっていた。まるで時間が凍り付いてしまったみたいだ。僕らはお互いに視線を合わせたまま、数秒の間押し黙っていた。
「ま、待ってください」先に沈黙を破ったのは僕だった。裏返りそうになる声を抑えつつ、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。「早まらないでください。まずはロープから手を離して、椅子を降りて……」
「君の誤解を解きたいんだけど」落ち着いた声色で彼女は言った。「まず、私は自殺志願者じゃない。君が想像しているようなことはするつもりはないから、安心していいよ」
彼女はそう言いながら、デニムのジーンズのポケットからナイフを取り出した。折り畳み式の小型のナイフだ。彼女は椅子の上で背伸びをして、ナイフを持っていない方の手で、ロープをぴんと引っ張った。まるでアスリートの筋肉の具合を確かめるマッサージ師のような手さばきだ。そして天井の金具の側にある、ロープの結び目に刃をあてがった。前後に何回か動かすとロープが切れて、彼女の手に垂れ下がったロープが残る。彼女はそのロープを地面に放り投げ、ナイフの刃をしまってポケットに戻した。
「君は大学生?」彼女は僕に話しかけながら椅子を降りた。降りるときにショートボブの髪が揺れて、細い首筋が見えた。「ひょっとして、うちの大学の学生だったりするのかな」
「いえ、高校三年生です」緊張で少し早口になりながら話し始める。「ここには廃墟の撮影に来たんです。廃墟の写真を撮るのが趣味でして……」
「だからそんな立派なカメラを携えてるわけか」彼女の目線が、首から下げているカメラと僕の顔を往復する。「ふうん。見た感じ、悪い人ではなさそうだね」
「そうですね、悪い人ではないです」僕は復唱する。
「自分で言うかな、普通」
そう言って彼女は笑った。笑うと鋭い目が柔和になり、途端に愛嬌のある表情になる。
彼女の顔立ちは整っていた。長いまつ毛が《そうぼう》双眸に影を落とし、それが理知的な細い目と相まって、凛とした印象を与える。背丈はやや高めで、ジーンズから覗く足や腰回りはほっそりとしている。彼女は黄色いニットセーターを着ていて、それは昼間に見たイチョウの葉の色に似ていた。
「お姉さんは、何をしていたんですか?」
「強いて言えば、休憩かな」
「休憩?」
「研究や実験が煮詰まると、よくここに来るの。椅子に腰かけたり、二階の窓辺に立って、目をつむったまま風や虫や鳥の音を聞く。そうすると緊張の糸が少しずつ解れて、頭の中の
淡々と話しながら、彼女は手首の辺りに指を引っかけて、茹でたトマトの皮を剥くような動作をした。どうやら塩化ビニール製の手袋をはめていたらしく、彼女はそれを二つ取ると、ロープの上に放った。
「まるで禅の教えみたいですね」手の抜け殻みたいになった手袋を見ながら、僕は言う。
「大げさな言い方をしちゃったけど、要はリラックスをしに来てるんだよ」腕組みをしたまま彼女は言う。「休憩のついでに、軽く掃除もしてるんだ。場所を貸してもらったお礼も兼ねてね」
「じゃあ、玄関にあった箒はお姉さんの物ですか?」
「そう。見ての通り、この家って窓がないでしょう? 枯れ葉が吹き込んできて、部屋が落ち葉だらけになるから、私が用意したの」
なるほど、と僕は小さく呟いた。この廃墟が比較的綺麗な状態に保たれている理由に合点がいった。
僕は改めて部屋の中を見回す。壁や天井の一部は崩れていて、床に破片が落ちている。窓際には古びたソファがあり、少し離れたところに黒色のスーツケースが横倒しになっている。この部屋の東側にもさらにもう一つ部屋があって、襖のない押し入れや、扉の片側がない洋服タンスが見える。おそらく以前は和室として利用されていたのだろう。
「そのロープは、お姉さんが来た時には、既に吊るされてたんですか?」地面に落ちているロープに視線を移して、僕は言った。
「あの金具のところ……」天井の辺りに顔を向けて彼女は言った。「元々はシャンデリアが取り付けられていたみたいなんだ。それ自体はもう残ってないんだけどね。誰かが盗んだのか、壊されたのか、定かじゃないけど……。ここが心霊の名所になっているのは知ってる?」
僕は首肯した。県内の心霊スポットを紹介しているサイトで、この廃墟の名前と建物の写真を目にしたことがあった。
「誰かを怖がらせる目的で、さっきみたいに紐を取り付ける人がいるんだよね。良い気分はしないから、見かけるたびに私が取り除いているの」
ふいに、石のつぶてがぶつかるような音が耳に入ってきた。外に目をやると、雨が降り出していた。細い雨の筋が風に煽られて、千切れたり曲がったりしている。雨がコンクリートや樹木の葉を打つ音が建物を包み、湿った風が室内に入り込んでくる。
「あら、雨……」降り注ぐ雨を眺めながら彼女は言った。
「朝からずっと曇ってましたからね」雨音が強くなり、勢いがどんどん増しているのがわかる。「雨の匂いがする……」
「ペトリコール」
「ペトリコール?」彼女の言った言葉を反復する。
「雨が降ったときの香りを、ペトリコールって呼ぶの。植物の持っている油や、土壌内の細菌に雨が当たると、揮発性の物質を放出する。空気中に漂うそれを嗅いだときに感じる香りが、いわゆる雨の匂いなんだよ」
「この匂いにも名前があったんだ」僕は感心して言った。「詳しいですね」
「一応、その手の研究をしている大学院生だからね」
「雨に関する研究ですか?」
「いや、私は土専門。応用生物科学部の土壌化学科ってところにいるの」彼女が額にかかる髪を掻き上げる。「君は確か高校三年生だっけ? もし土いじりに興味があるなら、うちの大学を受験するのも手だね。ここから駅に行く途中にある、今はイチョウが綺麗な大学だよ」
「あそこか……考えておきます」言い終わると同時に、僕はくしゃみを二回した。冷気が足元から這い上がり、両足を伝って、僕の背中を撫でた。
「コーヒーで良かったら飲む?」慈悲深い笑みを口元に浮かべながら彼女が言う。「安物のコーヒーだけど、温まると思うよ」
彼女はトートバッグからタンブラーを取り出し、僕に差し出した。僕は礼を言ってタンブラーを受け取る。蓋を開けると白い湯気が立ち昇り、コーヒーの良い香りがした。口を付けて飲むと、熱いコーヒーが喉を通り、胃に落ちていく感覚がある。苦味が口の中に広がり、香ばしい匂いが鼻から抜けていく。
「ありがとうございます、暖まりました」タンブラーを彼女に手渡して、僕は言った。
「いえいえ」
「この建物の写真、撮ってもいいですか?」
「どうぞご自由に。私、どこかに退いていたほうがいいかな?」
「いえ、そのままで大丈夫です」頭を振って僕は言う。「お姉さんの休憩所に勝手に入っているのは自分なので……」
「別に、この建物も私の所有物じゃないんだけどね」そう言って彼女はタンブラーの蓋を開け、僕の方をちらりと見た。「なんていうか、君って犬っぽいね。昔、実家で飼っていたゴールデンレトリバーを思い出すよ」
「それって褒めてます?」
「もちろん誉め言葉だよ」彼女はコーヒーに口を付けると、ぼんやりとした顔で外を眺める。「少なくとも、私はゴールデンレトリバーを嫌いな人に出会ったことはないからね」
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