六.夫

 

 

 麟十郎は、これまでと変わらずに無口だった。

 仮祝言を終えて寝間に二人きりになっても、何の話も振ってこない。

 掛けられた言葉といえば、仮祝言の前に城下からの道程を端的に労われた一言のみだった。

 そればかりか、夫となった麟十郎はりくとまともに目を合わせようともしないのである。

 一応は夫婦となり、りくは白井家の嫁という立場で暮らすことになるのだが、早速に先が思いやられた。

 夜具の傍らに指をついて挨拶をしても、適当にはぐらかし、まともな返事はない。

「今日は疲れただろう、先に休んでくれ」

 上辺の気遣いを見せただけで、あとは何一つ会話もなかった。

 麟十郎とは元々ろくに話したこともなく、道場でりくをどう見ていたかなども判然としない。

 道場で顔を合わせていた頃から、麟十郎は顔色一つ変えたことのない、表情の変化に乏しい男だった。

 しかし、立ち合うたびに打ち負かされてきた麟十郎からすれば、りくを快く思っていないだろうことくらいは容易に想像がつく。

 涼し気な無表情の裏では、りくを疎ましく思っているはずで、会話が素っ気無いのもそのせいだろうと察した。

 二親は温和で朗らかな様子であるのに、あの二人の子がこれほど無愛想なのは首を傾げるばかりである。

 ともあれ、麟十郎は文机に向かうと燭台の明かりを頼りに書き物を始めてしまった。

 ぴんと伸びたその背には、どことなく拒むような気配があり、りくは仕方なく言われた通り先に休むことにしたのであった。

 その夜、麟十郎の部屋からは遅くまで燭台の灯が消えることはなく、ぼんやりと橙に染まる障子と麟十郎が筆を走らせる微かな音に包まれた中で、りくはうとうとと眠りについた。これからの白井家での暮らしに何一つ明るい兆しは感じられなかったが、不思議とその音に心が凪ぐのを感じていた。

 

   ***

 

 翌朝目を覚ますと、隣に敷いた夜具は既に空で、そこに麟十郎の姿はなかった。

 初日から寝過ごしたかと焦ったが、障子の向こうはまだ暗く、宵闇がやっと薄らいだ頃のようで、鳥の声も聴こえてはこない。

 夫の寝姿がない以上は二度寝するわけにもいかず、りくは起き出して手早く夜具を片付けた。

 身支度をして炊事場へ向かおうと部屋を出た時、青白い未明の空気の漂う屋敷の庭に、麟十郎の姿を見たのである。

 りくにすらも勝てぬ腕で木刀を構え、一心に素振りを繰り返す。早朝の静謐な空気を幾度となく斬るその姿に、りくは思わず息を潜めた。

 道場で見たのとは違う、気迫に満ちた鋭い太刀筋をしていたのだ。

 立ち会えば及び腰で、同門の相弟子は皆一様に麟十郎を嘲る。隙だらけで、麟十郎になら目を瞑っていても勝てると誰もが嗤っていたものだ。

 しんと張り詰めた早朝の庭に鋭利な太刀風の音が短く鳴る。

 それから幾度か型を変え、やがてその木剣はぴたりと動きを止めた。

「──随分と早いな」

 麟十郎の背が、振り向きもせずに言った。

 りくが見ていたのに気付いていたのだろう。

 盗み見ていたことを咎めるでもなく、ひゅっと何かを払うように一振りしてから麟十郎はゆっくりと身を翻した。

 ほんの一瞥、りくに視線を投げて、麟十郎は縁台に上がる。

 その挙措にも一切無駄な動きはなく、りくの知る麟十郎とは全くの別人のようであった。

「初めから気を張りすぎると、後が辛くなるぞ」

 麟十郎はそう言い捨て、返答も待たずにりくの脇をすり抜ける。

 いつの間にか辺りには曙光が差し、足音も微かに厨のほうへ去って行く麟十郎の背を、眩しく照らしていた。

 額面通りに受け取るなら、麟十郎の言葉はりくを思い遣っているように聞こえる。

 しかし、耳に残る声音はどうにも無感情なものに思えて仕方がなかった。

 

   ***

 

 街道から枝分かれした先に点在する村々には、百石廻りと呼ばれる世話役の村役人がいる。

 役名の通り、村の石高百石につき一人が配置されるが、比較的裕福で大きな農家がそれを担う。

 殆どの場合、名主よりも彼らが現地を掌握していると言って良く、要望があれば彼らがそれを取り纏め、名主を通して代官へ上げる。

 回り役の代官なぞよりも、その地に根を下ろして代々引き継いでいる村役人のほうが顔も広く、幅を利かせているものだ。

 支配下の村の人間とはそれなりに親しくせねば役目に支障が出る。

 検地や年貢の徴収の際にも、多少の目溢しはするもので、四角四面に職務を遂行しようとすれば忽ち村人から疎まれる。

 むろん、それで取り零しが多くなり過ぎれば、今度は上からの目が厳しくなるので、匙加減のむつかしい役目である。

 りくの父もまた郡奉行となる以前に地代官を務めていたこともあり、白井家に嫁ぐ娘にそうした話を聞かせてくれた。当然、夫となる麟十郎の職務を理解し、支えるようにと含んでのことだ。

 村の農民と世話役、名主、自らの手代や配下に加え、上役に対しても細かな機微を求められる役である。

 今一つ愛想のない麟十郎を見るに、この人にそういう役目が本当に務まるものだろうかと疑念を抱かずには居られなかった。

「りく、白湯をくれ」

 飯椀が空になると、麟十郎はりくに椀を差し出して白湯を注がせる。

 白井家では皆が揃って食事をするが、会話はなく、静かなものだった。時々、箸や椀の音が鳴るだけで、余計なことは話さず、食事だけを手早く済ませる。

 慣れぬ家での暮らしはなかなかに戸惑いも多かった。

 実家でもある程度のことは仕込まれるが、家が変われば流儀も変わる。

 そして当然だが、台所事情も格段に差があった。

 武家はどの家も皆、質素倹約を旨としてつましく暮しているが、四百石と百石では懐具合が随分違う。

 百石の禄で更に二人の小者を雇わねばならず、白井家の暮しは決して楽ではない。

 竹内の家では、母は使用人に指図する程度で自ら忙しく雑用に立ち働くことはなかった。

 しかし白井家では違う。義母のぬいも使用人を従えながら、自ら襷をかけて家事仕事に勤しむのである。

 そうした暮らし向きに加えて、領地の外れに追いやられた事実に一方ならぬ不満を覚え、未だ拭い去ることが出来ずに鬱屈したものを抱えたままであった。

 せめて嫁いだ相手が優しく頼もしい好青年であればまだ救われたのだろう。だが、生憎と麟十郎は学問には秀でていても、無口で無愛想。見目も十人並みの男である。

 言ってしまえば、はずれを掴まされた気になっていた。

 白湯を飲み干し、椀を置くと、麟十郎は軽く息をついてからりくを見た。

「今日は村を見廻る。帰りは遅くなるかもしれん」

「はい」

 支配下の村を自ら様子を見て回るのだろう。

 朝餉の後で玄関から麟十郎を見送り、笠を被ったその後ろ姿を、りくは暫しぼんやりと眺めた。

 草鞋履きで、軽快に足を運ぶ麟十郎の背は微かに左に傾いだように見える。二本差の重みが掛かるせいだろう。

 麟十郎にそれなりの剣の技量があれば、その後ろ姿にも不格好な印象など抱かなかったかもしれない。その二本はただの飾りでしかなく、単に士分を顕示するためのものにすぎなかった。

 もし夫が孫六であったなら、見送りに立つ心境も幾分違っていただろうと考えかけて、そこでやめた。

 どうあれ既に嫁いでしまったものを、今更どうにも出来はすまい。

 数年も辛抱すれば、また城下に戻る日も訪れるだろう。

 城下に戻れば、また峰やさととも懇意にできるだろうし、或いはたまに道場へ顔を出すことも適うかもしれない。

 これまでの自分を囲んでいたものへの郷愁が過るが、同時にそれらは心を支える掛替えのないものともなっていたのだった。

 

 

 【七.へ続く】

 

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