五.道中
遠代官に任じられたならば、少なくとも数年は務めることになる。長ければそのまま子の代まで役替えなし、ということも充分考えられた。
りくは憂鬱なものを抱えたまま、沢代村の白井家へ向けて発つこととなったのである。
それまでついていた師や、そこで親しくしていた峰やさとにも挨拶をしたが、一層肩身が狭く感じた。
「くれぐれも御身体には気を付けて、城下にお越しのことがあればきっと私を訪ねて下さいませ」
峰もまた、りくが城下を離れることを惜しみ、折に触れて文を出すこと、互いにその地に立ち入ることがあれば訪ねることを固く約束した。
峰はこちらが恐縮するほど気さくにしてくれていたし、そうした友人と離れることもまたりくには心細いものだった。
見も知らぬ土地で、知らぬ顔に囲まれて暮らすことは考えるだに気が滅入る。
「麟十郎どのは白井家の御当主として、りくさまを御新造にお迎えするとお決めになったんだもの、きっと大切にして下さるわ」
峰は励まし、慰めるつもりで言ったらしかった。確かに顔だけは以前から知っているが、夫婦関係は一時竹刀を交えるのとはわけが違う。
道場稽古なら勝敗をつけてしまえばそれまでだが、婚姻となると、相手が死ぬか自分が死ぬかするまで続く、真剣勝負のようなものに思えた。
りくは懸命に笑い、そうですねと峰に返したが、居た堪れない気分になったのは間違いのないことだった。
この上、道場を訪ねた折には、間の悪いことに片桐孫六と鉢合わせてしまった。
いつか白井麟十郎が師範を訪ねた時のように、りくが冠木門を入ったところで道場から出て来た孫六がこちらに気付いたようだった。
言葉は交わさず会釈するに留めたのも、孫六に対して仄かに抱いていたものを呼び起こさぬためであった。それが図らずもかつての麟十郎と同じ挙措になったことにも、苦いものを感じた。
孫六が声を掛ける素振りを見せたが、咄嗟に目を逸らして道場主の待つ母屋へ訪ね入ってしまった。
我が身が城下から追い立てられていくような、惨めな心持ちがしていたのである。
りくが挨拶を終えて道場から去る頃には既に孫六の姿はなく、これで良かったのだと思うと共に、もしかするとこれが最後になるのかもしれないと思い至り、やはり話をしておけば良かったと些かの悔いを残した。
孫六は城の勘定方に勤め、家も二百五十石取りである。
白井家に嫁すよりも、孫六の片桐家へ嫁入るほうがまだ納得がいく。
縁組の相手が片桐家ならば、母も賛同したのではないかと思えてならなかった。
***
街道が敷かれているとは言え、城下から沢代村代官所までの道程は遠く、河を渡り湿地を越え、幾つも連なる鬱蒼とした深い山間を抜けて行かねばならなかった。
そうしてもう一里も行けば沢代村に入るというところで、りくは奇妙なものを見た。
「あれは何です」
駕籠の中から声を上げ、一行の足を止まらせる。陸尺に指示して駕籠を下げさせると、りくはその扉を開け放ち、まじまじと木立の奥を凝視した。
道の両脇は薄暗く深い森になっており、木々の奥は昼間でも濃い闇が降りていた。
「御新造さま、ありゃ山のけものですよ」
「まあ御城下じゃまず、見掛けもせんでしょう」
がさがさと下生えを鳴らして山深く逃げていく黒く大きな影が見えたのだが、暗い山の中は見通しがきかず、枝葉や下草が邪魔をしてその正体が何であるかまでは判然としない。
陸尺の言う通りに猪だったのかもしれないが、それよりももっと大きかったようにも思う。
「人のように大きい影に見えました。そんなけものがいますか」
「山のけものには様々おりますんでね。大きな猪もあれば小さな兎もある。ここらじゃ時々熊も出ますから、さっさと過ぎちまうほうが宜しいでしょう」
熊、と聞いてぞわりと背筋が粟立つのを感じ、りくはそれ以上の追求をやめた。
日頃から駕籠を担ぎ山越えをする陸尺の男が言うのなら、日の落ちないうちに山を抜けるためにも先を急ぐべきだろう。
山に棲む得体の知れないけものには、さすがのりくも畏怖したのである。
深い山の噎せ返るような緑の匂いに怯み、りくは再び駕籠に引っ込むことにしたのだった。
程なくして森を出たところが沢代の村で、代官所は街道から一本外れた道沿いにあった。
立派な長屋門に囲われ、外からでもその敷地の広さが窺い知れる。城下に所狭しと並ぶ下士の屋敷とは比較にもならない規模だ。
むろん、会所と蔵、代官役宅を一所に纏めればこんなものだろうかと思ったが、綺麗に剪定された庭木の松が塀よりも高く伸び出して、代官所らしく周辺の家屋とは一線を画す格式の高さを窺わせる。
実家から伴ってきた下女を従え、りくは白井家の敷居を跨いだのだった。
「城下からは遠かったことでしょう。麟十郎が城下まで迎えに参ると申していたのだがの、勤めのほうも役替えから間もなくて慌しい。今もまだ会所に詰めていますから、まずは湯を使って道中の疲れを癒やすのがよい」
座敷で改めて挨拶を述べると、麟十郎の母ぬいはにこりと笑顔を浮かべてりくを労った。
母のぬいは五十手前のおおらかそうな主婦で、縁談が持ち上がってから何度か顔を合わせたことがあった。
のんびりした雰囲気とは相反して、家事の一切を自らてきぱきと取り仕切る姿は堂に入ったものだ。尤も、百石取りの家では使用人も下男と下女が一人ずついるだけなので、そうでなければ一家の主婦は務まらないだろう。
対して麟十郎の父は五十半ばという働き盛りだったが、病がちであり、早々に麟十郎に家督を継がせたという。臥せりがちではあるものの、勤めを離れたのが良かったのか快方に向かいつつあるらしく、遅れて座敷へ姿を現した。
「いや、よく来てくれた。倅のやつはまだ会所に詰めておるのか。まったく、大事な時に何をしているものやら……。どれ、儂が知らせてきてやろう」
義父が済まなさそうに困惑顔を見せるが、どこかそわそわと落ち着かない様子である。
それをおっとり眺めたぬいが、やはりゆったりとした語調で夫を嗜めた。
「あなた、少し落ち着いては如何です。りくも着いたばかりなのですよ、仮祝言の前に少し休ませてやらなければ」
「おお、そうか。いやしかし、肝心の麟十郎が顔を出さんのではりくどのに失礼であろう」
「まあ、りくどのだなんて。今日から家族になるというのに」
「おっと、すまん。御奉行のご息女と思うとつい」
義父となる麟十郎の父は長らく城下で代官の職にあったが、致仕して雪翁を名乗り、調子の良いときには起き出して碁を打つこともあるらしい。
たまに代官所から程近い長楽寺という村唯一の寺院にまで赴くこともあるというから、病といってもそう差し迫って危惧すべきものでもないのだろう。
義父母の話す様子に、りくは内心で安堵していた。城下では嫁ぎ先で冷遇される話も時折耳にしたものだが、少なくとも今この時において、二人はりくを快く迎え入れてくれている。
「お勤めをお邪魔しては申し訳がありません。麟十郎さまには、後程身なりを整えてご挨拶申し上げたく存じます」
麟十郎はともかく、舅の苦労は思い描いていたほどではないのかもしれないと、りくはほっと安堵した気持ちがした。
【六.へ続く】
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