BWV851 雲

 雲が集まってなにかをかたちづくる。記憶みたいに。

 自分が憶えている他人の顔は、いくつあるだろう? 生まれてから死ぬまでに何人の人と出会うのか、数えることは難しいが、憶える顔の数も果てしない。直接出会ったことはなくても、写真や映像や絵画にも、顔はいくらでも現れる。イエスに会ったことはないが、イエスの顔ならよく知っている。絵画で、写真で、映像で。それは想像だったり扮装だったり、絵の具だったり俳優だったり、素材もさまざま解釈もさまざまだが、同一の像の変奏とはいえる。わたしは神の子の顔を知っているのか? わたしは神の子の顔を憶えているのか?

 だれかの顔を思い出そうとすると、わたしはわたしのなかに小さな雲が生み出されるような感覚を覚える。初めは凹凸のない一面の靄、それがゆるやかに集まり凝縮し、特有のかたちを成して漂う。触れることのできない曖昧さを残したまま。わたし自身の顔ですら、とらえようのない曖昧さは変わりない。わたしが思い出すわたしの顔とは、なんなのだろう? 鏡で見たもの? 写真で見たもの? 幼いわたし、今朝のわたし、理想のわたし、見たくないわたし、笑っているのか泣いているのか、いったいこの雲はどのような組成なのだろう。

 わたしはわたしの内側で、数えきれない雲を生み出してきたはずだが、その一方で、いつも見上げる空の雲、そのかたちをひとつでも正確に思い出せるだろうか?

 昨日の夕暮れの空の雲は、とても美しく色鮮やかだった。その印象だけは憶えている。無限になにかを語っていた。単語を使わない詩集のようだった。でもそのかたちを思い出せない。妥協の産物の雲を捏造して、思い出せたような振りをするのがせいぜいだ。あの詩集はもうめくれないのだ。

 子どもの頃、空を見上げていると、漂う雲が巨人にもなり象にもなり、魚にもなりお城にもなった。雲を見飽きるということがなかった。見たいものすべてがそこにはあったから。

 いま、わたしは暗闇のなかに横たわりながら、眼をつぶって、記憶を空のように眺めている。そこには数えきれない雲があり、見飽きることのない変化があり、そしてすべてが遠く曖昧で、二度とは触れられない切なさがあった。

 いま、わたしは暗闇のなかに横たわりながら、眼をつぶって、雲を見つめながら痛みに耐えていた。思い出すだけでも痛い雲。わたしはその雲のかたちをとらえられない。だが、その痛みだけは鮮明だ。

 わたしは子どもの頃からきっと、人の顔よりも雲のかたちを憶えたかった。人に由来するこの痛みを、雲のかたちを正確になぞった輪郭線で、縛りつけて抑え込みたかった。雲がだれかの顔になる前に。人のいない空にとどまるように。

 いま、わたしは暗闇のなかに横たわりながら、眼をつぶって、昨日の夕暮れの空の雲だけと出会いたかった。

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