第63話 フランシスの本

 五百年前のフランシスは、国王を補佐する政務官だったようだ。

 国王は己の贅沢にしか興味の無い無能であった。フランシスが何とか国を回していたものの、ある日、国王はあろうことか神を呼び寄せてしまう。それはこの国で崇拝していた光の女神ラフィリアで、どういうわけか気に入られた国王はラフィリアのしもべとなり、女神と共謀して国民を虐げ暴君として君臨くんりんした。


 フランシスはこのままではいけないと、ラフィリアに上手く取り入って言葉巧みに婿になることを約束し、ラフィリアとは無関係な魔法の力を授けてもらった。

 その力でラフィリアをどうにか出し抜いて、この世界から完全に追い出そうとしたのだが、その方法は中々見つからず。


 そうこうしている間にフランシスを羨んだ別の人間が、自分にも力をくれるようラフィリアにしつこく迫ったのだそう。さすがの女神も根負けして自分の力を与えたところ、その人間がさらに力を広め、徒党を組んだ人間によりラフィリアは封印された、と。


 まず、本の冒頭にはそんなことがざっくりと書かれていた。

 これはラフィリアが言っていた話とも合致する部分があるので本当だろう。


 さらに読み進めると、フランシスが引き取って育てたという、幼女リアとの生活について日記のように書かれていた。

 孤児院でたまたま目についた幼子で、対ラフィリア用に仕立て上げる目的ではあるのだが、情が湧いてしまったらしく大層可愛がっていたというのが言葉の端々に見て取れて、フランシスに対する見方が少しだけ変わった。性格が悪い、というのを、少しだけ性格が悪い、に頭の中で訂正する。

 随筆の最後、リアが成長し愛する人と結婚するために、長年二人だけで過ごした家を出て行く下りは、彼女の幸せを心から願う想いと寂しい親心が赤裸々につづられていて、不覚にも感動し涙してしまった。


 ぐすぐすと鼻をすすりながら読み進める先は、奇跡の力についてだ。ここからはフランシスが見た種類や制御の仕方、応用なんてものが事細かに載っているらしいが、リアにはさっぱり分からないので、読んだという既成事実を作るためだけにページをめくる。


 ちなみに、本当にさっぱり分からないのだ。リアには記述してある文字が読めない。奇跡の力の詳しい学問は専用の言語を使う。まさしく神語しんごというのだが、奇跡の力を使えないリアは学ばせてもらえなかった。

 図形にしか見えない羅列と、意味不明な図解を律儀に一つずつ追い、一応最後まで目を通そうと、根気強く指でなぞる。

 ようやくたどり着いたこの本の締めには、ラフィリアの封印が解けた際、対抗する手立てがなかった時のための、一時的な封印の仕方が記されていた。ここでもまたリアには解読不能な文字が長々書かれ、自分にはラフィリアを封印するのは無理かもしれない、とがっくり頭を垂れた。もしドルフが読めるのであれば聞いてみるのもありかと、もはや模様に見える文字の上に視線を滑らせる。


 そして最後の行。急にフランシスは神語を止めた。『最後の発動の言葉をラフィリア様から聞き出せなかった。それだけが心残りです。途中までは分かるんだけど。「キクス」この先が分からなくてね。力及ばず申し訳ない』

 それでこの本は終わっていた。


「……キクストリラシ……」


 静かな空間に迷わず飛び出た呟きは、かつて懺悔ざんげの日にクラリスから聞いた言葉だ。ラフィリアに負けない魔法の言葉、と言っていた。

 効きなれない妙な響きでよく覚えている。

 これはもしかしてラフィリアに対抗するすべになるのでは、と真っ暗な行き先に差し込んだほんの些細な光に高揚する。

 ともあれ、発動の言葉を知っていたとして、リア一人ではどうにもならないが。


「んー……疲れた……」


 裏表紙を閉じ、椅子に座ったまま伸びをして固まった体を弛緩しかんさせる。随分熱中していたようで、もう夕方になっていた。横から入る長い茜色の陽光は、薄暗い室内の陰影をより強調する。


「そろそろ帰らないと。……ドルフ、ごめん……あれ、寝てる」


 半ば存在を忘れていたドルフは、いつの間にかベッドの上で仰向けになり静かに寝息を立てていた。ベッドの縁に腰掛けた状態のまま寝転んだような格好で安眠する姿に、寝づらくないのかと苦笑が漏れる。


「ドルフ。起きて、帰ろう」


 気持ちよさそうに寝ている人を起こすのは忍びないが、あまり長居していたのでは総政公そうせいこうや騎士長が帰って来てしまうかもしれない。鉢合わせるのはリアとしても避けたい。

 幸い、軽く肩を叩けばうっすらと目を開けてくれた。


「……んあ……寝てた……」


 ドルフは一度上半身を捻ってうつぶせになり、顔をシーツに押し付けた後、ベッドの縁に体を起き上がらせた。

 一つ大きなあくびをして寝ぼけまなここすり、ぼんやりとするドルフにリアは分厚い本を差し出す。


「ねえ、これ持って帰ってもいいかな。あなたも読んでみてよ、この国ができる前の事が書いてあるの!」


 最初の方のページをドルフの前に広げる。


「あー……俺にはそれ、まったく見えねえんだ。真っ白。ただの紙」

「え?」

「なんでも、五百年前のフランシス・オルコットさんが書いたってやつ。子供の頃、フランシスに見せられたことがあってよ。あいつには見えるらしいな。お前にも見えたんだな。良かったな。お前らだけ特別でいいよなー」


 せっかく起き上がったのに、またベッドに倒れていじけてしまった。


「あなただって見えないだけで、内容は信じてるんでしょ? だったらドルフも私たちと同じよ」


 同じ、というところを強調すればドルフは、ふん! と鼻息荒く嬉しそうにベッドの縁に起き上がってきた。わかりやすくて非常に助かる。


「そうだ、あなたって神語わかるの?」

「一応な。だがな、俺とフランシスは神語を使った奇跡の力の制御はまったく知らねえぞ」


 膝の上に置いた腕に体重をかけ、リアの言いたい事を探るように答えた。


「どういうこと? 私は神語自体ぜんぜん知らないんだけど……」


 リアにとって奇跡の力は未知の存在だ。首を傾げるリアにドルフは得意げに立ち上がった。


「リアのために、俺が簡単に奇跡の力について授業してやるよ」


 夕陽が差し込む窓辺に移動するドルフに合わせ、文机の椅子をそちらに向けて行儀よく座る。


「まずな、奇跡の力を発動させる言葉があるんだ。それはその人の能力によって段階があるんだとよ」

「うん。あなたのおいっ子も、力を使う前に何かつぶやいていたわ」

「そ。そういうの。で、大体の人間はそんなに強い力は無いから、発動の言葉だけ覚えときゃいい。まれに才能のある奴は、力に変化を加えたりするために別の言葉が必要になる。……こういうことをしたい時にな」


 ドルフは右手に炎をかかげ、それを左手の人差し指でぐるっと一周した。するとその炎は分裂し、片方は宙に浮いて室内を揺らめかす。


「はい、先生。今、何も言葉を発していませんでしたが、どうしてでしょう?」


 挙手し、ドルフの言っている事とやっている事の矛盾を指摘する。それに気付いて欲しかったらしいドルフは、したり顔で大きく頷いた。


「それは俺が才能あふれる人間だからだ」


 結局は自慢だった。リアは椅子を片付け、無言で帰る支度を始める。


「待てよ! 最後まで聞けって! ……まあ、ぶっちゃけ俺の知識はこれくらいしか無いんだがな。俺ら、大きすぎる力を持っているせいで、奇跡の力の正しい使い方は一切耳に入らないように情報統制されてたんだよ。潜在的に強大な力があったとしても、発動できなきゃ意味が無いからな」

「という事はあなた、その奇跡の力は何となく本能で使っている、ってこと?」

「んー、一応フランシスに使い方を教えてもらった。その本には、一般的に出回っている教本よりも詳しく書いてあるみたいだが、俺には難しくて上手くできなかったんだ。ま、道理とかは全然知らねーけど、使えたから問題ないよな」


 楽観的に笑うドルフにリアは切なさを覚える。しっかり教えられなかったから感情と共に炎が出てしまい、恐れられているのだ。

 改めてラフィリアを中心としたこの国の在り方に疑問を持つ。

 それを変革させる糸口になる可能性を、リアはフランシスの本から見出した。ドルフにも伝えたいと話の潮目を変える。


「私、ラフィリアを一時的に封印する方法が分かったかも知れないの。この本の内容と、私が以前クラリスから聞いた言葉で、とりあえずラフィリアを少しでも牽制することができるかもしれない」

「まじか!? すげーな! ボーマン様にも報告して、その作戦を考えようぜ!」


 窓辺から軽やかにリアの横へ立つドルフは、本気で喜んでいるのが全身から溢れ出ていて小気味が良い。

 リアは、フランとフランシスの手紙を腰につけた小ぶりのバッグにしまい、本は目立つが小脇に抱えた。大きな袋を持ってくれば良かったと後悔するが、後の祭りだ。

 忘れずに茶器を持ったドルフと二人、大きな収穫に高揚感を共有しつつフランの部屋を後にした。

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