第66話 涙の岐路

 翌日、リアはドルフと会うことに決めた。

 控えめなノックの音に、どうぞ、と声をかければ躊躇ためらいがちに少しだけ扉が開かれた。

 リアは何となく佇んでいた窓辺から、扉の方へ体を向ける。花束を抱えたドルフと目が合う。


「リア……! 寝てなくていいのか!?」


 数日前ほど憔悴しょうすいしてはいないものの、悄然しょうぜんとして暗い影を落としている。

 テーブルに花を置き、リアの元へ駆け寄って労わる瞳は悲しみに揺らいでいるが、もう泣き出したりはしなさそうだ。

 扉が開いた瞬間、泣き喚かれるのでは、と一抹の不安を抱えていたが、彼もこの数日である程度冷静になれたのだろう。


「ボーマン様がお医者さんを呼んでくれて、手厚く治療してくれているからだいぶ楽になったの。……調子に乗って動きすぎると中が塞がってないのか、痛むけど」


 微笑を交えながら軽く声をかけるが、ドルフは依然重い空気を纏ったままだ。


「もう会ってくれないかと思った」


 くぐもった声に元気はない。


「ごめんなさい。ちょっと一人になりたくて」


 リアとドルフは部屋の真ん中で、ソファにも椅子にも座らずに向き合う。


「あの家にお前を連れて行くべきじゃなかった。鍵を持ってて場所もわかってるんだから、俺が取ってくるべきだった。ルーディがラフィリアと繋がってるってわかってたのに、もっと警戒するべきだった。俺のせいで、お前を危険に晒したんだ」


 視線を足元に落としたまま、ドルフは後悔を口にする。自分への苛立ちか目元が険しい。


「結局あの時、お前を助けたのはフランシスだ。本当に性格悪いなあいつ。どこにいるかも、どういう原理かも言わねえで、リアの中の力だけ使って。……俺は、お前に何もできなかったのに」


 やはり幻聴などではなかった。フランがあの時、リアを死のふちから救い上げてくれたのだ。


「ドルフのせいじゃないから、そんなに謝らないで。私の不注意よ。私だってドルフから色々聞かされていたんだもの。もっと用心しなきゃいけなかった。それに、ドルフはボーマン様の邸宅まで私を運んでくれたんでしょ。お医者さんも迅速な対応だったから良かったって。だから私、今こんなに元気でいられるんだから、感謝しないと。ありがとう」


 落ち込むドルフにリアは優しく語りかける。確かにフランが致命的な傷は治したのかもしれないが、ドルフがいなければ、いずれあの場で失血死していただろう。リアはフランとドルフの二人に救われたのは間違いない。

 納得していないのか、ドルフはうつむいたままだ。

 だから、わざと明るく切り出す。


「謝らないといけないのは私の方。貴重な本が奪われてしまったのは、大きな損失だよね。あれはフランと私以外には見えないみたいだけど、総政公そうせいこうやラフィリアが万が一内容を知ってしまったらどうしよう。私がもう少し回復したら本を取り返さないと! ルーディに奪わせたってことは、総政公がしばらくは持ってるのかな」


 するすると言葉が出てくるのは、ずっと心の中で練習していたからか。

 リアはゆっくりと窓辺に移動し、外を眺める。今日もいい天気だ。


「早く怪我を治さなくっちゃ!」


 声は取りつくろえても笑顔が辛くて、ドルフとは顔を合わせられない。本当はまだ笑えるような気分ではない。しかし、これ以上ドルフに心配はかけたくなかった。


「リア」

「え?」


 固いような柔らかいような、無視できない強さと意思を持った呼びかけに、肩越しに振り向く。

 どうしたの? と問いかける前に、リアとの間を詰めたドルフに優しく包み込むように抱きしめられた。

 思ってもみなかった行動に、すべての感情が吹き飛び、目を丸くしてドルフを見上げる。

 至近距離から見つめる紺色の瞳は痛いほどひたむきで、リアだけを映していた。


「無理に笑わなくていい。悲しい時はちゃんと泣け。でないとお前の心が壊れる。俺はそんなお前なんか見たくねえ。今ここであったことは誰にも言わない。だから、好きにしろ」


 その言葉は真剣でいて、真心まごころあふれている。

 誰かにゆだねたかったが、自分が弱音を吐くわけにはいかない、と必死で心の奥に押し込めていた悲傷ひしょうが、次から次へと顕在化していく。

 リアの両目には涙が溜まり、やがて頬を伝う。止めようと思っても、もう止まらない。両手で顔を覆い、感情のまま啼泣ていきゅうする。


 ルーディに刺されたのは、立ち直れそうもないほど精神的に傷を残した。思い出すだけで胸が苦しい。躊躇いもなく刃物で一突きし、振り返りもせず去っていった背中。


 リアの中では、離れ離れになった後でさえ誰よりも親愛の情を抱いていたが、ルーディは違った。リアなど死んでも構わない存在だったのだ。

 人の気持ちは変えられないもの。リアがどんなに嫌だと思っても、こちらに決定権はない。 慟哭どうこくし、どうにもならない現実を怨む。


 それ以外にもたくさん思うことはある。

 ラフィリアに対抗できるのが自分だという運命の重さ、どうして自分なのか。ずっと体の奥底でくすぶっていた思いを喚き散らす。


「どうしてっ……どうして、わた、し、なの……もう、いや、だ」


 肉親に捨てられ、育ての親は殺されて、挙げ句の果てに親友だと思っていた人に殺されかけた。

 次は何を奪われるのか。

 もう誰も、何も信用できない。人はいつか裏切るし、簡単に殺される。皆、敵だ。

 五百年前にかけられた期待なんて関係ない。平穏に暮らしたい。

 自分勝手な気持ちを叫び続けた。


 その間ドルフは何も言わず、ひたすら背中をさすり続けてくれた。

 どれくらいそんなことを続けていたのだろうか。ひとしきり胸の奥にわだかまる黒い感情をぶちまけて、落ち着いたところでドルフは持ってきた花を花瓶に移し替えた。


「ボーマン様からも聞いたと思うが、これからはお前が進みたいようにしろ。お前がどんな未来を選ぼうと、俺は受け入れる。お前が幸せならそれでいい」


 それだけ言うとドルフは余計な感情を廃し、あっさりと部屋を去っていった。残されたリアはベッドに倒れ込む。


 こんなに感情を出したのは、いつ振りだっただろうか。

 目元が熱い。

 泣き疲れてそのまま目を閉じ、ぐちゃぐちゃになった思考を手放した。

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